(2011.7.6) 
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ 
<参考資料>ECRR勧告:欧州放射線リスク委員会 第5章「リスク評価のブラックボックス国際放射線防護委員会」
核兵器・原発とともに表舞台に登場したICRP その@
   
 核兵器・原発を放射線防護から正当化する構図

 第5章は国際放射線防護委員会(ICRP)の成立過程とその役割について多くの記述が割かれている。そしてICRPがアメリカ放射線防護委員会(NCRP)の国際版であること、NCRPが内部被曝問題に封印をしてしまったその体質をそのままICRPが受け継いでいることを論証しようとしている。

 第二次世界大戦中のフランクリン・ルーズベルト政権から、マンハッタン計画の開始を経て、トルーマン政権の暫定委員会、そしてそれらを引き継ぐ形で1946年に成立したアメリカ原子力委員会(AEC)への一連の流れをいささかなりとも研究した私にはとりわけ興味深い一章である。

 この章を読んでいくと、私の頭の中には次のような構図が浮かんでくる。
 
 ルーズベルト政権の時に開始された原子力エネルギー開発計画が、まず軍事目的で実用化され広島と長崎での原爆の使用となった。戦後アイゼンハワー政権の時にいよいよ「平和利用」開始の時期が到来し、それが原子力発電事業としてスタートした。アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説

 この間、アメリカの原子力エネルギー開発計画を担当する責任者たちの一番の心配事は、「原子力」に対する一般民衆の反感・恐怖であった。(特にアメリカの大衆の)

 一般民衆の反感の中で、もっとも憂慮すべきは「放射能」に対する恐怖である。原爆投下直後から彼らはこの問題に対する手当てを行ってきた。

 たとえば、マンハッタン計画の軍側最高責任者、レスリー・グローブズは、ウィルフレッド・グラハム・バーチェットが、1945年9月5日付けロンドンのデーリー・エクスプレス紙で「原子の伝染病」(The Atomic Plague)を発表し、全世界に放射能の恐ろしさを暴露するやいなや、ただちに全米から選りすぐったジャーナリスト30名を、アラモゴードの核実験場に集めて、「アラモゴードには残留放射能はない」という記事を書かせた。なおこの時、グローブズの意向を受けて「アラモゴードには残留放射能はない」という陸軍発表プレスリリースの原稿を書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の科学記者で、ピューリッツア賞受賞者のウィリアム・L・ローレンス(ウィリアム・H・ローレンスではない)だった。

 (ウイリアム・ローレンスは、マンハッタン計画と秘密契約を結んでおり広報活動に一役買っていた。1954年5月14日暫定委員会議事録の中の「U 公式声明」の項参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_5_14.htm> なおアメリカのジャーナリスト、エイミー・グッドマンはローレンスがマンハッタン計画と秘密契約を結んでいた点を取り上げて、ローレンスのピューリッツア賞取り消しを求めている。)


 同時にグローブズは自分の片腕、トマス・ファレルを、45年9月、急遽日本へ派遣し、原爆投下後の広島で記者会見させ、「広島には残留放射能はない。死ぬべきものはすべて死に絶えた。」とする声明を出させた。

 いずれも放射能(放射性物質)の真の危険を隠蔽するためである。放射能の真の危険は、原爆を製造する過程の中で(たとえば、兵器級ウラン燃料の製造や兵器級プルトニウム製造の過程で)、よく知られていた事実であった。特に内部被曝は深刻な危険であった。しかしこのことは大衆に知られてはならないという意味で、「軍事機密」だった。「放射能」は外部から直接大量に浴びなければ、さほど「危険ではない」とされなければならなかった。


 アメリカ放射線防護委員会(NCRP)の成立

 終戦を迎える前のトルーマン政権時代、原子力エネルギー開発の政策意志決定中枢は、当時陸軍長官のヘンリー・スティムソンが委員長の暫定委員会だった。暫定委員会は戦後直ぐにアメリカ原子力委員会(AEC)という正式な政府機関となって発足した。そして人的にみれば当初のAECは、軍籍を離脱した「マンハッタン計画」の主要人物がその中枢をしめた。AECが成立した同じ年、「アメリカ放射線防護委員会」(U.S. National Committee on Radiation Protection−NCRP)が成立している。

