2012.1.6
 ウクライナからベラルーシへ

 その①ではウクライナの人口減少の実情を見てきた。単に人口が激減しているというだけでなく、「生児出生」(その年生まれた全ての出産数)、「死亡」、「自然変化」(移民や移住など社会的変動要素を含まない)、「粗出生率」(その年の出生をその年年央の総人口で割ったもの。単位は1000人当たり)、「粗死亡率」(その年の死亡をその年年央の総人口で割ったもの。単位は1000人当たり)、「出生率」(年間出生数を、15歳から45歳の-つまり出産年齢の女性の総人口で割った数。 単位は該当女性1000人当たり)のすべてで、1986年4月のチェルノブイリ原発事故後に一定の時間を置きつつ、急速な悪化を見せた。指標の中で一番早く影響が見られたのは総人口で、1951年以来一度も人口減少を見せたことのないウクライナの人口は、事故の7年後、ソ連崩壊・ウクライナの独立の3年後の1993年には早くも減少に転じはじめる。事故初期には国外避難などがあったにも関わらず、事故から7年後に人口減少に転じはじめてから連続して減少し続けている。このためかつて約5200万人だった同国の人口は、2010年には約4570万人となり、事故後約20年の間に12.1%も失われた。

 このため国連の報告では、「世界で最も人口減少の激しい国の一つ」と警告を鳴らされるようになった。(ただし、国連、世界銀行など西側国際社会の分析では、この減少は、飲酒、喫煙、肥満、高血圧、エイズの蔓延のためだとしている)

 同国の人口減少は、基本的には「出産」の激しい減少と「死亡」の激しい増加のダブルパンチを受けた格好になっている。地域別の特徴を見れば、そのダブルパンチはチェルノブイリ原発を中心に、同心円状にやや東側によりながら激しい減少の「盆地」を描いている。ごく一部の地域だが、チェルノブイリからの放射性降下物が少なかったと見られる西部地域では、わずかながら人口増加を見せている。

 これら現象の根本原因は、恐らく放射線に汚染された飲料水・食品を大量に摂取した結果、慢性的な低線量内部被曝状態となっており、そのため全般的な健康障害が発生し、死亡率の悪化、出生の激減となったものだろうと推測した。

 ウクライナ政府は独立後、1997年6月、根本的な放射線汚染食品制限値を設け、飲料水を1リットルあたり2ベクレル、はじめて乳児用食品に1kgあたり40ベクレルという制限値を設けるなど根本的な改革に乗り出した。このため、人口減少にはまだ歯止めがかかっていないものの、出生数は早くも2003年には歯止めがかかり、その後わずかばかりだが上昇に転じている。また大気圏核実験禁止条約(いわゆる部分核停条約)が発効した翌年の1964年、31万5340人だった「死亡」は(この年年央の人口は、4466万4000人総人口に対する「死亡」の割合は0.7%)、チェルノブイリ事故9年後の1995年には79万2587人(同じく人口は5151 万3000人で割合は1.5%) と約2,5倍(人口に対する比率では2倍)に達した。しかし97年の本格的な食品放射線汚染規制が行われて、年によってばらつきがあるものの、2010年にははじめて70万人台を割るなど、明るい兆しも見えている。

 こうした人口統計を、「放射線影響」という一点から眺めるのは非常に危険なことだが、様々なデータが「放射線影響」が大きな要因であることは間違いないことを指し示しており、厳しい食品放射線汚染規制がウクライナを救いつつあることは、明るい希望だ、というのが前回までの話だった。

 今回はそのウクライナと南北に国境を接するベラルーシを見てみよう。というのは、ウクライナとベラルーシは別々の国のように捉えがちだが、チェルノブイリ原発を中心に見てみると実は一つの地域だ。(その意味ではベラルーシ、ウクライナと国境を接するロシアも一つの地域だが、残念ながらロシアには適切な地域の人口統計資料が入手できない)



