|
|
|
「日本に対する原爆の使用」という問題に関する疑問は結局、1.いつ、2.誰が決定し、そして3.その政策意図は何か、という3点に絞られる。この疑問のうち、「いつ?」という疑問はおそらく暫定委員会成立前、すなわち45年5月4日、5日で暫定委員会の正式メンバーが決定する前であろうことはおおよそ推測できた。
「日本に対する原爆の使用」という政策が、「世界に核兵器競争を将来する。これを防止するには科学者が中心になって国際的な、査察権ももつ管理機構を作ってこれが担当すべきだ。」という、後の国際原子力機関(IAEA)を思わせるような提案を骨子とする「ブッシュ−コナント メモランダム」がスティムソンに提出されるのが44年9月30日なので、ここまでさかのぼる考え方もある。この場合は、「日本に対する原爆の使用」という政策はフランクリン・ルーズベルトの決断で、スティムソンやジェームズ・バーンズなどトルーマン政権の要人がその政策を忠実に実施した、ということになる。ジェームズ・バーンズはルーズベルト大統領時代も大統領特別代表だった。
しかし、44年9月30日までさかのぼることは難しい。というのはこの時点では、「原爆の完成」そのものが不確定要素だったからである。不確定要素を前提にした政策は政策と呼ぶことが出来ない。原爆の完成が不確定要素でなくなるのは、グローブズがスティムソンに報告書を提出した45年4月24日、そしてその報告書を基礎にしてスティムソンが大統領に就任したばかりのトルーマンに「恐らく4ヶ月以内に人類史上もっとも恐ろしい兵器を完成すること。」を骨子とするメモランダムを提出した4月25日ごろであろう、というのがおおよそ前回までの推測だった。
(このメモランダムは次
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-memo/stim19450425.htm>) |
|
|
|
今回以降は、暫定委員会の山場、45年5月31日・6月1日の2つの会合の内容を検討することになる訳だが、その前に大きな問題がある。
他ならぬ私たちの「原爆に対する理解の仕方」だ。私たちの頭の中には「原爆の開発は、はじめはドイツとの戦争のためだったが、後には日本との戦争のためだった。その開発事業がマンハッタン計画だった。」という「理解の仕方」が刷り込まれている。つまり「原爆の開発は戦争のため」という理解が刷り込まれている。この刷り込みが、暫定委員会の内容を素直に理解することを妨げることになる。
この刷り込みから脱却して、「ルーズベルト政権−トルーマン政権」が企図したことは、
「我が国や他の諸国で産業界の基本的動力源として使われている水力、石油、石炭を補完する動力源として原子力がどれほどのものかを論じる前に、経済的見地からの検討も必要である。われわれはまだ開発するのに多額の資金と何年もの時を必要とする新しい産業技術の門口にたっているにすぎない。」(「原爆投下直後の陸軍長官声明 45年8月6日」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>)という認識を前提に、原子力エネルギーという人類史上全く新しい「エネルギー源」の開発事業だった、そのスタート時の開発事業が軍事目的利用の開発だった、それが「原爆開発事業」だった、という理解にいったん立ってみなければならない。
もしこの理解の立場に立って、物事の説明がうまくつかないようであれば、この理解を捨てて、もとの理解の立場に戻ればいいし、あるいは別な立場を見つけることも出来る。 |
|
|
|
45年5月31日、山場の暫定委員会当日のスティムソンの日記。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450531.htm>)
『 |
陸軍省に8時40分についた。極めて早い時間だ。S−1(マンハッタン計画)に関する暫定委員会を招集する前に、ジョージ・ハリソンとマーシャル将軍と話をした。私はできる限り入念にこの委員会の準備をした。私には開会の仕事があったからだ。そしてそれ(暫定委員会)がなんであるかを語り、科学者たちを参加させてどんな事を話して欲しいと期待しているかを語った。』 |
