(2010.8.1) |
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ |
|
|
|
|
|
1945年トルーマン政権中枢の政策決定者にとって「日本への原爆使用」の決定とそれに続く広島・長崎への「原爆投下」の実施は、必ずしも日本との戦争を意識した結果ではなかった、アメリカの原子力エネルギー政策全体を強く意識した結果だった、彼らの思量はすでに戦後の、核兵器という軍事利用を含む「原子力エネルギー管理体制」にあり、さらに遠く見据えていた地平には、原子力によるエネルギー革命があった、このことを前回、「原爆投下直後の陸軍長官声明」から読み取った。
その「原子力エネルギー政策」は、ドイツとの戦争が始まったフランクリン・ルーズベルト政権時にすでにスタートしており、日本との戦争が始まった1941年には政権内部科学技術開発局で本格的に予算化され、局長が直接大統領に報告をあげるという体制が敷かれた。さらに1942年9月には陸軍省にこのプロジェクトは移管されて、いわゆる「マンハッタン計画」がスタートした。
その意味でアメリカの原子力エネルギー政策は、まず原爆の開発という軍事利用目的でスタートした訳であるが、これは「陸軍長官声明」も指摘するように、戦時下という特殊状況が大いに影響した。と同時に、原子力エネルギー開発は、軍事利用目的の方が平和利用目的より容易だった、という事情もあった。
それは軍事利用目的では、荒れ狂う核の連鎖反応をそのまま捨てておけば良いが、平和利用目的では荒れ狂う核の連鎖反応を、安全、適切に管理・運用するという、さらに高度な科学技術、管理運用技術が必要だからだ。
( |
現実に最初の核実験から65年経た今日でも、原子力の平和利用目的の分野で、廃棄物処理を含めて、人類は核を安全、適切に管理・運用し得ている、とは言い難い。) |
トルーマン政権による「日本への原爆の使用」は、当時戦われていた「日本とアメリカの戦争」という視点からばかりわれわれは眺めていた。特にアメリカのトルーマン政権以降歴代政権の視点はほぼここに固定し、「原爆投下正当論」にしろ「不必要論」にしろ、この視点で眺めてきた。もちろん後にふれるようにこの視点にも一定の説得力がある。
しかし、これまで見てきたように説明のつかないことが多すぎる。それならば、いったんこの視点を離れ、別な視点はないだろうか、という発想をしてみた時、スティムソンの「陸軍長官声明」が強く示唆しているように、「アメリカの原子力政策の立案と実施」という視点が浮かび上がってきたわけだ。
随分突飛な視点のようにみえるが、少なくとも私たちが今入手できる「同時進行文書」を読む限り、「アメリカの原子力政策の立案と実施」という視点が、「日本への原爆の使用」をうまく説明してくれるように思える。それを次に見てみよう。 |
|
|
|
それには格好の「同時刻文書」がある。暫定委員会の議事録である。
1945年4月12日、4選されたばかりのアメリカの大統領、フランクリン・ルーズベルトは急死する。同日副大統領だったハリー・S・トルーマンが宣誓式の上、第33代合衆国大統領に就任する。トルーマンは自分の回想録の中で「原爆のことは就任式の後、スティムソンから聞いて初めて知った。」といっているが、トルーマン研究家の歴史学者は、「知ってはいたはずだ。」と口を揃えて云っている。
これはトルーマンの「大とぼけ」で、こうした研究者の証言は別としても、副大統領たるトルーマンが原爆のことを全く何も知らなかったことはあり得ない。「とてつもない爆弾開発計画」がアメリカで進行中だ、という噂は英米の支配層、知識階級の間ではかなりの噂となっていたことは、いろんなエピソードから読み取れる。
たとえば、スティムソン日記の5月3日付けの記述に、アメリカ連邦最高裁判所判事のフェリックス・フランクフルターが訪ねてきた時の話が出てくる。スティムソンによれば、フランクフルターは「相当詳しい知識を持っていることも知った。」そうだ。フランクフルターは、この計画をロンドンでデンマークの物理学者ニールス・ボーアから聞いた。それでこの原爆が「文明社会」に与える深刻な影響を心配してスティムソンを訪ねて、話し合った。