 ベラルーシも激しい人口減に

 先に下図をみてみよう。


 ウクライナとベラルーシを一つの地域と捉えれば、事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所はちょうどこの地域の真ん中に位置していることがわかる。

 チェルノブイリからほぼ南100kmにウクライナの首都キエフ(人口約250万人。首都圏人口約400万人)、またほぼ北350kmにベラルーシの首都ミンスク(人口約183万人)がある。

 ベラルーシもウクライナ同様、激しい人口減少に苦しんでいる。下記がベラルーシの人口統計である。(出典は英語Wikipedia“Demographics of Belarus”)

 表 ベラルーシの人口統計

* 出典は英語Wikipedia”Demographics of Belarus”。なおこの人口統計は”United Nations. Demographic Yearbooks”と”Statistical Yearbook of the Republic of Belarus 2007, BelStat, Minsk, 2007”をもとに作成されている。
* 生児出生はその年生まれた新生児で新生児死亡を含む。
* 自然変化は移民や引っ越しなど社会的変動を含まない。
* 粗出生率は普通出生率のこと。その年の出生をその年年央の総人口で割ったもの。単位は1000人当たり。
* 粗死亡率は普通死亡率のこと。その年の死亡をその年年央の総人口で割ったもの。単位は1001人当たり。
* 出生と死亡の自然変化の単位は1000人当たり。
* 出生率(しゅっしょうりつ)は、年間出生数を、15歳から45歳の(つまり出産年齢の)女性の総人口で割った数。 単位は該当女性1000人当たり

