(2011.7.8)
訂正 2011.10.21 
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ 
<参考資料>ECRR勧告:欧州放射線リスク委員会 第5章「リスク評価のブラックボックス国際放射線防護委員会」
核兵器・原発とともに表舞台に登場したICRP そのA
   
 ブラックボックスはICRPへ引き継がれる

 こうして内部被曝の問題は結論を出さないままに、NCRPは1953年に報告書を提出するのだが、ECRRによれば「内部被曝の問題については深く掘り下げない」と結論をだした時が、ラトュールの云う、「理論のブラックボックス」が完成したその瞬間だった、ということになる。

 『 今日の問題は、これがICRP によって採用されているモデルを表す放射線リスクのブラックボックスになっているということである。

NCRP の議長であるローリストン・テイラー(Lauriston Taylor)は、NCRP の国際版を設立するのを援助したが、おそらくそれはNCRP が合衆国における核関連技術開発に関わっているという明白な証拠から注意をそらすためであったのだろう。そして、放射線のリスク係数に関してのある独立した国際的な合意があることを誇示するためでもあっただろう。その新しい主体は、国際放射線防護委員会(ICRP)と名付けられた。』

 NCRPの国際版がICRPであるが、NCRPのブラックボックス(それは放射線リスク理論に関するブラックボックスであるが)はそのままICRPに持ち込まれた、というくだりである。そしてここでも登場するのがローリストン・テイラーである。

 1950年に、国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)の戦後初の会合がロンドンで開かれた。この時、IXRPCの活動家だった科学者はスエーデンのシーベルトとアメリカのテイラーだけだった、と云ういきさつは前にも見た。シーベルトは引き続き単なる活動家に止まったに過ぎないのに対し、ローリストン・テイラーは事務局長代行に就任し、IXRPCを簒奪する格好で事実上国際放射線防護委員会(ICRP)が発足する。


 「Mr.放射線防護」ローリストン・テイラー

 ここで是非ともローリストン・テイラーという人物について知っておかなければならない。

 アメリカ保健物理協会(Health Physics Society)という団体がローリストン・テイラーについて長文の追悼文を掲載している。(<http://hps.org/aboutthesociety/people/inmemoriam/LauristonTaylor.html>)
 

 その記事をつまみ食いしながらテイラーについて見ておこう。
 
 ローリストン・テイラーは1902年に生まれで、2004年102歳で亡くなっている。
 
 1902年は明治35年である。日露戦争の前にテイラーは生まれている。だから第二次世界大戦前にX線防護の世界で活躍し戦後、ウランやプルトニウムになど核兵器や原子力発電に関する放射線防護が、防護の中心課題になった時に再び活躍した、ということになる。
 
 1950年、ICRPに名称が変更された(事実上の設立)時、テイラーは48歳の働き盛りだった。ただテイラーの怪物じみているところは102歳で亡くなるまで事実上現役を押し通し、世界の「放射線防護社会」ににらみをきかした点だ。
 
 本当かどうかは知らないが、まだ小学生の時にトーマス・エジソンが彼の小学校を訪問し、真空管に興味を示していたテイラーに冷陰極X線管を与えたエジソンのエピソードをこの追悼文は紹介している。またX線被曝の危険性をすでに聞いていた彼の父親はテイラーがこのX線管をいじるのを禁じたという。
 
 コーネル大学の物理に進んだテイラーはそこで博士号取得に必要な学識を得た。そのころ一人の教授が国立標準局(National Bureau of Standards- NBS。1988年に現在の国立標準技術研究所“National Institute of Standards and Technology−NIST”に改組)でX線に関する仕事を1年間行うことを指示する。

 そこで放射線学に関する基礎を学んだ後、テイラーはニューヨークのメモリアル病院で過ごしたことがあり、その時にジオアッチーノ・フェイラと出会う。フェイラは前にも出てきた1946年NCRPの外部被曝を担当する第一委員会の委員長を務めた、あのフェイラである。フェイラはテイラーに今後放射線物理に関するニーズが大きくなるのでその方向へ進めと説得する。その時全米で放射線物理がわかっている人間はほんの数人しかいなかったという。こうしてテイラーは国立標準局へ入り、放射線線量計測と放射線防護の専門家としてのキャリアのスタートを切った。
 
