2012.1.8





 ユーリ・バンダシェフスキー(バンダジェフスキー)

 1986年4月のチェルノブイリ原発事故後7-8年経て、ウクライナとベラルーシは激しい人口の自然減に見舞われた。その要因は「出生」(生児出生)の急激な減少と「死亡」の急増だった。「人口統計学上の大惨事」といわれるゆえんである。その人口変動のカーブは驚くほどよく似ている。



 両国とも旧ソ連政府の放射線汚染食品の制限値を採用して、放射線保護食品行政にあたったが事実上汚染食品制限はないも同様だった。1991年のソ連崩壊後、ウクライナとベラルーシは独自の放射線食品保護行政を採用することができ、ウクライナは1997年、ベラルーシは99年に、画期的な制限値(特に毎日大量に摂取する飲料水)を持つ放射線汚染食品制限を実施した。

 一つの国の人口変動を「放射線汚染食品」の1点から眺めるのは危険なことではあるが、チェルノブイリ事故から放出された「死の灰」(放射性物質フォールアウト)をもろに受けた両国の事情はあまりにもよく似ており、「死の灰」が共通の大きな要因の一つであることほぼ間違いない。

 抜本的な食品規制から、ほぼ4-5年して「出生」に歯止めがかかり、10年近く経って「死亡」に歯止めがかかるかのようになった。両国とも人口減少傾向に歯止めがかかった状態とは言えないが、その減少傾向だけを見ると歯止めがかかりつつあるように見える。

 しかし、ウクライナ、ベラルーシ政府も自ら進んでこうした厳しい「放射線汚染食品」制限をもうけたわけではない。一部の良心的科学者と自らの健康と安全を守ろうとする多くの市民が、放射線の低線量被曝の危険、特に食品摂取を通じての危険を明らかにし、「核推進」に固執する政府に迫って、「放射線汚染食品」の厳しい制限を実現させた。(その意味では核推進勢力はいまだに強力であり、これら制限もまだ十分とは言い難い。)

 そうした実情をベラルーシに例をとってみてみよう、というところまでが前回の流れだった。

 ベラルーシでチェルノブイリ事故による放射性降下物から受ける低線量被曝の危険についてもっとも優れた研究をし、警鐘を鳴らし続けたのは、ユーリ・バンダシェフスキーとそのチームだった。

 バンダシェフスキーについて日本語Wikipedia「ユーリ・バンダジェフスキー」は優れた記述をしている。(「バンダジェフスキー」、と濁るのが正解のようだが、ここでは「バンダシェフスキー」と表記する)

  死の灰に覆われたゴメリ地方

 日本語Wikipediaの記述を引用する。

 『  ユーリ・バンダジェフスキー(Yury Bandazhevsky) (ベラルーシ語: Юрый ндажэўскі / Juryj Bandažeŭski, ロシア語: Юрий Иванович Бандажевский / Yuri Ivanovich Bandazhevski、1957年1月9日- )は医師・病理解剖学者。ゴメリ医科大学初代学長。チェルノブイリ原発事故の影響を調べるために、被曝した人体や動物の病理解剖を行い、体内臓器のセシウム137などの放射性同位元素を測定する研究を行った。』

 ゴメリ地方は、チェルノブイリ事故でもっとも放射性降下物の影響を被った地域である。下図がベラルーシの主要都位置図である。

 べラルーシは、首都のミンスクの他6つの行政区分に分かれている。ホメリ州はチェルノブイリ原発にもっとも近い州である。(「ホメリ」と表記するのが正しいようであるが「ゴメリ」と表記する。)ゴメリはゴメリ(ホメリ)州の州都であり、首都ミンスク(人口;約165万人)に次いで第二番目の都市(人口:約49万人)である。



 チェルノブイリ原発からの死の灰は特にこのゴメリ州をおそった。

 下記の表は2006年にIAEAが発表した「セシウム137によるヨーロッパ国別汚染状況」の表である。IAEAの表なので、頭から信用はできないが、それでもベラルーシの汚染がもっとも深刻でかつロシアと並んで広範囲だったことがわかるだろう。