対象年 平均人口 前年増減 生児出生 前年増減 死 亡 前年増減 自然変化 粗出生率 粗死亡率 自然変化 出生率
1950 7,745,000 - 197,500 - 62,000 - 135,500 25.5 8.0 17.5  
1951 7,765,000 0.26% 194,900 -2,600 62,900 900 132,000 25.1 8.1 17.0  
1952 7,721,000 -0.57% 195,300 400 61,800 -1,100 135,000 25.3 8.0 17.3  
1953 7,690,000 -0.40% 195,300 0 60,800 -1,000 134,500 25.4 7.9 17.5  
1954 7,722,000 0.42% 195,400 100 61,000 200 134,400 25.3 7.9 17.4  
1955 7,804,000 1.06% 194,300 -1,100 57,700 -3,300 136,600 24.9 7.4 17.5  
1956 7,880,000 0.97% 199,400 5,100 54,400 -3,300 145,000 25.3 6.9 18.4  
1957 7,936,000 0.71% 200,800 1,400 53,600 -800 144,500 25.3 7.1 18.2  
1958 8,009,000 0.92% 207,400 6,600 52,100 -1,500 155,300 25.9 6.5 19.4  
1959 8,112,000 1.29% 204,400 -3,000 56,000 3,900 148,400 25.2 6.9 18.3  
1960 8,190,000 0.96% 200,218 -4,182 54,037 -1,963 146,181 24.2 6.6 17.8 2.72
1961 8,284,000 1.15% 194,239 -5,979 53,682 -355 140,557 23.4 6.5 17.0 2.63
1962 8,385,000 1.22% 185,320 -8,919 60,676 6,994 124,626 22.1 7.2 14.9 2.50
大気圏内核実験禁止条約発効 1963 8,458,000 0.87% 173,899 -11,421 58,292 -2,384 115,598 20.6 6.9 13.7 2.39
1964 8,519,000 0.72% 161,794 -12,105 53,967 -4,325 107,824 19.0 6.3 12.7 2.32
1965 8,607,000 1.03% 153,865 -7,929 58,156 4,189 95,709 17.9 6.8 11.1 2.24
1966 8,709,000 1.19% 153,414 -451 58,265 109 95,149 17.6 6.7 10.9 2.22
1967 8,800,000 1.04% 147,501 -5,913 61,263 2,998 86,238 16.8 7.0 9.8 2.17
1968 8,877,000 0.88% 146,095 -1,406 62,354 1,091 83,741 16.5 7.0 9.4 2.15
1969 8,957,000 0.90% 142,652 -3,443 65,912 3,558 76,740 15.9 7.4 8.6 2.11
1970 9,038,000 0.90% 146,676 4,024 65,974 62 77,702 16.2 7.6 8.6 2.18
1971 9,112,000 0.82% 149,135 2,459 65,511 -463 80,624 16.4 7.5 8.8 2.23
1972 9,178,000 0.72% 147,813 -1,322 71,866 6,355 75,947 16.1 7.8 8.3 2.16
1973 9,245,000 0.73% 144,729 -3,084 73,927 2,061 70,802 15.7 8.0 7.7 2.11
1974 9,312,000 0.72% 146,876 2,147 73,181 -746 73,695 15.8 7.9 7.9 2.12
1975 9,367,000 0.59% 146,517 -359 79,701 6,520 66,816 15.6 8.5 7.1 2.10
1976 9,411,000 0.47% 147,912 1,395 82,400 2,699 65,512 15.7 8.8 7.0 2.10
1977 9,463,000 0.55% 148,963 1,051 84,565 2,165 64,398 15.7 8.9 6.8 2.11
1978 9,525,000 0.66% 151,053 2,090 86,612 2,047 64,441 15.9 9.1 6.8 2.12
1979 9,590,000 0.68% 151,800 747 90,837 4,225 60,963 15.8 9.5 6.4 2.10
1980 9,658,000 0.71% 154,432 2,632 95,514 4,677 58,918 16.0 9.9 6.1 2.15
1981 9,732,000 0.77% 157,899 3,467 93,136 -2,378 64,763 16.2 9.6 6.7 2.18
1982 9,804,000 0.74% 159,368 1,469 93,840 704 65,524 16.3 9.6 6.7 2.20
1983 9,872,000 0.69% 173,510 14,142 97,849 4,009 75,661 17.6 9.9 7.7 2.29
1984 9,938,000 0.67% 168,749 -4,761 104,274 6,425 64,475 17.0 10.5 6.5 2.27
1985 9,999,000 0.61% 165,034 -3,715 105,690 1,416 59,344 16.5 10.6 5.9 2.09
チェルノブイリ事故発生 1986 10,058,000 0.59% 171,611 6,577 97,267 -8,423 74,335 17.1 9.7 7.4 2.18
1987 10,111,000 0.53% 162,937 -8,674 99,921 2,654 63,016 16.1 9.9 6.2 2.04
1988 10,144,000 0.33% 163,193 256 102,671 2,750 60,522 16.1 10.1 6.0 2.04
1989 10,171,000 0.27% 153,449 -9,744 103,479 808 49,970 15.1 10.2 4.9 2.03
ベラルーシ独立宣言 1990 10,190,000 0.19% 142,167 -11,282 109,582 6,103 32,585 14.0 10.8 3.2 1.92
ソ連崩壊・独立承認 1991 10,194,000 0.04% 132,045 -10,122 114,650 5,068 17,395 13.0 11.2 1.7 1.81
1992 10,217,000 0.23% 127,971 -4,074 116,674 2,024 11,297 12.5 11.4 1.1 1.76
1993 10,240,000 0.23% 117,384 -10,587 128,544 11,870 -11,160 11.5 12.6 -1.1 1.63
1994 10,227,000 -0.13% 110,599 -6,785 130,003 1,459 -19,404 10.8 12.7 -1.9 1.54
1995 10,194,000 -0.32% 101,144 -9,455 133,775 3,772 -32,631 9.9 13.1 -3.2 1.40
1996 10,164,000 -0.29% 95,798 -5,346 133,422 -353 -37,624 9.4 13.1 -3.7 1.33
1997 10,118,000 -0.45% 89,586 -6,212 136,653 3,231 -47,067 8.9 13.5 -4.7 1.24
1998 10,069,000 -0.48% 92,645 3,059 137,296 643 -44,651 9.2 13.6 -4.4 1.28
1999 10,032,000 -0.37% 92,975 330 142,027 4,731 -49,052 9.3 14.2 -4.9 1.30
2000 10,005,000 -0.27% 93,691 716 134,867 -7,160 -41,176 9.4 13.5 -4.1 1.32
2001 9,971,000 -0.34% 91,720 -1,971 140,299 5,432 -48,579 9.2 14.1 -4.9 1.26
2002 9,925,000 -0.46% 88,743 -2,977 146,665 6,366 -57,922 8.9 14.8 -5.8 1.20
2003 9,874,000 -0.51% 88,512 -231 143,200 -3,465 -54,688 9.0 14.5 -5.5 1.21
2004 9,825,000 -0.50% 88,943 431 140,064 -3,136 -51,121 9.1 14.3 -5.2 1.25
2005 9,775,000 -0.51% 90,508 1,565 141,857 1,793 -51,349 9.3 14.5 -5.3 1.26
2006 9,732,000 -0.44% 96,721 6,213 138,426 -3,431 -41,705 9.9 14.2 -4.3 1.29
2007 9,702,000 -0.31% 103,626 6,905 132,993 -5,433 -29,367 10.7 13.7 -3.0 1.37
2008 9,592,000 -1.13% 107,876 4,250 133,879 886 -26,003 11.2 14.0 -2.7 1.43
2009 9,487,000 -1.09% 109,813 1,937 135,056 1,177 -25,243 11.6 14.2 -2.7 1.49
2010 9,481,000 -0.06% 108,123 -1,690 137,305 2,249 -29,182 11.4 14.5 -3.1 1.47
2011 - - - - - - - - - - -

