(2011.7.6) | |||||||
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ | |||||||
放射能汚染は普遍的な人道犯罪−(下) |
|||||||
「費用−便益」分析 | |||||||
次に原子力産業がお得意とする「費用−便益」分析(cost-benefit analysis)についてみてみよう。 ECRRによれば、彼らの「費用−便益」分析には重大な問題があるという。 第1に。「費用−便益」分析を通じて原子力発電が最少費用で最大利益を生み出すエネルギー源であることを導き出すには、費用と便益とを正確に計量することが前提でなければならない。
従って環境に対する悪影響に関するコスト、また人の健康に対する否定的影響に対するコストは、原子力産業の「費用−便益」分析からは除外される。 福島原発事故のような過酷事故のケースでは、今まで隠されていた「コスト」が表面にあらわれる。農産物補償とか漁業補償とか、あるいは人体の放射線への影響に関するコストとかと言った形で。(廃炉にする費用や放射性汚染物を処理する費用は、この項目では考慮の範囲外である。それらは原発運営に係わる直接のコストだからだ。) しかしこれらは原発運営に伴う環境に関するコスト、人間の健康に関するコストの表面に現れたほんの一部のコストにすぎない。というのは原発は、事故を起こすか起こさないかにかかわらず、ICRPが限度内と称する放射性物質を排出し続け、従って環境を汚染し続け、人体や他の生体に悪影響を与え続け、すなわち環境を汚染し続けているからだ。こうしたコストは全く「費用−便益」分析には考慮に入っていない。 便益計算の問題。
「経済成長は継続されるべきだ」という仮定の中から、従って「エネルギー需要の増大は必然」という仮定が生まれ、そのエネルギーを生み出す原子力発電の便益は常に誇張されていると主張である。 この主張に対しては中国やアジアの経済新興国や中近東・アフリカのようにこれから経済発展をしようとしている国々からは反論があるかもしれない。というのはこれらの国々では、人々の生活水準はまだ低く、経済発展によって生活水準の向上を達成しようと考えており、経済発展は仮定の問題ではなく、政策的必然だからだ。したがってエネルギーに対する増大も仮定の問題ではなく、政策的必然の課題となる。 だからエネルギー増大の便益が常に誇張されがちになるのはやむをえない。 問題は、だから原子力発電が「費用−便益」効果に優れているという結論にジャンプするところにある。福島原発事故を見、それにかかるコストを総合的に勘案すると原発は、便益をいかに誇張して高く見積もろうとも、「費用−便益」効果に優れたエネルギー源であるかどうかは大いに疑問である。 |
|||||||
「費用」と「便益」の社会的配分 | |||||||
第2の問題。 「費用−便益」問題に関しては実は、こちらの方が大きな課題を持っている。それは「費用」を社会全体が公平に負担しているか、その便益を社会全体が公平に享受しているか、と云う問題である。いいかえれば、「費用」と「便益」の社会的配分の問題である。 ECRR勧告は、1983年に出されたある研究、それはアメリカの商業的危険施設(たとえば有害廃棄物処理施設など)の4つに3つはアフリカ系アメリカ人の居住地域にあり、4つに1つは、貧困地区にあったと云う研究だが、を引き合いに出しながら次のように云う。
「セラフィールドの白血病発生群」というのは、1957年10月、イギリスのセラフィールド施設(事故当時は「ウインズケール」Windscale施設、と云う名称だった。)で起こった原子炉火災事故で放射性物質放出のため発生した白血病群のことである。セラフィールドは北西イングランド、カンブリア郡にあるアイリッシュ海沿岸に面した場所にある。近くにシースケール村があり、この村で多くの白血病患者が発生した。事故と放射性障害については別記事にする予定だが、ここでは、イギリスの核施設(セラフィールドの歴史を調べてみると、当初は兵器級プルトニウム生産の軍事工場施設に、近隣のコルダー・ホールで原子力発電が開始され、その後核燃料再処理工場が加わる、といった経過をたどる。大規模な火災事故を起こしたのは兵器級プルトニウム製造のための黒鉛減速炉であり、現在も放射性物質の処理中で2035年に完了する予定としている。原子力発電は現在は行われておらず、現在は使用済み核燃料から、ウラン、プルトニウム、および他の核分裂物質を取り出す核再処理事業のみが継続されている。)が、日本同様イギリスの経済後進地域に作られ、そこでの雇用創出や地域経済振興と引き替えに、地域に放射性障害をまき散らすという、全く東電福島第一発電所と同じ図式が1957年のイギリスで起こっていることを確認するに止める。 従って、核施設に要するコスト(放射線障害による健康への被害は明白にコストである)は、社会全体が均等に負っているのではなく核施設のある地域が不当に負っているのである。 |