とはいえ、原爆に関しフランクフルターのように正確な理解をしていた人はまれで、多くは「夢物語の計画」という受け止め方をしていたようだ。たとえば、当時ロンドンにいたジョージ・オーウェルは、45年10月に発表した論文「あなたと原爆」の中で、
と書いている。
だからこの時点で、原爆のことをトルーマンが全く何も知らなかった、ということはあり得ない。ただトルーマンが「原爆(核兵器)の持つ人類の歴史における意味」を理解していたかどうか、とは別な話である。私は、トルーマンは核兵器を単にとてつもない破壊力をもった決定的支配的な軍事兵器としてのみ理解し、その人類史的意味は結局理解できなかった、と考えているが、その点では2010年現在、「核兵器のもつ人類の歴史における意味」を理解できている人は実はすくないのではないか。
早い話、前のアメリカ大統領、ジョージ・ウォーカー・ブッシュが核兵器についてトルーマン以上の理解をしているか、というと甚だ疑問である。同様に今の日本の総理大臣・菅直人、外務大臣・岡田克也がトルーマン以上の深い理解を核兵器に対して抱いているかどうか、というとこれも疑問である。(というのはもし彼らが核兵器の人類史的意味を理解していれば、即刻核の傘から出て、あらゆる核兵器体系と絶縁する政策を採用するだろうからである。)
トルーマンが大統領になった時点で、マンハッタン計画に参加していた多くの科学者とともに核兵器をもっとも理解していた人間の一人、陸軍長官のヘンリー・スティムソンは、大統領トルーマンには尊敬を払いながらも、トルーマンがこの問題(すなわち核兵器の人類史的課題)をうまく扱えるかどうかに疑問をもった。というよりもうまくあつかえないだろうと考えた。
そこで大統領トルーマンにこの問題の扱いを政策提言する諮問委員会を設置することになった。もちろん完全な秘密委員会である。 |
|
|
|
スティムソンがこの諮問委員会設置を思いついたのはいつ頃だろうか?トルーマンが大統領に就任するのが45年4月12日。4月24日の間の10日間以内であることは間違いない。
というのは、4月24日のスティムソン日記には、次のように書かれているからだ。
ここで「S-1」と云っているのは、「マンハッタン計画」の暗号名である。スティムソンは時々原爆を意味する時も「S-1」と云っている。
ここで大統領に対する手紙といっているのは、4月24日付けの手紙でトルーマンは4月25日に目を通している。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-letter/stimletter19450424.htm>)
この手紙の中でスティムソンは、「この問題はこれからの国際関係に関係しており極めて重要なので説明したい。」といっている。ここで国際関係といっているのは、ソ連のことを念頭に置いており、対日戦争のことではないことが重要だ。
どちらでもいいことだが、トルーマンは自分の回想録で、
『 |
もっとも緊急なことについて話がしたい、と私に頼んだ。スティムソンは、現在進行中の巨大な事業について知っておいて欲しい、それはほとんど信じられないくらい破壊的な力をもった新型爆弾の開発を見据えたプロジェクトだ、と云った。』 |
『 |
スティムソンは・・・、この戦争を短縮する力として歴史を彩る原爆の役割について、少なくとも関心を持っているように見えた。』 |
と書いている。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman_ex01.htm>)ウソである。
トルーマンが自分の回想録でウソをついている理由は明白だろう。「対日戦争終結のために原爆を使用した」という戦後作り上げた「公式見解」と話を合わせるためだ。
翌日4月25日にスティムソンは、トルーマンにこの問題について説明をする。説明にあたって、スティムソンは日記にあるようにメモランダムを書いた。正確にはこのメモランダムは、スティムソンの陸軍省における顧問で、ニューヨーク生命保険会社の社長、東部金融家のジョージ・ハリソンが下書きを作って、補佐官のハーベイ・バンディと一緒に原稿に仕上げ、マンハッタン計画の陸軍側総責任者レスリー・グローブズとその上司である陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルの了解を取り付けてから、このメモランダムを持参してトルーマンとの会談に臨んだものだ。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-memo/stim19450425.htm>を参照の事。)