註1 1950年から1959年は全て推定

 チェルノブイリ事故後8年で異変

 まず人口から見てみよう。ベラルーシは旧ソ連時代の1960年には、第二次世界大戦の傷手から順調に回復し800万人台に達していた。60年代以降も順調に人口は伸び続け、ちょうどチェルノブイリ原発事故の発生した1986年には1000万人に達した。四半世紀の間に、200万人、約25%の伸びを示したことになる。ウクライナも全く同じ期間を取ってみると約4247万人から約5114万人に増加しており、その伸びは約20.4%になる。その①「ウクライナの人口統計」参照の事

 ベラルーシで異変が起こるのは、やはりウクライナ同様チェルノブイリ事故8年後の1994年で、この年はじめて対前年比-0.13%と人口が減少した。ベラルーシで人口が減少するのは、確実な統計が存在する1960年以降はじめてのことである。ただし、その徴候はすでに事故翌年の1987年にはあらわれていた。

 というのは、それまでほぼ、+0.5%以上の対前年人口増加を見せていたベラルーシは、事故翌々年の88年には+0.33%増加と増加の勢いが鈍ったからである。89年は+0.27%、独立宣言を行った90年には+0.19%、ソ連が崩壊しベラルーシの独立が承認された91年には+0.04%、その翌年の92年、次の93年にはそれぞれ+0.23%と回復したかに見えたが、前述のように94年に人口成長マイナスに突入し、その後一度も人口増をみせていない。

 この原因は主として「出産の激減」と「死亡の激増」のダブルパンチを受けたものだ。ベラルーシの「出産」は、1960年代に入ると下降局面に入り1969年には年間14万2652人と底を迎える。1970年代からは上昇局面に転じ、事故の起きた86年までには16万人から17万人台にまで回復していた。

 チェルノブイリ事故による放射線の健康影響を調査して多くの研究科発表を行ったベラルーシのユーリ・バンダシェフスキー(英語表記は“Yury Bandazhevsky”または“Yuri Bandazhevsky”。後述)は「チェルノブイリ事故による放射性物質で汚染されたベラルーシの諸地域における非がん性疾患」(Non-cancer illnesses and conditions in areas of Belarus contaminated by radioactivity from the Chernobyl Accident: Prof. Yuri Bandashevsky)と題する論文のプロシーディングの中で次のように述べている。
(<http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/09/non-cancer-illnesses-and-conditions-in.html>)