スティムソンの、この日の委員会に向けた意気込みを感じる。この日は、委員会メンバー(「暫定委員会について」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee.htm>を参照の事。)がフルメンバーで出席をした。また4人の科学顧問団のメンバーも参加した。招聘参加者は陸軍参謀総長のマーシャル、マンハッタン計画の責任者のグローブズ、それにスティムソンの補佐官、ハーベイ・バンディ、陸軍省外部広報担当のアーサー・ページも参加している。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_531.htm>参照の事。)
会議は10:00からはじまった。
最初にスティムソンが用意したこの日の議題を並べておこう。( )は私の要約説明である。
T. |
委員長開会あいさつ (暫定委員会の目的と役割 科学顧問団への要望の説明。) |
U. |
開発の段階 (「原子力エネルギー」の基礎的開発の説明、特に核兵器の発展段階。) |
V. |
国内計画 (原子力エネルギー産業国内育成の展望) |
W. |
基礎的研究 (基礎的研究のありかたについて) |
X. |
管理と査察の問題 (主として原子力や核兵器の国際的情報交換の問題に議論が集中。) |
Y. |
ロシア (ロシアへの情報公開の問題。) |
Z. |
国際的計画 (将来のロシア参加も念頭に置いた核兵器独占体制構築) |
[. |
日本への爆撃と戦う意志に関する効果 (日本への原爆使用の効果について) |
\. |
望ましくない科学者の取り扱い (日本への原爆使用に反対の科学者について) |
]. |
シカゴ・グループ (シカゴ冶金工学研究所の科学者の取り扱いについて) |
XI. |
科学顧問団の位置づけ (科学顧問団の役割) |
最後の議題は、次回会合なので省く。これがざっとしたこの日の議題の概観だ。 |
|
|
|
朝10時から午後4時過ぎまで、1時間の昼食を挟んでぶっ続けで議論している。スティムソンは途中1回ホワイトハウスへ出かけるので中座しているのと、午後は自分の予定をオーバーして3時半まで会議に参加していたようだ。
スティムソンは、おおよそ次のようにあいさつの中で述べた。
1. |
暫定委員会は長官自身が大統領の承認を得て指名し、その役割は、戦時暫定管理、公式声明、法制化、戦後機構などについて勧告を行うこと。 |
2. |
参加した科学者には全く自由に発言して欲しいこと。 |
3. |
暫定委員会(Interim committee)の名前は、将来(戦後)、議会が原子力エネルギー政策に関する恒久的組織を設立することになるので、それまでの「暫定」(Interim)という意味であること。 |
4. |
陸軍長官はマーシャル将軍と共に、軍事的観点から大統領に勧告を行う立場であること。(これはルーズベルト政権時代に設立した「全体政策グループ」のことを云っていると思う。このグループの委員は他にバニーバー・ブッシュとジェームズ・コナント。「陸軍長官声明」参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>) |
5. |
スティムソンはマーシャルと共に、「マンハッタン計画」を単に軍事的目的の観点からのみとらえていない。「原子力エネルギーの利用」という観点からとらえている。今は戦争のための必要性から発展しているが、これは文明に対する脅威とするよりも、将来の平和を保障するような管理が加えられるべきである。 |
6. |
従って次のような論点から議論を望む。
(1) 将来の軍事兵器、(2) 将来の国際競争、 (3) 将来の研究、(4)将来の管理、(5) 将来の開発、特に非軍事分野 |
このスティムソンの問題意識は決してスティムソン一人のものではなかった。専門にスティムソンを研究している学者や研究者は何というかわからないが、私は、スティムソンという人は、「集約」と「総合体系化」に長けた政治家だと考えている。権威にこだわらず、優秀な政策家の提言にじっと耳を傾け、それを自分の政策の中に体系的に取り入れることを得意としていたように思う。だからここでのスティムソンの問題意識も、決してスティムソン一人のものではあり得ない。 |
|
|
|
