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ドイツ賠償問題については、ヤルタ会談で玉虫色の一般的合意ができていた。ポツダムにおいては賠償委員会の設置が決定され、「米合衆国とソビエト連邦は、賠償委員会は200億ドル、うち50%をソ連が得るという数字を基礎に賠償額を討議するものとする、と信じている」というガイドラインが決定されている。イギリスは具体的な賠償金額の決定には反対した。そして「ドイツの戦争能力を破壊する」とする文言を書き入れようとした。ソ連はここのところをより範囲を拡大して「ドイツの軍事的経済的武装解除を目的として」という文言を入れようとした。ドイツを区域で分割することにしたため、4つの占領軍―ロシア、アメリカ、イギリス、フランス−はそれぞれの地区で賠償を統御することとなる。短い期間であるが、ソビエトはアメリカ地区で賠償を取った。それからこれは中止となった。
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2. |
ヤルタ会談でもポツダム会談でもポーランド問題が暗い影を落とした。戦後ポーランド政府の性格はどのようなものであるべきか、これが問題だった。戦争中、ロンドンにあるポーランド亡命政府は、あまりに反ロシア的にすぎる、と言うのがソビエトの主張である。というのが亡命政府は1943年、カチンの森で発見されたおびただしい数のポーランド将校の遺体はソビエトの秘密警察が射殺したものとして、ドイツ問題を扱う国際調査委員会に提訴したのである。この提訴を受けてソビエトは直ちに亡命政府との関係を断ち切り、戦争の後半になってロシアはポーランドに進出した後、ロシアがポーランドで組織していた、ルブリン委員会の名前で知られる臨時政府との関係を樹立した。ヤルタ会談では、亡命政府とルブリン委員会との混合体である「国民統一ポーランド臨時政府」の樹立という形で妥協が図られたが、その実態はルブリン委員会が支配していた。それから米国はこの新政権を承認した。ソビエト政権は単独の調整を行い、ナイセ川の西岸と東岸の中央の重要な産業地域(ブレスラウ市-ドイツ名、またはブロツワフ-ポーランド名を含む)をポーランドに与えていた。
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3. |
トルーマン大統領はポツダム会談出発に際し、ニューポート・ニューズからアントワープまで船に乗った。プリマスまで飛行機で行くことは時間の節約になる。プリマスを重巡洋艦オーガスタで出発した。その前にキング・ジョージ4世号に乗り込んでいる。トルーマンは英国海軍の戦艦に乗り込んだ最初の大統領となる。 |