 『  ・・・なによりもまずソ連による核実験について考える必要がある。

1960年以降、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア、ウクライナ、ロシアにまたがる広汎な範囲が放射性物質で汚染されたのがその直接的な影響である。これらの国に住む人々は放射性物質があることに関して何の情報を持っていなかったので、当然その影響から身を守ることができなかった。

・・・チェルノブイリ事故が起きる前の1960年代、セシウム137のレベルは非常に高かったが、1963年に大気圏核実験が禁止された後は着実に減っていった』
(翻訳:田中泉 翻訳協力:松崎道幸)

 このバンダシェフスキーの見解を先ほどのベラルーシの人口統計に重ね合わせて見ると、1960年代、ベラルーシの「出産」と「死亡」が悪化していったのはソ連による大気圏核実験の影響と見ることができる。70年代から80年代にかけて回復傾向に入っていったのは、1963年の大気圏核実験禁止の影響だということになる。(ウクライナの人口統計もほぼ同じ傾向を示している)

 つまりソ連による大気圏核実験の影響から立ち直ろうとしていたその矢先、チェルノブイリ事故の影響をもろに受け、ベラルーシ・ウクライナは人口統計学上の大惨事に直面することになった。

 ウクライナと酷似するベラルーシ

 ベラルーシの「人口増減」、「出産」、「死亡」を一つのグラフにしてみると次のようになる。



 このグラフは、その①でしめした「ウクライナの人口増減」グラフにあまりにも酷似していることが理解されよう。




 またベラルーシとウクライナの1960年代以降の総人口増減の推移を同じグラフ上でたどってみると、縦軸の人口数が違うだけで、カーブはほぼ同じ曲線をたどっていることがわかる。


 つまりこの両国はほぼ同じ要因で、人口が増減していることがわかる。その要因とはとりもなおさず、チェルノブイリ事故の放射線影響だろう。

 ここで引用した英語Wikipedia“Demographics of Belarus”(ベラルーシの人口統計)は、この要因をどのように説明しているのだろうか?

 英語Wikipedia“Demographics of Ukraine”(ウクライナの人口統計)同様、これほど異様な人口変動であるにも関わらず、チェルノブイリ事故の放射性降下物の影響には全くふれていないのだ。

 同項目「人口統計上の傾向」(Demographic trends)は次のように説明している。

 ベラルーシの人口は第二次世界大戦中、900万人以上(1940年)から770万人(1951年)という人口減少に苦しんだ。ベラルーシはそれから再び上昇基調をたどり1999年に1000万人に達した。』

 
 ここまでの記述は、1999年のベラルーシ国勢調査報告を引用して記述されている。第二次世界大戦中、大きな人口減少を経験したのはなにもベラルーシだけではない。特にベラルーシは対独戦争の影響をもろに受け、民間人の戦死者がもっとも大きかった国(地域)の一つであり、その上それまで白ロシア人に次いで第二の人口構成を占めていたユダヤ人がナチスのホロコーストのためにかき消すようにいなくなってしまったのだから、人口減に苦しんだのは当然のことである。問題はそこではない。問題は1986年、チェルノブイリ事故の年、人口1000万人に達した後のことである。数字の推移を見ないで、この記述だけ見れば人口1000万人に達したのは1999年であるかのように読めるが、1000万人に達したのは、86年である。その後1993年に1024万人に達してからは、徐々に下がりはじめ、2000年の1000万5000人を最後に坂道を転げ落ちるように人口は急減少するのである。

