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45年5月9日、第1回暫定委員会の初会合が開かれ、暫定委員会の機能と役割がおおよそ明らかにされた。この時私が提出しておいた疑問は、「日本への原爆使用」はすでに既定路線だったのではないか、という問題だった。というのは、その後暫定委員会の議事録で、日本に対する「原爆の使用」をなすべきかどうかに関する議論が1回も行われたことがない。この時すでに日本への「原爆の使用」は、政権内部の動かせない決定事項だったかにみえる。
アメリカの公式見解では、「ポツダム宣言で警告をしておいたのに、日本が拒否したので(戦争を終わらせるために)原爆の投下をトルーマンが決断した。」ということになっていて、トルーマンの回想録もこのストーリーに沿って書かれている。これはあからさまな大ウソであることはこれまで見た通りである。
大体ポツダム宣言で原爆の警告のことなど一言も書かれていない。また仮に、原爆の警告をしたとしても、それを日本の天皇制軍国主義政府が、どれほど真剣に受け止めたか、というと大きな疑問である。そもそも「原爆の投下」が、日本の「降伏の条件」であったことは一度もないし、アメリカのトルーマン政権も、「原爆の投下」が戦争終結を早めるだろう、と見ていたことは事実としても、「原爆の投下」が「戦争終結の決め手」と考えたことは一度もなかったことは、これまで見たとおりである。
天皇制軍国主義日本の「降伏の条件」は、「ソ連の対日参戦」と「天皇制存続の保証」だった。このことはトルーマン政権も正確に見通していた。
「トルーマンは、ポツダム宣言を日本が拒否したので原爆投下を決断した。」というアメリカ政府歴代政権のストーリーが大ウソというのなら、トルーマン政権はいつの時点で、「原爆の使用」を決定したのであろうか?この時期が不明となるのである。
暫定委員会を、「マンハッタン計画」を含め、アメリカのエネルギー政策全体を決定する事実上の最高意志決定機関と見なすならば、暫定委員会はこの意志決定をしていない。日本に対する原爆の使用の「確認」はしたが決定していない。その発足時にはすでに決定事項だった、と考えざるを得ないのである。 |
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45年5月14日、第2回の暫定委員会では重要なことがいくつか決められた。
(「同議事録」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%2
0Committee1945_5_14.htm>を参照の事。)
1.科学顧問団(Scientific Panel)の設置。そのメンバーはアーサー・H・コンプトン、アーネスト・O・ローレンス、J.ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミの4名と決められた。
アーサー・コンプトンは、暫定委員会の正式メンバーである、カール・コンプトンの弟で、この時期、シカゴ大学内に設置されたマンハッタン計画の研究機関、冶金工学研究所の所長だった。ノーベル物理学賞受賞者である。
アーネスト・ローレンスは、この時期カリフォルニア大学バークレイ分校に設置された放射線研究所の所長だった。ノーベル物理学賞を受賞。
オッペンハイマーはロスアラモス研究所の所長。
エンリコ・フェルミはイタリア・ファシスト政権からの亡命科学者。1938年のノーベル物理学賞を受賞し、式典に出席したまま、アメリカに亡命した。コロンビア大学やプリンストン大学で研究したが、この時プルトニウムを取り出す核実験炉を製造している。この時期どこにいたのかはっきり調べていないが、ロスアラモス研究所の身分証明バッジが残っているので、ロスアラモス研究所に籍をおいていたのだと思う。
科学顧問団の役割は、もちろん科学的知見を委員会に提供することだが、バニーバー・ブッシュが、科学技術上の問題だけでなく、政治上の問題にも自由に発言して欲しい、と要望して承認された。
この案件に関連して、軍事顧問団(Military Panel)の設置も提案され、この委員会での決定事項ではないものの、その方向で決定する勢いで、メンバーの選定も行われた。そこで提案されたメンバーは、陸軍側で陸軍参謀総長マーシャル、参謀本部次長のトーマス・ハンディ(この時は中将)、それにグローブズ。海軍側で海軍総司令官兼海軍作戦部総長のアーネスト・キング、次長のリチャード・S・エドワーズ、それに海軍側でマンハッタン計画に関わっているウイリアム・R・パーネル(少将)。