議論は科学者の発言から始まった。まずは、シカゴ大学冶金工学研究所所長のアーサー・コンプトンの初歩的な説明である。コンプトンは開発の3つの段階を説明した。まず第1段階はウラン同位体235の分離とその濃縮の段階である。濃縮ウランの製造は現在、数ポンドから数百ポンドの規模であるが、将来はトン規模に拡大できると、と説明した。
第2段階は、第1段階の成果に基づいてプルトニウム239やその他のタイプのウランを獲得し、その濃縮物質を獲得することである。いわゆる「プルトニウム爆弾」の段階である。面白いことに、アーサー・コンプトンは「実際の爆弾は第2段階から製造されるのであり、まだその実効性が証明されていないが、そのような爆弾の実現は科学的知見から間違いないものと考えられている。」と述べていることである。
A・コンプトンによれば、広島に投下されたタイプのウラン型核兵器はまだ核兵器の前段階であり、本格的にはプルトニウム型爆弾だ、というのである。これはその後の核兵器の発展から見て全くの真実であり、ウラン型核兵器は爆発効率が低かったため、その後プルトニウム型爆弾が主流となる。(広島へのぶっつけ本番の原爆投下がいかに大きなリスクを抱えていたかもわかる。)
A・コンプトンはさらに興味深いことを述べている。
「 |
(プルトニウム型爆弾は)推測では1946年1月から1年か1年半の間に、この第2段階が証明されるものと考えられる。技術的問題や冶金工学上の困難性から考えて、相当量のプルトニウムが製造できるのは恐らく3年かかるであろう。もし他に競争相手がいるとすれば、その競争相手がこの段階に達するには6年かかるであろう。」 |
実際にプルトニウム型爆弾で「第2段階」が証明されるのは、このわずか1ヶ月半後の7月16日のアラモゴード砂漠における原爆実験の成功である。このことはどう解釈したらいいのだろうか?プルトニウム爆弾は効率が良く本格的な核兵器と見なされたことは事実だが、濃縮の過程で、どうしても微量の同位体240を排除できない、そのため爆発装置の開発が難しく、爆縮方式を採らざるを得なかった。いわゆる「爆縮レンズ」の開発など、その爆発装置の開発が大問題だった。ためにここでは、46年1月という表現をした、ということは理解できる。それにしても46年1月と45年7月では、大きな誤差というべきではないだろうか?色々な解釈が可能だが、原爆の開発を急ぎに急いだ、事情は窺える。
エンリコ・フェルミはここで、第2段階で研究上必要なプルトニウムの量を「0.5トンから1トン」と云っている。
第3段階は「重水素」を原料とする核兵器の段階である、と今度はジェームズ・コナントが説明する。これは熱核融合爆弾、いわゆる水素爆弾である。コナントはオッペンハイマーに、この爆弾の開発にはどれくらいの時間がかかるだろうか、と尋ね、オッペンハイマーは製造段階に至るまでで3年かかると答えている。
そしてオッペンハイマーは、第1段階では、核兵器の破壊力(TNT火薬換算出力)は、爆弾1個あたり、2000トンから2万トン、第2段階では5万トンから10万トン。第3段階では1000万トンから1億トンの爆弾を製造できるようになると考えられる、とその後の経過から見て驚くほど正確な予測をしている。
実際この時からわずか16年後の1961年、ソ連がノバヤゼムリアの上空で爆発させたRDS-220は設計上1億トンの熱核融合型爆弾だった。
(実際の実験では、出力は半分の5000万トンに押さえられた。日本語Wikipediaがわかりやすく説明している。<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%
BC%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90>) |
|
|
|
そして議題は「V.国内計画」に移っていく。
アーネスト・ローレンスは、この分野の研究はウランやトリウムなど以外に、もっと別な重金属や方法があってその分野は未開拓である、この研究を続けていけば、将来は太陽ではなくて、地球上の物質から主要なエネルギーの源が得られる時代が来ると考えていると述べた。