 1941年に国立標準局の新たに設置されたX線部の部長になり、1951年には原子および放射線物理部の部長になった。


 戦前との一貫継続性を強調するICRP

 話はさかのぼるが、1928年には国際放射線単位計測委員会(ICRU)へのアメリカ代表団の一員になっている。そして「国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)へのアメリカ代表団の一員にもなっている。
 
 アメリカ保健物理協会のテイラー追悼文には次のような記述が出てくる。

 『 その翌年1929年、テイラーは「アメリカ国立放射線防護測定審議会」(the National Council on Radiation Protection and Measurements)、もともと「X線およびラジウム防護諮問委員会」(“The Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection” )と呼ばれていた組織が作られテイラーはその初代委員長に就任した。』

 この記述は非常に微妙な内容を含んでいる。何度も書いているようにアメリカ国立放射線防護測定審議会(64年NCRP)は、1964年法律に基づいて出来ている組織である。それは1946年に成立したアメリカ放射線防護委員会(46年NCRP)をもとにした組織であり、46年NCRPは恐らく実質的にアメリカ原子力委員会(AEC)に属していた。1929年の「X線およびラジウム防護諮問委員会」(ACXRP)とは組織的な連続性はないだろう、と私は想像しておいた。

 ところがアメリカ保健物理協会の追悼文は、こうした64年NCRP成立に至るまでのいきさつを一切無視し、46年NCRPにも一切触れず、戦前のACXRPと64年NCRPを一直線で結びつけ、テイラーがその初代委員長に就任した、と書いているのだ。

 上記の保健物理協会の記述は、現在の「アメリカ国立放射線防護測定審議会」の初代委員長がローリストン・テイラーだった、その時の名称は「X線およびラジウム防護諮問委員会」だった、と述べることによって「アメリカ国立放射線防護測定審議会」の29年以来の一貫継続性を強調しているように感じられる。そのため46年の「アメリカ放射線防護委員会」に故意に触れなかったのではないかと思われる。「アメリカ放射線防護委員会」に触れるとその一貫継続性に疑問が出てくるからである。
 
 ともあれローリストン・テイラーは、1929年に成立した「X線およびラジウム防護諮問委員会」(ACXRP)の初代委員長に就任した。この時テイラーは26歳だったはずである。


 核兵器・原発のためのNCRP

 一方でテイラーは先にも見たとおり国立標準局でX線の防護基準に関する責任者を務め、それは1943年まで続く。

 『 1930年代の間、NCRPはすでに原子力エネルギー計画、それは1943年生まれたものだが、によって取って代わられる放射線防護基準の開発に着手していた。』

 というのもアメリカ保健物理協会テイラー追悼文に出てくる記述である。

 これも非常に奇妙な記述である。何が何によって取って変わるのかというと、防護基準の対象が交替するのである。戦前ACXRPにとって防護の対象は云うまでもなく、X線やラジウムなどと云った主として医療用・工業用放射線発生源だった。

 しかし1943年マンハッタン計画がスタートするや様相は一変する。すなわち防護の対象は、ウラン、プルトニウムなど核兵器や原発あるいはその他の軍事用途放射線発生源となる。放射線防護基準も一変せざるを得ない、ということになる。

 奇妙だというのは、この防護の対象の交替が1930年代全体を通じて行われた、と解釈できる書き方になっていると言う点だ。

 この記述によれば、1943年のマンハッタン計画(それはアメリカの原子力エネルギー計画の第一段階だった。第二段階は1950年に入って現実のものとなった。それが「平和のための原子力」だった。)以前からウランやプルトニウムを対象とした防護基準の開発が進んでいた、と云うのである。しかもその担い手はまだ影も形もないNCRPだった、と云うのである。

 この話はにわかには信じがたい。レオ・シラードがアインシュタインを説得して原爆を開発すべきだとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトあての手紙を書かせるのは1939年である。それからアメリカの「原子力エネルギー計画」はやっと検討段階に入るのである。何年かのためらいの期間があって、マンハッタン計画がスタートするのは1943年である。その前からウランやプルトニウムを念頭に置いた放射線防護基準作成が、当時まだ影も形もないNCRPを中心に進んでいたというのである。

 なぜテイラーの追悼文はこのような、書き方をしているのだろうか?

