(2010.7.14)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

3.ソ連参戦が対日戦争終結の決め手

ポツダムにおけるトルーマン

 早い時期から、トルーマン政権は対日戦争の決め手は、「ソ連の参戦」だと考えていたことは先にも見た通りが、7月17日からはじめるポツダム会談時点では、少なくともトルーマンの信念にまでなっていたようだ。

 ポツダム会談の開始された7月17日の初日、トルーマンはお昼12時にスターリンと会談することになっていた。その日のトルーマン日記には、次のような記述がある。

 かっきり12時2−3分前に、デスクから顔を上げると廊下にスターリンが立っていた。私は立ち上がってスターリンに近寄った。彼は大きく両手を拡げ、私に笑いかけた。私も同じようにし、お互い握手した。私はモロトフと通訳に会釈し、それからみんなで腰を下ろした。』
 私はスターリンに、自分は外交官ではない、しかし一通り議論をしあい十分話を聞いた後なら問題に対してイエス・ノーをはっきりするタイプだ、と云った。
 彼は気に入ったようだ。
それから私はスターリンに何か特別な議題があるかと尋ねた。
 スターリンはあると答え、それから質問してみたいこともあると云った。私は何でもいいから聞いてくれと云った。彼は質問をした。その内容は爆弾みたいなものだ。
 しかし爆弾なら私も持っている。今は爆発させないが・・・。スターリンはフランコを攻撃したがった。私に異議はない。それからイタリアの植民地や委任統治領の分割についても異議はない。ただしそれらのいくつかはイギリスも欲しがっていることは疑いようがない。それからスターリンは中国との情勢について話してくれた。何が合意に達し、何が保留中であるかに関して。
 彼はジャップとの戦争に8月15日に参戦するつもりだ。
 ソ連がやってくればジャップも一巻の終わりだ。
 私たちは昼食を共にし、なごやかに歓談し、本当らしく見せかけ合い、みんなに乾杯し合った。それから裏庭で写真をとった。スターリンとはやっていける。正直な男だ。しかし悪魔のように頭がいい。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman1945_7_17.htm>)

 「しかし爆弾なら私も持っている。」とは云うまでもなく、前日16日に実験に成功した原爆のことだ。しかし、この時点ではまだ実験の詳報はポツダムには届いていない。

 この時スターリンは約束に従って対日戦に参戦する日取りを8月15日だとトルーマンに告げる。「ソ連がやってくればジャップも一巻の終わりだ。」とは、ソ連参戦で天皇制軍国主義日本は「降伏」を申し出るだろう、というトルーマンの見方を示している。

 またトルーマンは、自分の妻ベス宛の手紙の中で、「私はソ連を対日参戦させるために、ポツダムに来た。」とまで言い切っている。
(スティムソン日記の註<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450723.htm>)


原爆投下指示と公式見解の矛盾

 通常の公式見解「対日戦争終結のために日本に対して原爆を使用した。」というのなら、トルーマンはこの時点で「ソ連参戦」で対日戦争終結、と考えており、しかもその日付は「8月15日」とスターリンがはっきり約束したのだから、「原爆使用」に踏み切る必要はなかった、という疑問が残る。ここが「原爆不必要論者」の一つの根拠になるわけだが、実際にはトルーマンがまだポツダムにいた7月25日は、陸軍参謀本部陸軍参謀総長代行のトーマス・ハンディの名前で陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツにあてて、

 第20航空隊509混成航空群は、1945年8月3日以降、有視界爆撃が許される天候と成り次第、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかを攻撃目標として、最初の特別爆弾を運ぶこと。』
    と云う内容で、日本に対する原爆攻撃の正式指示が出されている。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/1945_7_25_Carl_Spaatz_thos_t_handy.htm>)

 だから予断なく事態を眺めてみれば、「日本に対する原爆使用」は、対日戦争終結のためではなく、別な目的のために「意図」された、と考えるべきだが、ここではとりあえず、疑問が残る、という程度に止めておこう。

 ただし、原爆問題が対日戦争と絡む形で、政権内部の議論の対象になっていたことも事実だ。45年6月26日から30日の間に書かれたスティムソン日記(日付が書かれていないが前後の日付からこの間に書かれたと推定されている。)に次のような記述が見える。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450626-30.htm>)