しかし、この軍事顧問団の設置はスティムソンの反対で取り止めになった、とされている。反対の理由は私にはわからない。注目していいのは、軍事顧問団のメンバー提案は、陸軍・海軍同数同質となっていることだ。パーネルは、海軍側でちょうどグローブズのような役割をしている人間だ。(海軍で「マンハッタン計画」のような独自計画を持ちたかったのではないか、と私は想像している。)
軍事顧問団設置は、誰が提案したのか議事録からは窺えないが、明らかに暫定委員会に対する軍部の影響力を強化しようという意図だ。暫定委員会の提案は、スティムソンが反対しない限り大統領トルーマンに勧告される。トルーマンは事実上この問題(アメリカの原子力エネルギー政策)に関して云えば、暫定委員会のいうなりだ。
当時議会は、戦時中で政権側が軍事上の機密を盾に要請すれば、「めくら予算」(Blind Appropriation )を認めた。現に「マンハッタン計画」予算は、審議なしの「めくら予算」であった。トルーマンが副大統領の時に、マンハッタン計画予算の内容を審査しようと上院に特別委員会を設置したことがある(いわゆるトルーマン委員会。アメリカの憲法では副大統領が上院議長を務める)。
この時委員会に承認として喚ばれた陸軍長官のスティムソンは、一切ノーコメントで押し通している。議会はそれ以上踏み込もうとしなかった。
だからこの時期、海軍側に「核兵器開発計画」があり、それを暫定委員会で認めさせて予算化しようという意図があったとしても、私はさして驚かない。 |
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同時にこの暫定委員会では、
「 |
他の国における、この分野での産業流動性の潜在性に関するアドバイスをするため、産業顧問団を設置するかどうかについての問題が提出された。委員会は、現時点でこのような顧問団を設置しない、という見解を取った。」 |
つまり、産業界・経済界の代表を選んで、産業顧問団を設置し、いろいろ意見を聞こうという提案だ。結局産業顧問団も設置されなかった。しかし産業・経済界の意見や要望は、科学技術研究開発局長のバニーバー・ブッシュのもとに集約され、暫定委員会の意志決定に反映されることになる。
科学顧問団設置、軍事顧問団と産業顧問団の設置(結局は実現しなかったが)の提案は、当時の軍産複合体制形成の過程を理解する上で極めて重要なので、記憶しておいて欲しい。
さてこの日の次の議題は、「公式声明」という議題だ。
直接的には、7月に予定されている最初の核実験に関する公式政府発表の内容をどうするか、という議論だ。もし初期通りの成果があげられなければ(つまり失敗すれば)、実験場現地の地域作戦司令官の簡単な発表で済ませる、もし成功すれば、これは大統領発表となるだろう、しかもこの発表は、
「 |
また一般的なその兵器の性格に言及するばかりでなく、その開発のいきさつとこれから熟考されるべき統御などについても跡づけるべきであろう。これは国内的にも国際的にも必要だ。」 |
という議論がなされた。「これから熟考されるべき統御」とはとりもなおさず「核兵器の管理問題」だ。「国内的にも国際的」にも必要、という意味は、国内的にはその管理運営のことだし、後からの発展形態を考えると、具体的には46年8月原子力委員会の設置で大統領の直接管理の下に置こうという構想に連なっている。そしてさらに歴史をたどれば、1977年8月大統領ジミー・カーターの時に、エネルギー省再編法案が成立し、アメリカ原子力委員会は解体され、エネルギー省傘下に入った。(「米国原子力委員会 年表」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_16P.htm>を参照の事。)
さらにそのエネルギー省では、エネルギー省長官の指揮下で「国家核安全保障局」が創設されるに至っている。
「国内的」な統御問題とは、こうした核兵器を巡る戦時戦後の体制を大統領声明の中でどこまで説明するかという問題を含んでいる。
さらに「国際的にも必要だ」という問題意識は、核兵器不拡散体制の構築の問題を孕んでいる。
ご記憶と思うが暫定委員会設立をスティムソンが大統領になったばかりのトルーマンに提案した時の、メモランダム(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-memo/stim19450425.htm>を参照の事。)の中に「アメリカ1国が核兵器を独占し続けることはできない。現在はイギリスやソ連が核兵器を持つ可能性があるが、将来は小国でもあるいは非国家グループでも保有する時代がくるだろう。これは文明社会の破滅を意味する。だから核兵器を適切に国際管理する機構が必要となる。こうした問題を議論し研究する委員会が必要だ。」という文脈が出てくる。(9「暫定委員会の発足とその中心議題」<>の「原爆が文明社会に突きつけていること」の項参照の事。)