 英語Wikipediaの記述を続ける。

 その後(1999年以降)、人口は確実に下降線をたどりはじめ、2006年から2007年には970万人となった。』

 ここは今度はベラルーシ共和国政府の「国家統計委員会」(National Statistical Committee of the Republic of Belarus)の記述を引用して書かれてあるのだが、実際にはその後も人口は下がり続け、2010年には750万人を切っていることは、先の「ベラルーシの人口統計」でも見たとおりだ。つまり93年をピークに下がり続けていることの説明は全くないのだ。

 もともとは、ベラルーシは農村地域の人口が全体のほぼ80%という農業国家だったが、継続して都市化のプロセスが進行中である。1959年に70%だった農村地域人口は、2000年代には30%以下となった。』

 と今度は2007年に発表された“Statistical Yearbook of the Republic of Belarus 2007”を引用して説明している。

 また、ベラルーシの人口減少は、ウクライナほど大問題にされていない。ウクライナでは大問題とされているエイズ問題もベラルーシでは大きな社会問題とされていない。

 にも関わらず、ベラルーシとウクライナは、前述の如く双子の兄弟のようにウリ二つの人口変遷をたどっている。その説明は「西側国際社会」の中にはなかなか見いだせない。

 国土の1/4が汚染されたベラルーシ

 ベラルーシにはウクライナで見られたような、チェルノブイリ原発を中心にした同心円状の「人口減少の盆地」は見られるだろうか?



 上記の図は、「ベラルーシの地域別人口変遷 1970-1989年」である。この間ベラルーシは毎年0.5%~1.0%の間で一本調子に人口増加を見せている。例外はチェルノブイリ事故の起こった翌々年からの88年、89年である。前述の如く、この2年間は人口増加をみせたものの、それぞれ増加率0.5%を下回った。(下図「ベラルーシの対前年人口増減の変遷 1960年-2010年」を参照のこと)



下記の図はベラルーシの主要都市の位置図と人口である。 


1. ミンスク Minsk, Miensk 164万6400人
2. ホメリ(ゴメリ) Homiel, Homel, Gomel 48万9400人
3. マヒリョウ Mahiloŭ, Mahilyow, Mogilyov 35万9700人
4. ビテブスク Viciebsk, Vitsebsk, Vitebsk 35万3300人
5. フロドナ Hrodna (Hóradnia, Haródnia), Grodno 31万3700人
6. ブレスト Brest, Bieraście 28万9800人
7. バブルイスク Babrujsk, Babruysk, Bobruysk 22万6900人
8. バラーナヴィチ Baranaviči, Baranavichy 17万5600人
9. ボリソフ(バリサウ) Barysaŭ, Barysau 15万4900人
10. ピンスク Pinsk 13万5400人
11. マズィル Mazyr、Mozyr 11万1770人(2004年)

(上記人口は日本語Wikipedia「ベラルーシの都市の一覧」を参照した)

 「ベラルーシの地域別人口変遷 1970-1989年」の図に「ベラルーシの主要都市」の図を重ね合わせてみると、英語Wikipediaの記述でいう「都市化現象」が進行したという記述は、おおむね該当しているところとそうでないところがある。

 首都でベラルーシ最大の都市、ミンスクやその周辺の地域は人口増加が10%以上、特にミンスクは50%以上の増加を見せており、都市化現象を裏付けている。ところが、第二の都市、ゴメリの地区は逆にわずかだが減少を見せている。この統計が70年から89年とちょうどチェルノブイリ原発事故の86年をまたいでいるため、この図からはチェルノブイリ事故の影響なのかどうかは判然としない。ただここでは都市化現象は起きなかったようだ。

 第3の都市、マヒリョウとその周辺も、都市化現象どころか人口は大きく落ち込んでいる。北部の都市、ビテブスク、ボラツク、ノヴォボロックも減少地域だ。しかしこれらはもともと農村地帯であり、人口がミンスク都市圏に流入していったのかも知れない。

