(2010.7.15) |
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ |
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これまで、トルーマン政権が対日戦争終結の最大の要素の一つとして「対日戦ソ連参戦」を「降伏の条件」として考えていたことを見てきた。この点について異論のある学者や研究者は恐らくはあるまい。私はそのことを日本ではあまり使われていない資料を使って論じたに過ぎない。
「ソ連参戦」問題と並んで、日本が降伏する条件のうち、決定的要素の一つと考えられていたのが「天皇制存続承認」である。「天皇制存続」の承認ないしは保証が日本の「降伏の条件」だ、とトルーマン政権が見ていた、という点を次に検討することにする。
第一に、天皇制存続を条件として日本が降伏する場合、厳密に言ってこれは「無条件降伏」ではないことに注意しておいて欲しい。
先ほども登場した国務長官代行のジェセフ・グルーやスティムソン、あるいは陸海軍のインテリ層には、こうした見解の持ち主がいた。すなわち「純軍事的に見て完全敗北しているのに、日本が頑強に抵抗するのは、天皇制存続に固執しているからだ。天皇制存続を認めれば日本は降伏する。」という見解である。
ただし全体から見ると少数派だ。スティムソンは日本理解と云うことになると頑迷固陋なアメリカの体質を次のように嘆いている。
ギルバートとサリバンの「ミカド」は、イギリス・ビクトリア王朝時代に大ヒットしたオペレッタである。「ミカド」の国「ティティブ」を中心に繰り広げられる荒唐無稽な話であるが、これが英米人の一定の日本観を形成した。
だからといって、グルーやスティムソンを「知日派」だの「親日派」だのというにはあたらない。彼らは長期的なアメリカの利益を考えて、日本を研究し、その結果を政策化しただけだ。対象とする国を研究するのは責任ある政治家としてある意味当然のことだ。
また天皇制廃止論者は国務省の内部にも根強かった。同じ日の日記にスティムソンは次のように書いている。
『 |
非常に奇妙なことだが、国務省の影響力のある人々の中にも、こうした扇動的言辞が、心の奥深く埋め込まれていることを、今日私は気がついた。
ハリー・ホプキンス(ルーズベルト大統領とトルーマン大統領の特別顧問で一貫して対ソ交渉を担当していた。)は、非常に有能でいいセンスの持ち主だが、対天皇強硬派の一人だ。
アーチボルト・マクライシュ(広報文化担当の国務長官補佐官)、ディーン・アチソン(当時議会担当の国務長官補佐官。この後国務次官となり、1949年バーンズの後、国務長官に就任している。トルーマンよりトルーマン・ドクトリンに、マーシャルよりマーシャル・プランに、責任ある人物としても有名である)も、同様な考え方の持ち主だ。この三人は、対天皇強硬派としては突出している。』 |
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しかし、スティムソンらの主張はトルーマン政権内部において、日本の敗北が決定的になるにつれて、主流となっていった。
45年7月24日といえば、トルーマンはもちろん、スティムソンもまだポツダムにいた頃だ。21日には前述の如くグローブズからの「原爆実験成功の詳報」も届き、トルーマンの態度を一変させていた。7月26日にはポツダム宣言が出されることになっている。7月17日から始まった「ポツダム会談」も山場にさしかかっていた。
この日スティムソンは、ポツダム近郊のリトル・ホワイトハウスでトルーマンと会談し、「天皇制存続」を何らかの形で保証しておくことの重要性を説く。特にポツダム宣言の中にそのことを明記しておくことを説いた。
ポツダム宣言の草稿はスティムソンのチームが中心になってしたが、スティムソンの草稿では「もし、そのような政府(軍事を持たず民主的な平和国家となった日本政府)が世界征服を目指さないと、世界が完全に同意する形で示すことができるなら、現在の体制の下での立憲君主制を含むかも知れない。」という文章が入っていた。
しかしこの文章は、すでにトルーマンの同意を得て、バーンズが削除していた。そしてこの24日の時点ではすでにスティムソンも「天皇制維持条項」とも云うべき一文がポツダム宣言から削除されていることを知っていた。
しかしなおも7月24日、スティムソンはトルーマンに食い下がる。
『 |
・・・それから私は、日本の天皇制維持について再保証しておくことの重要性について話をした。
