(2010.1.19) |
|
Appendices − 8.Commissioner Biographies (各委員の履歴)
|
アメリカの戦略態勢議会委員会 各委員の履歴 |
この記事は、『アメリカの戦略態勢』(ペリー報告)に附属する「各委員の履歴」をベースにして作成する。というのは各委員の履歴を知る事は、この報告書の理解に奥行きと広がりを与える事になるからだ。しかしながら、こうした「公式履歴」は概してつまらないものだ。この「各委員の履歴」もご多聞に洩れない。特に委員長のウィリアム・ペリーに関する記述などは、どうしたらつまらなく人の履歴を書くかの見本のようなものだ。
そこで、インターネット上で利用できる情報も合わせて盛り込む事にした。「各委員からの略歴」からの直接の引用は「」にして引用する事にし、他資料からの引用は()で引用元を明示しながら記述する。特に引用がなければ私の見解、見方、地の文である。
冒頭にも紹介したように委員は12名である。上下両院の各軍事委員会の指名であり、民主党・共和党推薦各3名ずつで選任された。ところがどの記述を見ても委員長のウィリアム・ペリーがいかなるいきさつで委員長に選任されたかがわからない。ペリーくらいの大物になると、選任理由は要らないという事であろうか?
|
|
|
△back |
ウィリアム・J・ペリー (William J. Perry) 委員長(Chairman) |
|
ペリーはアメリカの軍産複合体制の申し子のような人物の一人だろう。1927年生まれのペリーは今年10月で83才になる。ペンシルバニアの田舎町の雑貨店の息子として生まれたペリーは、いかなる意味でも後ろ盾を持たずに徒手空拳で世の中に出なければならなかった。地元の高校を出るとすぐに、1945年米国陸軍に志願兵として従軍。日本占領軍にも加わっている。47年に除隊。48年には予備役士官訓練部隊に参加、50年から55年まで陸軍中尉だった。49年にはスタンフォード大学を卒業、50年に修士号を取得。57年にはペンシルバニア州立大学で博士号を取得している。いずれも数学での取得である。大学を卒業した後は、カリフォルニア州本拠のGTE/シルバニアに入社。54年から64年まで同社の電子防衛研究所の部長をつとめている。博士号はこの時期に取得している。一方、64年には自らも出資したエレクトロニクス分野の軍事企業、ESL社の社長に就任、77年までその職にあった。
(以上英語Wiki<http://en.wikipedia.org/wiki/William_Perry>による。)
こうしてみると、後ろ盾を持たない青年が軍隊を足がかりに、優秀な頭脳と飽くなき向学心だけを財産に、出世の階段を一歩一歩登っていく姿が見えてくる。
ペリーは後にビル・クリントン政権で国防長官をつとめ、アメリカの軍事力の近代化、言い替えればエレクトロニクス化、コンピュータ化を推進するのだが、その思想は、すでに彼の出自の中に芽生えていたと云うべきであろう。
『 |
1977年から1981年カーター政権の時に、研究および実施設計担当国防次官に就任。兵器体系の調達および研究開発に責任を負うことになった。この時の彼のもっとも大きな成果は、ステルス航空機技術の開発だろう。かれはこの技術開発の中心人物だった。
1981年国防総省をいったん後にする。その後サンフランシスコに本社を置くハムブレット・アンド・クイストというハイテク企業を専門とする投資銀行の役員となる。その後、1993年にペンタゴンに戻る間、テクノロジー・ストラテジー・アライアンス等位会社の会長を務める傍ら、スタンフォード大学の工学大学院の教授に就任、またスタンフォード国際関係協力センターの防止防衛計画の共同所長も務めている。ある意味典型的に軍産学複合体制を一人で集約した人物ということができる。』(前出「核兵器のない世界」より) |
こうしてペリーはアメリカの国防分野で、産業界、中央政府、学界のトライアングルをしっかり繋ぐ重要人物の一人にのし上がっていく。
『 |
ペリーは、第19代国防長官に就任、1994年2月から97年1月までその任にあった。その直前は国防担当の副長官だった。』(「各委員の履歴」より。) |
ここで注目しておかなければならないことは、ペリーが冷戦終結後の国防長官であり、ポスト冷戦のアメリカの国家防衛モデルを案出したキーパーソンの一人だったことだ。
『 |
ペリーは国防長官を引き受ける動機として3つのポイントをあげている。
1. |
冷戦時代へ戻ることを回避しつつ、アメリカへの核兵器の脅威を終了させること。 |
2. |
大統領に対し、いつ、いかなる形で軍事力を使用すべきか、またその使用を拒否すべきかについてアドバイスを送ること。 |
3. |
ポスト冷戦時代における軍事力削減を運用管理すること。』
(前出「核兵器のない世界より」) |
|
アメリカの核政策は、この時ペリーが描いた方向へと紆余曲折を経ながらも進んでいるように見える。注意しておかねばならないのは、ペリーは決して「地球に対する核兵器の脅威」を心配したわけではなく、「アメリカに対する核兵器の脅威」を終了させようとした、と言う点だろう。私の推測だが、ペリーの理想はアメリカだけが核兵器や核分裂物質を保有し、アメリカ以外の諸国は全く持たない状態、すなわち「核の独占」の状態だった。