 (現在のNCRPのWebサイトを見てみると、NCRPは、1929年に成立した「X線およびラジウム防護諮問委員会」(“The Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection” )がその前身だとしている。しかしその委員会がいつNCRPに改組されたのかが書かれていない。(<http://www.ncrponline.org/AboutNCRP/Our_Mission.html>)

 もうひとつの資料「直近および計画中のNCRPの活動」(“Current and Planned NCRP Activities”<http://www.ncrponline.org/PDFs/Overview_DAS_9-24-08.pdf>)を見ると、NCRPの設立は1946年だ、としている。「X線およびラジウム防護諮問委員会」と「アメリカ放射線防護委員会」の連続性・継続性は別として、「アメリカ放射線防護委員会」の設立は1946年だということが確認される。)

 「アメリカ放射線防護委員会」はその後、1964年に議会を通過した法律(Public Law 88-376)で正式に「アメリカ国立放射線防護測定審議会」(“National Council on Radiation Protection and Measurements”−NCRP)として発足する。ややこしいことにこの両者の略称はいずれも“NCRP”なのだ。

 1964年のNCRPについてはなんらの疑問はない。

 しかし1946年のNCRPについては1つの重大な疑問が残る。それは政府機関なのかそれとも民間機関なのかという問題である。これは、どこの予算で運営されていたかという問題に直結する。確認はとれてはいないものの、私はアメリカ原子力委員会(AEC)の予算で運営されていたのだろうと想像している。


 アメリカ原子力委員会の成立とその性格

 アメリカ原子力委員会(AEC)が成立するのは1946年8月1日、大統領トルーマンが「原子力エネルギー法(Atomic Energy ACT)」に署名した時である。つまりAECは予算措置を伴った正式のアメリカ政府の機関としてスタートした。46年NCRPが何月に成立したのか確認出来ていない。しかし恐らくはAECの成立以降であろう。

 というのは、NCRPの主要なメンバーは、マンハッタン計画で働いていた放射線防護の専門家たちであったからだ。実際には「マンハッタン計画」とAECの活動は切れ目なしに続いていたのと同様、NCRPの活動も「マンハッタン計画」と切れ目なしに続いていた。

 この点でNCRPの前身は、現在のNCRPが主張するように。1929年に成立した「X線およびラジウム防護諮問委員会」なのではなく、「マンハッタン計画」だと見ることが出来る。

 一方で、マンハッタン計画からAECに完全に移行を完了するのは、1947年1月1日とされている。(「米国原子力委員会年表」参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_16P.htm>)これは、AEC職員の身分は民間人に限定され、マンハッタン計画で働いていた軍人は、軍籍離脱をしなければならず、これに手間取ったからだ。

 AECはマンハッタン計画の体質をそのまま受け継ぎ、当初から秘密体質だった。その予算についても議会からの掣肘を受けず、どこにどう使われたのかわからない。その一例が、原爆障害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission−ABCC)である。ABCCは1948年春、ハリー・S・トルーマンからの全米科学アカデミー−全米研究評議会に対する大統領指令(a presidential directive)に基づき設立された、という事になっているが、実際には、