 チェルノブイリ事故によるヨーロッパのセシウム137の汚染状況
 
IAEAが2006年に公表した報告書「チェルノブイリ事故の環境への結果と改善:20年の経験」(”Environmental Consequences of the Chernobyl Accidentand their Remediation:Twenty Years of Experience”)による。
 セシウム137によるヨーロッパ国別汚染状況(km2
汚染国 1平方メールあたりのセシウム137汚染とその面積
37-185 kBq/m2 185-555 kBq/m2 555-1480 kBq/m2 1480 kBq/m2以上
ベラルーシ 29,900km2 10,200km2 4,200km2 2,200km2
ウクライナ 37,200km2 3,200km2 900km2 600km2
ロシア 49,800km2 5,700km2 2,100km2 300km2
スエーデン 12,000km2 - - -
フィンランド 11,500km2 - - -
オーストリア 8,600km2 - - -
ノルウエイ 5,200km2 - - -
ブルガリア 4,800km2 - - -
スイス 1,300km2 - - -
ギリシャ 1,200km2 - - -
スロベニア 300km2 - - -
イタリア 300km2 - - -
モルドバ 200km2 - - -
合 計 162,160km2 19,100km2 7,200m2 3,100km2
 *ちなみに日本の面積は約370,000km2、福島県の面積は13,783km2である。

 また下図は、チェルノブイリ事故から10年後の1996年時点におけるセシウム137の汚染状況である。(英語Wikipedia“Chernobyl disaster”(チェルノブイリ大惨事)から引用して加工)


(クリックすると大きな画像でご覧いただけます)

 ベラルーシのゴメリ地方がいかにチェルノブイリ事故による放射性降下物によって長く、また広く深く汚染されたかわかるであろう。


 核論争」を報道するスイステレビ
 
 日本語Wikipedia「ユーリ・バンダジェフスキー」の記述を続けよう。

 1980年、国立フロドナ医科大学を卒業、臨床研修を終え病理解剖学の専門家となる。1989年、ベラルーシの中央科学研究所所長(The Central Laboratory of Scientific Research)に就任。ベラルーシコムソモール賞、アルバート・シュバイツァーのゴールドメダル賞、ポーランド医学アカデミーのゴールドスター賞を授与される。1990年、ゴメリ(Gomel)医科大学を創設、初代学長・病理学部長を務める。』

 1990年といえば、ベラルーシがソ連からの独立を宣言した年だ。翌91年、ソ連が崩壊ベラルーシの独立は承認された。ベラルーシの人口は対前年比0.5%以下ではあったが辛うじて増加していた。しかしすでに生児出生は、89年15万3449人、90年14万2167人、91年13万2045人と激しく落ち込みを見せた時だ。以後ベラルーシの出生は今に至るも11万人台を回復していない。

 ゴメリ医科大学では1986年のチェルノブイリ原発事故以来、セシウム137の人体への影響を明らかにするために、被曝して死亡した患者の病理解剖と臓器別の放射線測定や、放射能汚染地域住民の大規模な健康調査、汚染食料を用いた動物飼育実験、などの研究に取り組む。』

 日本語ウィキペディアのこの部分の記述には、註が打ってあり、その註には「スイステレビ「Nuclear Controvesy(核論争)」2004年放送。動画6分00秒でバンダジェフスキーの場面(英語字幕)」http://www.youtube.com/watch?v=LqHjfyT5Dmkと記載されている。先ほども見たようにスイスもまた、チェルノブイリ事故で放射性降下物が大量に降りており、「原発と放射線」に対する関心も高い。原発からの全面撤退も決定した。どうもこれは2004年放送のドキュメンタリー番組らしい。(2004年放送とするとつじつまの合わないところが出てくるが・・・)

 横道にそれるようだが(決してそれていないのだが)、このビデオをのぞいておこう。

 
 
 このシーンは、WHOが2001年6月4日に、ウクライナの首都キエフで開催した「チェルノブイリ原発事故による人体への影響に関する国際シンポジウム」の一こまである。

(左の写真はN.ゲントナー。前出スイステレビのドキュメンタリーからコピー。なお著作権はスイステレビに属しており、使用自由のサイトからの引用ではない。私は正確には著作権違反を犯している。以下同じ。)

 冒頭プレゼンテーションをしているのは、「原子放射線の人体に対する影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR)のN. ゲントナー(N. Gentner)という人物である。UNSCEARはIAEAや全米科学アカデミー、イギリス放射線防護審議会と並んでICRP派の牙城である。WHOはもちろんIAEAに従属している。

