米国戦略爆撃調査団報告:広島と長崎への原爆投下の効果
そのC 原爆の働き、爆発の性質、熱、放射線、爆風、他兵器との比較


(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/
bomb/large/documents/index.php?pagenumber=35&documentid=65&documentdate=
1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid=

註: 通常訳する時は自分のメモを入れながら翻訳し、あとでメモは外して仕上げるのだが、この米国戦略爆撃報告は、メモを入れたままの方が敢えて親切と考え、このままアップロードすることにした。読むのが煩雑になると言うマイナスは目をつぶることにした。(*)部分が私が自分のためにいれたメモである。もちろん読み飛ばしてもらって構わない。

註: 原文にはないタイトル中見出しを入れた。読み手の負担を少しでも軽減するためと、部分部分の主要な話題を提示するためである。原文にはなく、私が入れたタイトル・見出しは青色にしてある。

註: 米国戦略爆撃調査団―U.S. Strategic Bombing Surveyのは報告は何度か行われている。太平洋戦争に関して主要なものはこの1946年6月30日付けの「ヒロシマとナガサキ」報告と、1946年7月1日付けの「太平洋編」の報告書であろう。いずれも要約報告である。太平洋編の完全な報告書は翌1947年に完成提出されている。

註: ここに訳出した、「米国戦略爆撃調査団報告 広島と長崎への原爆の効果」は、1946年6月19日付けのものである。これはドリバー団長がトルーマン大統領に提出した下書き版でドリバーは、トルーマンにこの19日版を見せてから30日版を完成提出した。

註: 長文にわたるため分割して掲載することにした。


米国戦略爆撃調査

広島及び長崎の原子爆弾投下の効果
(The Effect of the Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki)
委員長事務局 1946年6月19日


全く異なったエネルギーの様式


V. 原爆の働き

 広島と長崎に関する話から、ひとつひとつ詳細に、原子爆弾がいかに機能したかについて全体像を描き出すことが出来る。その全く異なったエネルギーの形(*原爆のこと)は、生命あるものあるいは生命のないものに対して、その速度や強さ、ひとつひとつ影響力をもって放射していった。こうした要素の中にこそ、広島と長崎で真に何が起こったかを知る手がかりがある。というのはこうした要素には全く確率の状況が除外されているからである。

 ニューメキシコ(* ここではニューメキシコ州アラモゴード砂漠での最初の原爆実験を指している)であれ、広島であれ、長崎であれ、(原爆の)光景の証言は、よく似た全体像を描き出している。

 たとえば長崎では、11時02分に爆発したのだが、巨大なマグネシウムの炎(flare)のような、青白い光を帯びたものすごい閃光が見えた。閃光は凄い早さの熱を伴っており、続いてとてつもなく大きな圧縮波が生じた。そして爆発の雷鳴に似た音が聞こえた。その音は15マイル(約24Km)離れたところでも聞こえたが、かえって奇妙なことに、爆心地近くにいた生存者によると、音には特徴的なところはなかった。(* 原爆特有の爆発音はない、と言う意味)長崎からかなり離れた田舎の丘の中腹にいた人たちは最初に青白いものを見、それから市全体を覆ういろいろな色の閃光を見ている。それから数秒後にすぐ耳元で大きく手を叩かれたみたいな、雷鳴に似た音を聞いている。巨大な白い雪のような雲が急速に地上から空に向かって衝き上がった。地上の光景は最初は赤い(bluish)もやみたいな水蒸気ではっきりしなかったが、すぐにチリと煙でできた茶紫色の雲が出てきた。
     
 その時生存者の人たちは根本的に新型の爆弾が使用されたとは知らなかった。凄まじい破壊力をもつ爆発だという認識はあった。しかし日本政府ですら全く新しい型の爆弾だとは思っていなかったのだから。トルーマン大統領の声明が出され、それが新しい原理に基づく作戦だという放送があって初めてそのことを知った。

(* 朝日新聞は1945年8月11日付けの紙面で、「原子爆弾の威力誇示」の見出しのもとにトルーマンの対日放送の概要を伝えている。理化学研究所の研究員で物理学者、日本での原爆開発の依頼を旧日本軍から受けた仁科芳雄は8月8日に被害調査のために広島入りしている。仁科が新型爆弾は原子爆弾と発表したのは8月14日のことだが、仁科を広島の被害調査に送った日本政府は当然投下直後にこれを原子爆弾と知っていたはずである。)

     もし我々が、原爆はその戦争遂行能力からして、超自然的あるいは言葉に尽くしがたいほど凄い、という頭にこびりついて離れない思いこみをはぎ取って、自分の心の中をよく見てみれば、何故最初、この爆弾の独自性が理解されなかったのかが看取できるだろう。

(* なんと持って回ったいいかたをするんだろうか。「我々だって最初原爆の独自性が分からなかったのだから、日本人がこれをすぐ全く新しい科学原理に基づく爆弾と分からなかったのは当たり前だ。」といえばいいじゃないか。)


スミス・レポートが検閲マニュアル
1.爆発の性質

 原子爆弾は爆発によってその効力を発揮する。爆発とは、スミス・レポートの言葉を借りれば、単純に「狭い地域において、大きな量のエネルギーが突然また暴力的に放出されること。」