 私は、NCRPが戦前から事実上存在しすでに機能していたというありもしない話を本当らしく見せかけるため、この一文が挿入されたのだと思う。そのことは46年NCRPが、核兵器開発や原子力発電開発に伴って、放射線防護の立場からそうした核開発を正当化するために存在したという事実を覆い隠すことにもなる、と云えばそれは意地悪すぎる見方となるだろうか。
 
 しかし、30年代を通じてウランやプルトニウムに対する防護などは全然話題にもならなかった筈だ。そもそもこの記事のはじめの方でテイラーが「国立標準局の新たに設置されたX線部の部長」になったのは、やっと1941年だったと書いているではないか。41年においてもX線防護はまだ新しい課題だったのである。お腹に胎児を抱える妊婦に平気でX線照射を行っていた時代のことである。


 NCRPからICRPへ外延するテイラー

 テイラーは、1948年から1949年の間、NBS(国立標準局)を離れて原子力委員会で生物物理部を組織してその責任者を務める。それは放射性降下物のうちストロンチウム90の長期的影響を評価する仕事だった。
 
 テイラーは、その後NBS(国立標準局)から離れるのだが、それ以降全米科学アカデミー(the National Academy of Sciences−NAS)で全米科学アカデミー「緊急事態諮問委員会」の執行ディレクターを務める。そこで約6年間過ごした後に全米科学アカデミーを離れる。法定退職年齢の70歳を迎えたためで、1971年のことだ。
 
 その後テイラーは、NCRP一本に絞っていくことになる。テイラーとNCRPの関係は、この追悼文の記述に従えば「NCRPはテイラーが1964年に再組織し、アメリカ議会承認のもとに正式に連邦政府の機関となった。」ということだ。
 
 この時再組織されたNCRPの初代委員長に就任する。だから全米科学アカデミーを退職した後は、NCRPの初代委員長の仕事に集中し、退任するのは1977年である。テイラーは76歳になっていた筈だ。
 
 しかしなおもテイラーはNCRPに隠然たる影響力をもった。NPRCを代表する形で、放射線被曝や防護基準に関する議会証言をしたり、本を書いたりした。そしてこの追悼文にも書かれているが、1950年設立のICRPにも深く関与した。
 
 現在のICRPのサイトを見てみると、1937年から1950年のICRP委員長(議長)はローリストン・テイラーだった、としている。(<http://www.icrp.org/icrp_group.asp?id=6>)これも非常におかしなことで、前にも引用した「ICRPの歴史」というICRP自身がまとめた文書では、戦後最初に招集した国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)の会議はロンドンで開かれそれは1950年だった、としている。そしてその時IXRPCの名称をICRPに変更した、と書いている。それではテイラーは戦争で活動できなかった時代のIXRPCの委員長だったのか?そして戦後ICRPが1950年に設立された時に、委員長を降りて、事務局長代理に就任したのか、ということになる。私はIXRPCとICRPの継続一貫性を強調するためにこのような記述になったのだ、と考えている。またこの強調は、アメリカのNCRP同様、ICRPがウラン・プルトニウムを放射線発生源とする新たな装置や設備(すなわち核兵器や原子力発電など)を放射線防護の立場から正当化するためにICRPが生まれたという歴史的事実を眩ますために、行われていると考えている。
 
 この歴史的事実は、現在のICRPの権威、その勧告の正統性、客観性を根底から覆すことになる。
 
 テイラーについてはこれくらいでいいだろう。要するにテイラーは、X線防護からスタートして、NCRP設立に深く関わり、ICRP設立に事実上大きな力のあった人物だったというに止まらず、NCRPやICRPが、戦前の「X線およびラジウム放射線防護委員会」との連続性を主張できる根拠は、一貫してテイラーが係わったためだ、と云っても過言ではない。
 
