1958年3月12日付け、任都栗司閣下へのトルーマンからの手紙に関する新聞発表

(*英語原文は以下:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
documents/index.php?pagenumber=1&documentdate=1958-03-12
&documentid=73&studycollectionid=abomb
 )



新聞・ラジオ・テレビに対する即時発表用

 次の手紙は、アメリカ合衆国前大統領、ハリー・S・トルーマン氏が、日本の広島市議会・議長、任都栗司閣下にあてて書いたものである。第二次世界大戦中、広島と長崎に原爆を投下したことに対して、氏が最近、テレビでなしたコメントに対して広島市議会は抗議決議を採択したが、この手紙はこの抗議に対する返事である。


親愛なる議長

 広島市議会の決議文が同封されたあなたのご丁寧な手紙に対して深甚なる謝意を表します。あなたの市における、人々の気持ちは、容易に理解できます。広島市議会が採択した決議に対して、私はいかなる意味でも攻撃を加えようとは思いません。

 しかしながら、私は広島市議会と、そして多分あなた自身にも、若干の歴史的出来事を思い起こしてもらいたいと思うのです。

 1941年、ワシントンで日本の天皇の代表と、アメリカ合衆国と大統領を代表して、アメリカの国務長官が、和平会談を行っておりました。その一方で、日本政府の海軍の冒険隊が、ハワイ諸島に接近中でありました。ハワイ諸島はアメリカの準州でしたが、その冒険隊はパールハーバー海軍基地を爆撃いたしました。それはなんの挑発行為も、なんの警告も、宣戦布告もなしに行われたものでありました。

 何千人もの若い水兵や一般市民が、この未承認の、何の予告もなしの攻撃によって殺害されました。そしてこのことが、日本の人々とアメリカの人々の間に戦争をもたらしたのでした。それは不必要な、恐ろしい行為でした。

 アメリカ合衆国は、両国の友好関係のため、偉大な提督が門戸を開けるのに成功して以来、日本と友人であり続け来ました。

 1900年代のはじめに起こった日露戦争でも、われわれの同情は日本の側にありました。合衆国大統領、セオドア・ルーズベルトは仲裁に入り、平和的解決をもたらしました。

 しかし、1930年代、日本は枢軸国側に参加しました。ドイツにおけるヒトラー体制、イタリアにおけるムッソリーニ政府が敗北を喫したあと、一人日本だけが取り残されたのです。

 1945年、ポツダムから、それはソ連の参戦前の話ですが、英国政府、中国、アメリカ合衆国が、ドイツやイタリアの降伏に加わるべく、日本に対して最後通牒を発しました。この文書はスエーデン政府及びスイス政府を経由して日本に送られました。しかし大変失礼なとても素っ気ない返事をもって、断りました。

 我が国の軍事的アドバイザーは、イギリスのチャーチル首相、中国の蒋介石総統、そしてアメリカの大統領に、東京平野への侵攻はと日本の南部の島に対する侵攻は、最低でも150万人の連合国兵力を必要とすると助言いたしました。

 1945年7月16日、日本への降伏要求が行われる以前のことですが、世界の歴史の中でなされたもっとも大きい爆発物のデモンストレーションが成功裏に終わりました。

(* トルーマンはここで、the Test といわずに、a demonstration と言っている。つまり事実上秘密の実験を、一般公開を念頭においたデモントレーションと言い換えている。)

 内閣、軍事上の司令官たちやチャーチル首相などとの長い議論のあと、日本に対する戦争を有利に働かせるため、日本の都市を原爆攻撃することに決めました。広島と長崎という2つの都市が選ばれました。1945年8月6日広島に原爆が投下が命令されて2−3日後に日本は降伏しました。軍部は日本に対して侵攻した場合、最低でも25万人の損失が発生し、日本全体は完全に破壊されていた、日本とアメリカの両側に、それ以外にそれぞれ2倍の損害が発生していたと推定していました。

 原爆の投下を命令した最高責任者として、私は、広島と長崎の犠牲は、日本と連合国の幸福のために、緊急で必要な犠牲だったと考えております。

 もちろん、このような運命的な決断の必要性は、1941年12月のパールハーバーへの攻撃がなかったら、おこらなかったろうとはおもいます。

 こうして簡単に歴史を振り返ったとしても、われわれの国家、アメリカ合衆国は、偉大で繁栄に満ちた国としての日本の再建にあらゆる方法で喜んで援助を惜しみません。

敬具
ハリー・S・トルーマン

任都栗司閣下
広島市議会 議長
広島、日本