(* スミス・レポートは広島・長崎の原爆投下直後公表された、原子爆弾の開発・製造に関わる陸軍の報告書である。正式なタイトルは「軍事目的のための原子力エネルギー:合衆国政府の後援の下の原子爆弾開発に関する公式報告書(Atomic Energy for Military Purposes: The Official Report on the Development of the Atomic Bomb under the Auspices of the United States Government 1940-1945)である。執筆者が物理学者のヘンリー・ドウルフ・スミス(Henry DeWolf Smyth)  だったので、スミス・レポートの名前がある。
もともとはアメリカ国民に原爆開発の説明責任をはたそうという意図で執筆されたもので、スミスに執筆を依頼したのは計画の執行総責任者、レスリー・グローブズである。
この報告書の公表にはいろいろ議論があった。というのは、あまりに原爆の秘密を漏らしすぎるという批判があったからだ。ところが批判する側が実はどこまで秘密の事柄で何が一般の科学知識なのか判別できなかったので、そのまま公表したといういきさつがある。実際にこの報告では、アメリカ政府が持つ原爆製造に関わる秘密は一切記載されてなく、すべて一般的な科学的知見にもとづく記述だった。
下記に詳しい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Smyth_Report 
またこのwikipediaの記事では触れていないが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはこの報告書の出来にはおおいに不満だったようで、これではアメリカ国民に説明責任を果たしていない、と考えていた。スティムソン日記に、スミスのことを「見識がない。」とこき下ろしている。グローブズはこの報告書に完全に満足だった。ただ、報告書の中に放射能は「毒性が強い」と記述してあったが、これはグローブズ自身が削除した。

  当時、原爆製造とその人体に及ぼす影響はかなりの部分秘密事項とされていたため、原爆に関する報告書では以後スミス・レポートを参照して、そこに書いてあることまでは公表していいこと(declassified)として、陸軍関係者だけでなく政府関係者に参照され、いわば検閲マニュアルブックの役割も果たした。従って戦略爆撃調査団の書き手もこのスミス・レポートを参照しながら執筆したはずである。)



3つのエネルギーの形態

 通常の高性能爆薬がそうであるように、原爆もエネルギーを放出する、ただ前例のない規模ではあるが。(原爆の)エネルギーは3つの形態をとる。(そのうち一つは新しい)

 そしてすべて原爆の影響はこれら3つの種類のエネルギーに直接関係している。
すなわち:
(1)
(戦艦などに例証される「閃光火傷」としてよく知られるように、ほかの爆発にも存在する。しかし通常は爆発から一定の距離がはなれていれば、人をやけどさせたり可燃物を発火せせるほどの高温には達しない。)
(2) 放射線
(X線やラジウムのそれと類似している。)
(3) 爆風または空気圧
(破壊用爆弾-demolition bomb-からのそれと同様)

 原子爆弾の効果に関するすべての議論はこれら3種類のエネルギーのことに関して述べられる。他に神秘的なこともなければ、計り知れない力などが働くわけではない。これがすべてである。

 これら(* 3つのエネルギーのこと)で十分である。原子力エネルギーにおける爆発はとてつもなく大きいものであり、また極めて高い集中性をもつため、その使用においてあるいはそれからの防御に置いて、全く新しい問題をもたらす。通常の燃焼や爆発は、爆発物の原子の転位(rearrangement of atoms)の間に放出されるエネルギーのなかの化学反応である。しかし原子反応においては、原子の本質(identity of atoms)、が単に転位ではなく、転換する。(changed)転換はより根元的である。転換において物質はエネルギーに変換する。(transformed)ニトログリセリンの爆発の際放出されるエネルギーは、ニトログリセリン1ポンド(約480グラム)に対して、150ポンド(約13Kg)の水を華氏18°(摂氏約10°)の温度にまで上昇させる熱に転換する。(converted)1ポンドのウラニウムの爆発は20億ポンド(約96万トン)の水を同じ温度にあげるだけの熱を放出する。明らかにほんのわずかの実働する核があれば、ものすごい爆発となる。
(*
上記の記述で、1ポンドのウラニウムといっているが、これはウランの同位性元素235Uが1ポンドといっているのか、同位性元素U238を含めて1ポンドと言っているのかは不明。ウランには核分裂物質である同位性元素235Uがわずか0.7%しか含まれておらず、残りのほとんどは核分裂しない238Uである。しかしここの記述はあくまで一般向けのたとえ話の説明なので、あまり細かいことは詮索しない方がいいのかも知れない。しかしこの記述では、通常のウラン1ポンドが爆発するかのような誤解を与えかねない。マンハッタン計画で、通常のウランを加工して235Uの含有率-純度を90%以上に上げる過程、すなわちウラン高濃縮、にもっとも苦心したことを考えると釈然としない記述だ。)