|||||||
再び「無知のヴェール」 | |||||||
ここで1つの議論が生まれるかもしれない。「核施設のある地域は健康障害というコストを負ったのは事実だが、それを不当というにはあたらない。その反対給付を受け取っているではないか。」と。 現実にそうである。セラフィールド施設の近くにあるシースケール村(当時人口2000−3000人だったという)の成人の多くは核施設で雇用されることで生計を立てていたと云うし、日本の多くの核施設もまた同様の状態だ。おまけに日本の場合は地元自治体に交付金などというおまけもついてくる。十分な反対給付を受けているではないか、という議論である。 しかし、この一見もっともらしい議論も、ロールズの使う「無知のヴェール」という概念を通して見ると、たちどころに成り立たなくなる。 核施設立地に賛成した人たちは、十分な情報を知らされた上で反対給付を受け入れたのか、つまりこの取り引きはフェア名取り引きだったのか。もし正しい情報を知らされていたなら、決してこの反対給付をうけいれはしなかったろう。 また、「無知のヴェール」は被せる側の責任と同時に被せられる側の責任もあぶり出してくれる。わずかな反対給付と引き替えにかけがえのない大切なものを差し出した側の責任だ。 福島原発事故に即して云えば、雇用と交付金と引き替えにかけがえのない環境と健康を差し出した東京電力福島第一発電所の立地を認めた地元の人たちの無知の責任だ。 この言い方は一見厳しいものに見えるかも知れない。しかし私はそうは思わない。責任は無知のヴェールを被せた側にあるのと同時に被せられた側にもある。福島地元の人たちの責任とは、とりもなおさず現在は事故に至っていない他の原発立地地域の地元の人たちが取るべき「無知の責任」である。そして私たち、無知のヴェールを被せられてきた日本人全体の責任でもある。 この問題を私は深刻な自己批判の上に立って扱っている。というのは私自身もこの無知のヴェールを被せられてきた人間の一人だからだ。原発は危険だと頭のどこかで思っていながら、積極的に自らこの無知のヴェールを払いのけようとせず、電力(エネルギー)が不足するのであれば、やむを得ないと消極的に容認してきた。 安全な生活環境と健康と引き替えに手に入れるのが、わずかばかりの電力だというのか。これはとても公平な取り引きとは言えない。失うものが余りにも多すぎる。無知のヴェールを剥ぎ取ろうとしている今の私は上記のように考えている。 積極的に原発を推進し、無知のヴェールを被せようとしてきた側の責任はまた別種である。だからといって無知のヴェールを被せられてきた側の責任がないわけではない。見方を変えれば、すなわち責任のとりようのない子供たち将来の日本人の立場に立ってみれば、無知のヴェールを被せられてきた側の責任は極めて大きいと云わざるを得ない。 私はヴェールを被せられてきた側がその責任を自覚するのとしないのでは大きな違いがあると思う。 というのは、被せる側は今でも懸命に無知のヴェールを私たちに被せようとしている。フクシマ事故直後、東京電力が原発再開を狙って計画停電なるものを実施した。明らかに新潟柏崎発電所の3つの原子炉再開をアピールしたものだった。今また関西電力が夏場の電力不足を口実に15%の節電を訴えている。いやなら原発を再開させろと云わんばかりだ。15%節電の根拠もよく読むと大いに怪しいのだが、それはともかく、「無知のヴェール」を被せられる側の責任を重く受け止めると、被せる側が使う詐術がよく見えてくる。 このように原発推進論者が主張する「原発による電力はコストが安い」といういいかたは、もはや通用しない。福島原発事故収束にかかる費用、たとえば原子炉廃棄費用、土壌安全化費用、核廃棄物処理費用などを考慮に入れなくても、放射能汚染による環境への影響、人体への影響、代替が不可能な資源、資産、財産に対するコスト(それは価格では絶対に表現できない価値である)を考えれば、原子力発電はとてつもなく高いものについているのである。 |