公式の警告(ポツダム宣言中の降伏勧告条項のこと)にそのことを挿入しておく事は重要だと私は感じており、言葉として表現しておかないと、(日本のポツダム宣言受諾を)損なうかも知れないとも感じている。しかし私がバーンズから聞いたところでは、その文言は挿入されないと云うことだ。
しかし今やそのような変更は、蒋介石に送るわけにはいかないだろう。大統領が第三国の外交チャネルを通じて、口頭でもいいからその旨を伝えて、再保証することが望ましいと思う。彼は心にとめておいて、何とかしようと云った。』 |
ここでのポイントは、「スティムソンが口頭でもいいから天皇制存続を何らかの形で保証しておくことだ。」と述べ、「トルーマンが何とかしよう」と答えた点にある。しかし、ポツダム宣言時にトルーマン政権側から「天皇制存続」を口頭で日本側に伝えた、という証拠はない。
なお、スティムソン日記はキチンとタイプ打ちされているが、この日の日記には手書き部分が書き加えられており、内容は「H・Tに警告で天皇の事の重要性を云う。バーンズが削除してしまった。」となっている。H・Tとは「ハリー・トルーマン」のことだ。「削除してしまった。」は“struck
that out”である。
「変更を蒋介石に送るわけにはいかない。」というのは、蒋介石がポツダムにいなかったからだ。ポツダム宣言はアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中国総統の名前で発表されるが、抗日戦争中の蒋介石はポツダムに来られない。そこで、宣言の内容を電信で蒋介石に送ってその同意を得ていた。だから、いまさらもう一度変更を蒋介石に送って、その同意を求めることは、7月26日発表、という日程を考えると無理だ、という意味である。蒋介石どころか、この時チャーチルもポツダムにいなかった。イギリス総選挙で本国に帰っていたのである。この時のチャーチルは選挙に負けて再びポツダムに首相として戻ってくることはなかった。スターリンはポツダムにいたが、この時は参戦前であり、まだ日本に対しては中立国だったので、宣言には加わらなかった。
だからポツダム宣言は、トルーマンがイギリス首相、中国総統の了解を得て、2人の代筆署名を含んで3人分署名したのである。 |
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「天皇制存続」はこの頃にはアメリカ軍部全体の総意になっていたようだ。しかも、これは「天皇制存続」が日本降伏の決定要件という観点から一歩も二歩も進んで、日本武装解除・日本占領の容易性、その後の占領政策のスムース化といった論点から論じられていた。
スティムソンは、「天皇制存続問題」は、「対日戦争終結の要」と見ており、トルーマン政権内部の意思統一を図ろうとする。
7月26日にはポツダム宣言が出され、7月27日(日本時間)には鈴木貫太郎内閣のいわゆる「ポツダム宣言黙殺声明」が出される。日本側から見れば、ポツダム宣言には、大いに興味はあったが、なおも有利な降伏条件を獲得しようとして、虚勢を張ったという所だが、すくなともトルーマンはそうは取らなかった。
後年トルーマンは次のようにいったそうだ。
8月2日、スティムソンはマーシャルと対日政策について話し合う。
『 |
今日、私はマーシャルに対日政策に関する報告を見せた。(この報告書は民政局)クロスマンが私の所へ持ってきた。(後で知ったが)空軍のデ・フロスト・スリックマン大佐が起草したものだった。私は、誰が書いたか知らないが、良くできていると、とマーシャルにいった。
後でマーシャルから教えてもらったのだが、マッカーサー大将も日本に対する政策としてほぼ同じような内容の進言をしているとのことだった。』 |
スリックの起草した対日政策に関する報告は、以下が骨子だった。
『 |
連合国は2つの理由で、天皇の在位を進言している。
1. |
アメリカの世論は、戦後長期間にわたる日本占領を嫌っている。日本の政府がアメリカを受容しやすくすることを含めて、アメリカの政策を(日本に)示唆するのに天皇は使えるのではないか。 |
2. |
日本国外に存在する日本軍が即座に降伏するに際して、天皇在位はその保証を与えるであろう。』 |
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要するに、「天皇制存続」を日本降伏の決め手として使うばかりでなく、武装解除・日本占領に際しても、天皇の権威を積極的に利用していこうという考え方だ。実際マッカーサーの日本占領及び占領政策は、この狙い通りに進展していく。