 『 1945年8月の広島と長崎の原爆攻撃の後、8月9日に作られた。ABCCはもともとは共同調査委員会として開始されたのである。ABCCは、原爆による死傷(casualty)に関する長期間の研究をおこない、人々にその知見を得る機会を与えることを目的としてスタートした。1946年、全米研究評議会議長、ルイス・ウィード(Lewis Weed)は、同僚の科学者グループとともに、「人間に対する詳細かつ長期的な、生物学的かつ医学的影響の研究はアメリカと人類一般に対して緊急の重要性を持つ」と宣言した。ハリー・S・トルーマン大統領は、ABCCに対して1946年11月26日、その存続を命令した。ABCCの鍵を握るメンバーは、ルイス・ウィード、オースティン・M・ブルース(Austin M. Brues)とポール・ヘンショー(Paul Henshaw)、それに陸軍を代表して参加したメルビン・A・ブロック(Melvin A. Block)とジェームズ・V・ニール(James V. Neel)だった。ニールはまた遺伝子工学の医学博士号をもっていた。』
(以上「原爆障害調査委員会について」を参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/ABCC.htm>)

 つまりABCCはトルーマンの大統領令に基づいて「全米科学アカデミー−全米研究評議会」が作り、運営したことになる。ここまで読めば、誰が考えてもABCCの予算は「全米科学アカデミー−全米研究評議会」から出ていると思うだろう。
 
 ところが実際にはABCCの予算は、アメリカ原子力委員会から出ていたのである。このことが明らかになるのは、ABCCが基金不足から存亡の危機に立った時である。

 『 1951年、アメリカ原子力委員会は、日本におけるABCCの活動継続のための基金を打ち切った。しかしながら、ジェームズ・V・ニールはこれに抗議したため、原子力委員会は、3年間に限って、研究継続のため、年間2万ドル拠出することを決めた。このためABCCは1951年は、ともかく生き残った。』(前出)

 ABCCの資金は、アメリカ原子力委員会から出ていたのである。

 アメリカ原子力委員会が、「マンハッタン計画」の後進であり、1946年NPRCの主要メンバーが「マンハッタン計画」の放射線防護専門家グループから移管されていること、これはABCCの主要メンバーが「マンハッタン計画」の遺伝学者や「がん研究者」から移管されていることを考えれば、NCRPの予算はアメリカ原子力委員会から出ていた、と考えるのはあながち荒唐無稽な想像とはいえないだろう。
 
 こうしてともかく1946年NCRPは、46年8月のアメリカ原子力委員会の成立とともにスタートした。


 46年NCRPの役割

 その役割は、核の軍事利用(核兵器など)や計画中の核の産業利用(原子力発電事業など。最初の原子力発電実験炉が出来るのは1951年12月。また最初の原子力潜水艦「ノーチラス号」が完成するのは52年6月)などによって人工放射能汚染が拡散するのは必然であり、このための防護基準を、科学的外観をもって作成するところにあった。
 
 その意味では、NCRPは、軍事用や産業用に限らず「核の利用」を推し進める、アメリカ原子力委員会の別働隊であり、もともとアメリカ原子力委員会の活動を放射線防護の立場から正当化することにあった、ということが言えよう。
 
 このことは必然的にNCRPの次の役割を生むことになる。それは、直接の高線量の被曝でなければ、放射能はさほど危険なものではない、という言説を作り出し、これを社会に流布し、人々の頭の中に刷り込むことであった。

 トルーマン政権の暫定委員会、マンハッタン計画時代から、アメリカの原子力エネルギー開発責任者たちが最も恐れたのは、「放射能」に対する一般大衆の「恐怖感」「反感」であった。この「恐怖感」「反感」を取り除くことがNCRPの大きなもう1つの使命となったということでもある。

 1957年、アメリカ原子力委員会の国際版がオーストリアのウイーンに成立する。アメリカ原子力委員会の成立から11年後、アイゼンハワーの「平和のための原子力」(Atom for Peace)演説で、平和のための原子力利用を推進する国際機関設立を提唱してから、5年後のことである。それがIAEA(国際原子力機関)であった。

 従ってIAEAの役割は、原子力発電の世界的普及を推し進めるところにあったのであり、その役割は今も基本的に変わっていない。核兵器の不拡散(言い換えれば既存核兵器保有国の核兵器独占)体制を維持するという役割も付加されていた。

 そうすると、アメリカのAECにとってのNCRPの役割を、世界のIAEAのために演ずる国際的組織が必要となってくる。それがICRPだという構図が浮かび上がってくる。ICRPはいつ成立したのだろうか?