 しかし全体としていえばこの期間は首都ミンスクを中心に都市化現象が進行していった、とは言えるのかも知れない。



 上記の図は1999年から2009年までの地域別人口変動である。全体的に「都市化現象が進行し、ミンスク首都圏に人口が集中したのだとも見える。特に中央部から北部にかけての人口減少が著しい。

 結論としていえば、ベラルーシにはウクライナで見られたようなチェルノブイリ原発を中心にした同心円状の「人口減少の盆地」は見いだせない。

 しかし、これはまた、ベラルーシ全体がチェルノブイリ事故による放射線汚染をこうむったためだとも考えられる。というのは、主として西側先進国(核推進国)が主導権を握る国連ですら次のように報告しているからだ。(<http://www.un.org/ha/chernobyl/belarus.html>)

 これは国連の「国連とチェルノブイリ」(The United Nations and Chernobyl)というサイトの「ベラルーシ」を扱ったページからの引用だ。

 チェルノブイリの惨事は、人口1040万人の東欧の一小国であるベラルーシに大きな衝撃を与えた。

 チェルノブイリ事故による全放射性降下物(フォール・アウト)の70%はベラルーシの国土のほぼ1/4の地域に降下した。

(国際的な科学者によるNGO「環境問題に関する科学委員会」-Scientific Committee on Problems of the Environments-によれば、チェルノブイリ事故では、セシウム137は8万9000テラ(兆)ベクレル、セシウム134は4万8000テラベクレル、ストロンチウム90は7400テラベクレル、ヨウソ131は1300万テラベクレル、放出したという。-「SCOPE 50 Radioecology after Chernobyl - Biogeochemical Pathways of Artificial Radionuclides」<http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ed071pA23.5>)

 この降下物は220万人以上の人々(子ども50万人を含む)に影響を与えた。事故の直後ただちに国際連合システムの各組織はこれら大量の放射線被曝に対して緊急援助の道を模索した。国際連合システムは依然としてベラルーシの長期にわたる事故の影響に関する取り扱いに積極的に関わっている。

(国連、IAEAをはじめ国際社会がチェルノブイリ事故救援にただちに立ち向かった、とは言い難い。というのは最大の救援は、事故の実態と健康障害に関する長期的見通しを明らかにして、人々の慢性的な低線量被曝を最小化することだったのにも関わらず、国連システムをはじめ西側国際社会は適切な手を打ってこなかった。現在でも基本的にはそうである。最大の問題はICRPの勧告を全面的に受け入れて、健康障害はほぼ“がん”である、としているところにある。実際には後で見るように広範囲で深刻な健康障害が現れている。)
  
  しかし、国際社会の提供する支援にも関わらず、この地域は依然として今日もチェルノブイリの結果に苦しんでいる』

 『  ベラルーシでは、農地の20%、森林の23%が放射線核種(うちもっとも大量で半減期間が長いのはセシウム137である)によって汚染されている。国連システムの組織は土壌の中のセシウム137を低減するため、セシウム・バインダー(放射性セシウム結合剤-一般的にはプルシャンブルーが使われる)に投資した。(その他菜種を植えたりして農地の除染を図ったりしたが、結局一部の大きな農業企業だけがこうしたコストのかかる方法を取ることができ、一般の農家は汚染された食品を消費したのである)

 この国連の記述にもあるように、ベラルーシはほぼ全土が濃淡の差はあるものの、汚染されたと考えることができる。


 1999年に厳しい放射線汚染食品制限

 さてウクライナでは、総人口減少に歯止めはかかってはいないものの、明るい兆しがあることを見ておいた。それは、1986年チェルノブイリ事故発生以来、下がり続けだった「生児出生」に歯止めがかかり、2002年には上昇に転じはじめたことだ。その後、2005年と2010年の2回を除けば、対前年比増を示している。

 また「死亡」は、事故が起きた86年には56万5150人だったが、事故の翌年からゆっくり増加し始め、その後増減はあるものの、2005年には78万1964人に達する。(死亡のピークは1995年の79万2587人)