 今朝の3省会議は、フォレスタレル、グルー、そして記録係に(J・J)マクロイ、海軍の法制顧問としてコリアが出席した。』

 3省会議は陸軍省、海軍省、国務省である。ジェームズ・フォレスタレルは海軍省長官、ジョセフ・グルーは日米開戦時の駐日アメリカ大使でこの時期国務省のNo.2だった。当時国務長官はエドワード・ステティニアスであったが、ステティニアスは、国際連合創設のためサンフランシスコに駐在していた。だから通常の国務長官の仕事は代行のグルーが担当していたのである。ステティニアスは国連創設の目処がつくと、6月終わりに辞任し、替わりに国務長官に就任したのが、ジェームズ・バーンズである。

 私は(スティムソンは)(この会議が始まって)すぐに日本を十分叩いた後、S−1(マンハッタン計画で開発される原爆の暗号名)で叩くことになるが、警告を出して降伏させる議題を提出した。戦争を早期終結に持っていくために、あらゆる努力を尽くした、ということでなければ、アメリカ(の人道主義)が納得しない、ということを私が強く感じていた案件である。』

 これは、日本を最終的に降伏させるためには、原爆投下が必要だ、だが、その前に日本に対して警告をして置かなければならない、と読むこともできる。しかし、「戦争終結のために原爆が投下された。」という先入観を排して読むと、別な解釈もできる。

 すなわち、「日本を降伏させるために十分叩く、それとは別に原爆を投下することになっているのだが、これは事前に警告をしておく必要がある。人道主義国家アメリカは、戦争早期終結のためにあらゆる努力をした、ということでなければならない。」とも読める。

 原爆投下の警告が、当時の日本の天皇制軍国主義にどれほどの効果があったか、それは誰にもわからないが、アメリカの主観の上では、早期終結に効果があると考えられたであろう。

 それと、この文章が『私は大統領に対して出す手紙の原稿(これはポツダム宣言の草稿のこと。)を書いており、これをみんなに読み上げた。』と続いているように、日本に対して原爆投下の警告を出す件を、ポツダム宣言に盛り込むか、盛り込まないか、という問題につながっていることに注意すべきだろう。

 すなわち、ポツダム宣言で「原爆投下の警告」をしておけば、対日戦争終結にあたって、アメリカはあらゆる努力をした、という体裁が整えられる、とスティムソンが考えていたことは明白だ。

 しかし、これを「原爆の対日使用」が、対日早期戦争終結のためだった証拠と見るのは、これもいささか早計だ。もう少し吟味しておく必要がある。


原爆使用対日警告問題は決着済みではなかったか?

 これに関連して湧く疑問は、「原爆使用対日警告問題」はすでに決着済みではなかったか、という疑問だ。

 というのは先ほどの暫定委員会は、すでに6月1日の委員会で、

 バーンズ氏は次のように勧告し、委員会全体はそれに同意するものである。陸軍長官に以下の如くアドバイスがなされるべきである。最終的投下目標の選択は基本的に軍の決定に任すべきと云う共通認識を土台とした上で、現在の所の我々の見解は、できるだけ早く日本に対して原爆は使用さるべきである。また工場従事者の住宅に囲繞された軍事工場に対して使用さるべきである。さらに事前の警告なしに使用さるべきである。テストで小爆弾を用い、そして日本への最初の一撃は大型爆弾(発射型 ここではGun Mechanism と言う英語が使われている。ウラン爆弾が一方から他方へウラン同位体U-235を発射してぶつけ、核分裂の連鎖反応を起こさせる構造をもっていたことからこう呼んだと思われる。)を用いることになる。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_6_1.htm>)

 と決定し、「事前の警告なし」の使用が決まっていたからである。

 ここでバーンズ氏、といっているのは7月1日から国務長官に就任するジェームズ・バーンズのことである。暫定委員会が初会合を開くのは、45年5月9日のことだが、ジェームズ・バーンズは大統領特別代表として暫定委員会の委員に就任していた。

 つまりバーンズは、6月1日の暫定委員会で、原爆の警告なしの使用を提案し、暫定委員会の同意を得ていた。だから6月最終週でスティムソンがなおもこの問題にこだわるのは、筋としておかしなことになる。だから、スティムソンは「警告なしの使用」に対しては心底納得していなかった、ということになる。


原爆実験と投下を何故急いだか?