 極めて不思議なことに、ICRPがいつ成立したのかはっきり確認できる資料がない。日本語Wikipedia「国際放射線防護委員会」(“International Commission on Radiological Protection: ICRP”)を見ても、『1928年「国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)が作られる。1934年 初めて許容線量の値を発表。1950年現在の名称に変更。許容線量の値を改定』とあり、1950年に名称変更をして成立したのだということを窺わせる。
 ICRPの公式Webサイトは、


 『 1928年以来 ICRPは国際射線防護システムを開発し、維持し、構築してきた。その防護システムは世界中で、放射線防護の標準、行政指針、ガイドライン、法制化の基礎として使われてきた。』(<http://www.icrp.org/>)

 とのみ云うだけで余り自身の歴史に関して多くを語らない。
 
 2008年公表されたICRP自身の「ICRPの歴史」(“The History of ICRP and the Evolution of its Policies“<http://www.icrp.org/docs/The%20History%20of%20ICRP%20and%
20the%20Evolution%20of%20its%20Policies.pdf
>)
という文書では次のように記述されている。

 『 1895年X線の発見の12ヶ月以内に高線量被曝に関する否定的な言説が各種報告に登場するようになった。1925年、放射線に関する第1回目の国際会議がロンドンで開かれ、放射線防護に関する委員会設立の必要性が考慮された。その委員会は1928年ストックホルムで開かれた第2回目の会合で設立された。』

 それが日本語Wikipediaのいう「国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)である。


 実質50年に成立したICRP

  しかし第二次世界大戦が終わってみると、

 『 第二次世界大戦後、1950年、最初の会合がロンドンで開かれた。IXRPCのメンバーで戦争を生き残ったのはローリストン・テイラー(Lauriston Taylor)とロルフ・シーベルト(Rolf Sievert−生体の吸収線量“シーベルト”の語源となっている)の二人だけだった。この時名称を変えてICRPとした。シーベルトは活動メンバーとして残り、イギリスのアーネスト・ロック・カーリング卿(Sir Ernest Rock Carling)が委員長に指名され、テイラーが事務局長代行になった。』

 つまり非常に奇妙なことに、戦前IXRPCのメンバーで、戦後も残ったのはシーベルトとテイラーの2人だけであり、しかも委員長にはIXRPCのメンバーでもなかったイギリスのカーリングが就任したというのだ。戦後はじめての会合が、5年も後の1950年というのも腑に落ちない話だし、テイラーはIXRPCに対するアメリカ代表団の有力な一員であったのは事実としても、アメリカで「ミスター放射線防護」と呼ばれていた。しかも彼はNCRPの1枚看板であった。(<http://iopscience.iop.org/0952-4746/25/1/M01/pdf/0952-4746_25_1_M01.pdf>)

 戦前のIXRPCと50年に名称を変えて成立したというICRPの連続性、正統性を大いに疑わせる記述となっている。要するに人的にも組織的にも、IXRPCと1950年のICRPでは明白な断絶が見られるのである。

 さらにその使命も全く違う。IXRPCが扱うのはX線やラジウムと云った主として医療用・科学研究用の放射性物質であるのに対し、ICRPはウランやプルトニウムといった軍事用、原発用放射性物質である。構成員が同じ全く同じ専門家であるはずがない。(テイラーはしかし元来がX線の専門家であった。)

 従って、1946年にアメリカで出来たNCRPの国際版がICRPである、という言い方は可能であろう。また従ってICRPの役割もアメリカのNCRP同様、放射線の防護基準を決定すると同時に、高線量直接被曝でなければ「放射能はさほど危険ではない。」とする言説の世界的普及にあった、と考えることが出来る。

 こうして原子力発電を世界的に推進するIAEAとそれを放射線防護の立場から限度基準を作成し、放射能はさほど危険なものではないと正当化するICRPの国際的役割分担ができあがる。