このローレンスの説明には若干の補足が必要かもしれない。現在私たちが得ているエネルギー源は、食糧にしても、石油にしても、石炭にしても、その源は「太陽」である。太陽からのエネルギーを自然の力で、あるいは人工的に変換して、直接エネルギーの源としてきた。しかし、ウラン、トリウム以外の重金属や、また重水素などを核融合燃料として利用できれば、太陽エネルギーに依存しなくても、地球上に存在する物質から主要なエネルギー源をつくり出す時代がやってくることを確信しているというのだ。
(例えば重水素は海水中に大量に存在する。)
だから、ローレンスは「この分野の研究は絶え間なくこれから続けて行かなくてはならない。」と述べている。そしてローレンスは、
『 |
この計画(原爆開発計画)の工場拡張は真剣に追求すべき』であり、 |
『 |
同時に一定規模の爆弾の貯蔵や原材料の貯蔵はなされるべきである、と提言した。安全上の理由から、そうした工場は全土に散らすべきであるとも述べた。他の産業への応用やその開発は(すなわち原子力エネルギーの平和利用)、前進させるべく努力を傾けるべきである』 |
『 |
必要な工場拡張と基礎的研究の拡大を真剣に追求することによってのみ、そして適切な政府の援助を担保することによってのみ、この国はその最前線にとどまることができる。』 |
と主張し、A・コンプトンも完全な同意を示した。
ある人たちにとっては、ここでのローレンスの主張には首尾一貫性がないと感じられるかも知れない。というのは「原子力エネルギーの平和利用」の将来をバラ色に描きながら、そのためには「マンハッタン計画」の工場拡張は追及すべきであって、また原爆(核兵器)の貯蔵(ということは製造も含む)やその原材料の貯蔵をしなければならない、と述べているからだ。
前段では原子力エネルギーの平和利用を述べ、後段ではそれと全く関係のない軍事利用について述べている・・・。
ところがローレンスの話は首尾一貫しているのである。アメリカの原子力政策は軍事目的でスタートした。将来は輝かしいエネルギー革命のバラ色の未来が開けてはいるものの、そこに至るには、軍事目的の基礎研究開発の努力を続けて行かなくてはならない。そこから得られた成果を「他の産業」への応用に振り向けていかねばならない、というのがその骨子だ。そのためには必要な工場拡張と基礎研究の拡大を追求しなければならない、ところがこれには厖大な金がかかる、だから「適切な政府の援助」が必要不可欠となる、というのがその発言の論旨だ。
そして実際、戦後のアメリカの原子力エネルギー分野の研究開発は、アメリカ原子力委員会のもとで、この通りの発展形態を遂げていき、アイゼンハワー政権の時にはじめて、原子力の平和利用目的の応用分野が実用段階に入ることになる。
なお私は、今、ローレンスの話の前段部分「将来は太陽ではなくて、地球上の物質から主要なエネルギーの源が得られる時代が来ると考えている」を読んでいて、何故か09年4月、オバマのプラハ演説の次の箇所を思い出した。
オバマはここで風力、太陽に触れているが、本当にやりたいことは「原子力エネルギー依存」の体制を世界的に構築することであることは、この演説の後段部分及びその後のオバマ政権の原子力エネルギー政策から見て明らかだ。 |
|
|
|
45年5月31日開催の暫定委員会での科学者の発言にもう少し耳を傾けてみよう。
カール・コンプトンはそれまでの議論を要約し、今後の国内計画に関して次のような提案をした。
1.第1段階での生産の拡張、貯蔵用の爆弾の製造、研究用原材料の整備。
2.第2段階研究への注力。
3.必要な第2段階の実験工場の建設。
4.新しい製品の製造。
もちろんこれは戦後に一貫して連続している計画である。というよりコンプトンの頭の中には、われわれの頭の中にあるような「戦前・戦後」という区別はなかったに違いない。K・コンプトンには、これからの「原子力エネルギー政策の将来」という切れ目のない連続した時間意識しかなかったと想像する。
これを受けてオッペンハイマーは、「これからの国内生産の難しさの一つは原料の手当と用途に応じたその割当だろう」と発言した。一言で云えばウラン鉱石の手当てと国内割り当て問題である。現在はオーストラリア、カナダ、カザフスタン(旧ソ連)などから多くのウラン鉱石を産出しているが、当時はたとえばソ連にはウラン鉱石は埋蔵されていない、と広く信じられていた。要は研究や生産を進めるにあたっては、大量のウラン原鉱石が必要だが、その手当てと割り当てが問題となるだろう、その利害調整が難しい、というのがオッペンハイマーの発言の趣旨である。