だから核実験が成功した時に出す大統領声明の中には、こうした国際的統御機関設立の提案も必要ではないか、というのがここでの議論だ。
結局、アラモゴードの核実験は大成功だったが、大統領声明はだされなかった。ここでの議論のような大統領声明は、結果として「日本への警告」となる。5月31日・6月1日の両日の暫定委員会で「事前の警告なしの原爆の使用」を決定したから、こうした大統領声明は出されなかった。
結局この日の議論は、実験が成功した場合と失敗した場合の両方を想定して下書き原稿を作っておこう、ということになった。 |
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興味深いのは、この下書き原稿を書くのはニューヨーク・タイムスの科学記者、ウイリアム・L・ローレンスだというのだ。この議事録によれば、L・ローレンスはすでに「マンハッタン計画」と契約しており(もちろん秘密契約だったと思うが)、この種の仕事を請け負うことになる。この議事録ではローレンスの書いた下書きをアーサー・ページがチェックするということも決めている。アーサー・ページは陸軍省の外部広報担当者で、スティムソンとも個人的に親しかったそうだ。(アーサー・ページについては井之上喬という人が極めて面白い記事を書いている。ご参考までに<http://inoueblog.com/archives/2006/08/prarthur_w_page.html>)
さてここで極めて興味深い構図が浮かび上がる。
「マンハッタン計画」に関する限り―。
選挙で合法的に選ばれた大統領(ルーズベルト)が急死し、これも憲法で定められた合法的手続きに従って就任した大統領(トルーマン)が誕生する。しかし時は戦時であり、この政権の要求する予算は、憲法の定めに従わない「めくら予算」が承認されている。ところがこの大統領の背後には合法的手続きに従わない秘密委員会が存在する。大統領はこの秘密委員会のいうなりである。また議会は戦時中であるため、大統領のいうなりである。
この秘密委員会は、実はアメリカの政界・金融界・経済界・産業界・学界・軍部の利益代表が集まっている。つまりこの「計画」に関する予算は彼らの思うままに使うことが出来る。これは秘密の癒着の構造ということができよう。
こうした癒着の構造を暴いて批判すべき有力ジャーナリストの一人は、実は密かに軍部と契約を結んで、こうした癒着の構造に有利になるように世論操作を担当している。また彼の属する有力新聞(ニューヨーク・タイムス)も、この秘密契約を知ってか知らずか、思うままに記事をかかせ、また、PR業界もこれに協力して、世論操作の下地を作る。
こうして大した軋轢もなしに、計画は成就していく。
これは後に、大統領アイゼンハワーが「軍産複合体制」と呼んだ支配システムの「縮図」そのものではないか?
また、一度この体制を築いてその利益を享受した勢力(ないしはグループ)は、何とかその体制を維持したいと考えないだろうか?
こうした構造(それはまだ軍産複合体制と呼ぶには時期尚早かもしれない)が成立しつつあったという認識は、「トルーマン政権の対日原爆使用の政策意図」を解明するキーコンセプトのひとつになりうる、と私は考えている。 |
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さて、5月14日の暫定委員会では、この問題(原子力エネルギーの軍事利用)と国際関係との連関が議論されている。といっても「ケベック合意」とイギリスとの「共同開発トラスト」の問題が中心だったようだ。後者は結局のところ核燃料の原料であるウラン鉱石をどうやって安定的に入手するかという問題に帰着する。なおヨーロッパではすでにヒトラーは自殺し、5月初旬にはナチス・ドイツは、アメリカ及びソ連にそれぞれ降伏している。
「ケベック合意」に関する議論の要点は、議事録からは窺えないが、R・ゴードン・アーネソンのまとめた「暫定委員会履歴(Interim Committee Log)」(<http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/
bomb/large/documents/pdfs/36.pdf#zoom=100>)という文書を見るとおおよそ要点が浮かび上がってくる。アーネソンは暫定委員会の書記役でこの時陸軍少尉。
アーネソンの会議履歴によると、第三国への原爆への使用は、ケベック合意によってイギリスの事前了解が必要だが、アメリカ国内での原爆実験はどうだろうか?イギリスの了解が必要だろうか?というのが論点だったようだ。結局、議論は、実験についてはイギリスの事前了解必要なし、という結論になった。