このメモランダムを読むと、この時スティムソンが、どのような説明を、トルーマンに対してしたかおおよそ理解できる。なお、このメモランダムは、ミズーリ州インディペンダント市にあるトルーマン博物館では見ることが出来ず(所蔵されているのかも知れないが重要文書ではないとして一般公開されていないのかも知れない。)、エール大学にある「スティムソン文書」と国立公文書館に所蔵されている。
このメモランダムは、大要次のように記されている。
1. |
4ヶ月以内に人類史上もっとも恐ろしい兵器を完成する。 |
2. |
この計画はイギリスとの共同事業だが、事実上アメリカ1国が所有し、少なくともここ数年は他国が追いつけない状況である。 |
3. |
しかしアメリカは永久に独占的地位を確保できない。というのはー。
a. |
製造方法は一般的に知られた科学的知見である。ただアメリカが開発した工程はアメリカの秘密である。 |
b. |
製造に関しては科学技術力や大きな工業生産力を要するので、今のところアメリカやイギリスしか製造できないが、将来は技術開発でもっと小さな国やグループでも製造できるようになることは確実。 |
|
4. |
だから将来この兵器が、秘密に開発され、突然他の非保有国に対して使用される時代が確実に来る。いまのところ2―3年以内に保有の可能性をもった国はソ連だけであるが。 |
5. |
政治モラルと技術発展とを比較すると技術発展の方が上回っているので、将来はこの兵器の使い放題ということになる。近代文明は破壊される。(現実に核兵器を実戦使用したのは唯一アメリカだけだが。) |
6. |
国際平和機構の設立の検討はなされている。しかしアメリカの指導者は核兵器の要素を考慮に入れていない。従って現在検討中の国際平和機構(現実に国際連合設立の準備がなされていた。)は役に立たない。核兵器の査察権を含む国内外統御機関設立などを検討する必要がある。 |
7. |
さらに云えば、現在アメリカだけがこの兵器保有の可能性があるので、この兵器を他国と共有する問題が現在第一義的問題となる。またこの兵器の主導権はアメリカにあるので、アメリカには人道主義的正義を守る責任が生ずる。この責任は文明全体に対する責任なので極めて重大である。 |
8. |
この兵器を適切に使用する問題が解決できれば、世界平和と文明の発展のための一つのモデルを世界に提示できることになる。 |
9. |
グローブズ報告でも述べているとおり、この兵器をいつかは明らかにしなければならない。その時に備えて政府内の行政執行部局、法整備部局に適切な勧告をしなければならない。このために特別な委員会を設置する準備を進めている。またこの委員会は陸軍が取るべき行動についても勧告をなす。すべての勧告はまず大統領に対してなされる。 |
その後のトルーマン政権が採用した政策とその実施、すなわち日本に対する原爆の使用、それから歴代アメリカ政権が取ってきた核兵器政策、特に現在のオバマ政権が採用しているあからさまな「核の威嚇政策」に照らしてみると、唖然とするような内容のメモランダムであるが、ともかくこの時、スティムソンがトルーマンに対して行った説明は、以上のような内容であった筈である。
ひとことでいえば原爆が近代文明社会に対して突きつけている課題に、鋭い一瞥をくれたメモランダムという事が出来よう。 |
|
|
|
そしてこの時提案された委員会が「暫定委員会」である。
暫定委員会のメンバーは基本的にスティムソンが指名し、トルーマンが承認するという形をとった。形をとったというのは、トルーマンには誰を委員にすべきか、端的に言ってわからなかった、それでスティムソンの提案どおりになった、という意味である。
唯一、トルーマンの意向を忖度して委員に指名されたと考えられるのは、ジェームズ・バーンズであろう。というのは、5月2日付けのスティムソン日記に、