 それから爆発では、エネルギーは光、熱、ガンマ線、空気圧という形で拡散する。すべての周波帯の放射線も、実際のところ存在するようだ。すなわち、赤外線以下の低周波の熱放射線、すべての色を含んだ可視波(目撃証言でも示した)、それから一般的に「ガンマ線」とまとめられる非常に高い透過放射線である。光と放射熱(「閃光熱」)は、すべての方向に放散し、速度は1秒間に18万6000マイル(約30万Km)。ガンマ線も同じ速度である。(ただしガンマ線はその影響がすぐ現れるとは限らない。)衝撃波はもっと遅く伝わる。通常爆弾からの類推では、爆心地に比較的近いところで秒速2マイル(約3.2Km)、それから急激に音速の早さにまで速度が落ちる。恐らく秒速1/5マイル(約320m)程度だろう。このようにまず光、熱、ガンマ線が到着し、そして衝撃、音、爆風の非常に強い風が到着する。


参加していた日本の科学者
2.熱

 爆発の中心点―地上から数百フィートのところだが−は火球である。爆発時放射熱は四散し、容易に可燃物を黒こげにする。しかし放射熱は極めて短い間に発散をやめるので、放射熱に直接あたらない部分は影響を受けない。熱に対して遮蔽するものがあるところははっきりとした目に見える「影」だけが記される。これらのはっきりとした影の外形から逆算することによって、日本と連合国の科学者は火球の直径と高さを決定した。

 二つの火球(* もちろん広島と長崎)は明らかに直径数百フィートある。(1フィートは約30cm)その中心温度は、信じがたいことだが摂氏数百万度に達する。その周辺ですら、温度は数千度になる。これは人体、泡状になった屋根のタイル(瓦)、一般の可燃物などを観察して熱の影響を合理的に判定したものである。日本と連合国の科学者はその数字をいろいろな例をとって3000°から9000°と置いた。熱だけに変換したエネルギーは日本の物理学者によって推定されたものだが、天文学的数字で1013カロリーに達する。

(* 投下後原爆の規模の推定に日本の科学者が参加しているとは知らなかった。しかも2回の記述とも、Japanese and Allied scientistsと日本側が先に書かれている。)


閃光熱は光速で一瞬

 閃光熱は火球と地面との距離にもかかわらず、火災を起こさせるに十分な強さだった。閃光熱は一瞬にして終わったのにもかかわらず、衣服は発火し、電話線柱は黒こげになり、藁葺き屋根の家は燃え上がった。広島では、(原爆の)爆発は、ほとんど同時に何百もの火災を発生させた。爆心地からもっとも遠い火災は1万3700フィート(約4.1Km)離れた地点だった。しかしこれは多分藁葺きの家が崩れて、黒こげになったものの上に倒れて発生したものだと思われる。火災は、爆心地から約3500フィート(約1050m)以内の地点では、直接閃光熱が直接、黒っぽい衣服、紙、乾いた枯れ木など発火しやすい物体に着火することによって起こっている。(この地点でも)白くペンキで塗ったもの、コンクリートで覆われたもの、モルタルセメントの建造物などは熱を反射し発火しなかった。爆心地から西方へ5200フィート(約1560m)の地点の、杉や檜の皮はだぶきの屋根(cedar bark roof)の家や乾いた木で組上がった家などは原爆の閃光で発火した、と報告されている。しかしながら、建造物における初期の火災の大きな部分は二次的な原因で発生した。(台所の炭火、電気のショート、産業用途のいろんな種類の火などなど。)長崎では日本とアメリカの火災専門家は、(閃光熱から)直接の火災の方が間接の火災より主たる要因だった、と言う点で意見が一致している。比率は60:40である。第一次火災の広がりは(爆心地から)1万フィート(約3000m)以上だったと報告されている。

 広島では黒こげになった電話線柱が、爆心地から北へ1万フィート(約3000m)、南へ1万3000フィート(約3900m)の間で認められた。長崎では1万3000フィート(約3900m)以上だった。瓦の泡状の変形は広島では爆心地から4000フィート(約1200m)の範囲まで認められた。しかし、2000フィート(約600m以上)の範囲ではポツポツとばらまいたような発生頻度だった。長崎でも全く同じ現象が報告されている。さらに長崎では爆心地から1マイル(1.6Km)の間で、御影石(granite rocks)に傷跡がついたり、めくるように剥がれたと言う報告もあった。タイル(瓦)のサンプルを4秒の間に1800°までに熱したら、アメリカ標準局(NBS- National Bureau of Standard)でも、同じような泡状変形が表面に得られた。その影響は、原爆に起因する泡状変形より、さらに深くタイルの中に及んでいた。これは原爆の爆発がタイルを4秒以内に1800°以上に上げたことを示唆している。

 人々の話によると2万4000フィート(約7万2000フィート)も離れて、原爆の熱を肌に感じた、と言っている。むき出しの肌は1万2000から1万3000フィート(約3600mから約3900m)までは確実に火傷を負っている。1万5000フィート(約4500m)、ほとんど3マイル(約4.8Km)まで火傷を負ったと言う報告もある。4500フィート(約1350m)の範囲で直接被爆したひとは、重度の火傷あるいは3度の火傷に苦しめられた。しばしば(このような火傷は負った人は)、7200フィート(約2100m)にまで及んでいる。爆心地の直下地域では、熱は死体を黒こげにし、見分けがつかなかった。