K・コンプトンは、「われわれの基礎研究を強化するために、産業界を元気づける努力がなされなければならない。」と発言した。一読するとなんのことかわからない発言だが、要するに、政府予算の獲得とそれを請負契約で企業にどしどし発注せよ、ということだ。
この一文を読まれた人はご記憶と思うが、アメリカの「原爆開発計画」はごく初期の段階で、バニーバー・ブッシュが局長の科学研究開発局が担当した。軍事兵器や軍事技術開発が中心とはいうものの、連邦政府部内の一部局である。指示は直接大統領から受け、直接大統領に報告をあげる仕組みを採用した。この時開発にあたっては一般企業に対して「請負発注制度」をとった。42年に原爆開発計画は陸軍に移管され「マンハッタン計画」となるわけだが、この「請負発注制度」はマンハッタン計画においても継承された。
この仕組みを使って連邦政府予算をどしどし産業界に流し込めば、なるほど「産業界は元気」になる道理である。科学技術開発局の現業事務所長、K・コンプトンらしい発言である。
結局、陸軍長官は国内生産に関する議論を次のようにまとめた。
1.産業用工場をそっくりそのまま維持する。
2.軍事使用目的、産業用使用目的及び技術的使用目的で原材料を一定規模製造する。
3.産業用開発に門戸を開く。 |
|
|
|
議題は「W. 基礎的研究」に移る。
開発途上の新しい研究分野では、基礎研究の拡充は生命線だ。これはなにも原子力エネルギー」に限らない。この点、基礎研究の在り方についてオッペンハイマーは大いに不満だったようで、「この分野における潜在性をもっと完全に取り出すためには、もっとゆったりとした、もっと通常の研究環境を設立することが必要だ」と述べ、現在の研究の在り方については、戦時下ということで、研究が熟さないうちに、その前段階の成果をもぎ取っているに過ぎない、と表現している。そして、「現在のスタッフは、相当数が大学に戻って、もっとこの分野で枝分かれした研究に携わるべきである、ある目的にだけ的を絞った現在の研究の仕方は、あまり多くを生み出さない。」と強く主張した。
バニーバー・ブッシュもこの意見に賛成で、戦時下であるからやむを得ないが、「平和時の研究の在り方としては完全に誤っている。」と同調した。A・コンプトン、エンリコ・フェルミも「完全な基礎的研究をなすまでは、この分野での大きな可能性を保証することはできない。」と強く強調した。
戦時下における「原子力エネルギーの開発研究」は戦時下であるゆえに、短絡的に結果を求めた。オッペンハイマーの表現を借りれば、「前段階の成果をもぎ取った。」そして、基本的にはこの研究体制は、「完全に誤っている。」(バニーバー・ブッシュ)
だから「完全な基礎的研究をなすまでは、この分野(すなわち原子力エネルギー分野)での大きな可能性を保証することは出来ない。」(A・コンプトンとエンリコ・フェルミ)と広汎で基盤のしっかりした基礎研究の必要性が強調された。 |
|
|
|
次の議題が「X. 管理と査察」の問題である。
この議題はかなり白熱したようだ。議事録であてられる分量も多い。
スティムソンは「原子力エネルギー」は軍事目的以外にどんな潜在性をもっているだろうか、という問題を考えている、と問題提起した。そして非軍事用途の潜在可能性を理解しておくことは、情報交換の問題や国際的協力体制を考慮する際の基本的背景となる、と補足している。
ここで論点を整理しておこう。
暫定委員会に出席しているほぼ全員が、「原子力エネルギー開発」をいつまでもアメリカ1国の独占分野とすることはできない、という見解では一致している。それが軍事目的利用であれ、平和目的利用であれ事情は変わらない。「原子力エネルギー」そのものは、秘密に出来るような性質の知見ではなく、一般的な科学的知見であり、従ってその開発も一般的科学技術開発となんら変わることはないからだ。そうするといずれは、軍事目的利用であれ、平和目的利用であれ「開発競争」が起きることになる。軍事目的利用でこの開発競争が起きれば「核軍拡競争」ということだ。
これを防止するには、国際的な管理機構が必要となるが、これはどんな形で行うべきであろうか、これが全体の論点であった。しかし、このためにはお互いの情報開示と情報共有が必然的となる。これが次の論点となった。