この時点では、天皇制存続はスティムソン、マーシャル、マッカーサーを含めて、アメリカ軍部の合意事項となっていたようだ。 |
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であるならば、トルーマン、バーンズは、スティムソンの草稿通りに、ポツダム宣言に「天皇制存続条項」を残して置いても良かったのだが、何故外したのか?意地悪く考えれば、日本にこの時点で降伏して欲しくなかった、とも考えられる。
常識的に考えれば、後の極東裁判でも明らかになるように、中国、ソ連、オーストラリアなど多くの国が「天皇戦犯論」を展開し、検事のキーナンが、天皇訴追を回避しようとして奮闘するなどという珍妙な現象があったことでもわかる通り、この時点では、天皇制存続を公式に約束することはむつかしかった、ということが指摘できる。アメリカの世論も「天皇戦犯論」が有力だったし、国務省内部でも「天皇制廃止論者」が優勢だった。
またそれまでのアメリカの公式声明からして、日本に対して要求しているのは「無条件降伏」である。天皇制存続を認めてしまっては、無条件降伏にならない、という問題ともバーンズは整合性をとりたかった。
スティムソンは、「後での秘密交渉で天皇制存続問題は何とかなる、とバーンズは考えていたのではないか。」と推測している。
その点は間違いないだろう。しかし私はなおかつ、「ポツダム宣言時点で日本に降伏して欲しくなかった。」という意地悪な見方にも同時に魅力を感じている。それはその後の、原爆投下の急ぎぶりから見て、「日本に対する原爆使用」の機会が永遠に失われることをトルーマン政権が恐れたから、という根拠による。
しかしこのことは追々あきらかになろう。
ここでは、「天皇制存続」に反対か賛成かは別として、トルーマン政権が「ソ連参戦」と共に「天皇制存続」を認めることが、軍事的に戦争遂行能力を完全に失っていた天皇制軍国主義日本の「降伏の条件」の2大要素だったこと、日本に対する原爆の使用は決して「降伏の条件」とは考えていなかったことを確認すれば十分だろう。 |
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この時期の問題を見る前に、当時のスティムソンのトルーマン政権内での地位を簡単に見ておきたい。
ルーズベルトが急死して副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領に就任したのは、45年4月12日。ルーズベルト政権内の重鎮だったヘンリー・スティムソンは、当初トルーマン政権でも引き続き、事実上No.2として重用される。
ルーズベルトの刎頸の友といわれたジェームズ・バーンズが、ルーズベルト時代から引き継いだ「大統領特別代表」の地位から、国務長官に就任する7月1日頃を境にして、トルーマンは急速にバーンズに傾斜していく。逆にいうとスティムソンは疎まれはじめる。
これはトルーマンとスティムソンが体質や政治思想が合わなかった、という他はない。洗練された東部のジェントルマンであったスティムソンは、政界随一の人格者と見なされ、その政治思想には理想主義的な体質を色濃く持っていた。
逆に大学を出ていない最後のアメリカ大統領のトルーマンは、徹頭徹尾実際型で、いい意味でも悪い意味でもたたき上げであった。政治思想も「パワー・ポリティック」の信奉者であり、理想主義的なところはかけらもない。トルーマンから見れば、スティムソンは「書生っぽ気質を残した老いぼれ」であり、スティムソンから見ればトルーマンは「大統領としての高い政治理念」を持たない人物、と映ったであろう。
一方田舎の弁護士見習いからスタートしたジェームズ・バーンズは、まともな高等教育を受けないまま南部の保守的民主党を代表する政治家として徒手空拳でのし上がり、ニューディール時代には「ハイウエィのチャンピオン」といわれる利権型政治家であった。どこか田中角栄に似たところがある。政治体質はトルーマンとよく似たパワー・ポリティックの信奉者であった。後には仲違いするのだが、外交経験のないトルーマンが、同じ体質をもった、しかもルーズベルトの大統領特別代表を長く務めたバーンズに傾斜していくのは、当然だったかも知れない。
ポツダム会談の頃には、重要事項はトルーマンとバーンズの間で決定されていた。
7月24付けのスティムソンの妻あての手紙の中では、
と書き、無力感を率直に表明している。そして翌25日には、一足先にポツダムを離れ、帰国の途についた。 |