 しかしこれまで見てきたように、戦前の「X線およびラジウム放射線防護委員会」とNCRPやICRPとの連続性、組織的一貫性を主張するのは無理がある。


 
 権威のトンネル装置としてのICRP

 さてここで、テイラーを離れて、ECRR2010勧告「第5章」の記述に戻ろう。

 『 NCRP の議長であるローリストン・テイラー(Lauriston Taylor)は、NCRP の国際版を設立するのを援助したが、おそらくそれはNCRP が合衆国における核関連技術開発に関わっているという明白な証拠から注意をそらすためであったのだろう。そして、放射線のリスク係数に関してのある独立した国際的な合意があることを誇示するためでもあっただろう。その新しい主体は、国際放射線防護委員会(ICRP)と名付けられた。』(翻訳者は“議長”としているが、先のテイラー追悼文記事では私は委員長としておいた。いずれも元の英語は“chairman”である。)

 『 テイラーはICRP の委員会メンバーであり、同時にNCRP の議長でもあった。
 NCRPの第一および第二委員会はICRP と同じ議長(委員長)を重複していた、フェイラとモーガンである。これらの2つの機関の間における個人の相互浸透は、今日におけるリスク評価機関の間における同様な個人の異動の先例になっている。

 その構成員に研究者が在籍し基礎的な研究を実施したり委任したりしているECRRとは異なり、ICRP は常に机の上で仕事をする機関(desk organization)でありつづけてきている。これまでいつも机だけの組織であった。ICRP にはひとりの常勤職員が雇用されており、1980 年代終わりから最近までジャック・バランタイン(Jack Valentin)という科学幹事がいた。それは机上の機関(desktop organization)であって研究はしない。ICRP が利用する情報はUNSCEAR から提供される科学的報告書に頼ってきていると述べている。』

 UNSCEARは「原子力放射線影響に関する国連科学委員会」(United Nations Scientific Committee on the Effect of Atomic Radiation )のことである。定期的に放射線防護に関する報告書を出している。最近では2010年に報告書が出ている。(<http://www.unscear.org/>)

 なお財団法人高度情報科学技術研究機構の運営する原子力に関するWeb辞典「ATOMICA」は、このUNSCEARを単に「国連科学委員会」と訳している。(<http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-02-08-02>)これは誤訳だろう。国連科学委員会は「UNSCEAR」だけではない。あるいはUNSCEARに日本人向けに権威づけるのための意図的誤訳かもしれない。実際ICRPに懐疑的な人も「UNSCEAR」は中立で公正な報告書をだしていると思いこんでいる人も多い。実際はICRP報告もUNSCEAR(アンスケア、と読むのだそうだ)も同じICRP派学者・研究者の報告の使い回しである。

ECRR勧告の第5章は次のように指摘する。

 『 これらの放射線リスク機関には共通している個人がいる。例えば、ICRP とUNSCEARとの間、また合衆国のBEIR VII と国際原子力機関IAEA の間に重複がある。ECRR2003には、当時ICRP の議長だったロジャー・クラーク(Roger Clarke)が、英国国立放射線防護局(NRPB)の局長であったことが報告されていた。クラークはまたリスク係数の決定に責任を負う2007 年ICRP タスクグループの一員でもあった(そして、リスク係数が間違っていることを示しているデータを無視した)。
 
 このタスクグループの議長だったロジャー・コックス博士(Dr Roger Cox)は、NRPB(現在のHPA)の議長であり、ICRP 第1 委員会の議長(2001-2005)であったが、現在はICRP の副議長であり、UNSCEAR2000 報告書を書いた著者でもあった。コックスは、ICRP モデルが間違っている証拠を多数派の最終報告書から排除したCERRIE 委員会にも参加していたし、2005 年の報告書を出した合衆国のBEIRVII 委員会にも参加し ていた。これらのグループが独立した支援のために、お互いに引用する際には、何ら労力は要しない。
 