またこの履歴によれば、ハリソンの報告で、イギリス国内でも「暫定委員会」と同様な機能をもつ委員会設置を検討しているという。
この日の議題の一つ、「X.シカゴの科学者」の問題もグローブズとバニーバー・ブッシュから提出されている。
前述の如く、私は、暫定委員会が発足した時、すでに日本に対する原爆の使用は決定事項だったのではないか、という疑問を提出した。第1回暫定委員会から後、日本に対する原爆の使用の是非そのものは一度も話し合われていない。
もし日本に対する原爆の使用の是非を課題とする勢力があるとすれば、ここの議題でいう「シカゴの科学者」であろう。シカゴの科学者とは、シカゴ大学冶金工学研究所で働く物理学者、科学者グループで、この暫定委員会のほぼ1ヶ月の後の6月11日、トルーマン政権に「政治ならびに社会問題に関する委員会報告、シカゴ大学・冶金工学研究所、1945年6月11日」と云う表題の報告書を提出する。いわゆる「フランク・レポート」である。この時期、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者は、活発な議論を行っており、その様子はグローブズやバニーバー・ブッシュには非常に危険な動きとして映った。
というのは、このシカゴ・グループの科学者たちは一言で云えば、「日本に対する原爆の使用」に反対しており、その意見を暫定委員会に反映しようと動きを見せており、政治問題化しつつあったからである。結局この動きは後に見るように潰されるのであるが、この議題の提出はそうした動きに対する警戒感を表明したものであった。
結局この日の議論は「委員会一同は、シカゴ・グループは、現在のところ、そのまま働かせ、その兵器の攻撃的使用が終了してのち、将来の問題としてその地位を検討する、ということで一致した。」と結論する。
この日は、もう一つゴードン・アーネソンを委員会の正式な書記役に指名して、散会する。
第3回目の会合は、5月18日に非公式会合として開かれた。なぜこの日の会合が非公式とされたのか私にはわからない。あるいは、スティムソン、バニーバー・ブッシュ、カール・コンプトンの3人が欠席していたからかも知れない。
実はスティムソンはもう77歳で持病の心臓病を抱えていた。それで主治医から休息を命じられていた。もう一つは、主要な決定は原爆の完成待ち、あるいはその目処がついてから、とトルーマン政権が見通していたこともある。 |
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5月16日のスティムソン日記に、この日トルーマンに20−30分面会した、という記述が出てくる。「(休息のため)しばらくいなくなるがいいか?」と聞くスティムソンに「問題が山積しているので、間に合うように戻ってきてくれ」とトルーマンは云い、現在考えて置かねばならない問題点をリストにしてくれと依頼する。そのリストはスティムソン日記に記載されているので、それを見てみると―。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450516.htm>を参照の事。)
1. |
アメリカ軍が中国本土で日本軍と戦う可能性はゼロである。アメリカの世論が受け容れるはずもない。それは中国軍の仕事だ。 |
2. |
対日戦争の計画は今統合参謀本部で作成中。(これは九州上陸作戦のこと)中国本土でアメリカ軍の損害を発生させずに、日本を屈服させることになるはず。 |
3. |
欧州戦線からの対日戦線へのアメリカ軍の転進には時間がかかる。「われわれのせっかちな友人」(これはチャーチルのこと)が考えているほど短時間では実現できない。必要な外交努力には間に合わない。(ポツダム会談を念頭に置いている。) |
4. |
ポツダム会談に向けた政策は、正しい、無害なものとすること。遅ければ遅いほどカードは豊富になる。(これは原爆カードを手にしてポツダム会談に臨むこと意味している。) |
5. |
できるだけ空軍を温存しておくこと。そして、
「アメリカのフェア・プレイの精神と人道主義に対する評価は、来るべき和平の時代にあっては、世界で最も大きい財産であろうと思います。私は同様な原則が一般市民にも当てはめられるべきであり、いかなる種類の使用にも適用されるべきだと考えています。」 |
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と結論している。そしてこの日の日記を、
『 |
これは難しい問題であり、ロシアとアングロ−アメリカンの協調関係を必要とする。
ロシアは中央ヨーロッパでは、肥沃な農業地帯を主として占領した。一方アメリカは産業地帯を得た。ロシアに対して「プレイボール」を説得する方策を見出さなければならない。』 |
