<参考資料> 雑誌改造 1927年(昭和2年)各号所収 論文より

「昭和日本新舞台の展開」 高橋亀吉 2月号所収

雑誌「改造」1927年各号所収の論文から中国関係、国際政治関係の興味深いものをテキスト化した。
漢字、仮名遣いは現在の常用漢字、仮名遣いにあらためた。句読点も加えた所がある。
(青字)タイトル、中見出しは、私自身が私自身の整理のためにつけた。
原文タイトル中見出しは黒字で表記した。
(*青字)は私の註である。
(ママ)の表示のない誤字・脱字は全部私の責任である。
この論文は直接、日本の中国侵略を論じたものでもなければ、国際政治を論じたものでもない。が、しかし、帝国主義日本が結局暴力的な大陸侵略をせざるを得なかった当時の日本社会の内部「構造的要因」の一つを指摘した記事として読むと興味深い。

 この論文の中で高橋は、明治時代は官僚と軍閥がリードした時代だった、と説明し、大正時代はそのままの体制では本来乗り切れなかった、と説く。大正時代は社会全体の権力は無産階級によって指導されるべきだったというのである。高橋のいう無産階級とは、彼自身がこの文章の中で『財産に寄食せず自らの腕によって衣食しつつある階級』と定義しているように、必ずしもマルクス主義でいう『労働者階級』の異ではない。彼がこの論文の中で、官僚軍閥に主導された明治資本主義の行き詰まりを打破する唯一の方向が「普通選挙」実施だったと指摘しているように、ここでいう無産階級とは、資本主義内民主主義の担い手たるべき『勤労市民階級』のことを指していることは明らかである。つまり高橋は「普通選挙」を、資本主義内民主主義を達成する重要な政治的枠組みとして捉え、官僚・軍閥政治に代わる新たな枠組みとして捉えていることになる。

 大正時代は余りにも短く、結局「官僚・軍閥政治」から「資本主義内民主主義政治」への以降は昭和時代の課題となった、と高橋は論ずる。この権力基盤の移行ができなければ「凋落」「廃頽せる」日本の資本主義にはその前途に光明は見いだせないと高橋は結論している。高橋がこの論文を書いたのが1927年(昭和2年)1月3日であることを考えれば(昭和元年は1926年12月25日に始まりわずか1週間だった。)、高橋が昭和の課題が、「民主主義の徹底化」にあると考えていたことは明らかであろう。

 現実は、高橋の主張とは全く逆の方向に進み、資本主義内民主主義の徹底化どころか、日本の資本主義は、ファシズム化していくことになる。

 もうひとつの面白い視点は、昭和2年当初の高橋の分析と指摘は不思議と2009年の日本に当てはまる部分がある、と言う点だ。これも別途に考えてみなければならない点かもしれない・・・。


(以下本文)


昭和日本新舞台の展開 高橋亀吉   2月号所収

(* 高橋亀吉は、戦前戦後に活躍したエコノミスト。ジャーナリステックな感覚で本格的な経済理論を論じることもできた。現在ではちょっと見当たらないタイプ。私の好きな論客でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/高橋亀吉
http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/kamekichi/index1.html>)



 明治天皇崩御の際、ロンドン・タイムス東京通信員は、長文の電報を送って大正日本の前途を論じ、タイムスまた一大長論文を社説に掲げて共に、大正日本の前途多難なることを指摘し、当時の我が朝野に多大の感動を与えた。

 その要旨は「明示日本は多大の苦心と努力とを以て、欧米の物質文明を採用し驚くべき速度を以て長足の進歩を遂げた。しかしながら考うべきは、過去のこの物質的変革が大正日本に及ぼすべき影響とこれに伴って日本人の精神が今後いかに変遷すべき点である。これらの事実は、思うに明治日本がかく容易に手際よく発展し来たりしとは趣を異にし、大正日本はそこに幾多の難関と危険とを包蔵している。」というにあったと記憶する。

 事実、明治日本は資本主義文明の移植模倣に専念し、そのことに由って、然りそのことのみに専念することに由って、容易にかつ驚くべき効果をあげて、明治日本をして彼れの如く長足の進歩を遂げしめることができたのであった。

 然るに明治末期に置いては、已にこの種の発展は、漸くその行詰期に転入し、大正に入ると共にますますその傾向は顕著となった。そのわけは要するに、一つは資本主義文明の採用が一巡終を告げたるところへ、その長所が漸く廃頽すると共に、その短所が著しく擡げはじめたことにある。



 斯様のわけで、大正日本の時代に置いては明治日本より承継した多くの遺産が、そのままでは年と共に行き詰まり、凋落し行く事実に直面し、ここにその改造の難関を突破する必要に迫るることになった。