|||||||
放射能汚染には国境はない | |||||||
「費用−便益」問題に関してはもうひとつ大きな問題がある。それは他の環境問題同様、放射能の影響には国境はないが、「費用−便益」の問題には国境があると云う問題だ。 「費用−便益」で原発が得か損かの計算は、たとえば「セラフィールド」に例をとればあくまでイギリス国内の問題である。しかしアイリッシュ海の対岸は原発を持たないアイルランドである。またセラフィールドからの汚染は北海の到る処で発見されており、スカンジナビア諸国で問題になっている。
福島原発事故でもたらされた放射能汚染はほぼ日本列島の東半分を覆っている。ばかりでなくサハリン、沿海州諸地域、朝鮮半島も被害にあっている。私たちは「便益」(日本社会の電力供給)の観点ばかりでものを見ているが、日本の原発による「便益」を全く受けていない地域の人々に対しても大きな負担(コスト)をかけていることを忘れるべきではない。 原発事故ではないが、人類の核利用事故として、1964年4月21日に発生したアメリカの航法衛星(Transit Satellite)、「トランジット5 BN3」の事故のケースもある。 「宇宙空間における兵器と原子力に反対するネットワーク」(http://www.space4peace.org/)と云うサイトの「3 Past Missions - a Chronology」(http://www.space4peace.org/ianus/npsm3.htm)のページによれば、1964年4月21日、「トランジット5 BN3」は打ち上げに失敗して軌道に乗せることができず、大気圏に再突入した際、設計通り搭載していた原子力電池が燃え尽きた。(以上アメリカ・エネルギー省の報告書による) さらに別なエネルギー省の文書によれば『1964年、アメリカ海軍の航法衛星は軌道に乗せることに失敗して大気圏中で分離した。衛星は重さ4.5ポンド、グレープフルーツ大の原子力電池から電気の供給を受けており、燃え尽きた際燃料のプルトニウム238が南半球の大気圏中にばらまかれた。』さらにアメリカ一般会計監査院の報告によれば、『この衛星の原子力電池(RTG)は2.2ポンドのプルトニウム燃料を搭載していた。』 この時拡散したプルトニウムは1万7000キュリーの量だったという。 ECRRは、『全世界の大気中に含まれる量の3倍にあたる950gのプルトニウム238』がまき散らされた、と書いている。先ほどのサイトを読んでいると、この事故も実は氷山の一角であることがわかる。 まことに大気中に拡散した放射性物質に国境線はないのである。 |
|||||||
IICRPの予防原則 | |||||||
この長たらしい一文の目的は、原子力発電や核兵器、核を使ったあらゆる利用物の存在を容認し、放射線防護の立場からそれを正当化することを任務としたICRPに対するECRRの批判の要点を読み取ることである。特にこの章では、ICRPのよって立つ哲学的基盤、思想的基盤を把握しようというところにある。 そうした基盤の中で、重要な事柄はICRPの放射線防護思想である。より具体的に云えば彼らの放射線障害に対する予防原則である。 一般にはECRRが次にいうのが予防原則の常識である。
特に放射線障害のように長期にわたって、時には遺伝すら障害の中に現れるケースではなおさらである。たとえば、喫煙と肺がんとの関係はいまだに明白な医科学的証拠がないにもかかわらず「疑われている」というだけで喫煙は個人的慣習としても勧奨されない。たとえば中国製ギョーザ事件の時、まだ明白な証拠がない時、疑われるというだけで中国製ギョーザを輸入禁止とした。「水俣病」の時代ならいざ知らず、現在は工場廃液が環境汚染の疑いがあると云うだけで、取りあえずその工場に操業停止を命令するであろう。 「安全が確認されていない産業は安全が確認されるまで操業を許さない」、これは予防原則の常識である。 ところが原子力産業はかつて一度もこの原則が適用されたことがない。ICRP自身、被曝線量に絶対安全値はない、確言しているにもかかわらずだ。いったいこれはどうしたわけか? ECRRは単純に次のように答えている。