 それと、この暫定委員会では、注目すべき決定も行われている。すなわち最初に日本に対して使用する原爆のタイプは「発射型」だというのだ。すなわちウラン型原爆である。7月16日にアラモゴードの実験で炸裂する原爆はプルトニウム型だった。

 つまり実験で確認されたプルトニウム型を使用するのではなしに、ウラン型の原爆(これは後にリトル・ボーイと呼ばれる)をぶっつけ本番で使用することを決定している。これは決定した、というより他に選択肢がなかったからだ。

 つまり当時の原爆開発状況からして、まずプルトニウム型が完成した。だからこれを実験用とした。この実験もポツダム会談までに間に合わせなければならない。そのために、ポツダム会談を2週間遅らせたほどだ。

 そして実験を7月16日強行した。強行したというのは当日アラモゴードの実験場は相当の荒れ模様だったからである。慎重を期すなら延期してもよかった。しかし、グローブズにはポツダム会談前には実験に成功しなければならないという使命があったのである。

 プルトニウム爆弾の実験は大成功だった。そうしたら何故広島の原爆でこの成功済みのプルトニウム型を使わなかったのか、という疑問が起こる。理由は単純である。次に先に、完成するのはウラン型とわかっていたからである。

 だからこの日の暫定委員会で最初に対日使用するのはウラン型と決定した。決定したというより、他の選択肢がなかった。

 長崎にプルトニウム型原爆が投下されるのは8月9日である。広島のわずか3日後である。先ほども触れた原爆投下指示書では「8月3日以降有視界爆撃が許す限り」となっていたので、8月6日からさかのぼったとしても8月3日。

 当時トルーマン政権の判断ではこの3日、精々いって1週間が待てなかったのである。それほど原爆の使用を急いだということでもある。

 この点は後ほどくわしく触れることになるが、「広島に何故原爆が投下されたか?」の謎を解く重要な鍵の一つとなる。

 現在時点では、45年6月頃トルーマン政権内部で、「日本に対する原爆使用」問題が「対日戦争早期終結」問題と絡めて議論が行われた形跡があるということ、そしてその議論は、ポツダム宣言に「原爆使用問題」をどう盛り込むかと言う形で行われたこと、の2点を確認しておけば十分だろう。

 実際には、6月1日の暫定員会の決定通り、「日本への原爆使用」は警告なしに行われたし、ポツダム宣言でも「原爆投下問題」には一切触れなかった。


原爆実験成功の詳報がポツダムに到着

 45年7月21日には、待望の「アラモゴード原爆実験」の詳報が、グローブズからポツダムのスティムソンに届いた。

 この日のスティムソン日記。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450721.htm>)


11時35分、グローブズ将軍の特別報告が、特別クーリエによってもたらされた。
それは驚くべき強力な文書だった。明確で良くできており、われわれを支える文書として最高度の重要性をもっていた。
 実験の大きな成功に関する完全で雄弁な報告書であった。

なお、このグローブズのスティムソンあての報告書は、現在トルーマン・ライブラリーで読める。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/
bomb/large/documents/pdfs/2.pdf#zoom=100
>。案件名は単に「実験」“The Test”としているだけだ。なお私自身はこの報告書の日本語化はしていない。)

 予測していたよりS−1は、はるかに大きな破壊力を持っている。
 できるだけ早い時間に大統領に会えるよう面会を申し込んだ。それは3時30分だった。
 3時に統合参謀会議から戻ってくるマーシャルを見つけ、彼の宿舎にいそいだ。グローブズの報告をマーシャルに読ませ、それを確認させた。』

 アラモゴードに実験が予想以上成果だったことに対する、スティムソンの率直な喜びと驚きが表現されている。その喜びは、「これで日本は降伏する。対日戦争は終結する。」という喜びだったかというと、そうではなく「これで、ポツダム会談でスターリンと交渉する決定的カードを手に入れた。」という喜びだった。

 トルーマンに会うまでにまだ30分ある。そのわずかな時間の間に、マーシャルを見つけ、彼にこの報告書を読ませている。

 この日のスティムソン日記を続けよう。
 それから、リトル・ホワイトハウスに行って、トルーマン大統領に面会した。
 私はバーンズ長官も呼び入れることを求め、その報告書を読み上げた。
 それから議論した。2人とも(トルーマンとバーンズ)、この上ない喜びようである。大統領はその報告書でみるみる元気づいた。面会の間中、何度も何度もそのことについて私に語った。
 彼はその報告書で完全に自信をつけたといった。そして私にポツダムに一緒に来てくれて、このような形で助けてくれてありがとうといった。』

 トルーマンとバーンズも、もちろん対日戦争終結を確信して喜んだわけではない。スターリンとの交渉の切り札を手に入れたことを喜んだ。 

 それから、スティムソンはチャーチルの宿舎に向かった。チャーチルはいた。

 再びこの日のスティムソン日記の続き。

 それからリトル・ホワイトハウスを辞去し、(ウィリアム)バンディ(陸軍長官補佐官)を連れ出して、首相(チャーチル)の宿舎へ向かった。
 そして、彼とチャーウェル卿(チャーチルの側近)にこの問題を確認した。
 私はチャーチルに報告書を手渡し、彼は読み始めたが5時ちょっと前に中断した。
 5時から3巨頭会談が始まるので、(チャーチルは)そちらに急がなければならなかった。
 彼は翌朝までに読みあげておくから明日その報告書を返却したいと依頼した。』