 例えば、その最も著しい現象としては、
(一)労働運動、社会運動等の勃興
(二)普選制度の実施
(三)官僚政治乃至軍国主義の凋落等
をあげることができる。

 而して、これら大正日本に三大現象の中、(一)及び(二)は積極的な改造現象であり、(三)はその結果としての消極的な自滅現象である。

 そもそも明治日本発展の根源は、これをその機関より見る限り、官僚と軍人との2つに還元しうる。すなわち欧米の物質文明すなわち資本主義文明の移植模倣―それが明治日本文明発展のすべてであるーは、もっぱら官僚の手によって行われた。極度の中央集権制度により、少数の有能有為の官僚の指揮の下に全国的に資本主義的文物制度を天下り的に移植するというのがその方法であった。

 然るに斯様な方法による我が国の発展は、その後三つの方面から困難となった。その一は欧米文明の移植の方が一巡終わってその余地がほとんどなくなったことである。少なくとも容易に移植模倣し得るものは種切れになったことである。が、この点については私の他の場合に置いて縷説しきったところであるから誌面の都合上その詳述をここに避ける。

 今一つの明治日本発展方法の行き詰まりは官僚の実力それ自身の退化である。顧みるに明治維新以後暫くの間官界は唯一の青年登竜門であった。加うるにその中心に立つ所謂官僚の親玉連は、維新革命の前後、世の荒浪にもまれ、死活の境を突破してきた百戦錬磨の人傑であった。斯様なわけで、官僚は一時我が国の人材を網羅した唯一の指導機関であった。

 明治日本の大発展が、これら官僚の指導の下に敢行せられたということは決して偶然ではない。ところが国会開設以来、官僚の位置は従来のそれとはここに一変し、加わるに歳費の削減に由り人材の養成、吸収にも多大の支障を起こした。然るにこの秋に方り、民間の事業は一大発展の域に達し、人材をして自由に驥足を伸ばしむる舞台を提供した。かくて人材の多くが漸く民間に走り、官界従来の独占を破りしところへ、さらに官界に置いては所謂文官任用令の鉄門により、一方には門外の人材を全く遮断して入れず、一方には門内の人材を温室育てにして、顕要の職にまでトコロ天式に押し進めた。かくて愈々官僚の実力は退化しつつあったところへ、さらに明治維新以来の有力者は大方あるいは死しあるいは老い、愈々官僚の実力及びその威令は凋落するに至ったのである。

 言うまでもなく、その結果我が政治は従来のごとき効果をあげることを得ずして、少なからぬ破綻を各所に暴露したのである。

 更にまた明治日本をかくの如く一大飛躍せしめた他の根因は、我が国の兵力であった。このことは日清・日露の二大戦争が如何に我国力を伸展したかを顧みるだけで十分だ。斯様のわけで、我が朝野の間には長く軍国主義による「国力進展」ということが国民の希望となっていた。然るにこの希望は欧州戦後に置いて完膚なきまでに打ち潰された。欧州戦中において我が手に収め得たと確信していた対支廿一ヶ条要求(*21ヶ条の要求のこと)に基づく獲得、対独戦線による膠州湾の占領、シベリア出征に包蔵せられたる領土拡張欲等々が戦後において元も子もなく吐き出されたという苦い経験がその無言の幻滅暴露者である。

 そのかの如き結果になったということは、要するに帝国主義的発展時代の世界的凋落に基因することであって、その理由もむろんあるのであるが、ここには斯様の事実のため、我が国民の間に兵力を持って我が国将来の国力進展を図り得るという希望の漸く消失するに至ったということを示すだけに止める。その結果がすなわち軍国主義の凋落である。これ大正日本が難局に立った第三の方面である。



 大正日本は斯様にして明治日本最高の功労者、官僚軍閥とを二人とも馘首せざるを得ざるに至った。而してこれに代わる者として採用したものは「普通選挙」であった。しかしながらこの普通選挙制度は斯様なハッキリした意味に置いて実現したものであったかというに決してそうではなかった。

 按ずるに明治日本の建設者、官僚と軍閥との機能が退化した時において大正日本はまた明治日本を発展せしめたところの資本主義制度そのものの退化にもまた直面したのであった。若しもこの資本主義制度の退化がなかったならば、官僚と軍閥との退化は資本家によって代わられた筈であったであったろう。そうすることによって大正日本はさらにその発展を続けることができたわけであるからだ。

 然るにその資本主義制度そのものが、この秋に置いて退化した(そのわけはここに誌面がないので説かないが、「改造」大正14年8月号参照)のであるから、この官僚乃至軍閥から資本家への権力の更代は、先進国の如くうまく運ばなかった。否、ある点までそうした更代は行われたー原敬以来の政党内閣の樹立の如きーのであったが、そうした更代によって大正日本の難関は毫も突破せられず、かえってますますその行き詰まりを深化さした。