とあり、この時2人とも大統領特別代表の肩書きをもつジェームズ・バーンズのことが念頭にあったことは明らかだ。
その後スティムソンはバーンズを委員にとトルーマンに推薦する。トルーマンはスティムソンに電話で「OK」の返事を返すが、その時には手回しよく、電話でバーンズの了解を取り付けていた。
こうして、ばたばたと暫定委員会立ち上げが決定し、5月5日までには、メンバーの顔ぶれも決定した。考えてみればルーズベルトの急死後わずか3週間である。
8人の正式委員のプロフィールを簡単に見ておこう。
暫定委員会の委員長は陸軍長官のヘンリー・スティムソンである。(スティムソンについては<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stimson/profile.htm>などを参照の事。)後は序列のようなものはなさそうなので、45年5月31日、フルメンバーで開催された暫定委員会の順序に記述する。
ラルフ・A・バード(Ralph Austin Bard)。もともとはシカゴの金融家。海軍省の事務や運営の合理化に大きな実績をあげた。暫定委員になったときは海軍次官。スティムソンとの関係を私は詳しく調べ切れていないが、スティムソンはもともと法律家出身で政治的には東部金融資本(今では国際金融資本になっている)の利益を代表している。それでバードともともと面識があったのではないかと思う。バードはいったん自分も賛成した「事前の警告なしの日本に対する原爆の使用」に異議を唱え「スティムソンへのメモランダム」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/to_Stimson_Bard_memo_1945_6_27.html>)を残している。
バニーバー・ブッシュ(Vannevar Bush)。ルーズベルト政権下の科学技術研究開発局長として「マンハッタン計画」移行前の原爆開発の責任者だった。第二次世界大戦中、科学界と軍部それに大学と産業界を結びつける要の人物だった。
(詳しくは<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee.htm>。)
ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)。トルーマン政権45年7月以降の国務長官。この時は大統領特別代表の肩書きだった。暫定委員会の方向性に、実質的にはもっとも影響力をふるった人物。(<http://en.wikipedia.org/wiki/James_F._Byrnes>)
ウイリアム・クレイトン(William L. Clayton)。もともとは南部の綿花商である。一時期彼の経営する商社は世界最大の綿花商社だった。徹底的な自由貿易論者で、戦後ヨーロッパ復興に活躍した。「マーシャルよりマーシャル・プランに責任のある人物」と評される。この時の政権内の肩書きは「経済問題担当国務長官補佐官」だった。
(<http://en.wikipedia.org/wiki/William_L._Clayton>)
カール・コンプトン(Karl Tailor Compton)。当時マサチューセッツ工科大学学長。優秀な物理学者でもあった。この時はバニーバー・ブッシュのもとで科学技術研究開発局の現業事務所長を務め、ブッシュと共に軍事兵器や軍事技術開発のため、軍部と産業界、それに大学の研究機関を結びつける役割を果たしていた。マンハッタン計画を代表する科学者の一人で1927年のノーベル物理学賞を受賞したアーサー・コンプトンはカールの弟にあたる。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/Karl_T_Compton.htm>)
ジェームス・コナント(James Bryant Conant)。当時ハーバード大学学長。政権内では国家防衛委員会委員長として、戦争に必要な研究開発を押し進めた。バニーバー・ブッシュとはごく近しい関係で、いつも一緒に名前が出てくる。戦後はアメリカ原子力委員会の顧問や国家科学基金の顧問を務め、連邦政府の資金が科学技術界に流れる体制をつくった。