 アレクセイ・ヤーブロコフ

 ゲントナーは、(チェルノブイリ)事故とがんや白血病との増加には明白な科学的証拠は見いだせない、と云う内容の話をしている。このゲントナーの話を、白いあごひげを蓄えた顎を突き出すようにして憮然とした表情で聞いているのは、ロシアの科学者アレクセイ・ヤーブロコフ(Alexey V. Yablokov)だ。ヤーブロコフは欧州放射線リスク委員会(ECRR)の2010年勧告の編集委員にも名前を連ねている。

 ゲントナーのプレゼンの後、今の話を聞いて「ショッキングだ、ショッキングだ」というヤーブロコフが画面に登場する。
(左の写真はゲントナーの発表を聞いて憤慨するヤーブロコフ)

 「何故?」という質問にヤーブロコフは、
  客観的でないデータに基づく信頼性に欠けるプレゼンテーションだ』
と断ずる。
  (事故のため起こってきた)結果を軽減しなければならないのに、彼らはできるだけ使うお金をけちりたいのだ。だから全ての研究が彼ら(ICRP派の学者)が信ずるよりもさらに悪い結論を示している。そうした結論は(受け入れを)拒否されているのだが、彼らはさほど(チェルノブイリ事故の影響は)深刻ではないとのレッテルを貼っている。』

 スイステレビのインタビューに答える形で、ヤーブロコフはさらに続ける。

  私を恐怖させているのは、こうしたプレゼン(たとえばゲントナーのプレゼン)が科学的結論に基づくと、大っぴらにいわれていることだ。実際の話がそうした主張や結論は科学的でも何でもない。』

 ここで突然画面が切り替わり、どこかスラブ風の農家のおばあさんが登場する。スイステレビのインタビュアがこのおばあさんに「放射能は問題ではありませんか?」と水を向ける。

 おばあさんは―。

  それはわからないよ。見えないからねぇ。』

 インタビュアは、「放射能は健康にいいという人もいますがね。」と聞いて寡黙なおばあさんから話を引き出そうとする。

  年取った人にはそうかもしれないねぇ。今死んでいる人は若い人や中年の人だと、みんなが云っているよ。年寄りは生き残っているね。』

(子どもたちについて話すスラブ風のおばあさん)

 「子どもたちについてはどうですか?」とインタビュア。それには直接おばあさんは答えず、

  訪ねてきた子がいてねぇ。』
「何か訴えていましたか?」
  うん。ここらへん(と喉のあたりを示す)に何かできていたよ』
  このあたりの通りは前は10人くらいの子どもがいてね。あたりはうるさくて。放射能の前だよ。でも今は・・・。この近所に8人子どもがいてね。みんな寝込みがち。前みたいな(元気な)子はいないね。』
(前は)そこら中走り回っていてね、氷の上を滑ったもんだ。今は子どもたちは横に寝ているか、ただじっとすわっている・・・』


 IAEAのイデオロギー

 ここでまた画面は切り替わって、先ほどの科学者会議の場面。今度はヤーブロコフのプレゼンの番らしい。マイクをもつヤーブロコフ。

  チェルノブイリの事故の後即座にIAEAがチェルノブイリの被害者のために何か積極的に取り組んだとは理解していません。その理由もわかっています。私はブリックス事務局長に面会しました。』

 ブリックス博士というのは当時IAEAの事務局長だったスエーデンのハンス・ブリックスのことである。チェルノブイリ事故後の86年8月、IAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァレリー・レガソフ(後に自殺)は、当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして会議では4000人と結論された。この時の会議を主導したのがブリックスである。

 広島原爆の被害は、一切内部被曝を無視して算定されているのでそれ自体が過小評価である。その過小評価に基づいてレガソフとソ連政府は4万人と推定したのだが、当時核推進派が完全に主導権を握っていたIAEA(いまでもそうだが)は、それをさらに1/10に値切った。IAEAは意図的に2重の過小評価をおこなったわけだ。

 『 この数字がIAEAの公式見解となった。ミハイル・ゴルバチョフはレガソフにIAEAに全てを報告するように命じていたが、彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4000人という数字が踏襲され公式発表された』

と日本語Wikipedia「チェルノブイリ原発事故の影響」は記述している。
(なおここの記述はIAEAが2005年に発表した「Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-Economic Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus,the Russian Federation and Ukraine」という報告書に基づいている)