 私は「高線量直接外部被曝でない限り、放射能はさほど危険なものではない」とする言説を「放射能安全神話」と仮にここで名付けておく。


 内部被曝問題をブラックボックスに封印

 随分長い前置きになったが、ECRR2010年勧告の第5章「リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会」を、以上のような構図と展開を念頭に置いて読んでみると極めて興味深いと思う。

 さて、この第5章の1つのキーフレーズが「ブラックボックス」である。

 フランスの社会学者、ブルーノ・ラトュール(Bruno Latour)は1987年に出版した「Science In Action」(「行動における科学」)という本の中で、“理論の「ブラックボックス」への封じ込めを通じての科学的発展というモデル”という概念を提出しているそうだ。

 本来、科学的真理は論争や批判を通じて達するものであり、仮に達したとしてもそれは絶対的なものでもない。しかしそれでは、ある理論を主張する側は、確固とした科学的世界観を構築できない。だから科学者たちは往々にしてその理論をカプセルに封じ込めてしまう。こうすることによって、新しい発見や新しい解釈からその理論を防護し、彼らの立場を維持しようとする。これがラトュールの「理論のブラックボックス」だ。

 『 放射線リスクの科学は完全にそのようなブラックボックスであると言える。それは冷戦の秘密主義と統制体制の時期に、DNA が発見されるよりも以前に、生きた細胞の放射線に対する生物的応答のほとんどが知られていなかった時期に、主として(軍当局に支援されていた)物理学者達によってつくられたものである。その放射線リスクのブラックボックスを決定しているモデルの設計と開発、そして現在における維持にあまねく責任を負っている主体はICRP である』

 とECRR2010年勧告はいう。

 (ちなみにアメリカの分子生物学者ジェームズ・ワトソンとイギリスの物理学者・分子生物学者フランシス・ハリー・コンプトン・クリックが共同で遺伝子の「2重螺旋構造」を特定したのは1953年であった。またアメリカ・エネルギー省の科学局が当初主導し、のちに国際的プロジェクトに発展した「ヒトゲノム計画(Human Genome Project)」が開始されたのは1989年から90年にかけてであり、「ヒトゲノムの全塩基配列の完成版」が公開されたのは2003年であった。)

 『 ICRP は、その始まりが1928 年の国際X 線ラジウム防護委員会(International X-Ray and Radium Protection Committee)にあると主張している。本当のところは、合衆国における核爆弾の開発と実験がもたらす新しい放射線被ばくに関心を払い、それらについて勧告し、再保証することのできる放射線リスク評価のための主体を設立する必要性によって、その種は1945 年にまかれたと見ることができる。』

1945年と云えばまだ「マンハッタン計画」の時代である。

 『 すなわち、ICRP に直接先行する団体は、アメリカ放射線防護審議会(NCRP: National   Council on Radiation Protection。勧告の英語原文は64年に正式に政府機関の一部になった時の名称を使っている。しかし先にも見たように46年に成立したICRPはアメリカ放射線防護委員会 − “National Committee on Radiation Protection”だった。)である。原子爆弾の実験を行い、それを日本に投下していた合衆国政府は、核科学が持っているどうしても軍事機密が絡んでくるその特質を1946 年には明確に認識していた。』


 外部被曝を担当する第一委員会のフェイラ

 『 NCRP には核リスクの様々な側面を調査する8つの分科委員会がおかれていた。そのなかでも最も重要なものは、ジー・フェイラ(G. Failla)が議長で外部放射線被ばく限度に関与していた第一委員会と、ズィー・モーガン(Z. Morgan)、オークリッジ主席保健物理学者、が議長で内部放射線被ばくリスクに関与していた第二委員会の2つであった。AECとの間には交渉があり、今日ではそれにとって受け入れ可能なものとして決められたことも明らかになっているが、NCRP はそれ自身の外部被ばく限度を1947 年に決定している。』