(<http://en.wikipedia.org/wiki/James_B_Conant>)
ジョージ・ハリソン(George L. Harrison)。ニューヨークの金融家。ニューヨーク連銀の総裁を務めたこともある。この時はニューヨーク生命保険会社の社長。政権内での肩書きは陸軍長官補佐官。スティムソンの忠実な片腕といっても良い存在で、暫定委員会でスティムソンが不在の時は委員長代行をつとめた。
(<http://en.wikipedia.org/wiki/George_L._Harrison>)
暫定委員会のメンバーは、スティムソンを含め以上8人で、政権内での肩書きはともかく、政界、学界、経済界での当代一流の人物を集めたといっていいだろう。 |
|
|
|
暫定委員会の初会合は45年5月9日に開かれた。この時の議事録に沿って何が議題になったかを見てみよう。
この日はハーバード大学学長のジェームス・コナント以外の委員、すべて出席した。また、スティムソンの忠実な補佐官、ハーベイ・ホルスター・バンディが委員ではないものの招聘参加者として会議に出ている。
スティムソンはおおむね暫定委員会の役割と目的を次のように説明した。
1. |
「原子力エネルギー政策」に関する戦時の一時的な管理体制に関して研究・報告。 |
2. |
後でなされる公式発表の内容について検討し、それを作成する。 |
3. |
戦後における「原子力エネルギー政策」の検討と研究。特に原子力エネルギーに関する「基礎研究開発」、国家管理の問題、それらの法制化の問題について検討、研究する。 |
4. |
すべて陸軍長官のもとに集約し、そこから大統領に勧告する。 |
だから暫定委員会は、「マンハッタン計画」や「原爆」に関する秘密委員会ではないのだ。私がこの点に特に注目しているのは、英語での資料はほぼ90%、「暫定委員会は原爆ないしマンハッタン計画に関する最高の意志決定機関で、主要な議題は日本に対する原爆の使用問題だった。」と説明しているからだ。
これはアメリカの歴史学界の見解をそのまま反映しているものと考えて良い。議事録を見る限りそうではない。アメリカの歴史学界の主流は、戦後カール・コンプトンやスティムソン名義で発表された論文での主張をほぼ鵜呑みにする形で、暫定委員会に対する見解を形成しているようだ。
私は、これは「原爆の投下は対日戦争を終結させるため」というアメリカ歴代政権の「公式見解」を側面補強する歪んだ見解だと考えている。
上記スティムソンの説明の中で私が特に注目するのは、「後でなされる公式発表の内容について検討し、それを作成する」という暫定委員会の機能である。
ここでいう「公式発表」とは、「最初の原爆実験」の際の公式政府発表だけではない。最初の「日本に対する原爆使用」、すなわち広島への原爆投下後に発表される「大統領声明」も含んでいる。
すなわち、暫定委員会発足時には、「日本に対する原爆使用」はすでに政権の決定事項であり動かせないものだったことが窺える。従ってこれ以降の暫定委員会で、「いかなる形で原爆を使用するか」は話し合われているが、「使用」そのものの是非については一度も議論されていない。それは全員了解のもとの既定路線だった、ということができる。
このことは後々重要な要素になるので記憶しておいて欲しい。 |
|
|
|
スティムソンは「暫定委員会」(Interim Committee)の名前の由来について次のように説明している。
『 |
この委員会は、現在時点の事実に鑑み、暫定委員会と命名されるが、適切な時期に、議会が(原子力エネルギー政策)の全体分野において、その統御、規制、管理・監督をなす恒久組織を設立するだろうからである。』 |
つまり暫定の名前の由来は、戦後議会が原子力エネルギー全体分野を担当する正式機構を設立するだろう、だからこの委員会はそれまでの暫定的な措置である、というところにある。先走るようだが、この「正式機構」は戦争が終わると、すぐ46年8月、アメリカ原子力委員会として、「マンハッタン計画」の組織・機構・人員をそっくり引き継ぐ形で発足する。
この日スティムソンは、ここまで説明すると委員会を立ち去った。その後は、委員長代行のハリソンが議事をすすめた。委員がどうしても理解しておかなければならない最低限の説明といえよう。