 さてヤーブロコフのプレゼンを続けよう。

  (ブリックス)はチェルノブイリ事故の直後ただちに宣言いたしました。「原子力産業は毎年チェルノブイリ事故のような破滅的状況を迎えうる」と。これこそがチェルノブイリ事故に関するIAEAのイデオロギーなのです。これは政治的結論です。チェルノブイリ事故の明白な影響を考えようともしない各国政府代表者の結論でもあります。』

 ここでスイステレビのナレーションが入る。

 「ロシア連邦科学アカデミーの中央環境科学会議の議長である環境学者のアレクセイ・ヤーブロコフは、世界の原子力産業からの核廃棄物を喜んで受け入れようとするプーチン政権に強く反対しました。」
(なお日本語Wikipedia「アレクセイ・ヤブロコフ」と表記しているが、スイステレビのナレーターは「ヤーブロコフ」と発音しており、またECRR2010年勧告の編集委員のリストにも「アレクセイ・ヤーブロコフ」と表記している。私もそれに従う。)



 会議に出席できなかったバンダシェフスキー

 再びヤーブロコフ。

 『ここに取り返しのつかないほど歪められた公式発表のデータがあります。』とIAEAの発表した公式数字をOHPで提示する仕草。

  2年前のことですが、(ロシア)連邦統計委員会のリーダーたちが、データを歪めたという理由で逮捕されたことを知っていますか?』

  国連科学委員会(UNSCEAR)は知っているのです。彼らは(国連科学委員会やIAEAの)データが歪められていることを知っているのです。彼らはチェルノブイリ事故がさほど深刻なものではないと主張するために(歪められた)データを使っているのです。』
チェルノブイリ事故では遺伝的影響はないとしています。しかし遺伝的影響は実際には最悪です。真面目な科学者による数千ものデータが真面目な紙誌で公表されています。』

  そしてもうひとつ興味深い実例があります。今日ユーリ・バンダシェフスキーは裁かれました。』

 日本語ウィキ「ユーリ・バンダジェフスキー」は次のように記述している。

 『 1999年、ベラルーシ政府当局により、ゴメリ医科大学の受験者の家族から賄賂を受け取った容疑で逮捕・拘留された。バンダジェフスキーの弁護士は、警察によって強要された2人の証言以外に何ら証拠がないと無罪を主張したが、2001年6月18日、裁判で求刑9年・懲役8年の実刑判決を受けた』

 ヤーブロコフ。

  検察は9年の懲役を求刑しました。私はこの会議は、彼のためにメッセージを法廷に送るべきだと思います。』

 そしてバンダシェフスキーの研究をスクリーンに表示しながら、

  バンダシェフスキーは、予測できない死、突然死が、各放射線核種の合わさった量に相互連関していることを示しました。もしこのデータが確証されるならば、この破局(チェルノブイリ事故のこと)の結論に加えるべきだと私は思うのです。』


 「子どもたちは死につつある」

 ここで突然画面が変わる。画面中央に一人の男のシルエットが浮かんで、その男の独白が画面にかぶる。

  私はいつ爆発してもおかしくない爆薬の樽の上に座っているようなものだ。全く何が起こるか予測のできない状況の中で、また全く予測のつかない時の流れの中で。』

(画面に登場するシルエットの男と独白)

 画面に、チェルノブイリ事故で汚染された地域の研究を9年間続けた後、バンダシェフスキー教授は低レベルで汚染された食物が生命器官を破壊することを突き止めた、という意味合いのナレーションがかぶる。そこでテロップとともにこのシルエットの人物がユーリ・バンダシェフスキーその人であることがわかる。彼は「病理学者」と紹介されている。
 
 さらにナレーションは、放射線の影響が不可逆的な段階に至ると突然死することがある、子どもでも例外ではない、この結果を発表した後、政府から激しい非難を浴び、投獄された、という内容に続く。バンダシェフスキーの奥さんは次のように説明する。奥さんのガリーナも小児科医である。

(バンダシェフスキー夫人のガリーナ)

  心臓病変と放射線核種の合計量との間に相互関連があることを私たちが発見した時、私たちの家庭の中で激しい葛藤がありました。私はこのような(従来の説に対する)変更を受け入れませんでした。』