 ジー・フェイラはジオアッチーノ・フェイラ(Gioacchino Failla)のことである。アメリカの生物理学および放射線生物学のパイオニアの一人とされている。放射線の医学的応用研究に早くから手を染めていた。放射線研究の先駆者マリー・キュリーとも親好があった。また1928年設立された国際X 線ラジウム防護委員会の関連機関「国際放射線単位測定委員会」(International Commission on Radiation Units and Measurements−ICRU)創立にも寄与したとされている。(<http://hpschapters.org/gnychps/failla-bio.htm>)

 この後のフェイラの経歴は、どの資料によってもあいまいである。要は彼がマンハッタン計画に関与していたかどうかである。フェイラは、1943年それまで務めていたニューヨーク・メモリアル病院を辞めてコロンビア大学の医学校のスタッフになったところまでははっきりしている。

 『 フェイラ博士は常に放射線の安全について関心を持っていた。当然のごとく放射線の危険から人をどう防護するかについて深く関与していた。しかし彼は他の核計画で活動していたので、純粋な放射線研究は、戦争の期間棚上げにしなければならなかった。』
(<http://jnm.snmjournals.org/content/6/5/376.full.pdf+html>)
と記述されているので、恐らくマンハッタン計画に関与していたものと思われる。

 前出「核医療誌」(“The Journal of Nuclear Medicine”)の長文の説明によると、戦後フェイラは、自分の研究室には戻らず、出来たばかりのアメリカ原子力委員会やその関連の政府機関や産業界で諮問委員のような仕事をした、と記述している。

 だから、46年NCRPで外部被曝の放射線限度を決定する第一委員会の委員長(議長)を務めたのは、アメリカ原子力委員会の仕事をしていた時期のことだろうと思われる。


 内部被曝を担当する第二委員会のモーガン

 内部被曝を担当する第二委員会の委員長のズィー・モーガン(Z. Morgan)は、カール・ジーグラー・モーガン(Karl Z. Morgan)のことである。

 英語Wikipedia「Karl Ziegler Morgan」によれば、モーガンはテネシー州オークリッジにあったマンハッタン計画の国立オークリッジ研究所で永年働いた。ちなみにオークリッジはマンハッタン計画時代、兵器級ウランを製造していたクリントン工場の従業員のために作られた隣接住宅都市で、ここにも研究所があった。(「陸軍長官声明」参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>)モーガンは宇宙放射線で博士号を取得している。1943年マンハッタン計画に参加、当初はシカゴ大学の冶金工学研究所で働いた。その後オークリッジ研究所に移って、放射線の健康への影響を調べるグループに属した。その後モーガンは1940年代の終わりから1972年に退職するまでオークリッジ国立研究所の保健物理(health physics)部門の部長を務めたのは、だから内部被曝に関する第二委員会の委員長を務めたのは、マンハッタン計画がアメリカ原子力委員会に衣替えをしたばかりの時期のことだろう。この時期放射線の内部被曝に関してもっとも深く理解をしていた人物の一人なのだと思う。
 
 モーガンについて特筆しておかなければならないのは、オークリッジ国立研究所を退職した後、彼は原子力エネルギーや核兵器の製造に反対の立場を取るようになったことだ。そして核兵器産業や原子力産業から放射線健康被害を受けたとして行われた一連の裁判で、原告側の証人として法廷で証言するまでになる。50年代ネバダ州の核実験場に隣接した住民1200人が起こした裁判で、モーガンは白血病やその他のがんは多発しているのは核実験のせいだと証言した。(1982年10月)
 
 またナバホのウラン鉱山で死亡した鉱山労働者や生存労働者のために「政府関係者はウラン鉱山で放射線障害の危険があるにもかかわらず、鉱山労働者を特に防護する手だてを取らなかったと証言し、「カレン・シルクウッド事件」でも原告側の証人として法廷にあった。


