トルーマンと原爆、文書から見た歴史 編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル) 第5章 7月17日、18日そして25日の日記より 論 評 (原文http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap5.htm) 7月17日(1945年)に始まり、8月2日の朝時間に終了したポツダム会談で、大統領は実に多くの案件に関心を占められた。数ヶ月あるいは数年後に、彼自身が心の目でこの問題を振り返って、首を傾げるような案件も含まれていた。トルーマンにとって、チャーチルとスターリンとの会談ははじめての機会である。トルーマンは彼らとツェツィーリエンホーフ宮殿の大広間で会った。ツェツィーリエンホーフ宮殿は当時のドイツ皇帝の最後の皇太子のための宮殿であった。ドイツ皇帝は1918年に廃位されている。
宮殿は空爆の被害を全く受けていなかったが、廊下と部屋が入り組んだ大きな兎小屋という感じだった。地上はあんまり身なりの良くないロシア兵によって綺麗に整えられていた。玄関には赤い星の形にかたどられたカンナの花壇ができていたが、その花壇に向かって正対していた。護衛兵は、もちろん至る所にあふれていた。ソビエト兵はロシアの諜報機関の直接の命令下に置かれていた。この地域の近くバベルスベルグにほど近い何軒かの家にトルーマンの「ベルリン・ホワイト・ハウス」が置かれており、首脳部や代表団が陣取った。
平和な別天地ツェツィーリエンホーフ宮殿とその周辺は、2−3マイル離れたかつてのドイツの首都、ひたすら広がる破壊された都市の光景と奇妙な対照をなしていた。 ポツダムにおける肝心要のこの3日間のトルーマンの日記は、振り返ってみると、素晴らしい。 (以下トルーマン日記)
(トルーマン日記の終了) 7月24日、ツェツィーリエンホーフ宮殿での会談が終了した後、まさに大広間を後にしようと立ちあがったスターリンに、トルーマンは注意深く近寄り、核爆弾の爆発実験について告げた。この時トルーマンは「核」という言葉を使わず、単に、巨大な爆発力を持った新兵器の開発に成功した、この事実をソ連にも知っておいて欲しいと云っている。 スターリンは別に動じた風もなかった。そして新事実の目的が全くわからないという印象をトルーマンに与えている。しかし実際のところはよく理解していた。スターリンが宿舎に戻って、誰かがスターリンに「このことをクルチャトフに伝えておこう。そしてスピードアップするように云っておこう」といっているのをモロトフが聞いているからだ。(ジューコフ元帥回顧録 −ゲオルギー・コンスタンチノビッチ・ジューコフについては次を参照:(http://en.wikipedia.org/wiki/Georgy_Zhukov)イゴール・クルチャトフ教授はロシア核開発計画の責任者である。ロシアの核開発は戦争の間、モスクワから研究所などの移転のため中断していた。このあとすぐにクルチャトフ教授は開発を再開している。(イゴール・クルチャトフについては次を参照。(http://en.wikipedia.org/wiki/Igor_Kurchatov) ポツダムに置いて大統領は、核爆弾計画にソ連がスパイを浸透させていることを知らなかった、スターリンはアラモゴードの数週間後には、爆弾の「秘密」を入手していた。 知らなかった。実際にソ連が最初に核実験を行うのは1949年であるが、これはアメリカのプルトニウム爆弾のコピーであった。7月24日の会議散会時に撮影した写真にトルーマンは誇らしげに次のように記入している。 「ここが私がスターリンに、ニューメキシコ州で1945年7月6日(実際は7月16日)に炸裂した原爆のことを伝えた場所だ。スターリンは私が何の話しをしているのか分からなかった。」 注記
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