それは発見だったのです。私たちは以前には知られていなかった、何か新しいことを発見したのです。私はこの発見に恐くなりました。でもこれは科学者の業績なのです!そうです。業績です。しかし、放射線の影響についてあまり多くを語るな、と言う人がここにいました。』

 ここでバンダジェフスキーがたまらなくなったように口を挟む。

  常なる相互関係を見いだした時が科学なのです。(Science is when one find a constant correlation)パラメータ(変数要因)がどうあろうともです。(現実は)論理に従います。』

 「原因を探索すること?」とスイステレビのインタビュア。

  原因と影響との間のリンク、これこそそれです。あるパラメータ群はすでに既知のことかも知れません。しかしその複合、相互関係、これこそ科学です。私にとってそれが最も重要なことです。私は逮捕されるまでこのために生きました。誰がそれを云おうが、人々は知っておくべきなのです!

バンダシェフスキー、バンダシェフスキー夫人、シドローフ、ペトローフ、私たちの子どもたちは死につつあるのです。』

 シドローフ、ペトローフはこのインタビューに同席している彼の子供たちだろう。「私たちの子どもたちは死につつあるのです」というバンダシェフスキーの言葉は、「フクシマ」という現実を前に、私にはとても切実に響く。
(子どもたちは、死につつあるのです、と語るバンダシェフスキー)


 「長期複合放射線核種症候群」

 バンダシェフスキーの逮捕、投獄に世界の良心的な科学者や市民は憤激した。そして国際世論を動かした。その結果ベラルーシのルカシェンコ政権(世界的な核推進勢力の支援を受けた。今ではアメリカのオバマ政権も形ばかりのルカシェンコ政権批判をするようになったが、それは形ばかりだ。それが証拠にルカシェンコ独裁政権は今も続いている)は、バンダシェフスキーを2005年8月5日に釈放せざるを得なかった。ただし5ヶ月の自宅軟禁という条件つきだった。

 だからこのスイステレビの取材は、釈放の直後、自宅軟禁中に行われたものだと思う。

 画面は再びキエフの国際シンポジウムのヤーブロコフのプレゼンのシーンに戻る。

  自発流産の増加、死亡の増加、疾病の数や弱々しい出産、遺伝的影響、先天的奇形、がんの発生の増加、不正常な知能発育、精神病疾患の増加、免疫システムの異常、ホルモン均衡の疾患、心臓血管系の疾病、異常に示される子どもたちの成長過程や異常なまでの疲労、病後回復の遅延や早い時期の老化現象・・・最低限、これらの(健康損傷の)リストは受け入れなければなりません。バンダシェフスキー、バンダシェフスキーその人は、「長期複合放射線核種症候群」(Long Term Incorporated Radionuclides Syndrome)と呼んでいます。全く新しい症候群です。これは現実なのです。これを拒否することなどどうしてできますか。これは科学です!こうした事実に口を閉ざしているとは正しくないと私には思えます。ご静聴ありがとうござました。』

 次に演壇に立つのはロシアの科学者・放射線生物学者、ヤルモネンコ(S. Yarmonenko)教授である。彼はこういう。

  ロシア放射線学界の名において、この国際組織(ここではWHOのことを指しているのであろう)に私は謝罪します。数多くの発表が、チェルノブイリ事故による健康影響を緩和するための支援となることを示しました。私は全く専門性に欠ける発表について反応を返しておきたいと思います。ヤーブロコフ氏の発表です。彼は放射線学者でもなければ、放射線生物学者でもありません。彼はあらゆる適格性を欠いております。私は・・・の仕事を評価するものであります・・・』

 ここで彼の演説は会場からの鋭い女性のヤジに中断される。そのヤジは「・・・・。誰がその演説に金を払っているの!」といっている。「ン?」と一瞬絶句するロシアの科学者。

  また将来において、(こうした国際組織が)成功を継続するものと希望します。ありがとうございました。』
(なおもしつこく続く女性のヤジ。カメラはその女性を追おうとするが、捉え切れない。傍聴席にいる女性のようだ)

 結局このロシアの科学者は予定された演者ではなく、これだけをいうための飛び入りだったようだ。(なおも続く女性のヤジ)