 しかし、2006年以降は緩やかに下降線をたどりはじめ、2010年には69万8235人と実に1992年以来の60万人台に回復するのである。「死亡」に歯止めがかかったのかどうかは2011年以降の推移を見てみなければならないが、最初に「生児出生」に歯止めがかかり、それから4-5年遅れて「死亡」に歯止めがかかりはじめた、だから依然として人口は減り続けているが、やがてプラスに転じるだろう、という見通しがある。

 その徴候はすでに現れていて、2009年からは対前年比-0.4%と減少には違いないが、減少率は-0.5%を切っているのである。
(その①のウクライナの人口統計を参照のこと)

 こうしたウクライナの現象は、1997年6月に実施した厳しい食品放射線汚染制限(例えば飲料水:セシウム137 1リットルあたり2ベクレルなど)の効果が大きいのではないか、としたが、実はベラルーシでも同じことが言える。

 1991年のソ連崩壊・ベラルーシ独立(宣言は1990年)までは、ベラルーシもウクライナ同様、旧ソ連政府が決めていた食品放射線汚染基準に従わざるを得なかった。しかしそれでは、ベラルーシ国民の安全を守れず、「出生」、「死亡」は悪化の一途をたどり、従って総人口も減少し続けた。

 ベラルーシが独自基準を設けるのは独立後の1999年4月26日のことである。ウクライナの遅れること2年であった。一つには「ヨーロッパ最後の独裁者」といわれるアレクサンドル・ルカシェンコ政権の影響もあっただろうと思われる。

 しかし、旧ソ連時代と違って、99年4月26日の規制は画期的だった。セシウム137に例を取ってその制限値を見てみると。(いずれも1リットルまたは1kgあたり)

飲料水  10ベクレル
牛乳、乳製品  100ベクレル
チーズ  50ベクレル
バター  100ベクレル
パン・パン菓子類  40ベクレル
野菜・畑野菜  100ベクレル
くだもの  40ベクレル
乳幼児用食品  37ベクレル


 毎日大量に摂取する飲料水が10ベクレル(ウクライナの2ベクレルと比較するとまだまだ不十分だが)、はじめて設定した乳幼児用食品の37ベクレルなどが特徴的である。
(以上ベラルーシの放射能汚染食品制限値データの出典は『フードウオッチ・レポート』の「あらかじめ計算された放射線による死:EUと日本の食品放射能汚染制限値」の付属文書1「ベラルーシにおける食品と飲料水のセシウム137とストロンチウム90の制限値」-2011年9月ベルリン-による)

 この制限値設定とベラルーシの人口増減表を重ね合わせてみると面白い結果となる。



 ほぼウクライナと同様な推移を見せるのである。こうしてみると、放射性物質の空中線量を下げる努力と共に、食品放射線汚染をいかに抑えるかが、極めて重要なことになるかがわかるだろう。



 しかし、ウクライナにしてもベラルーシにしても、黙っていてこうした厳しい食品放射線規制値が実現したのではなかった。旧ソ連でも、ウクライナでも、ベラルーシでも、アメリカでも、イギリスでも、そして日本でも、権力を握る側はどこも「核推進派」である。「核推進派」は、市民の健康や安全を犠牲にしてでも、「被曝の受忍」を迫り、被曝を押しつける。そして健康障害が出ても、「いやそれは放射線の影響だという証拠はない」とうそぶき、シラをきる。

 従ってこうした厳しい「食品放射線汚染制限値」を認めさせ、実施させるにはどこの国でも良心的な科学者と一般市民の共闘があった。彼らが低線量放射線被曝がいかに健康に害があり、特に乳幼児と子どもの命を奪い、その健康を損なっているかを立証したのだった。

 その実態と低線量被曝の危険を、特にわかりやすいベラルーシの例をとって次回は見てみよう。

(以下その③へ)