まずオッペンハイマーが発言する。オッペンハイマーは直近の関心事は、戦争を短縮することだ、と前置きして、「平和目的利用を強調する形で世界と情報交換するのは賢いやり方だ。しかも、これは実際の原爆の使用の前にやった方がいい。その方がアメリカの人道主義的立場を強化する。」と述べた。
ここでオッペンハイマーが「直近の関心事は戦争(もちろん対日戦争である)を短縮することだ。」と述べていることは、極めて興味深い。これは原爆の使用は対日戦争のためだと、オッペンハイマーが考えていた証拠だとも受け取れる。しかし、「原爆の使用」はソ連の対日参戦を早めるので、戦争終結を早める結果になると、彼が考えていたとも解釈できる。これは、後に見る「ラルフ・バードの留保意見書」でも検討するように正解は後者だ。
そのことよりさらに興味深いのは、世界の科学者との意見交換は、「実際の使用」の前がいい、と述べ、そのことは「アメリカの人道主義的立場を強化することになる。」と述べていることだ。実際の使用前に、オープンに世界の科学者たちと意見交換を行うということは、事実上ソ連に対しても日本に対しても、「原爆の完成」を知らせる結果になる。これは、日本がこのことをどれほど深刻に受け止めるかは別として、日本に対する警告になる。だから「人道主義的立場を強化」するわけだが、イギリスの同意なしに行えば、ケベック合意違反である。
すでにこれまで見たとおり、「日本への原爆の使用」は委員会の決定事項(正確には委員会発足時には決定していた暗黙の了解事項)だ。オッペンハイマーの発言はこれを取り消せと踏み込んだ発言ではない。それにオッペンハイマーの発言は議題の趣旨から逸れ始めている。
もう一度整理すると、「日本への原爆の使用」後の「原子力エネルギー国際管理」の問題が、今のテーマだ。果たしてオッペンハイマーの論点はそれ以上発展をみせなかった。 |
|
|
|
スティムソンは議論を軌道に乗せる形で、「ブッシュ−コナント メモランダム」をもちだした。このメモランダムは44年9月30日、バニーバー・ブッシュとジェームズ・コナントが手紙で議論しあった内容を、両名が共同で要約しメモランダムの形でスティムソンに提出したものである。次の3点を骨子とする。
上記3点の骨子のうち、3番目「この主題について国際的に科学者が交流し、技術的な交換を行って、国際的な委員会が各国間の同盟組織の下に、査察の権限を持つことによって可能だ。」を取り出して、スティムソンは議論を促進しようとした。
暫定委員会の出席者にとって、1番目と2番目はあまりに自明なので、議論の対象にならない。だから3番目だけが、論議の対象になる。
が、2010年に生きる私たちには1番目のポイントと2番目のポイント自体何のことかわからない。だから若干説明が必要であるように思う。
1944年9月当時、マンハッタン計画で働く多くの一流科学者にとって、「原爆の登場の仕方」が先ず大問題であった。というのはその登場の仕方によってはすぐ次の日から核軍拡競争が始まることが予想されたからだ。44年9月当時は、ドイツはまだ降伏前だった。彼ら科学者がもっとも劇的な登場のさせ方として恐れていた(と云う表現を使ってもいいと思うが)ケースは「全く無警告で多くの人口を抱える都市のもっとも効果的な地点を選んで原爆攻撃」を行うことだった。こういう登場のさせ方をすれば、他の諸国、特に当時意識されたのは、ソ連であるが、ソ連は何はさておいても原爆開発に真剣に取り組む。威嚇ではなしに実際に原爆を使用するアメリカが、ソ連に対して使用する蓋然性は極めて高い。それを予防するには、自分もいち早く原爆を持つ他はない。そして3番目の国、4番目の国、と果てしなく原爆を保有する国があらわれる。これは地球文明にとって破滅的な状況だ。しかし、これを(核軍拡競争)を防止する手段はまだある、というのが第1番目の意味だ。
重要なことは、この前提には、当時の交戦国ドイツあるいは日本に原爆を使用する、という仮定があることだ。仮定というのは「原爆の完成」そのものが、この時期不確定要素だったからだ。もしこの手段がうまくいけば、世界に平和すらもたらすかもしれない、というのが2番目の意味だ。 |
|
|
|
この「ブッシュ−コナント提案」は、44年9月当時はまだ不確定要素の上にたった仮定問題だった。しかしこの暫定委員会の開催されている45年5月−6月はそうではない。