まずグローブズのメモが読み上げられた。このメモは5月23日にグローブズからスティムソンに提出されたもので、マンハッタン計画の進行状況を説明したものである。4ヶ月以内に原爆が完成する、というのがその骨子だ。
ここでの謎は、4ヶ月以内に原爆が完成するから、それまで日本との戦争を終わらせてはならない、という認識が全員にあったかどうか、だ。
次に説明されたのが「ケベック合意」である。これも「日本に対する原爆の使用」に関連している。
ケベック合意は1943年8月19日カナダのケベックで、イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの間で行われた、一種の核不拡散合意である。
要点は、1.この兵器をお互いに相手国に対して、使用しない、2.お互いの合意なしには、第三国に使用しない、3.お互いの合意なしには原爆開発に関する情報を第三国に提供しない、の3点を骨子とする。
つまり、日本に対して原爆を使用するためには、イギリスの同意が必要だという点をハリソンは説明した。実はずっと後になるが、ソ連に対して原爆の製造プロセスに関する情報を提供して、アメリカ、イギリス、ソ連の三カ国で原爆を独占しようという提案が行われたことがある。この場合はケベック合意の第3点目がポイントになる。
さらにイギリスとの合同開発トラスト(the Combined Development Trust-CDT)についても説明された。これはイギリスと共同でウラニウムとトリウムの供給体制を共同で構築しようというものだ。トリウムは重金属でウランよりも埋蔵量が多く、ウランに替わる核燃料になりうると考えられた。(現在でも核燃料としてのトリウムの位置づけは変わらない。)
この日は、ここで予定していた議事が終了して次回5月14日に開催することにして散会する。
第二回目会合は、スティムソンは欠席、ジェームス・コナントが出席したので、やはり7人の委員で議論が進んだ。委員長代行はハリソンが務める。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_5_14.htm>)
この日招聘参加者として、マンハッタン計画の責任者、レスリー・グローブズが姿を見せている。 |
|
|
|
この間5月10日・11日に2日間、ロスアラモス研究所の所長オッペンハイマーの執務室で軍部の第二回目の投下目標委員会が開かれている。
この2日間の議論で、京都(AA)、広島(AA)、横浜(A)、小倉兵器敞(A)、新潟(B)の5都市が原爆投下候補地として選定された。
( |
同議事録「D: Status of Targets」の項参照の事。) |
またその他の候補地として、「皇居への投下も議論された。しかしこれは勧奨されないことで合意した。しかし、この投下(皇居爆撃のこと)のための行動は、軍事政策の権威者に由来すべきであることにも合意した。この目標(皇居のこと)に対するわれわれの兵器の効果が決定されるような情報が入手されるべきであることも合意した。」としている。なお、この時長崎は議事録に登場していない。
ここで2点注目しておきたい。
1点目は「原爆」のもつ「政治性」と「軍事性」の2面性のことだ。トルーマン政権のマンハッタン計画に関わる要人達はこの2面性を明確に意識していた。だけでなく、言葉も明確に使い分けていた。
原爆のもつ政治性を扱う時には「使用」”use”という言葉を使い、軍事性を扱うときには「爆撃」“bombing”とか「投下」“drop”、あるいは時には「撃つ」“lay”を使っている。
だから、逆に書き手が使う言葉で、書き手が原爆を政治的に見ているか、軍事的に見ているかがわかる。たとえば暫定委員会の議事録では「日本に対する原爆の使用」であり、「爆撃」、「投下」などという表現は、特別な文脈でない限り、出てこない。逆に「投下目標委員会」では徹底して「爆撃」“bombing”であり、「使用」”use”などという表現は、特別な文脈でない限り、出てこない。