 反論するように再び演壇に立つヤーブロコフ。

  私はお答えしておかねばなりません。私は国際組織に反対するものではありません。私がここで今日述べたことを(その分析結果に)組み入れて欲しいのです。(全くその通りで、彼の発表は国際組織、ここではWHOよりもIAEAを強く意識した言い方だと思うが、に反論する内容ではなく、バンダシェフスキーの発表を支持する内容だった。バンダシェフスキーは逮捕・収監によってこのキエフのシンポジウムに来られないのだ)(その分析結果は)チェルノブイリ破局の実際の結果に十分目を配っていないのであります。ありがとうございました』

 不機嫌そうなヤルモネンコの映像が映る。ナレーションはヤルモネンコが、チェルノブイリ事故の後、さほど危険はないとして住民の避難を止めた人物、35ミリレム(350ミリシーベルト)まではこどもを含めて放射線の影響はないとした人物として紹介している。さしずめ、ロシアの山下教授、神谷教授といったところだろう。(ヤルモネンコは両教授より大物かな)


 ルカシェンコ政権と日本政府

 このスイステレビのドキュメントはこうした論争を紹介するのだが、明らかにヨーロッパではICRP学派に対する激しい批判と反撃が起こっている。かつては考えられないことだったが、反ICRP派の学説は徐々に欧州一部政府の放射線防護行政の中に取り込まれはじめてすらいる。

 この記事の「その①」や「その②」でも触れたウクライナやベラルーシの放射線汚染食品防護行政などはその端的な例であろう。
 
 さて再び日本語ウィキディア「ユーリ・バンダジェフスキー」の記述に戻ろう。

  (バンダシェフスキーの)この研究は、セシウムなどの放射性同位元素が体内に取り込まれたときの現象と病理学的プロセスを解明するとともに、旧ソ連時代からの放射線防護基準を改訂することに寄与した。

ゴメリ医科大学ではバンダジェフスキーの指導のもと、30の博士論文が作成され、200篇の文献が作成された。研究成果は、定期的にベラルーシ国内の新聞、ラジオ、テレビ、および国会で報告されていた。

1999年、ベラルーシ政府当局により、ゴメリ医科大学の受験者の家族から賄賂を受け取った容疑で逮捕・拘留された。バンダジェフスキーの弁護士は、警察によって強要された2人の証言以外に何ら証拠がないと無罪を主張したが、2001年6月18日、裁判で求刑9年・懲役8年の実刑判決を受けた。

大学副学長のウラジミール・ラブコフ(Vladimir Ravkov)も8年の実刑を受けている。

この裁判は政治的意図による冤罪だとして、海外の多くの人権保護団体がベラルーシ政府に抗議した。国際的な人権保護団体であるアムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は、「バンダジェフスキー博士の有罪判決は、博士のチェルノブイリ原発事故における医学研究と、被曝したゴメリ住民への対応に対するベラルーシ政府への批判に関連していると広く信じられている。」と発表。

実際にバンダジェフスキーの逮捕は彼がセシウムの医学的影響に関する研究論文を発表した直後に行われ、WHOが2001年6月4日にキエフで開催したチェルノブイリ原発事故による人体への影響に関する国際シンポジウムへの出席も不可能となった。

ベラルーシ政府は『(チェルノブイリ原発事故による)放射線は人体の健康にほとんど影響しない』という見解を現在でも堅持しており、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領(1994年より独裁体制)は「ベラルーシ国内農地の4分の1が放射能汚染を理由に放置されていることは認めがたいとして、バンダジェフスキーが逮捕された1999年に原発事故以来人々が避難していた汚染地への再入植を施政方針とした。』

 このルカシェンコ政権の対応は、なおも汚染されたフクシマに人々を縛り付け、除染を行って避難市民を呼び戻そうとする日本政府の対応とダブって見える。

 軟禁を解かれたバンダシェフスキーは出国が可能となり、

その後、フランスのクレルモンフェラン(Clermont-Ferrand)市長から招聘され、現地の大学や病院で研究や治療に携わった。クレルモンフェラン市は1977年からゴメリ市と姉妹都市の関係にある。フランスでは、環境保護NGOであるクリラッド(放射能調査および情報提供の独立委員会 CRIIRAD:Commission de recherche et d'information indépendantes sur la radioactivité)の学術指導を行い、また自身の研究をサポートされている。現在、ベラルーシを国外追放となり、ウクライナ・キエフ州のイヴァンキブ(Ivankiv)中央病院に勤務している。』