 衣服や建物はかなりの程度(人々を)閃光から守った。ガラスの塊(clump of grass)や木の葉ですら、(防御)に適切だったケースもある。このことは明らかに、閃光に要した時間が、ガラスや木の葉を(防御にとって)無力にする(shrivel)のに必要だった時間より短かかったことを意味している。(* 閃光は一瞬だったのでガラスや木の葉でも防御の役割をしたケースがあった。)(閃光時間について)精確な推定をすることは不可能だが、1秒間を越えた、と言うことはまずあり得ない。


放射線はLethal
3.放射線

 爆発におけるエネルギーの大量放出を生み出す(核の)連鎖反応は、広い帯域の放射線を発散する。しかし飛び出す中性子(free neutron)や極めて高い周波数の放射線、例えばガンマ線などは新しい現象である。こうした放射線は極めて透過的でありまた破壊的(lethal)である。
(* この項の書き手がガンマ線などの放射線を表現するのにlethalという言葉を使うのはこれで2回目である。Lethalという表現を使用することにとても興味を覚える。研究社の英和大辞典で調べると、この言葉の語源はラテン語のLetalisに由来するらしい。元は「死」を意味する言葉から変化したものという。英語の別な表現では、たとえば、a lethal dose of poison -致死量の毒薬-、a lethal chamber -犬、猫などの無痛屠殺室-、lethal gene-致死遺伝子-などの用例が見える。この稿の書き手が、ガンマ線などの放射線を形容するにあたって「lethal」がぴったりだと考えたのか分かるような気がする。)

 放射線の損傷を与える透過性は恐らくは次の3つの発生源に由来するだろう。
a) 中性子であれ、ガンマ線であれ、他のまだ特定できていない放射線であれ、原爆の核の連鎖反応の際放出される極めて高い周波数の放射線。
b) 爆発の際ばらまかれる第一次核分裂物質の蓄積から生ずる長く消え去らない(半減期の長い)放射能。
c) 爆発の地域における、透過される物質と中性子との相互反応に起因する誘導放射能。

 広島と長崎の両市において放射能を検出できる地点は多くあった。しかし、(放射線の)最初の原因だけが、重要な影響を与えていたのではないかと思える。広島の高須は爆心地から1万フィート(約3000m)離れたところにある。また長崎の西山は爆心地から6500フィート(約1950m)離れたところにある。科学的測定では(原爆の)爆発から数週間経た後でも放射能が検出された。推測するにこれは(残留放射能は)、誘導放射能というより初期核分裂物質の蓄積からきているのではないかと思う。

(* 誘導放射能。自然放射能に対する言葉。核反応で物質、といっても事実上ウランやプルトニウムだが、放射能を持つ場合をいう。やや乱暴だが、人工的に作った放射能はすべて誘導放射能だと思えば間違いがない。
詳しくは下記へ 
http://sta-atm.jst.go.jp:8080/dic_0792_01.html 
または下記へ
http://www.rerf.or.jp/nihongo/radefx/dosereco/residual.htm )


生殖機能への影響

 地面や放射線症の犠牲者の骨を試験してみたところ、ある種の構成要素―リン、バリウム、ストロンチウム、希土類元素などに放射能が見られた。長く消え去らない放射能の証拠はわずかというものの、もし原爆が地上で爆発したとき、まったく別な状況がありうるのではないかという不気味な(ominous)可能性に十分道を開くものである。

 放射線は明らかに土壌や直物の成長に長期的に続く影響を与えていない。
(* ここの土壌はsoilを使っており、一般的な意味で土を意味しているのではなく前後の文脈からして明らかに、直物成長用の土壌を指している。)

 爆心地から2−3百フィート(約60mから90m)で後で種をまいたところ、通常に発芽した。爆心直下地域で、地面近くの土壌を検査したところ、地虫やその他の生命の存在が、地表からほんの2−3インチ(約5−8cm)のところで確認できた。人間の生殖(procreation)に対する影響はしかしながらまだ結論するには至っていない。しかし爆心地から1マイル(1.6Km)以内の妊婦の流産は増加している。また同地域内の男性の精子の数はほとんどのケースで低くなっている。爆発後同地を訪れた人たちのいろいろな障害についての話は調査の結果裏付けがとれなかった。

 爆心地から半径3000フィート(約900m)以内でのガンマ線などの放射線は、致死的(lethal)だったことが証明された。7500フィート(約1950m)以内、時にはそれ以上のケースでは、脱毛が見られた。そしてほとんど2マイル(約3.2Km)以内にわたって、何らかの軽微な影響が見られた。

(* これで放射線症に関する記述が終わっている。特に放射線症に関する問題は統治マンハッタン計画での秘密事項だった、という先入観があるためか、なにか大事なことを語っていないような気がする。)


全方向に伝わる爆風
4.爆風(Blast)

 気圧または衝撃波(shock wave)は爆発から全方向に伝わる。発生した爆風効果は、一様だった。また、その規模の大きさを除けば、従来の大型高性能爆薬の効果と同じだった。従って、それぞれの場所での効果、例えば屋根の骨組みの崩壊とか壁の倒壊とか言うのではなくて、建物全部が押しつぶされるとか、全体として崩壊するとか、建物全体に影響があった。
      
