「歴史学者ジェームズ・ケイトに対する模範回答」 ケイトの質問に答えられなかったトルーマン |
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1.(*)で青字は私の註である。 |
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ケイト教授の疑問 | ||
1952年12月、シカゴ大学の歴史学者、ジェームズ・ケイトはトルーマンに一通の手紙を送る。ケイトは当時シカゴ大学と米国空軍の共同事業として「第二次世界大戦中における米国空軍の歴史」という著作を共同編集・共同執筆していた。そこでケイトにはどうしても解けない問題が出てきた。 トルーマンや他の資料は、「ポツダム宣言で日本が黙殺したので、日本に対して原爆を投下した。これによって、戦争は終結した。」と説明している、しかし実際に原爆投下の命令は、ポツダム宣言発表の7月26日から1日前の、7月25日、米陸軍参謀総長代行のトーマス・ハンディから陸軍戦略航空隊総司令官、カール・スパーツに向けて出ている、この矛盾を説明して欲しい、と言うものだった。 該当箇所を引用しておこう。 (原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ ferrell_book/ferrell_book_chap18.htm 訳文は:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/James_Cate_to_Truman_19521206.htm ) |
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「鍵」を握る疑問 | ||
トルーマンは痛いところを衝かれた、と言うところだろう。果たしてこの質問にたいするトルーマンの回答は、つまらないウソをちりばめた、しどろもどろの内容だった。しかも肝心のケイトの質問には全く答えていなかった。 (トルーマンの回答草稿原文は次: http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_ book/ferrell_book_chap18.htm 訳文は次:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman_to_James_Cate19521231.htm ) トルーマンのスタッフは政権最後の1952年年末から1953年年始にかけて、ケイトの手紙の回答づくりに大騒動をする。そして最後に返事を出したが、それも今日から見て満足のいく内容だったかどうか、極めて疑問であった。 ケイトの質問は、広島に対する原爆投下をめぐる諸事情を説明する、鍵となる質問の一つであった。 まず日本に対して原爆を用いることを政治上の問題として扱う時には、必ず「原爆の使用」(the use of the bomb )という言い方をした。それに対して、これを軍事上の問題として扱う時には「原爆を投下する」(drop the bomb またはdeliver the bomb)という言い方をした。 (米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎における原爆投下の効果―、という報告書を読んでいた時に、「原爆が落ちた時」(When the bomb fell)という言い方をしている箇所があったが、これには笑ってしまった。原爆は自然に落ちてはこない。人が落とさなければ落ちない。) 「使用」(use)と「投下」(drop)の使い分けは、暫定委員会議事録、陸軍投下目標委員会、スティムソンメモランダムや日記、戦後出たスティムソンやコンプトンの「原爆投下正当化論」の諸論文をみても明確である。 ところが、トルーマンの書いた手紙やトルーマン日記をみても、トルーマンの中ではこの使い分けが必ずしも明確ではない。使用も投下も同じ事、と受け止めたていた節がある。つまり、トルーマンの中には、原爆を用いることの政治的意味と軍事的意味が混濁していたかのように見える。 このことが、ケイトの質問に答えられなかった、まず第一の要因であった。ケイトは当然、「原爆の使用」と「原爆の投下」の厳密な区別は知らないから、トルーマンあての手紙の中でも、混用している。 もし、トルーマンがこの区別をはっきり知っていたなら、ケイトが手紙の中で、「ポツダム宣言」が出される前に、ハンディからの指示がでた、これは説明と矛盾している、と質問した時に、ただちに、これは政治上の決断と軍事上の決断を混同している、と了解していたはずだ。 |
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「大統領声明」は政治的決断の証 | ||