 IAEA のアベル・ゴンザレス博士(Dr Abel Gonzalez)は、ICRP 委員会の正会員であり、ICRP2007 年報告の草案にも名前を連ねている。スウェーデンのラルク・エリック・ホルム博士は(Dr Lars Eric Holm)ごく最近までICRP の現役議長を務め(2005年から2009年まで)、またスウェーデン放射線防護当局SSI の議長であったし、また2001年にはUNSCEAR の議長であり、UNSCEAR2006 報告書の代表であった。

 ホルムはチェルノブリ事故での全死者は重篤な被ばくをうけた除去作業に従事した30人の労働者に限られていると述べたのが記録されて有名になったが、同様の発言はIAEAのアベル・ゴンザレスによっても公衆の前でまた会議席においても繰り返されている。

 ここで重要なポイントは、各国政府が科学的合意の議論について依存している全ての機関が完全に内部でつながっており、ひとつのリスクモデル:ICRP のリスクモデルに頼り切っていることである。ICRPはそこからの証拠に依存しているそれらの機関から独立しておらず、それらの機関はICRPから独立していない。その体系は内部無撞着であり危険な科学の回勅文書に支えられる要塞都市である』


 全米科学アカデミーの「BEIR」

 つまりICRPは、IAEA、UNSCAER、全米科学アカデミー(BEIR)などといった放射線防護の国際機関や組織のみならず、アメリカのNCRPやイギリスのNRPB、スエーデンのISSなどといった各国の放射線規制当局(日本の放射線審議会などもそうであるが)と人的にもその研究成果も完全につながっており、その権威や学問的正統性もお互いにもたれ合いながら維持しているという構図が浮かんでくる。

 この手の文書でやっかいなのは、やたらと「頭文字機関」が出てくることだ。「IAEA」や「ICRP」などはシロウトの私にもわかるが、「BEIR VII」とか「NRPB」、「CERRIE」などと云われるとさっぱりお手上げである。

 ここは煩雑にわたるが丁寧に調べながら読み進めて行かなくてはならない。

 「BEIR」は全米科学アカデミー(NSA)が定期的に提出する「電離放射能の生物学的影響」(Biological Effects of Ionizing Radiations−BEIR)に関する報告書のことを直接には意味している。

 「BEIR報告書」作成に当たっては、そのつど全米科学アカデミー内部で作業部会が組織され報告グループとテーマが決定される。いままで7回の報告が行われているが、そのつど「BEIR I」・・・「BEIR VII」と呼称されている。直近の報告書は2005年の「BEIR VII」で、この時のテーマは「電離放射能の低線量被曝から受ける健康リスク」(HEALTH RISKS FROM EXPOSURE TO LOW LEVELS OF IONIZING RADIATION)だった。ちなみに1998年の「BEIR VI」のテーマは「室内におけるラドン被曝の健康への影響」(The Health Effects of Exposure to Indoor Radon)だった。

 これまでもっとも議論を呼んだ「BEIR報告書」は、「低レベル電離放射能被曝の集団への影響」(The effects on populations of exposure to low levels of ionising radiation)をテーマとした1980年の「BEIR III」だったろう。(<http://www.jstor.org/pss/3575477>)


 エドワード・ラドフォード

 「BEIR III」の委員長はエドワード・ラドフォード(Edward P Radford)だった。

 ラドフォードは2001年10月に心臓麻痺で亡くなるのだがこの時のニューヨーク・タイムズの訃報(<http://www.nytimes.com/2001/10/22/world/edward-radford-79-scholar-of-the-risks-from-radiation.html>)が簡潔にその時の事情を伝えているので引用しておく。


 『 2001年10月22日付け

 エドワード・ラドフォード、放射線リスクの研究者79歳で死去。
  
エドワード・ラドフォード博士は、放射線被曝のがんに対する高リスク推定問題を精力的に推進して来ておりまたその立場は事実上支持されていたが、この10月12日イギリス、ヘイゼルメアの自宅で死去した。79歳だった。

 家族によれば死因は心臓麻痺だった。
 
 ラドフォード博士は、発電所やX線のような人工放射線源でがんが発現するアメリカ人は0.5%にのぼることを指摘した1979年の最初の報告書を公表した全米科学アカデミーの委員会の委員長だった。
 