 高性能爆薬に置いてと同様、爆風の圧力はほとんど同時にピークに達し、それからややゆっくり目になり、自然の風速よりやや大きいといった程度に落ち着くまで3回の変動をへて、自然の風速以下になる。ポジティブ期(positive period)は、環境の風速よりかなり大きい爆風期間だが、それから続いて生起する、あるいはネガティブ段階より遥かに大きなピーク圧がある。ポジティブ段階は短いとはいえ、次の第2段階よりほんの少し長く続く。通常爆弾では、この第2段階の方がポジティブ段階の方より若干長い。このように原爆の建造物の効果は、通常は建物に対して押しつけるようなあるいは建物をのけぞらすように働く。これに対して、通常爆弾では鋭くたたきつけるような、そしてもっと短くパンチで壁に穴をあけるように働く。(原爆では)はじまりと終わりの間が(通常爆弾より)長く、ためにほとんどポジティブ段階でほとんどの建物は倒壊に至る。ネガティブ段階の長いけれどより強力でない爆風で倒れた建物の証拠はほとんど少ない。爆発の方向へ向けて窓のシャッターが外へ吹き飛んだと言うケースは極めてまれだった。

 高性能爆弾での実験では正面ピーク圧は側面ピーク圧の2倍から5倍の強さがあったことを示している。従って爆発に正対した壁や屋根の方が、爆発に平行する同様な表面よりも受ける打撃は大きい。(原爆の)爆心地近くでは爆風はほとんど垂直下方方向に走っていた。もし弱ければ建物は上から押しつぶされていた。また壁には少ししか、あるいは全く損傷を受けないで屋根だけが押しつぶされていた。木々の幹は立ったままだった。しかし枝はすべて剥ぎ取られていた。電話線の柱は押し倒されていた。爆心地の中心に近いところでは立ったままだった。多くの小規模の建物は、事実上空気圧の波に完全に飲み込まれており、同時にいろいろ異なった方向へと押しつぶされていた。それより幾分(爆心からの距離が)大きいところでは爆風の垂直方向要素や水平方向要素が認められた。建物は爆発に対して正対した屋根や壁が大きく損傷していた。(爆心地から)大きく離れたところでは、爆風はほぼ水平方向へと伝わり、爆風の間、建物は壁に顕著な損傷を受けていた。そのようなケースでは、壁が吹き飛ばされるので屋根の骨組みではささえきれず、屋根が完全に落下した。

 防御物は、広島より長崎でより重要だった。というのは長崎では丘が市を2分していたからである。1923年の地震(関東大震災)以降、日本の建築基準法は建物の高さを100フィート(約30m)以内に制限していた。従って建物は低すぎてこのような空気炸裂型の爆弾では防御物にならなかったのである。

 反射現象や回折現象は観察された。

(* ここではあくまで爆風の方向性の話であるが、爆風が何かにあたって跳ね返ってきたり、何らかの影響で折れ曲がって-回折-すすんだということをいっている。)

 長崎で、もし爆風が完全の直線で進んだとしたら、もっと助かった建物は実際より多かったろう。(爆風の)反射現象は、原爆から横向きになった屋根にある格子状になった壁面にほとんどその現象が見られる。そこでは屋根からの爆風波の反射が(格子状になった)壁に直接突き当たる爆風を補強していたからだ。また爆風の反射現象は、爆心地から1000フィート(約300m)以内にある橋のコンクリート製の橋げたを折ったり、移動したりしたときに目で見ることが出来た。そこでは川の水にあたった爆風波の反射が、もっとも抵抗力のない橋の部分を強く叩いたからである。

 建物の抵抗力はその建設方法に大きく依存している。2つの例を示そう。
a) 長崎で爆心地から2000フィートから3000フィート(約600mから900m)の間では、鉄筋コンクリートの建物の床面積のうち、わずか9.5%が破壊されたか、構造的損壊を受けた。しかし爆心地から4000フィートから5000フィート(約1200mから1500m)の同種の建物は56%が倒壊したか、構造的損壊を受けた。注意深く調べていくと、この違いは単純に、設計、建築細部、材料などに依っていることがわかった。(原爆の)爆発は長崎市の中でももっとも注意深くまた強固に建てられ、またその多くは数階建ての耐震構造をもった建物群を含む区画のほぼ真上で起こったのである。建物が強固であったことは、爆風が強かったことを補ってあまりあった。急速に勢いを減じた爆風は、より遠くにあっても弱く作られた建物に深刻な損傷を与えた。その多くは1階建ての産業用建物で、薄い貝殻状の屋根のある建物だった。
b) 広島と長崎の両方の都市では、鉄骨製の建物で褶曲状のアスベストを壁や屋根にした建物の方が、褶曲状の鉄製または金属シート状の壁や屋根を持っている建物より、構造上の損傷が少なかった。褶曲状のアスベストは簡単にぼろぼろになり、爆風の圧力が容易に、鉄骨にかかる圧力と均等化するのに対して、鉄製の壁は爆風の圧力をさらに構造部分(鉄骨部分)に伝えて、これが建物のひずみや一般的損壊の原因になったのである。