この言葉の使い訳は、マンハッタン計画に関わる要人達においては実に厳密である。だからスティムソンの論文の題名は「原爆使用の決断」であり、「原爆投下の決断」ではない。またカール・コンプトンの論文名は「もしも原爆を使用しなかったら」であって、「もしも原爆を投下しなかったら」ではない。
マンハッタン計画に関わる要人達の中でただ一人、この言葉の使い分けが明確でない、あいまいな人間がいる。それは他ならぬトルーマン自身だ。例えば歴史学者ジェームズ・ケイトに対する返事の手紙を見ても、トルーマンはこの2つの言葉を使い分けていない。「使用」も「投下」も同じこと、と考えていたフシがある。
原爆を暫定委員会は政治問題として扱い、投下目標委員会は多くは軍事問題として扱ったのである。そして政治問題として認識された時には「使用」“use”という言葉を使い、軍事問題として認識された時には「投下」“drop”ないしは「爆撃」“bombing”と云う言葉を多く使った、これらは厳密に使い分けられていた、これが第1点。 |
|
|
|
2点目は、この原爆投下目標委員会の投下候補地の選定基準である。
『 |
(1)直径3マイル以上の大きな都市地域であること。
(2)爆発によって効果的に損傷を受け得ること 。
(3)これら(候補地は45年)8月まで攻撃を受けない。
スターンズ博士(Dr. Stearns。彼がこの会合で候補地の原案を出した。)は、予測不可能な事態が起こらない限り、空軍がわれわれの使用(ここは原爆の使用という意味である。つまり投下目標委員会ではあるが、ここは原爆の政治的側面を扱っていることになる。)のために、保存しておきたい5つの目標地(targets)のリストをもっていた。』
(同議事録「D: Status of Targets」の項参照の事。) |
つまり、原爆の「使用」(use)にあたっては、原爆の効果がはっきり示される大都市を選ぶ、このため原爆を「使用」する予定の8月まではこれら候補地は攻撃(attack)しない、というのが空軍の基本的考え方であった。その上で爆撃(bombing)の候補地として前述の京都、広島、小倉兵器敞、横浜、新潟の5都市を提案するのである。
興味深いのは、原爆投下目標を選ぶ際、「原爆の効果」をどれほどアピールできるか、が中心の基準だった、ことだ。そして軍部もこの問題は軍事問題ではなく、政治問題として見なしていたことがわかる。
暫定委員会の議事録の中にも、原爆の効果を議論する場面が出てくる。委員の誰かが、原爆の爆撃(bombing)で、原爆の使用(use)の効果が本当にでてくるんだろうか、通常の爆撃と大して違いがでてこないんじゃないか、と質問をする。すると招聘者として出席していたオッペンハイマーが、
『 |
原爆による爆撃(bombing)はその視覚効果がとてつもなく大きい、と指摘した。高さが1万フィートから2万フィートにも昇る、まばゆいばかりの光の柱をともなうだろう。爆発における中性子の効果は最低限半径2/3マイルの間の生命が危険となるだろう。』 |
と説明をするシーンがでて来る。
また、8月6日広島に原爆を投下した後、ワシントンにいるグローブズとロスアラモスにいるオッペンハイマーの電話会話記録が残っているが、その中でグローブズは本当は夜間に爆撃したかった、といっている。その部分を引用すると、
『 |
グローヴズ: |
君をとても誇りに思うよ。君の所の全員にもだ。 |
|
オッペンハイマー: |
うまくいきました? |
|
グローヴズ: |
明白だ。ものすごい爆発だった。 |
|
オッペンハイマー: |
いつでした?日が落ちてから? |
|
グローヴズ: |
いいや。残念だったが、日中にやってしまわなきゃならなかった。飛行機の安全を考えるとね。なにしろ決定権は現地の指令官の手にあるんでね。日が沈んでからの方がいいことは彼も分かっていた。散々いっといたからね。でも私は、あなた次第だ、と云った。最重要事項じゃないけれど、その方が望ましいからね。 |
|
オッペンハイマー: |
そうです。誰だってその方がいいと思っていますよ。でも心からおめでとうを申し上げます。長い道のりでしたね。』
|
(「グローブズとオッペンハイマーの電話記録」
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/tel_L_O_1945_8_6.htm>を参照の事。)