原爆は未完成とはいうものの、それはすでに不確定要素ではなくなっている。従って「ブッシュ−コナント提案」が仮定問題とはいえなくなった。
ブッシュ−コナント提案が想定する国際管理機構は、科学者中心の管理機構を想定している。科学者が自由に討論し、その意味では民主的な機構が考えられている。
スティムソンは自分の問題提起に、さらに加えて、民主主義陣営は全体主義陣営(この場合は共産主義陣営を想定している)に対してこの国際管理体制をめぐってどのような立場を取るべきか、という質問を追加した。
バニーバー・ブッシュは、民主主義陣営は全体主義陣営に較べて科学的自由と民主的チームワークをもっているため、全体的主義陣営に較べて圧倒的有利な地位に立っている、だから自由な情報交換の仕組みは、アメリカに有利に働くだろう、しかしロシアに対してアメリカが一方的に情報開示をしてしまえば、アメリカが現在の地位を永久に維持できるかどうか疑わしい、と述べた。
カール・コンプトンは、原爆計画の遅れを取り戻すまでアメリカの優位性を確保したいとは思うが、どちらにせよアメリカが独占できるとは思えない。それでも世界のトップの地位を保てるとは思う、と述べた。
アーサー・コンプトンは、軍事目的利用の方が平和目的利用よりも恐らくは国際管理がやりやすい。平和目的管理は、艦船の推進力、健康、化学、その他の産業分野で果てしない潜在性がある。しかしこうしたことを規制していこうという政策、あるいは科学的着想を1国だけで独占しようとしても役立たない。基礎知識は多くの国で知られているからだ。世界の国々が手に手を取って進んで行かないと、科学者は多くの開発のチャンスを失ってしまうだろうと、まるで今日の状況を見越したようなことを述べた。
ここで、ブッシュは持論の、国際管理は査察権が必要だ、このためには科学者間の国際的調整が必要だ、と述べた。オッペンハイマーはソ連でこの分野の研究がどれほど進んでいるか疑わしい、しかし科学者間の国際的結合が助けになるだろう、と述べた。
参加していたマーシャルは、査察に余り信をおくのはどうか、と述べ、暫定委員のウィリアム・クレイトンは、査察は疑わしい、と述べた。
こうして「原子力エネルギー」国際管理の問題は、この日はお互いに意見を出し合うに止まった。 |
|
|
|
今日、私たちがこの議事録を読み取る際、もっとも重要なことは今日の核兵器や原子力産業を巡る情勢と照らし合わせながら理解し、その理解の中から、トルーマン政権の「対日原爆使用」の政策意図を類推して行くことであろう。
そして議論は「ロシア問題」に入る。ここでの論点は、アメリカの原子力エネルギー開発の状況に関する情報、それはとりもなおさず「原爆開発」の状況のことだが、をロシアに開放し、ロシアと情報の共有をするかどうか、と言う点だ。
これが何故論点になるのかというと、戦後の世界体制の骨格に直接関わっているからだ。この暫定委員会の時点で、核兵器の拡散は不可避的な流れとはいうものの、アメリカについで核兵器を保有しそうな国は、友好国イギリスをのぞけば、ソ連である。そのイギリスとはすでに核兵器の独占=核不拡散合意ができあがっている。
この状況でソ連と情報を共有するということは、必然的にソ連と核兵器独占=核不拡散合意を形成すると云うことになる。これはアメリカ、イギリス、ソ連の三カ国で核兵器独占体制を構築することになり、「ブッシュ−コナント メモランダム」が指摘する「2.世界平和をもたらす」ことになる。勘違いしないで欲しいのは、このメモランダムで言っている「世界の平和」とはアメリカにとっての世界平和のことであり、アメリカによる世界平和、パックス・アメリカーナそのもののことだと云う点だ。
逆にこの時点で情報の共有をせず、アメリカが核兵器保有国であることを、わかりやすい形で示す、たとえば原爆実験、とかあるいは原爆を実際に使って見せる、とかすれば、この時点では、ソ連と完全に敵対関係に入り、当然ソ連は核兵器保有に全力をあげるだろうから、戦後体制は、ソ連との対決関係に入ることになる、後に「冷戦」と呼ばれる時代がこれにあたる。
だから、ロシアと核兵器に関する情報を共有するかどうかは、戦後体制をどう構築するかに関わる重要なテーマだった。 |
|
(以下、「下」へ)
|
|
|
|