 チャーチルは5時からの3巨頭会談に臨むため、この報告書を読み切ることが出来なかった。報告書を預かって会談終了後に読み上げる。


態度を一変させたトルーマン

 その翌日のスティムソン日記。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450722.htm>)


10時40分、私とバンディは再びイギリス本部を訪問して、首相(チャーチル)とチャーウェル卿と1時間以上も話をした。
 チャーチルはグローブズの報告を完全に読んだ。
 彼(チャーチル)は昨日の3巨頭会談の時に気がついたこととして、何かが起こってトルーマンが極めて強硬になったこと、ロシアに対して威勢良く、また決定的な態度で対峙したこと、またロシアが受け容れがたいような要求に関しても断固としており、またアメリカも真っ向から対抗しているような、そういう態度になったことにも気づいた、と私に云った。
 チャーチルは、「今はトルーマンに何が起こったか、私にも分かるよ」と云った。
この報告を読んだ後、会談(7月21日午後5時からの3巨頭会談)に臨み、トルーマンは一変した。
 トルーマンは、ロシアに対してあれこれ指図する様な物言いになり、会談全体の決定者のようにものをいうようになった。
 チャーチルは、トルーマンがいかに突然元気づいた(pepping up)か、よく分かるし、チャーチル自身も同じように感じる、と私に云った。
 彼自身の姿勢も同じようなったとチャーチルも云った。
チャーチルは今やこれに関する情報をロシアに出そうかどうしようかと心配しなくなっただけではなく、ロシアとの交渉で優位に立てるようにこれを使ってやろうかと傾きかけてさえいる。
 われわれ4人の気持ち(チャーチル、スティムソン、バンディ、チャーウェル卿)は、最低限、この仕事(原爆の開発のこと)にわれわれが従事してきており、もしそれが成功裏に終わったら、(原爆を日本に対して)使用するつもりだ、ということをロシアに云った方がいいという思いで、一致していた。』

 よく知られている話だが、イギリスも当時「チューブ・アロイ計画」で原爆開発を行っていたが、ドイツの戦局の悪化やイギリス自身が余裕がなくなってきたことなどから、後に「マンハッタン計画」に合流した。この意味では、イギリスもマンハッタン計画の共同開発者の立場にいる。

 報告書を読んだトルーマンが、その直後のスターリンとの会談では、一変して決定者のように振る舞った、トルーマンに何が起こったのか、訝しく思っていたが、この報告書を読んだので、トルーマン一変の理由がよく理解できる、とチャーチルはスティムソンに感想を語っている。

 重要なことは、「アラモゴードの原爆実験成功」の詳報を、トルーマンもバーンズもチャーチルも、スティムソンも、そして恐らくスターリンも、誰一人として直接「対日戦争終結」と結びつけて考えた人間はいなかった、ということだ。

 みんな等しく「アメリカが対ソ交渉の決定的切り札」を手に入れた、と考えた。

 これは後に詳しく論ずる機会があると思うが、一つの重要な問題を含んでいる。


「対ソ冷戦」の主導権を取るため?

 話は先走る。

 「原爆は対日戦争終結のために使われた。」、少なくともトルーマン政権の意図はそうだった、とするアメリカの公式見解は、恐ろしくウソで塗り固めたプロバガンダであることは、これから徐々に見ていくことにするが、それでは何故45年8月の時期に、日本に対して原爆の使用をしたのか、という疑問は当然の如くわき出てくる。

 これに対する回答の中でも、ヨーロッパやロシアの歴史学者の間では、主流となっている考え方の一つが、「戦後ロシアとの冷戦を有利に運ぶため」という説だ。

 私も基本構図はそうだったと思う。しかし、それでは不十分なのだ。戦後ロシアとの冷戦を有利に運ぶためなら、広島・長崎に原爆を投下する必要はなかった。アラモゴードで行った原爆実験の結果を発表するだけで済む。ソ連に対してはこれだけで十分な脅威になった筈だ。
トルーマン政権には、どうしても使用しなければならない積極的な理由がなければならない。言い換えれば「何が原爆使用の決定的要因」だったのか、トルーマン政権の政策意図は何だったのか、という問題である。後ほど詳しく論ずることになるだろう。


(以下次回)