トルーマン声明を思わせる非人間性

 爆風効果は8マイル(約13Km)の範囲にまで及び、その限界あたりでは、広島ではガラスが割れたなどが報告されている。また広島では屋根が剥がれたり、舞い上がった瓦が爆心地から4.1マイル(約7Km)も離れた日本製鋼所(* 原文はJapan Steel Companyだが、これは日本製鉄ではなく明らかに日本製鋼所だろう。)を直撃している。

 原爆による破壊の程度を分析するとき、広島と長崎両市の間に異なった建物があるという点で差別しておくことが必要である。長崎ではより広い範囲で同等の爆風効果が見られる。

 広島では、鉄筋コンクリートの建物の構造的損壊は、耐震構造を持つもの持たないものの両方を含むが、0.05平方マイル(約0.128平方Km)の範囲内で起こっていた。しかし長崎では同様な深刻な損壊は0.43平方マイル(約1.1平方Km)の範囲に及んでいた。

 軽量鉄骨製の平屋建ての建物の深刻な損壊は両方の市に同様に広がっていて長崎では3.3平方マイル(約8.5平方Km)、広島では3.4平方マイル(約8.7平方Km)だった。重量鉄骨については長崎だけで研究されていて、構造的損壊は1.8平方マイル(約4.6平方Km)以上に及んでいた。
 
 構造材壁(load bearing walls)を伴った平屋ブロック造りの建物は、長崎では8.1平方マイル(21平方Km)で深刻な損壊を見せた。広島では6平方マイル(15平方Km)だった。複数階建てのブロック造りの建物は広島だけで研究されていて、深刻な損壊は3.6平方マイル(約9.2平方Km)だった。

 木造の住居用建物は、長崎で7.5平方マイル(約19平方Km)、広島で6平方マイル(約15.3平方Km)に深刻な損壊が見られた。木造造りの産業用建物及び商業用建物については、おおむね粗末な造りであり、長崎で9.9平方マイル(25平方Km)、広島で8.5平方マイル(約22平方Km)にわたって深刻な損傷が見られた。

 爆風による最大空気圧は、爆発からの距離が大きくなるにつれて、急速に低減している。2つの原爆都市では、良質な建築でできた鉄筋コンクリート製の建造物が構造的損壊を受けたのは、爆心からほんの2−3百フィート(約60mから約90m)までの間に限られている。実際のところ爆心地(ground zero)自体が爆心点(air zero)から相当はなれていて、耐震構造の建築物を壊滅させるには距離がありすぎた。これは調査団の技術者の意見であるが、広島に置いてもっと爆裂の高度が低ければ、そして破壊の範囲に有意味なロスがないものとすれば、もっと高い爆発性能を達成できただろうといっている。

(* ここらの言葉使いは、この項の書き手及び調査団参加者の一部の原爆投下に対する意識を表している。原爆投下の時のトルーマン大統領声明をどこか連想させる。

  「・・・科学分野と産業分野の両方が米陸軍の統率のもとに運営された。驚くべき短期間に、多岐にわたる尖端的知識の分野の諸問題を解決したと言う点に置いて、米陸軍は極めてユニークな成功を示したのである。このような組み合わせが一緒に行われるなどと言うことは世界に例がないことは疑いようがない。なされたことは、歴史上もっとも大きな科学の組織化による業績である。大きな重圧下で少しのミスもなく行われた。」
(原爆投下直後なされる予定の米政府広報発表用原稿―いわゆるトルーマン大統領声明―の一節よりhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/touka_hapyo19450730.htm )

 この残虐で非人道的な皆殺し兵器を使わねばならない心の葛藤や痛みがまるで見受けられないのだ。

 スティムソン日記の次の一節と較べてみよ。
それから、アーノルド将軍が入ってきた。(ヘンリー・アーノルド将軍。空軍司令官。当時はまだ空軍は陸軍の指揮下にあった)
そしてB−29による日本への空襲について話し合った。
そして日本への空襲は正確なものとするというロバート・ロベット(空軍担当の陸軍長官補佐)との約束について話した。東京への空襲はこの約束とはほど遠いではないかと云った。(1945年3月のB−29による東京大空襲のことをスティムソンは云っている。スティムソン日記によれば、スティムソンはこの東京大空襲の事を新聞の報道で知った、という)
 私は、どんな事実関係があったのか知りたかった。
アーノルドは、ドイツと違って、日本は工業地帯が集中しておらず、細かくしかも一般住宅とくっついて分散しているために、空軍は爆撃に際して困難な状況にある、ヨーロッパにおけるよりも、日本では軍事生産施設だけを狙って爆撃するのは不可能である、従ってどうしても一般市民に損害を与えることになる、といった。
しかし、彼はできるだけ軍事生産設備だけを狙うようにする、といった。私は、私の許可なしに爆撃してはならない都市がある、それは京都だ、とアーノルドに云った。」
 (スティムソン日記:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450601.htm 