と結んでいる。
話題は対日戦争だが、その行く末にはソ連の動向が大きく影響する。アメリカとすれば中国大陸で血を流すつもりはない。それは国民党なりその傘下の共産党の仕事だ。(当時すでに第二次国共合作が成立していた。)
要するに、ロシアとの取り引きにおいて、有利に交渉を進めなければならない。しかしヨーロッパ戦線からの転進は時間がかかるから、これはカードにならない。切り札ともいえるカードは「原爆」の完成だ。これに目処がつくまで、重要な決定は延ばしてしまえ、ポツダム会談も延ばしてしまえ、とスティムソンは云っている。
要するに原爆完成まで、重要な決定は延ばしてしまえ、ということだ。
2つ注目することがある。
1つは、「原爆」は対日戦争終結の文脈では出てこずに、対ソ交渉の「有力カード」として登場していることだ。これは今までにも詳しく見たとおりだ。 |
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2点目がさらに重要な点だが、スティムソンは「人道主義国家アメリカのイメージとそのフェア・プレイの精神こそ戦後の平和な時代においてアメリカが持つ最大の財産だ。」と主張していることだ。
これは直接には、45年3月の東京大空襲のことを云っており、日本本土に対する無差別空襲が、人道主義国家アメリカのイメージを損なっている、とトルーマンに警告していることになるが、この警告は同時に原爆の「対日使用」にも当てはまる。
実際のところ、スティムソンの指摘する「人道主義国家アメリカ」のイメージこそ、戦後世界においてアメリカの経済力よりも、軍事力よりも、それを背景にした政治力よりも、何にも増して大きなアメリカの財産だった。だから世界の多くの諸国はアメリカの主張と指導に従ったのだった。
だからこそ、アメリカはその財産を維持するため、「日本に対する原爆の投下は日本との戦争を終わらせるためだった。そのため数百万人の命が救われた。」とする、およそ歴史の検証に耐えられないプロパガンダを作り上げなければならなかった。
アメリカの原爆実戦使用から65年、いろいろな機密文書が公開され、アメリカのプロバガンダとの矛盾点が次々に明らかになっていった。現在の非同盟諸国の中で、特にラテン・アメリカやイスラム諸国の中では、このプロバガンダを信用している人たちもめっきり減ってきている感じがする。
スティムソンが指摘するように、「人道主義国家アメリカ」は、アメリカにとってなにものにも代え難い財産だった。
だから「日本への原爆の使用」、「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」は、「人道主義国家アメリカの傷」であり続けている。
09年5月アメリカ議会が設置した委員会、「アメリカの戦略態勢委員会」は最終報告書(委員長がウイリアム・ペリーだったのでペリー報告と呼ばれる)をまとめて議会に提出したが、その第2章「核態勢論」の中で、「(核の)不使用の伝統は、アメリカの利益に役立つ。そしてアメリカの政策とその政策能を強化するはずである。」と記述している箇所がある。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/USA_SP/strategic_posture_4-2.htm>の「基準の定義」の項参照の事。)
この記述も、スティムソンの指摘と全く同一で、「人道主義国家アメリカのイメージはアメリカにとってなにものにも代え難い財産」という認識を示したものといえよう。残念なことにこの記述はウソである。それどころか、アメリカだけが「核兵器実戦使用の伝統」を持っている。ペリー報告で、45年8月の「日本に対する核兵器の実戦使用」を例外扱いとし、このウソをつかなければならなかったのは、このことがいかにいまでも「人道主義国家アメリカの傷」で有り続けているかを示している。
イランの最高指導者、アヤトラ・ホメイニーは、10年4月テヘランで開催された、「核軍縮及び不核拡散に関する1回目の国際会議」の初日に送ったメッセージの中で、「アメリカは唯一の核犯罪国」だと指摘した。この時の様子をイランのテレビ放送局、プレスTVは次のように伝えている。
『 |
アヤトラ・シェイード・アリ・ホメイニーのメッセージは、次のように云う。
「世界でたった一つの核犯罪国は、原子兵器の拡散に対して闘っていると主張している。・・・しかし、その国はこの問題に関し、いかなる真剣な取り組みを見せたこともないし、これからそうするつもりもない。」
「核犯罪」を犯した政府はたった一つある。それはアメリカ政府である。その政府は、一方的な戦争において、広島と長崎で無辜の人民に対して核攻撃を放った。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_01.htm>を参照の事。) |