 この報告書はペンシルバニア州のスリーマイル島原子力発電所事故直後に発表となるものだけに広く期待を集めたが、この報告書を準備したグループ、すなわち「電離放射能の生物学的影響委員会」(the Committee on the Biological Effects of Ionizing Radiation)の数人の委員から、鋭い批判を受けた。
 
 21人の委員からなる委員会は割れ、立ち往生した。アカデミー全体の意見は報告書は撤回するというものだった。そしてこの報告書は撤回され、翌年、リスク推定を基本的には半減させるような見直し報告が公表された。ラドフォード博士はその結論の受け入れを拒否した。
 
 博士は、被曝が小さいものとはいえ、あるいは最も線量レベルが低い時ですら、リスクは存在することを示すモデルを主張した。一方反対派は、それ以下では害がないしきい値が存在するとするモデルに好意的だった。
 
(ラドフォードはがん発現が起こらない被曝線量はない、と主張したのに対して反対派はリスクのない被曝線量は存在する、とするモデルに好意的だった。)
 
 この委員会の結論は核産業(the nuclear industry)にとって極めて重要だった。というのは、この結論は環境保護局(the Environmental Protection Agency−EPA)が放射線防護基準を更新するに際して使用されるからである。委員会の一人の委員はラドフォード博士について「もし指針レベルが彼の望むレベルに下げられれば、核産業などは存在できなくなるだろう。」と云った。
 
 その時以来、ラドフォード博士の考え方は放射線を研究する他の多くの機関から支持されてきた、と全米科学アカデミーの放射線影響研究委員会のディレクター、エバン・B・デュプル博士(Dr. Evan B. Douple)はいう。「博士は放射線防護基準に関する議論に大きく貢献した、歯に衣をきせない(outspoken)人だった。」
 
 またラドフォード博士は紙巻きタバコ(シガレット)に関する研究、特に1960年代の一連の発見における研究でよく知られている。それはタバコの中に放射性ポロニウム210が存在しており、喫煙者の肺臓器に達する。彼とその同僚グループによれば、集積が十分高まれば、放射能は肺がんの要因になりうる、とするものだった。』
 写真はエドワード・ラドフォード。自分の研究室でのスナップだと思える。ラドフォードが1964年から1967年までディレクターを務めたシンシナチ大学の環境保健学部のサイトよりコピー貼りつけ。
http://www.eh.uc.edu/dept_
history_radford.asp

 ややラドフォードにのめり込みすぎかもしれないが、全米科学アカデミー全体の放射線防護に対する姿勢や、「BEIR」がどのような背景で成立してきたかを知るには格好のエピソードだろう。なおECRR2010年勧告はその献辞のページに、「本委員会はこの版をエドワード・ラドフォード教授の思い出に捧げる。」と書いており、ラドフォードの有名な次の言葉を引用している。

 『 “There is no safe dose of radiation.(放射線に安全な線量はない)”』

 全米科学アカデミーも全体として、あるいは主導権を握る側もまたICRPと通じ合っていることを知っておけば十分だろう。


 ロジャー・クラークと英NRPB

 『 ・・・当時ICRP の議長だったロジャー・クラーク(Roger Clarke)が、英国放射線防護局(NRPB)の局長であったことが報告されていた。クラークはまたリスク係数の決定に責任を負う2007 年ICRP タスクグループの一員でもあった。』

 と実にすらっとECRR2010年勧告は書いている。しかしよく読むと実は大変な記述である。というのは、ICRPは国際的に独立した、公平中立な放射線科学研究組織であり、その権威を背景に放射線防護に関するリスクモデルを作成し、世界の放射線規制当局に勧告し規制当局はそれぞれの国民の放射線防護のための行政を執行している。ところが、イギリスの放射線規制当局の責任者がICRPの委員長(議長)となり、またそのリスク係数の決定にも係わっていたというのだ。
 