 またレオ・シラードの次の言葉と較べてみよ。
・・・この問題について人道主義的に善悪を論じるなら、私には次のようにしかいえません。仮にドイツがわれわれより先に、原爆を2個保有したとしましょう。そして仮に原爆を1個落としたとしましょう、そうですね、ロチェスターかバッファローに落としたでもいいです、そして原爆を落としてしてしまった後で、ドイツが戦争に負けたとしましょう。都市に原爆を落とすことを「戦争犯罪」と定義することに誰が疑いをさしはさむでしょうか?そしてニュールンベルグで、ドイツに対してこの罪(人道に対する罪)で有罪を宣告し、責任者を絞首刑にしませんか?」

  ―1960年U.Sニューズ&ワールド・レポートとのインタビューより。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htm )


核の連鎖反応が決定的違い
5. 原爆と他の兵器との比較

 原子爆弾とその他の兵器の比較を行うとき、その爆発の高度の重要性をよろしく念頭に置いておくべきである。目標からの距離のため、原子爆弾は広島と長崎のいかなる地点にもその高い、一瞬のピーク爆発を及ぼさなかった。小型の高性能爆弾ですら一瞬のピーク爆発を発揮できるのにである。例えば、1個の100ポンド(48Kg)爆弾は地上ゼロの地点で爆発したとき、そのピーク爆発を1000平方フィート(約90平方m)に及ぼすことが出来る。1000平方フィートはおよそ爆発地点から半径18フィート(約5.4m)の円に等しい。しかし原爆はどの地点においてもそのピーク爆発を及ぼさなかった。適切な見方で、効果を及ぼすそれぞれの半径の比較を行ってみると事実関係がはっきりするだろう。日本に置いて原子爆弾が爆発した高さにもかかわらず、その爆発規模は全く新たなスケールだった。というのは爆発のはじめから終わりまでの長さがこれまでの高性能爆弾に較べて長かったからである。一つだけ例をあげよう。長崎ではブロックで出来た建物は爆心地から6000フィート(約1800m)の範囲で構造的な損壊を蒙った。同じような損壊は500ポンド(約240Kg)爆弾では、地上ゼロで爆発して半径55フィート(約16.5m)である。1000ポンド(480Kg)爆弾では80フィート(約24m)、1トン爆弾では110フィート(約33m)、2トン爆弾で200フィート(約60m)である。仮定の話として10トンの超大型爆弾(blockbuster)であれば恐らくは半径400フィート(約120m)の間で同様な損壊が期待できるであろう。(なお実戦で使われた最大の爆弾は10トンの透過型爆弾があるだけである。)このように空中爆裂型の原子爆弾は、500ポンド爆弾の1万5000倍の規模、仮想上の10トン超大型爆弾の225倍の規模でブロックで出来た建物に効果があった。

 原子爆弾で要する攻撃力と通常爆弾で要する攻撃力の比較は単に1枚の表を示すことで正鵠を射るだろう。2つの原子爆弾攻撃に対して比較するのは一つの都市への攻撃としてはもっとも効果的だったとされる1945年3月9日の東京への空襲と、日本諸都市に対して第20航空隊が行った一連の空襲への総力とその結果の平均値である。

総力と結果(EFFORT AND RESULT)
広島 長崎 東京 93都市爆撃の平均
爆撃機数 1機 1機 279機 173機
爆薬量 原爆1個 原爆1個 1667トン 1129トン
1平方マイルあたり
人口密度
4.6万人  6.5万人 13万人 不明
破壊面積 4.7平方マイル 1.8平方マイル 15.8平方マイル 1.8平方マイル
死者及び行方不明者 7−8万人 3.5−4万人 8万3600人 1850人
負傷者 7万人 4万人  10万2000人 1830人
1平方マイルあたり
破壊数
1.5万戸 2万戸 5300戸 1000戸
1平方マイルあたり
人的損害数
3.2万人 4.3万人 1.18万人 2000人


 1発の集中化された爆弾が招来した破壊の程度という以上に、これら資料からくっきり見えてくることは何かというと、それは(核の)連鎖反応に由来する熱、爆発、ガンマ線が相互に組み合わさったこれまでに比類のない損害、と言うことである。

 今次戦争のヨーロッパ戦線および太平洋戦線から計量される、すでに知られている各種爆弾の破壊効果を基礎とし、また各種の実験から、調査団は、広島と長崎で発生したのと同様な破壊を達成するのに必要な「打撃力」を推定した。目標とした地域では(in the target area)、物理的損害を引き起こすためには、広島ではおよそ1300トンの爆弾が必要だった。(1/4が高性能爆薬であり3/4が焼夷弾である。)また長崎では600トンの爆弾が必要だった。(3/4高性能爆薬であり1/4が焼夷弾である。)原爆を投下したときに明らかになっている天候や敵の敵対状況と基本的に同じ条件の下で、従って昼間の攻撃を想定しているが、目標とした地域に投下すべき爆弾を措定すれば、広島には1600トンの爆弾を落とさなければならないし、長崎には900トンを落とさなければならない。これらに加えて相当する人的損害を生起すべき対人破砕爆弾(anti-personnel fragmentation bombs)の該当量を加えなければならない。広島ではおよそ500トン、長崎ではおよそ300トンだろう。こうして合計すると、広島では2100トン(400トンの高性能爆弾、1200トンの焼夷弾を含む)、長崎では1200トン(675トンの高性能爆弾、225トンの焼夷弾を含む)となる。またそれぞれの作戦計画では、仮に10トン爆弾を死闘したとして、210機のB−29が広島で必要であり、120機が長崎で必要だったことになる。