アメリカの傷に塩を揉み込むような発言であり、それが真実であるだけにアメリカはさらに傷つき激昂する。しかしこれが今や、イランだけなく、多くの非同盟運動諸国の共通認識となっており、この認識が2010年NPT再検討会議で、非同盟運動諸国がアメリカを初めとする核兵器保有国を追い詰めるエネルギーの原動力となっていることを忘れるべきでない。
スティムソンの「人道主義国家アメリカはアメリカの財産」発言から、随分横道にそれたかと思うが、私とすればこれは、横道ではない。歴史的に見て、「核兵器使用」という犯罪行為を犯したアメリカ・トルーマン政権の政策意図を明らかにすることは、現在核兵器廃棄を巡って激しいつばぜり合いを繰り広げている非同盟諸国を中心とする非核兵器保有国の核兵器廃絶へ向けてのエネルギーを強化することになると考えるからだ。
核兵器廃絶は、「ヒロシマ・ナガサキ」が原点であり、「ヒロシマ・ナガサキ」の中核には、核兵器を実戦使用したトルーマン政権の「政策意図」がどっかり座っている。
( |
「ヒロシマ・ナガサキ」の中核は「被爆者の悲惨」だ、という伝統的な見方もあるが、これでは核兵器廃絶へ向けての原動力にならない。核兵器廃絶への原動力は、われわれ一般市民がトルーマン政権の政策意図を理解することであり、その犯罪性を知ることである。) |
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さて、45年5月16日、スティムソンはトルーマンに対して、ソ連との交渉でカードを増やせ、逆にいえば、カードが揃うまで重要な決定は引き延ばせと提言した。
そのわずか2日後の18日の暫定委員会(非公式)で重要な決定が行われる筈もなかった。ただ、この日の暫定委員会で注目しておかねばならないことが2つある。
一つは、
「ページ氏とローレンス氏が、この種の声明の性格が、実験と「実際の使用」(actual use)の結果に、極めて大きく依存していることを念頭に置きつつ、示された一般的な表現と共に原稿に再度取り組むことで、(委員会)は合意した。またこの発表がなされる時に存在する国際的な状況に鑑み、後での変更が生ずるかも知れない、ことも合意した。」ことである。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim_Committee1945_5_18.html>の「U.公式声明原稿」の項参照の事)
「原爆実験」後の声明はともかく、その時の国際情勢の変化によって表現が変わるかも知れないが、「実際の使用」後の声明についても準備しておこう、その下書き原稿は、アーサー・ページとウイリアム・L・ローレンスに担当させようということだ。実際にはページが中心となることは明白だ。ページはこの日の会合に招聘参加者として出席しているが、L・ローレンスは呼ばれていない。
ここでいよいよはっきりしたことがある。「日本への原爆使用」そのものは議論の対象ではなく、決定事項だったということだ。もちろん決定は情勢の変化によっていつでも取り消すことが出来る。しかし、これ以降の公式文書は、いずれも「日本への原爆使用の是非」を議論していない。つまり、この時までの決定に従って、「日本への原爆使用」を実施したと云うことだ。それが「広島・長崎への原爆投下」である。
もしこの推測が合理的だとするなら、ここでの大きな疑問は、「日本への原爆使用はいつ、だれが決定したのだろうか?」という疑問だ。この疑問は記憶しておいて欲しい。
もう一つのポイントは、「V. ブッシュ―コナント メモランダム」という議題で、「ケベック合意」で負ったアメリカの義務が議論されていることだ。このケベック合意についてはしばしば触れているが、この会合で問題になったのは、「第2点 第三者に対して原爆を使用する時は、事前に互いに同意を必要とする」という点だ。
つまりすでにアメリカは独自に「日本に対する原爆の使用」を決定している、しかしこの政策決定はまだイギリスの同意を取り付けていない、事前に同意を取り付けておかねばならないだろうか?という議論である。スティムソンもいない、原爆開発計画に関するイギリスとの合同政策委員会(CPC)のアメリカ側重要委員であるバニーバー・ブッシュもいないこの会合で結論めいた話になるはずもない。結局考えるべき議題として保留されることになるのだが、この議論もすでに「日本に対する原爆の使用は決定済みだった。」という推測に、一定の説得力をあたえている。
先にも引用した、アーネソンの「暫定委員会履歴」という文書を見ると、この暫定委員会(非公式)が開かれた翌日の45年5月19日の項の記述に、
「 |