 コリン・コバヤシのメールとネステレンコ

 現在、フランスに在住している反原発・反被曝市民運動家のコリン・コバヤシは、このバンダシェフスキーを日本に呼んで、彼の研究成果を広く日本の市民に知らせようとしている。コバヤシの電子メールを引用する。<()内青字は私の註。>

 昨年の福島事故発生時からの流れを見ると(山下俊一教授を中心とした福島での専門家会議+国際ロビーの動きや、広島でのIAEA会議など)、今後の被曝問題の闘いは、これらの動きを根底的に批判し、内部被曝(低線量被曝)問題を、国内的にも国際的にもいかに公的に認知さ せることにかかっていると思われます。

 原子力産業は、国際的なロビーと結びついており、当然、核武装をしている安保理常任理事国、そして国連の諸機関(IAEA、UNSCEAR、WHO)やICRPと密接な結びつきを持っていることは、周知の事実ですが、何度繰り返しても繰り返しすぎることはないでしょう。

 (このことが)日本国内で認知されるためには、国際的なバリアーを取り除く必要があり、その圧力を排除する必要があります。

 そのためには、現在まだ進行しつつあるチェルノブイリによる被曝問題を明らかにする必要がありますし、国際的に低線量被曝問題に関わっている科学者、医者、専門家を結集する必要があります。』

『そのため、私は現在、ジュネーヴでWHOの(IAEAからの研究上の)独立を毎日のようにWHO本部前で訴えている<IndependentWHO>の活動家たち、またこのグループの世話人の一人でもあり、NPO<チェルノブイリ/ベラルーシ>の創設者でスイスの医学者ミッシェル・フェルネックスやその会の人たちと連携を進めており、彼らが20年来、連携関係にあるミンスクのベルラド研究所、ネステレンコ親子やユーリ・バンダジェフスキーと連絡を取り合っています。そして、バンダジェフスキーとフェルネックスの日本招聘を模索しています。日本で彼らの講演会を実現すること、彼らのやって来た研究成果を広く知ってもらうことが、低線量被曝問題の実相を理解する事に繋がると思います。

 しかも、これらの問題がなぜ、(ベラルーシ)現地で受け入れらなかったのかという政治的問題にもぶち当たります。

 バンダジェフスキーは、無実の罪を着せられ、逮捕され、ベラルーシ政府は彼の研究成果を葬り去ろうとしました。当時もっとも有名な原子力物理学者であったワシーリ・ネステレンコは、低線量被曝問題をチェルノブイリ事故以前から研究し始め、バンダジェフスキーの研究内容に真実を見て、共同作業を行い、全国に300以上の測定・治療センターを設け、ペクチンやその他の治療を行なって来ましたが、ワシーリ・ネステレンコは二度も暗殺されそうになり、また300以上のセンターは政府によって全て潰されたのです。それはルーカチェンコ政府が原発推進派であり、これらの事実が明るみに出ると、政府にとっては大きな障害になるとなされたからです。』

(写真はワシーリ・ネステレンコ。日本語ウィキ「ワシリー・ネステレンコ」からコピー)

 コリン・コバヤシのメール文中のワシーリ・ネステレンコもバンダシェフスキー同様、ベラルーシで反被曝に向けて闘った核物理学者で、ベラルーシ核エネルギー研究所の所長を務めた人である。2008年に亡くなった。日本語ウィキペディア「ワシリー・ネステレンコ」から引用する。

1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故後、政府当局に対抗して、住民の健康被害の防止に努めた。事故の実態調査をしようとすると、圧力がかけられ脅迫を受け、研究所の放射線モニタリング装置が没収されたこともあったという。1990年、民間のベラルーシ放射線安全研究所(ベルラド研究所)を設立、終生所長として放射能被害防止のための活動を続けた。』

 このネステレンコと前述のヤーブロコフが共同で2007年に発表した報告書が『チェルノブイリ――大惨事が人びとと環境におよぼした影響』である。「ヤーブロコフ・ネステレンコ報告」と呼ばれている。この報告は86年のチェルノブイリ事故発生から2004年までで、事故のために死亡した人は約100万人と推定している。(Webサイト「チェルノブイリ被害実態レポート翻訳プロジェクト」に詳しい)

 さて、バンダシェフスキーはどんな研究成果をえたのだろうか?それを次回に詳しく見てみることにする。

(以下その④へ)