  内部被爆問題に封印
 
 さて話は元に戻る。フェイラの第一委員会は1947年という早い時期に、外部被曝線量の限度を1週間0.3レムと決定した。レムは、線量当量(生物体における放射性粒子の吸収線量)の単位で、1レムは0.01シーベルトである。従って0.3レムは3ミリシーベルトである。1年間を52週とすると1週間3ミリシーベルトは、1年間156ミリシーベルトという途方もない値になる。(福島原発事故では、年間250ミリシーベルトに簡単に引き上げたが)。それでもそれまでの被曝限度1週間0.7レムから見ると大幅な引き下げだった。

 問題は内部被曝の基準である。

 『 フェイラの第一委員会(外部放射線)が到達した結論であるこの値については1947 年に同意されたのであるが、NCRP から最終報告書が出されたのは1953 年になってからであった。

この遅延の原因は、内部被曝を担当する第二委員会にあった。モーガンの第二委員会が、体内の臓器や細胞への内部被ばく源となる、実に多種にわたる様々な放射性同位体がもたらす被ばく線量やリスクとを決めるために容易に適用できる方法を見出し、そして、導かれた値が正しいと簡単に同意するのは極めて難しいことを見いだしていたからである。このような難しさの一部には、様々な組織や臓器、そしてそれらの構成要素である細胞における放射性同位体の濃度やそれらの親和性に関しての知識が不足していた当時の状況下でものごとを進めなければならなかったことがある。』

 マンハッタン計画時代、兵器級ウラン濃縮を担当していた、テネシー州クリントン工場で内部被曝のケースを見てきたモーガンにとって内部被曝線量の限度を決定するのは容易ではなかった。しかも当時はDNAも特定されておらず、分子生物学レベルで放射線が人体にどのような影響を与えるのか全くわかっていなかった。

 『 またその難しさの一部には、線量の単位自体に含まれている平均化する考え方を、非均一な構造中におけるエネルギー密度分布に対して適用する問題が当然にしてあった。』

 「線量の単位自体に含まれている平均化概念」とは、レムとかシーベルトとかという吸収線量の単位自体がもつ根本的な問題のことである。たとえば生体吸収線量シーベルトの概念は物質吸収線量の単位グレイが基になっている。同じ線量の照射であっても生体と物質は吸収量が違う。だからグレイに生体がもつ係数を掛けてシーベルトが決定される。一般には1シーベルト=1グレイとして扱われている。

 ところがグレイの定義は、「放射線によって1kgの物質に1J(ジュール)のエネルギーが吸収されたときの吸収線量」が1グレイなのだ。1グレイ=1シーベルトとしてみると、たとえば、肝臓1kgに1ジュールの放射線が吸収されたとき1シーベルトということになる。外部被曝の場合はこの考え方も成り立つが、内部被曝の場合は全くあてはまらない。

 というのは内部被曝の場合は、アルファ線やベータ線など非常に飛距離の小さい放射線が発生源であり、1kgの内臓(つまりは細胞の集合体)が、一様に平均して被曝するなどと云うことは考えにくい。被曝は必ず細胞レベル(分子レベル)で発生するのであり、その意味では分子生物学的現象である。内部被曝は100μシーベルトなら危険だが1μシーベルトなら危険ではないとは云えない。1つの細胞にとってどんなに微量の被曝線量でも遺伝子の異常を起こすのに十分な被曝量だからだ。内部被曝のリスクを数値化し、モデル化することは難しいし、現在においてもその課題は解決されたとは到底言い難い。

 だから内部被曝を考える場合、平均化概念をもった線量単位は不適切と云うことになるのだ。

 『 結局、1951 年にNCRP はこれらの問題が解決されるのを待つことにしびれを切らし、その執行委員会は第二委員会の審議を即刻うち切ってしまった。そして、おそらくはリスクに関してある誘導操作が必要であったがために未解決のままで内部放射体について報告書を準備するよう主張した。それにもかかわらず、最終報告書は1953 年になるまで公表されなかった。

これこそが放射線リスクのブラックボックスが封印されたまさにその瞬間であった。』


 (以下そのAへ)