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とはいえ、スティムソンは自分のなすべきことに全力を挙げた。すなわち、「原爆投下後に発表するアメリカ大統領声明」の作成、「陸軍長官声明」の作成、きたるべき日本の降伏文書の作成などである。しかし、スティムソンも45年9月には78歳になる。持病の心臓病も段々悪化している。自分の仕事もそろそろ終わりと考えたのか、8月6日の広島への原爆投下後、8日にはトルーマンに辞意を表明した。
つまりこの時期のスティムソンは、重要事項の決定には、ある意味傍観者の立場だった。しかしトルーマンもバーンズですら、決定的に重要な時には、スティムソンの意見を求めている。この時期、すなわち「日本の降伏」が目睫に迫っていたこの時期がちょうどそうだった。
8月9日のスティムソン日記。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450809.htm>)
『 |
・・・原爆とソ連の参戦は間違いなく勝利を早める効果がある。
しかし、その効果はどれくらい持続するだろうか、そして勝利のためにはどのくらいの人員を確保しておかなければならないだろうか。
それを今決定することはできない。
新聞やその他の批評家の中には、陸軍の首脳部はこのこと(できるだけ早くまた多くの人員を復員させること)に関して全然考慮を払っていないと考えている傾向がある。
そして単純に今存在している大規模な軍隊を維持しようとしている、と考えている傾向がある。
従って、こうした批判に真っ向から対立する様なことはひどく気になる(ticklish)ところだ。』 |
『 |
・・・その会議の後、私はバーンズに、休憩室で、確認してみた。
会議の目的の一つで、私はバーンズに、クロスマンから渡された、デ・フロスト・バン・スリックの書いた報告とスタンリー・ウォッシュボーンからの手紙及び記事について彼に意見を聞いてみた。
スリックもウォッシュボーンもその報告の中で、それぞれのやり方で、強くまた賢く、日本との交渉に置いて同情的な取り扱いをすべきだ、と主張している。(具体的には天皇制維持を認めること)
難しいことは一緒に交渉するということだが、私はバーンズに強く、日本との交渉では日本がやりやすくすべきだと主張した。(天皇制維持を認めるべきだという主張)』 |
『 |
今朝、長崎に置いても原爆投下が成功したというニュースが入った。
2つの強力な一撃は日本を手早く片づけるだろう。もう一つ落とす前には、少しの余地しかない。
この間に日本との降伏交渉で何かがなされることを望む。
私は大統領とバーンズにできるだけのことをした。
彼らは二人ともこの目的について理解してくれたように思う。』 |
スティムソンは、はじめて「原爆」(この場合は広島への原爆投下のこと)がソ連の対日参戦と共に、アメリカの勝利を早める、と書いている。原爆は日本の降伏を早めたのか?早めたのである。
いささか話はややこしくなるが、ここでは「トルーマン政権の対日原爆使用の政策意図」は、「対日戦争終結のためではなく、別な政策意図があった。」と仮定しておこう。
次に仮定問題ではなく、事実問題としてポツダムでスターリンがトルーマンに告げたように、ソ連の参戦は「8月15日」が予定されていた。そしてトルーマン政権はこれまで見たように、「ソ連の参戦」が日本降伏の決定打、と見ていた。
すると、ソ連が参戦すると日本は降伏してしまう、戦争が終われば、原爆使用の機会は少なくとも今次戦争においては永遠に失われる、だからトルーマン政権は、広島への原爆の投下を急いだ。ところが、広島への原爆の投下は、ソ連参戦を早める結果になった。
ソ連がもともと8月15日に「参戦」の予定を9日未明に繰り上げたのはあきらかに「広島への原爆投下」が直接原因だった。この時スターリンが、「原爆の投下で戦争が終結する。」と考えたのか、「原爆の投下で痛めつけられれば痛めつけられるほど、日本降伏におけるソ連の貢献度が減ずる、減ずれば減ずるほど、ヨーロッパとアジア、特に中国での分け前が減る。」と考えたのか、あるいはその両方だったのか私には定かではない。しかし、原爆の投下で、相対的にソ連の戦争終結における貢献度が相対的に低下する、このため、対日参戦を繰り上げたことは間違いない。
ソ連が参戦することによって、日本の降伏は早められた。だから原爆の投下は戦争終結を早めたのである。しかし、戦争終結を早めるために原爆を使用した、という事になるとこれはどうか?