 放射線規制とそれに対する勧告が同一人物の手で行われている、ということは何を意味しているのだろうか?それは規制当局が望む勧告を出そうと思えば出せることを意味している。また規制当局は核産業の望む方向で規制行政を行うことが出来るという事も意味している。(日本の原子力安全保安院が原発推進に熱心に取り組んできた産業経済省内部に設置されているというおかしさにもよく似ている。)
 
 英国放射線防護局(National Radiological Protection Board -NPRB)は、1970年の「放射線防護法」( the Radiological Protection Act)によって設立された。この時は電離放射線関する研究・調査を行い、その防護について政府関係機関に対する意見具申を行うというものだった。74年にその守備範囲に非電離放射線も加えることになった。委員は委員長以下12名と定められすべて保健大臣が任命する。職員は通常平均して300人位と云うから本格的な研究は出来ないだろう。

 『 NRPBは、ICRP、国際非電離放射線防護委員会(ICNRP)、国連原子力放射線影響科学委員会(UNSCEAR)、IAEA、欧州委員会の様々な関係諸委員会などと緊密な連携関係を持っている。』(<http://en.wikipedia.org/wiki/National_Radiological_Protection_Board>)

 2005年の新放射線防護法によって、NRPBはイギリス健康防護局(the Health Protection Agency −HPA)の一部局となった。
 
 ロジャー・クラークは、2003年から2005年までNRPBの局長(director)を務めている。
(<http://www.hpa.org.uk/web/HPAwebFile/HPAweb_C/1194947382533>および<http://www.hpa.org.uk/web/HPAwebFile/HPAweb_C/1240212770058>)
 
 前述のごとくNRPBは委員会形式の委員長がトップであり、委員はすべて保健大臣の任命であるが、クラークの役職は委員ではなくディレクターである。恐らくはNRPBは委員会形式の意志決定組織と執行組織とに別れ、クラークはその執行組織の最高責任者だったのだろう。
 
 そしてクラークは1993年から2005年までの間ICRPの委員長(議長)だった。
(<http://www.icrp.org/icrp_group.asp?id=6>)

 
 だからクラークがNRPBの局長だった時代とICRPの委員長だった時代は完全に重なっており、局長以前から長くICRPの委員長だったことになる。
 
 実はクラークの経歴はWebでは見つからなかった。実に不思議なことだが、ICRPのサイトを見ても歴代委員長の経歴には全く触れていない。これだけ放射線防護について世界唯一の権威をもつ組織なのに、委員長の経歴が一切書かれていない。これはどうしたことだろうか?
 
 クラークの名前は、「低線量放射線キャンペーン」(THE LOW LEVEL RADIATION CAMPAIGN)というサイトの「Government records altered in cover-up」というページの中に出てくる。(<http://www.llrc.org/rat/subrat/windscale.htm>)
 
 話は1957年のウインズケール(現在のセラフィールド)核施設における原子炉火災事故である。この時相当の放射性物質が周辺に流れた。その時風の向きで放射性物質はマン島のあるアイリッシュ海はもちろんそれを越えてアイルランドまで達し、アイルランドの首都ダブリンにまで達した。ロジャー・クラークはこの説に反論する人物として登場する。事実はこの時の事故でもっとも汚染されたのはアイリッシュ海であり、アイルランドだったことを頭に置いておいて欲しい。

 『 しかし1974年ロジャー・クラーク(現在のNRPB局長)(この説に)不同意だった。彼は云う。風は北西から吹いた。放射能は(アイリッシュ海側ではなく、イギリス本土の)内陸部に達した。だからアイルランドやマン島に対しては意味のある被曝線量はなかった、とクラークは述べた。』

 ロジャー・クラークは、恐らくはイギリス政府内部の放射線防護の行政専門家としてNRPB内部で持ち上がった人物であり、一貫して「核の利用」を擁護してきた人物だったろうと、私は想像している。(そんな人物はこの地球上に掃いて捨てるほどいる。)