一方では、確かにケイトの言うとおりなのである。スパーツへの指示は、軍事上の決断に基づく軍事上の指示なのである。しかしこの時点でトルーマンの「原爆の使用」という政治的決断はまだなされていなかった。どこにも公式文書がないのだ。 この点を憂慮したスティムソンは、原爆投下直後になされる予定の「大統領声明」をもって、その政治的決断の公式文書にしようとした。 ところが、スティムソンは信じがたいことだが、7月25日にすでに原爆投下の指示が出ていたことを、7月30日になるまで知らなかった。これは、「大統領声明」の草稿を7月31日に、クーリエでポツダムにいるトルーマンの手元に届けた際のスティムソンの手紙ではっきり確認できる。 (この手紙の原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/ documents/pdfs/55.pdf#zoom=100 で確認できるし、訳文及び註はここで読める。) 私は、このことを、「広島への原爆投下が必要なかった証拠」ではなく「広島への原爆投下が直接対日戦争集結と関係なかった証拠」の一つと考えている。ケイトは期せずして、「広島への原爆投下が直接対日戦争と関係なかった証拠」を指摘したことになる。 すでに原爆投下の指示が出ていることを知ったスティムソンはいささかあわてた。というのが、「日本への原爆使用」の大統領トルーマンによる、政治的決断がまだ出されていないからだ。そこで30日に関係者を呼び集めて、「大統領声明」草稿の仕上げにかかった。そしてその日のうちにまず電信で、草稿をポツダムにいるトルーマンの手元に送った。 (その電信文は次で読める。 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large /documents/pdfs/5.pdf#zoom=100 ) それを追っかけるようにして、翌31日には、暫定委員会の書記役を務めていたゴードン・アーネッソン陸軍中尉をクーリエにして、ポツダムのトルーマンの手元に送った。この時の「大統領声明」の草稿は、今みると分かるように、冒頭部分の「投下時間」「投下場所」は空欄になっていた。これは投下した後で、大統領声明発表前に埋めればよい。 このことも私は、「原爆投下が対日戦争と直接関係なかった証拠」の一つ、と考えている。 政治的にはどこの場所に投下するかはさして重要なことではなく、「無警告で、最初の原爆を日本に対して使用する」ことが重要だったからだ。どこに投下するかは、その時の事情と天候による。投下はまったく軍部の専管事項だった。 また30日にスティムソンから受け取った電信文の余白にトルーマンは、手書きで 「Sec. War Reply to your 41011 Suggestions approved Release when ready But not sooner than August 2 HST 」( 陸軍長官へ 貴殿の41011号への回答。助言は承認。準備でき次第発射 しかし8月2日以前は不可 ハリー・S・トルーマン )と 記入している。すなわち、スティムソンが知らないことを、トルーマンは知っていたことになる。 こうして、「大統領声明」にトルーマンが署名をし、その原文をアーネッソンがワシントンに持ち帰って、日本に対する「原爆の使用」は、「大統領決断の正式な政治文書」となり、トルーマンの政治的決断は効力を発揮することになる。従ってトルーマンは、ポツダムで「大統領声明」に署名した時に、正式に「最初の原爆の使用」の政治的決断をしたことになる。 トルーマンが、いつこの「大統領声明草稿」に署名をしたのか、私にはわからない。確実にいえることは、アーネッソンがポツダムに到着して、とんぼ返りのようにしてワシントンに帰着する間のことだろうと言うことだ。すなわち1945年7月31日から8月2日、3日の間だろう。 ただここでの疑問は、果たしてトルーマンは自分が署名したことの政治的意味を理解していたかどうかという点だ。一国の大統領に対して大変失礼な疑問を呈していることになるのだが、1952年時点でシカゴ大学の歴史学者、ジェームズ・ケイトに対して出した返事(実際には送られなかった)を見る限り、その疑問がのこる。もし、トルーマンに「原爆投下直後に出される予定の大統領声明草稿」に署名することが、「日本への原爆使用」に関する正式な大統領決断だった、という意識があれば、ケイト教授に対する回答に明確にそう書いただろうからだ。 しかも、これは日本の首相、鈴木貫太郎の「ポツダム宣言拒否」記者会見の後だから、一連の政治行動として全く矛盾はない。トルーマンの戦後の主張とも全く一致する。 トルーマンが、ポツダムで大統領声明に署名することの意味を、スティムソンが企図したように、明確に理解していたかというと、それは大きな疑問だ。 そこで私はトルーマンに代わって、ケイト教授に回答を書くことにした。いわばケイト教授に対する「模範解答」だ。(1952年、年末のトルーマン同様、私もヒマだ。) 以下がその解答である。 |
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模範解答 | ||
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こうして考えてみると、スティムソンは問題を考え抜いていた、と言わざるを得ない。トルーマンはそれを分かっていなかった。 |
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