これまで見てきたように、原爆の使用の政策意図は、対日戦争終結ではなかった。しかし外観上ここでスティムソンが書いているように、「原爆」はアメリカの勝利を早めたのである。少なくとも多くのアメリカ人はそう信じた。
しかし、スティムソンはそう楽観的ではなかった。「ソ連参戦」が「日本降伏」の必要条件ではあっても、必要十分条件ではない、と読んでいたからだ。
「天皇制存続の保証」が加わって、はじめて必要十分条件となる・・・。
その心配が次の一節に表現されている。
「 |
しかし、その(戦争終結を早める)効果はどれくらい持続するだろうか、そして勝利のためにはどのくらいの人員を確保しておかなければならないだろうか。」 |
アメリカの世論は、ソ連の参戦と「原爆の投下」で、すでに戦勝気分になっていた。この戦勝気分には早く戦争が終わって欲しい、という切実な要求があった。この要求には、人手不足に悩む産業界からの突き上げも含まれている。現実に「今年の冬の暖房用の石炭は誰が掘り出すのだろうか?」という論調も新聞には現れていた。
もし、仮にいったん戦勝気分になったアメリカ国民が、なかなか戦争が終わらないとなったら、その非難の矛先はアメリカ陸軍に向く。その非難は「陸軍は厖大な軍隊を維持しようとしている。」という論評の仕方ですでに大手メディアの間に現れていた。
それで必要十分条件を満たすべく、バーンズに対して「天皇制存続」を認めるべきだ、という説得になって行く。
スティムソンの心配はもう一つある。この日、長崎に2発目の原爆が投下された。このまま日本の天皇制軍国主義政府が降伏しなければ、原爆製造ができ次第、3発目、4発目が落とされることになっていたからだ。
もうこれ以上原爆を使用したくない、これがスティムソンの本音だったろう。
その心配が「2つの強力な一撃は日本を手早く片づけるだろう。もう一つ落とす前には、少しの余地しかない。この間に日本との降伏交渉で何かがなされることを望む。」
「少しの余地しかない。」とはまもなく次の原爆ができあがることを意味している。 |
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天皇制存続問題が最大の山場を迎えるのは、8月10日である。
この日トルーマン政権は、最初にスエーデン政府経由で、日本の鈴木貫太郎政府から「降伏」の通知を受け取る。
8月6日(日本時間)には広島への原爆投下、8月9日未明には「ソ連の対日参戦」、そして引き続き長崎への原爆投下があった。
この日、スティムソンはバケーションに出かける予定だった。「日本から降伏の通知が到着した。」という連絡があって、バケーションは吹っ飛んだ。
陸軍省の自分の執務室に入ると、スティムソンはすぐにマシュー・コナリーに電話して、自分は執務室に入って動かないつもりだ、と連絡した。コナリーはトルーマンの面会予約担当官だ。
10分もたたないうちに、トルーマンから連絡がありすぐに会いたいと云うことで、ホワイトハウスに出かけた。
ホワイトハウスの会議室に入ると、すでにトルーマン、バーンズ、フォレスタレル(海軍長官)、レーヒー元帥(大統領軍事顧問)、そしてトルーマンの副官もいた。
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フォレスタレルの日記によると、この時現場にいた大統領の副官は、復員局長のジョン・シュナイダー、海軍問題担当補佐官ジェームズ・バーダマン大佐、軍事問題担当補佐官ハリー・ボーン将軍だったという。フォレスタレルも克明に日記をつけていた。)
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問題のポイントは、日本からの降伏の申し出を受け入れるかどうかである。