長崎の実力は実際の5倍

  しかしどうしても頭に留めておいて欲しいのは、長崎では使われた原爆が本来もっている潜在能力を完全に発揮した形で損害が発生したわけではないと言うことだ。原爆が爆発した地域での長崎では、孤立した小規模な損害が発生し、そのダメージは限定されていた。もし目標が十分に大きく、また貫く丘で区画わけされていなかったとしたら、その地域の損害は5倍もおおきかったろう。長崎における不完全な結果でなくて、本来の破壊力を仮に爆弾で換算すれば、およそ物理的損害をもたらすために2200トンの高性能爆弾と焼夷弾、それに人的損害をもたらす500トンの対人破砕弾が必要だったと言うことになる。それぞれ10トン爆弾を搭載してとして270機のB−29が必要だった古都になる。

(* これで「原爆と他の兵器との比較」の項が終わっている。長崎では本来の原爆の能力は発揮できなかった、とくりかえし述べている。長崎の地形のせいだ。分かっているなら落とさなければいいではないか。しかし、待てよ。
それでは何故本来の能力が発揮できないと想定できる長崎に原爆を落としたのか?
 「長崎に何故原爆を落としたのか?」はずっと引っかかっている疑問である。
もしかすると「何故長崎に原爆を落としたのか?」という問題の立て方自体が間違っていたのかも知れない。

 「何故広島か?」。これは十分説明がつく。軍事問題としてよりも政治問題として、「警告なし」に日本のどこかへ最初の原爆を落とすことは暫定委員会での決定事項だった。ソ連を震え上がらせ、スターリンがその髪の毛を逆立てるほど恐怖を覚えるやり方で、原爆を国際政治の舞台に華々しくデビューさせることが必要だった。その政治目標を達成するためには、結局「京都」か「広島」への投下が最適という結論を投下目標委員会が出した。京都は肝心要のスティムソンが強硬に反対した。となると残るは広島しかない、と言うことになる。後は天候任せだ。広島が原爆投下に最適の天候になるまで待った。1945年8月4日付のスティムソン日記にはこうある。

やっかいな日だった。
陸軍省からひっきりなしにメッセージが入る。
主にS−1のことだ。(日本の天候のため原爆投下が遅れに遅れた。)
しかしまたバン・スリックの報告書のためでもある。(スティムソンは、バン・スリックの報告を、国務長官代行ジョセフ・グルーの元に届けさせ、よく読むようにといった。そして電話でグルーとその問題について話し合っている。)
 私は取らなければならない休息が十分取れなかった。
 S−1作戦は結局金曜日の夜(8月3日)から、土曜日の夜(8月4日)に延び、さらにまた日曜日(8月5日)に延びることになる。」

 広島には二の矢はなかった。天候の回復を待って、8月3日、8月4日、8月5日と辛抱している。これは目的が軍事にあるからではなく政治にあるからだ。だから広島への投下は説明がつく。

 しかし長崎への投下は全く説明がつかない。小倉がダメだったから、長崎に落とした、それも雲間を狙ってのあぶなっかしい投下だった。そして戦略爆撃調査団報告は、「あれは実力ではない。もっと長崎の条件が良ければ、本当は実際の5倍も破壊力があったのだ」と文句を言っている。

 「何故長崎へ原爆を投下したのか。」という問題の立て方自体が誤りとすれば、正しい問題の立て方は「何故2発目の原爆を落としたのか。」と言うことになる。そして、この設問は「何故2発目はプルトニウム型だったのか。」という設問と同義になる。

 原子爆弾を含めた核エネルギー問題―それは当然核の平和利用問題も含んでいる−について政治的枠組みの中で議論し、大統領トルーマンに政策提言をおこなう役割を持っていたのが、「暫定委員会」だった。暫定委員会は原子爆弾を含めた核エネルギー問題に関する当時アメリカの、事実上の最高意志決定機関だった。その暫定委員会の、少なくとも主要な議事録を読むと、2発目の原爆の話は全く出てこない。1発目は完全な政治問題として取り扱い、2発目以降は完全な軍事問題として取り扱ったのだ。

 広島の原爆は政治問題だが、2発目以降は軍事問題だったのである。軍事問題としては、「プルトニウム型原爆を実戦で使用し、その性能を検証する」というテーマ以上の軍事問題はなかったであろう。

 1発目は政治問題として「広島」でなければならなかったが、2発目以降は軍事問題として、完全に軍部にその取り扱いを任されていた。だから小倉に落とせないから、急遽長崎に落とす、などと言うことができた訳だ。

 長崎への原爆投下の目的は、いや2発目の原爆投下の目的は、「プルトニウム型原爆を実戦で使用し、その性能を検証する」という軍事目的だったのだ。

 言うまでもなく、これは「戦争犯罪」であり、「人道に対する犯罪」である。 ある意味では広島への投下より残虐であり、非人道的だ。だれかがいったようにこれはsuch a wanton act である。)


(以下そのDへ続く)