夜間爆撃が出来なかった理由は明白で、爆撃指示書には「有視界爆撃」をはっきり指示していたからだ。グローブズが夜間爆撃をしたかった理由も明白で、その方が視覚的効果が大きかったからだ。
グローブズが最後まで、「原爆使用」の爆撃候補地として京都にこだわった理由も、広島より京都の方が「原爆使用」の政治的効果が大きかったからだ。
これらは、「原爆投下で日本人の戦意を挫くため、すなわち原爆投下で対日戦争終結を目指すため」がその理由と考え方もできる。大体、引用した暫定委員会の議事録の議題名も「Z.日本とその戦意に関する原爆投下の効果」となっている。だから常識的に云えば、これら事実関係は、「原爆投下は対日戦争終結のため」という公式見解を裏付ける事実関係とみることができる。
しかし、私はこれまで見たように、「原爆投下は対日戦争終結のため」は、戦後トルーマン政権が作り上げたデマ・キャンペーンだと考えている。またこれから見るように、5月31日の暫定委員会でも、そうしたテーマは全く話し合われていない。「Z.日本とその戦意に関する原爆投下の効果」という議題も、前後の議題とは全く無関係に突如でてきた議題にみえる。
事実として、トルーマン政権のマンハッタン計画に関係した要人は、「原爆使用」の、あるいは「原爆投下」の政治的効果を非常に重要視している。もしこれが、「日本人の戦意を挫く」目的ではないとしたら、他に何が目的だったのだろうか?
これが、トルーマン政権が日本に対して「原爆の使用」を「広島への原爆投下」という形で実施した理由を解明する鍵の一つとなる。 |
|
|
|
さて、45年5月14日に暫定委員会の第2回目会合が開催される前、ロスアラモス研究所で第2回目の軍部による原爆投下目標委員会が開催され、「原爆爆撃」に関わる様々な問題が議論され、その中で「投下目標候補地」が選定された。
ところで、私が引用した「原爆投下目標委員会」の議事録は正式な議事録ではない。
マンハッタン計画の総責任者レスリー・グローブズは当然この委員会に出席すべきだが、彼は出席できなかった。5月14日にワシントンで開催される暫定委員会に招聘参加者として呼ばれていたからだ。これをグローブズは断ることは出来ないし、また断りたくもなかった。だから、5月10日・11日に、ロスアラモスで開催される原爆投下目標委員会を欠席したのである。欠席してもグローブズは困らなかった。この委員会には自分の片腕のトーマス・ファレル(准将。なおこの時グローブズは少将に昇進していた。)を出席させている。また科学者としての片腕、オッペンハイマーも出席している。自分の意向と違った結論になるはずがない。
引用した議事録は、欠席したグローブズのために、 J・A・デリー少佐とN・F・ラムゼイ博士が2人でまとめた委員会要約報告書なのである。だから発信の日付が5月12日になっている。
横道にそれるようだが、この委員会の出席者の中に、フォン・ノイマン(Dr. von Neumann)の名前がみえる。コンピュータを開発し、ミサイル開発も手掛けたあのジョン・フォン・ノイマンである。
また当然だが、筆頭にトーマス・ファレルの名前もみえる。45年9月に急遽日本を訪れ、「広島には残留放射能はない。死ぬべきものは死に絶えた。」というデマ声明を発したファレルである。その後ファレルは46年8月アメリカ原子力委員会が設立された時初代事務局長に就任している。(<http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Farrell_(general)>)
また海軍のパーソンズ大佐(Captain Parsons)の名前もみえる。ポール・ティベッツが機長を勤めるエノラ・ゲイに乗り込み、核攻撃士兼爆撃司令官として、広島に直接原爆攻撃を行ったあのウイリアム・S・”ディーク”・パーソンズ海軍大佐だ。(「特別ミッション13 第1投下目標 ヒロシマ 1945年8月6日 名簿」の「Enola Gay」の項参照の事。)
さて次回以降は、暫定委員会の議事録を中心に読み取りつつ、トルーマン政権の対日原爆使用の政策意図を検討してみよう。 |
|
(以下次回)
|
|
|
|