スティムソンが予測した通り、日本からの降伏の申し出は「国体護持」(天皇制存続)の条件がつけられていた。
バーンズの理解では、これは「無条件降伏」の申し出ではない、このまま受け入れるべきかどうかが議論の要点だった。
この時日本政府が送った降伏の申し出は、
「 |
客日二六日附三国共同宣言ニ挙ゲラレタル条件中ニハ日本天皇ノ国法上ノ地位変更スル要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ日本政府ハ之ヲ受諾ス」
(児島襄著「天皇」第5巻P384から引用。文藝春秋社 昭和49年10月10日 第1刷) |
というものだった。
要するに、「ポツダム宣言は天皇制存続という条件付きで受諾する。」ということだ。なるほど、これではバーンズが苦慮するように無条件降伏ではない。
しかしトルーマンもバーンズも、意見を求めるためにスティムソンを呼んだ時点ですでに結論は出していた、というべきであろう。スティムソンは「天皇制存続」論者だったのだから。
当日のスティムソンの日記から引用しよう。
『 |
大統領は私に意見を求めた。私は云った。
もし、仮に日本からこの問題の提起がなくても、依拠すべき権威を失って、各方面に散らばる日本軍を降伏にもっていくために、われわれの指揮と監督の下に、独自にこの問題を継続すべきだ。硫黄島、沖縄、中国全土、ニューネザーランド諸島で起こったような血なまぐさい闘いを避けるために天皇を使おう、というのが私の意見だ。
日本の国家理論からして、天皇は日本における唯一の権威だ。』 |
スティムソンは持論を展開した。そしてこれで決まりだった。会議の雰囲気もすでに受諾の方向でまとまりかけていたようだと私は推測する。スティムソンは次のように書いている。
『 |
レーヒー提督が、いい意味で大局観をもっており(a good plain horse-sense)、天皇問題は、今われわれが手中に収めかけている勝利を遅らせる問題に較べれば、比較的小さな問題だ、といった。』 |
こうして「降伏受諾文書」がバーンズの手でまとめられ、スティムソンがこれを確認して同意する形で、トルーマン政権の意志決定が為された。
この時、降伏受諾文書に「天皇制存続」が文章として記入されてはいなかった。だから、私は第三国経由で、口頭でこの点が確認されたのだと推測している。また冷静に考えてみると、口頭で確認していなくても、日本側の申し出は「ポツダム宣言は天皇制存続という条件付きで受諾する。」という内容だったのだから、これに対して「OK」と回答すれば、「天皇制存続」をトルーマン政権として保証したことにはなる。
この間興味ある問題がいろいろ出てくるのだが、この一文はあくまで「トルーマン政権は何故日本に対して原爆使用の決定をしたか?」が主要テーマなので、割愛する。
ただ、この時も、「対日戦争終結」にあたり、原爆の話題は一切でなかったことを確認すれば十分だろう。対日戦争終結の決め手は、「ソ連参戦」と「天皇制存続の約束」の2つだったこと、少なくともトルーマン政権はそう見ていた、このことを確認すればとりあえずの目的は達する。
また非常に奇妙なことに、あるいは当然というべきか、天皇制日本政府が選択した「降伏の条件」も、「ソ連の参戦」と「国体護持」の2点であり、広島・長崎への原爆投下ではなかった。
それを次に見ておこう。 |
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(以下次回)
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