  ロジャー・コックス
 
 『 ロジャー・コックス博士(Dr Roger Cox)は、NRPB(現在のHPA)の議長であり、ICRP 第1 委員会の議長(2001-2005)であったが、現在はICRP の副議長であり、UNSCEAR2000 報告書を書いた著者でもあった。コックスは、ICRP モデルが間違っている証拠を多数派の最終報告書から排除したCERRIE 委員会にも参加していたし、2005 年の報告書を出した合衆国のBEIRVII 委員会にも参加していた。これらのグループが独立した支援のために、お互いに引用する際には、何ら労力は要しない。』

 先にも見たようにNRPBはイギリス健康保護局(the Health Protection Agency −HPA)と同じ組織ではない。この記述の仕方は誤解を招くであろう。NPRBはHPAの重要一部局となったと云うべきであろう。ロジャー・コックスは現在NRPBの放射線影響部の局長。71年にイギリス医学研究審議会放射線部会(MRC Radiobiology Unit−MRCそのものはイギリス政府の一部局ではあるが医学分野では権威がある)に入った。コックスはそこで放射線照射後細胞修復、突然変異、腫瘍の成長など分子細胞レベルの研究に携わった。NRPBに入ったのは1990年で、それ以降はずっとNRPBに所属しているが、この分野でEUの研究機関と提携を持って行った。現在コックスは様々な国内的また国際的な放射線影響や放射線防護に関する機関に係わっている。(内部被曝および外部被曝両方に係わる研究)

 こうした機関にはNRPBの電離放射能に関する諮問グループ(1995年から現在まで)、ICRP(1989年から現在まで)国連原子力防護科学委員会(UNSCEAR−1989年から−93年まで。1996年から現在まで)、全米科学アカデミーの「BEIR VII」など含まれている。(以上CERRIEのサイト、「ロジャー・コックス博士」の紹介記事による。<http://www.cerrie.org/people/cox.php>)

 これで見る限りロジャー・コックスはイギリス放射線防護局(NRPB)に属しながら、世界のあらゆる放射線防護の権威機関に属している、ということがわかる。


 イギリスのCERRIE
 
 CERRIE(Commitee Examining Radiation Risks of Internal Emitters「内部照射放射線リスク検証委員会」) (<http://www.cerrie.org/>)は、2001年イギリス政府内部設立された委員会。
 
 CERRIEのサイトは自らを次のように説明している。
 
 『 2001年、環境大臣のマイケル・ミーチャー(Michael Meacher)は、体の中に取り込んだ放射性物質の健康へのリスクを推定するモデルを見直すと発表した。この見直し作業のため「内部照射放射線リスク検証委員会」(CERRIE)が作られた。この委員会は2001年から2004年まで作業をし、2004年に最終報告を提出した。この委員会は、環境・食品・農村問題省(Department for the Environment, Food and Rural Affairs)と保健省(Department of Health)が資金を提供したが、完全に独立した組織であった。』

 この委員会が出来た背景には、チェルノブイリ事故の放射線影響、あるいは古くはウインズケールの原子炉事故など原子力発電所事故などで発生した様々な放射線障害(そのほとんどは低線量内部被曝)の発生で高まってきたイギリス大衆の不安があった。と同時に伝統的なICRPモデルへの不信感の高まりがあったと言えよう。
 
 『 CERRIEへの委任事項は、人体内部における放射性核種からの放射線被曝に適応できるような現在の健康と放射線のリスクモデルに最近の研究と必要と思われるさらなる研究の光にあてて、考察するとことにあった。』

 『 CERRIEはイギリス政府の「環境における放射線の医学的見地に関する委員会」(Committee on Medical Aspects of Radiation in the Environment −COMARE)の支援のもとに設定された。』

 問題は2004年10月その最終報告をまとめる際に発生した。CERRIEの委員会メンバーは11名で、そのほかに2名の事務局担当者がいたが、最終報告をまとめる際に州数意見を全く無視した形で報告書を作成した。委員の中には、例のNRPBのロジャー・コックスもいたし、グリーン・オーディットを代表してクリス・バスビーもいた。バスビーは欧州放射線リスク委員会(ECRR)の科学幹事でもある。こうして低線量内部被曝の危険に警鐘を鳴らす少数派の意見は全く最終報告から削られてしまった。


 (以下そのBへ)