ページが大統領声明の準備の仕事にその任務を与えられた。アーネソン、陸軍長官声明原稿」 |
と記載されている。これは、5月18日の決定をスティムソンに報告し、ページが大統領声明の下書きを担当することをスティムソンが承認したのだと思う。またアーネソンが陸軍長官声明の下書き原稿を担当することになったのだと私は考えている。アーネソンはもともとハーベイ・バンディが見いだした人間だが、この時にはスティムソンの信頼を相当得ていたのだと思う。(<http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/
bomb/large/documents/pdfs/36.pdf#zoom=100>の5月19日の項参照の事。)
また5月22日の項には、「ハーベイ・バンディがスティムソンに産業家を呼んで、マンハッタン計画に携わっているその経験を暫定委員会で議論してもらうべきだ。」と提言し、スティムソンが「話を聞くべきだ」と同意した、との記述が出てくる。(同5月22日の項参照の事。)
さらに5月25日−29日の項では、「調整が完了し、準備万端整った。」という意味合いのアーネソンの記述がある。(同5月25日−29日の項参照の事。)
こうして暫定委員会は、5月31日・6月1日両日開かれる山場を迎えることになる。 |
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この会合にはスティムソンは休息から戻ってきていた。だけでなく、なみなみならぬ決意と準備をもって臨もうとしていた。しかし考慮すべきことが余りにも多かった。
1945年5月29日のスティムソン日記。(なお小さい青字は私の註。[ ]内はダグ・ロングの註である。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450529.htm>)
『 陸軍長官(スティムソン)は、大統領演説の案件と日本に関連した案件に関し、国務長官代行(ジョセフ・グルー)及びフォレスタル氏(海軍長官)との先の会談について言及した。
【大統領は5月31日演説を行う予定になっていた。この演説が議題になった。】
陸軍長官は、動きを延期することは健全であると感じている。
【動きとは日本に対する降伏勧告を指す】
(つまり5月31日、トルーマンは日本に対する降伏勧告演説を行うことになっていたが、これを延期せよ、ということだ。)
当面の間考慮すべき唯一の延期はこの案件であるが、しかしながら、われわれは、S−1の採用に際してその準備段階として、再度考慮すべきである。
陸軍長官は、東京の炎上【3月9日−10日および3月23日−26日の焼夷弾による空襲のこと】に言及し、可能な方法やより大きな爆弾の採用などについて語った。
また陸軍長官は、ブッシュ博士(バニーバー)からの手紙やコナント博士(ジェームズ)からの手紙について言及し、他の諸国に対して製造の性格についての公開問題や同様な問題を一般的に論じたブッシュ博士の意見についても言及した。
【この手紙はブッシュ博士とコナント博士が作成したもので、手紙と2本のメモランダムからなっている。1944年9月30日にスティムソン当てられたものである。この内容は、1945年5月14日の暫定委員会にも提出された。
この手紙は、メモを要約したもので、次のようにはじまっている。
「核競争を防ぐ望みはまだあります。将来の世界平和をあるいはもたらしさえするかも知れません。この主題について国際的に科学者が交流し、技術的な交換を行って、国際的な委員会が各国間の同盟組織の下に、査察の権限を持つことによって、それは可能です。」】
(「日本に対する原爆の使用」に対して賛成か反対かは別として、日本に対する原爆の使用は、その日から世界に核軍拡競争をもたらす、という見解は、当時マンハッタン計画に参加している科学者の共通見解だった。そしてこの見解はトルーマン政権の要人やマーシャル、グローブズなど軍部の要人の間でも共有されるようになった。「ブッシュ−コナント メモランダム」は、この核軍拡競争を防ぐ手はある、とこのメモで提言している。それは科学者が国際的に交流し、国際的な管理委員会を作って、査察権限をもたせ、核兵器の拡散を防止する、という手段である、と述べている。)
マーシャル将軍はそれらの手紙を手にとって読んで、できるだけ早く自身の提言を述べると云った。
マーシャル将軍は、これらの兵器(原爆のこと。複数扱いである。)は、最初は、たとえば大規模な海軍基地など軍事目標にのみ使用し、そしてその効果が期待するほど完全なものでない時に、避難警告をした上で、たとえば産業地帯を破壊するつもりであるなどと日本人に告げた上で、日本の大きな産業地帯に対して使用するのが良いと考えている、と云った。