 而して、この結果をもっとも痛感したものは今日の制度上無産階級であった。

 大正五年(*1916年)以来欧州戦争の一時的影響によって、アルコール興奮の如く景気立った我が経済界は、大正九年春(*1920年)の反動によって(*恐らく兜町株式大暴落のことを指していると思われる。)惨憺たる悲境におちいった。而してこの悲境を救済する策としては為政者及び資本家階級に残された方法は、ひたすらに無産階級の労働条件を低下さすことのみであった。

 ここにおいて無産階級の間にはこれに反攻する労働争議乃至小作争議が各地に勃興し、ここに労使の間に互いに死活のための闘いが戦われるに至った。いかにも大正九年以前においても労働争議はないではなかったが、しかしその争議は利得したる利益の分け前の大小の争いであって大正九年以降の如き死活の争いではなかった。

 この結果は支配階級をして所謂「思想の悪化」「世相の険悪」を切りに思わしめ(*ママ)その緩和策の必要を痛感せしめることとなった。之れ、支配階級側において「普選制度」の必要を認むるに至った根本事情であった。彼らは、であるから、既成政党従来の政治が行き詰まって、これを甦生さすために「普選」の必要がおこったのだとは夢にも考えなかったのであった。

 このことは「普選案」の上程せられた議会の速記録を一見したものには誰にも容易に看取ることができる。

 しかしながら、民衆の多数が「普選」を要望するに至った根因は、意識せると無意識なるとの差はあるが、資本家的既成政党に愛想を尽かした結果であると一致していた。

 既成勢力には大正日本現在の我が国難局打開の能力なしと見たからである。大正日本の発展は我が国の政治を従来の官僚、軍閥、資本家等の占有より解放してこれを無産階級(財産に寄食せず自らの腕によって衣食しつつある階級)の手に取り戻す外になしと自覚したからである。このことは例えば普選問題と前後して無産階級の経済的及び政治的運動勃興し、大に新興階級の要求に投じつつあることが之れを証明する。



 さりながら大正日本は以上の如き新日本誕生の陣痛に悩み、その誕生の準備に漸く着手するやせざるやに、遽かに逝いて、それの発展それの完成は挙げて之れを昭和日本の双肩に荷し去ったのである。

 たとえば、普選の実施にしても支配階級の人々は未だ之を欧米先進国のそれと同一視し、国民の多数もまた漫然とこれをそう見ているかのようである。しかしながら欧米先進国のそれは資本主義発展期において実施せられたものであって、日本のそれは資本主義末期に実施せられたものである。従ってその意味もその発展の形式もその完成の目標も欧米先進国の普選実施の日のそれとは、日本のそれは著しく色彩を異にしたものであるこというまでもない。

 これらのすべての証明と実現とは昭和日本のために残されている。

 またその実行責任者たる無産階級運動―経済及び政治両行動におけるーの陣営においても大正日本はわずかにその第一歩を踏み出したのみであってその陣容の整備、その戦術の鍛錬、客体的状態の認識の練達等々はすべて昭和日本に双肩に荷わされた使命である。思うに昭和日本はこれらの点を中心にしてめざましき活劇を演ずるであろう。

 就中この点に関連して私のもっとも興味を有することは次の2点である。

 その第一は、昭和日本においては日本自体の研究がますます旺になり、その特殊性と共通性とのより正確なる認識によって昭和日本改造のコースが今後如何に変化するであろかということである。その第二は、これまで無産階級の社会改造の基礎理論となった資本主義的社会現象の法則は専ら、資本主義発展期におけるものであったが、資本主義の発展期が行き止まりそれが下り坂になるとこれらの法則はどう変化するかということが今後は無産階級の直面する重大問題となるのであるが昭和日本は如何に之に対するかである。

 この点について従来のマルキシスト一派は資本主義発展の行き詰まり即其の没落―社会主義の実現という風に漠然と考えているのではないかに見える。(もっとも資本主義没落期においては労使の闘争が必死となり、いよいよ激化するという一点は強く主張せられていること周知の如し。)

 少なくとも、資本主義発展行き止まりの時期から社会主義実現の時期までの間における資本主義現象そのものの従来の公式が如何に変化すべきかの研究が疎かにされ漫然と従来の考え方を続けその認識の上に将来の政策を樹てているかのように見える。たとえば、大衆はプロレタリア化す運命(*ママ)にあるという資本主義の公式は資本主義衰退期にはこれをそのまま受け入れることはできないで、他の傾向に転ずるという事実あるにもかかわらず、依然大衆はプロレタリア化す運命(*ママ)のものだと言う前提のもとに編出された政策が無条件に強調せられつつあるが如きである。思うに昭和日本の改造、その発展の実現する前提としてこの資本主義行き詰まり期乃至没落期における社会現象の科学研究が新たに世の注意を惹き、多大の発達をなすであろう。而してその結果従来の考え方が少なからず訂正さらるるのではないであろうか。 (1927・1・3 記)