しかもこれら核物理学者の説得には、1990年代以降劇的なまでに発達した遺伝子研究の成果は全く取り入れられていない。 これは科学的真理の問題というよりも説得力技術の問題である。
ECRRの主張は驚くほど平凡で単純かつ常識的だ。なにも奇をてらったことを主張しているわけではない。今の問題はこの単純かつ常識的な主張がなぜ、社会一般の常識にならないのか、ということだ。 「原子力発電を止めると電力供給は低下する。産業にもわれわれの生活水準にも大きな悪影響がある。」などと云ったおよそ筋違いの議論が何故公然とまかり通るのか、と云う問題である。 環境や私たちの健康への影響問題と電力の安定供給の問題は全く別次元の話である。 |
|||||||
人によって異なる放射線感受性 | |||||||
放射線の人体への影響問題をさらに複雑にしているのが、放射線感受性は、人によっても、異なる種族によっても、年齢によっても大きく異なっているという事実だ。 つまり放射線障害のレベルは決して平均化できないということだ。福島県の小学校のグラウンドの放射線規制値を20ミリシーベルト(年間)に変更しようという話がこともあろうに文科省から出されたが、それでは法律で定めた規制値通り年間1ミリシーベルトなら安全なのかという議論はだれも行わなかった。放射線に対する感受性が人によっても、年齢によっても大きく異なることを考慮に入れれば、また1ミリシーベルト自体が成人の公衆被曝線量の上限であることを考えれば、福島の小学生にとって1ミリシーベルトでも十分なリスクをもった数値なのだ。もともと危険な被曝線量を平均化してその限度を数値で決めようというという発想が成り立たないのだ。
ATM(Ataxia Telangiectasia Mutated)というのは、細胞に損傷が発生した時に、これを修復しようとするメカニズムである。
ATM遺伝子が同定されたのはやっと1995年のことだという。 ECRRのこの部分の記述によれば、人口の約6%は正常なATM遺伝子ではなく、その異型接合体遺伝子をもっているという。こうした人は当然放射線による遺伝子損傷に対して抵抗力が小さい。言い換えれば放射線に対する感受性が高く、がんになりやすい。こうして放射線に対する感受性に大きなばらつきがあるなかで、いかにして放射線に対する規制値を決定するか?
|
|||||||
放射能汚染は普遍的人道犯罪 | |||||||
ICRPのリスクモデルは、その規制値(限度値)を出すに当たって、平均的な人間を算出しその放射線感受性をもとにして出来ている。
平均より放射線感受性の高い人が約20%は存在する。人種(と云う言葉を使っているがこれも定義の曖昧なことばだ。ここでいう人種とは、自然人類学における人種分類のことで、コーカソイド、ネグロイド、そしてモンゴロイドなどの区別を指す)によっても感受性は違う。 「日本の原爆被爆者寿命調査(LSS)」というのは、ICRPのリスクモデルの基礎の1つとなっている広島原爆、長崎原爆によるヒバクシャの長期間にわたる放射能影響調査のことである。当初原爆障害調査委員会(ABCC)が報告し、現在の放射能影響研究所に改組されてからは放影研が担当して報告している。この調査報告は主として直接外部被曝に関する調査で、内部被曝については、全く調査していない。こうした調査報告を基にして(医科学的事実として)、放射線リスクモデルを作成していることに対する大きな疑問があるのだが、それは別としても、ここで指摘されていることはモンゴロイド(日本人)について当てはまるモデルを、たとえばコーカソイドやネグロイドに適用することに無理があるということだ。 この章では、ICRPのよって立つ論拠とその哲学的背景が、テーマの中心だった。この問題に関して扱わなければならない項目もあと3−4残っている。しかし以上で私としては、ICRPのよって立つ思想的背景の核心部分は網羅したものと思う。 それは、1つには人間偏重主義(ヒューマン・ショービニズム)であり、2つには功利主義思想だった。そして功利主義思想に基づく「費用- 便益」分析によって自らの思想と手法を合理化しているのだが、それらは21世紀私たちが到達している環境主義や人権主義の考え方からすると余りにも旧態依然(時には19世紀的ですらある)としたものだった。 ECRRはこの章を次のような言葉で締めくくっている。
|
|||||||