(攻撃地の)個別の指定はしないので、日本にはどこが攻撃されるか分からない。
対象となるいくつかの候補地の数だけをあげて置いて、間をおかず攻撃するのがいいと言った。
われわれが警告をするのに全力をあげたと言う記録だけは残すべきだ。
警告を発することによって、われわれは、そのような兵器を使用するという不健全な考え方から生ずる不名誉(opprobrium)の埋め合わせをしなければならない。
【実際には広島に原爆が投下されたときにはそのような警告は一切なかった】
それからマーシャル将軍は、新兵器がもたらす刺激や興奮、新兵器開発に携わった人々のこと、などに注意深く対処しなければならない、戦術のこと、それから自殺的行為を覚悟した日本の断末魔の防衛戦術などについても語った。
マーシャル将軍は、狂信的で自暴自棄の防衛戦術で発生する損害を避ける方法を模索している、なにか新しい戦術が要求される、と云った。
それから将軍は毒ガス兵器使用の可能性についても言及した。
極めて限定的な使い方、たとえば、戦闘中の孤立した島とか、あるいはまさに(戦闘が)発生せんとしている島とか、に(使用することに)ついても語った。
採用しうる毒ガスの種類についても言及し、毒ガスの新兵器とか大きい威力のものは必要ない、浴びせて弱らせて、戦闘能力を奪う程度のものでいい、たとえばマスタードガスとか、敵を遠ざけておく程度のもの、と語った。
陸軍長官は、その週に科学者と産業人との会議があるので、将軍を出席させると云った。(これは5月31日・6月1日開催予定の暫定委員会のこと。)
将軍は再びこの2通の手紙を読んで、自分の見解をまとめたメモを作成すると言った。
【この会談のメモはJ・J・マッコイが作成した】』 |
J・J・マッコイが作成したスティムソンとマーシャルの会談メモから読み取れることは、「日本に対する原爆の使用」は「ブッシュ−コナント メモランダム」が提出された1944年9月30日には、すでに既定路線となっていた、ことである。しかしこれを「決定」ということはできない。というのはこの時点では、「原爆の完成」はまだ大きな不確定要素だったからだ。
不確定要素でなくなるのは、45年5月4日グローブズがスティムソンに対して提出した報告書「間違いなく4ヶ月以内にわれわれは人類史上もっとも恐ろしい爆弾を完成する。」以降のことだ。
次に、「フランク・レポート」の記述にもあるように、「日本に対する原爆の使用」は、使用したその日から、世界に核軍拡競争をもたらす、という共有認識をバニーバー・ブッシュも、ジェームズ・コナントも持っていた、と言う点だ。
そしてこの時点ですでに、一部の科学者は「核軍拡競争」を回避する手段を考えていた、と言うことも重要である。
次にマーシャルの認識も重要である。このような兵器を使用することは、アメリカにとって不名誉なことだと考えていた点だ。これは先のスティムソンの「人道主義国家アメリカが、アメリカにとって最大の財産」という考え方と共通する。
マーシャルはこうした不名誉を軽減するためにも、原爆の使用に関しては「日本に事前に警告を出すべきだ。」と考えていた、少なくとも、スティムソンの前ではそう述べた。
山場の暫定委員会を前にした5月30日のスティムソンの日記。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450530.htm>。なお[ ]はダグ・ロングの註)
『 今日はほとんど1日中、S−1の問題に時間が使えた。
今週はS−1に精力を注ぐことができる見通しだ。
―中略―
それから事務室へ戻って、ジョージ・ハリソンと長い面談をした。
ハリソンは、その場所で働くある人間からの、S−1に関する手紙を持ってきた。
【この手紙はマンハッタン計画に従事するエンジニアで、O・C・ブルースターの手紙だった。ブルースターはこう訴えている。
「ドイツからの脅威が取り除かれた今、原爆計画を中止すべきです。」
「文明が破壊されることは極めて現実のものとなりました。私に意見を言わせて頂ければ、これはほとんど不可避的な結末となります。」
スティムソンはこの手紙に大いに動かされた様子で、この手紙をトルーマンに送った。トルーマンの反応は知られていない。】
それから、夜の間、メイベル(スティムソンの夫人)がこの手紙を注意深く、すべて私に読んでくれた。それからブッシュとコナントからの2通の手紙も読んでくれた。
ほとんど夜中、この事が私の頭を占めていた。』 |
こうして、45年5月31日の暫定委員会を迎えることになる。 |
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(以下次回)
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