06年1月ジョージ・ブッシュ政権の時、ホワイト・ハウスに元国防長官、元国務長官経験者が一堂に会し、長期的なアメリカの防衛体制について協議したと伝えられている。そして07年1月、4人の元高官及び元上院軍事委員長の共同論文「核兵器のない世界」が発表され、ペリーもその4人の中に名前を連ねる。08年1月には同じ4人が今度は「核のない世界」(原水協サイト資料保管庫内より。原水協訳は「核兵器のない世界」となっているが、原文タイトルは「Toward Nuclear-Free World」なので『核のない世界』と訳すのが正しい)を発表し、「核兵器廃絶」を謳い上げながら、その実「世界のすべての核」を独占管理状態におこうという意図をあらわにする。同じ08年には、「戦略態勢議会委員会」が組織され、ペリーを委員長として検討が進められ09年5月に最終報告書が議会に提出される。その1ヶ月前の4月には新任大統領のオバマが、内容的にはほぼ同一の「プラハ演説」を行っている。 |
|
△back |
ジェームズ・R・シュレジンジャー(James R. Schlesinger) 副委員長(Vice-Chairman)
|
|
ウィリアム・ペリーに匹敵するアメリカ軍産複合体制の大物である。ペリーが民主党を代表する人物であるのに対してシュレジンジャーは共和党を代表しており、バランスを取ったものだろう。民主党・共和党というが政策的には、特に外交政策、軍事政策においては、私から見るとさほど大きな違いはない。「核兵器は危険なので、すぐに廃絶交渉に入ろう」などという人物は、アメリカの権力中枢には絶対にいない。1929年生まれで、この2月に81才になる。ペリーに較べると2才若いが、印象として彼の方が早い世代に属していると感じるのは、シュレジンジャーがニクソン政権・フォード政権の時の国防長官(第12代)だったせいだろう。国防長官就任の時、シュレジンジャーが44才だったのに対して、クリントン政権の国防長官にペリーが就任したのは、67才の時だった。ペリーがポスト冷戦時代のアメリカの軍事政策を構築したのに対して、シュレジンジャー「はポスト・ベトナム戦争」の軍事政策を模索したといってもいいだろう。
最初に「各委員の履歴書」からの引用。
『 |
ジェームズ・R・シュレジンジャーの時間は、最近2つの部分に分けられている。一つはMITRE(註1)。現在理事会会長として勤務している。もう一つは、彼が上級顧問をつとめる投資銀行のバークレイズ・キャピタル(註2)。である。彼はまたアメリカ国防省の顧問であり、また国防政策委員会(註3)、国際安全保障諮問委員会(註4)の委員でもある。
シュレジンジャーは国家公共行政アカデミーのフェローでもあり、またアメリカ外交アカデミーの理事及び会員でもある。
( |
この後彼が役職や会員になっているアメリカの支配的機構の名称が続くがカットする。私が知りたいのは彼が外交問題評議会のメンバーなのかどうかと言う点だが、インターネット上では確証がなかった。状況証拠は多いのだが・・・) |
シュレジンジャーは、最初のエネルギー省長官でもある。(後で詳述)カーター大統領が新省創立の法案に署名した1日後に、長官就任の宣誓を行った。彼は1977年8月5日から1979年までこの職にあった。その前の年(1976年)、大統領予定者だったカーターは、エネルギー省創設に関する基本設計とアメリカのエネルギー政策に関する大統領補佐官に就任するように要請している。
1973年7月から1975年11月シュレジンジャーは国防長官だった。その直前の職はCIA長官だった。1971年ニクソン大統領によってアメリカ原子力委員会の委員長に選ばれた。73年2月までその職にあった。
シュレジンジャーは、1969年連邦予算局(その後予算運営局と名称を変える)の局長補に就任してその連邦政府行政官としてのスタートを切った。1963年から1967年まではランド・コーポレーション(註5)の上級スタッフであり、67年から69年までは、同じくランドの戦略研究所の所長だった。また彼は連邦準備制度理事会や予算局の顧問だったこともある。
1955年から63年まではバージニア大学の経済学助教授及び准教授だった。
( |
その後、シュレジンジャーが持っている肩書きや勲章が長々続くがカット。
ただNNDBというデータベースを見ると彼は、アトミック・ヘリテージ・ファウンデーション(註6)(Atomic Heritage Foundation)の諮問委員会メンバーでもある。これは興味深い。) |
1950年、シュレジンジャーはハーバード大学経済学部を卒業後、52年にハーバード大学で修士号、56年に博士号を取得している
代表的著作は「国家安全保障の政治経済学」(the Political Economy of National
Security 1960)、「今世紀末におけるアメリカ」(America at Century's End
1989)など。』 |
以上が「各委員の履歴」の内容である。ハーバードで優秀な成績を納め若い教師から、国防省と深くつながっている軍事シンクタンクのランド研究所で頭角を現し、連邦予算局を皮切りに国防省と核政策を取り仕切る原子力委員会から国防長官に就任、その後エネルギー省創設に関わるなど、核兵器を含めたアメリカの核政策と深くかかわりながら、大物にのし上がっていく、というのが大まかな略歴だ。
しかしシュレジンジャーの核政策の本質は一体どこにあったのだろうか?次に英語版Wikipedia<http://en.wikipedia.org/wiki/James_R._Schlesinger>の記述を中心にシュレジンジャーを見ておこう。
シュレジンジャーは1929年、ロシアからのユダヤ人移民の父とオーストリアのユダヤ人の母の間にニューヨークで生まれた。ハーバードで教育を受けた後、しばらく教鞭を執り、有名な軍事シンクタンク、ランド研究所に入る。ランド研究所では、戦略研究所の所長までつとめたのだから、相当名の知られた研究者だった考えていい。1969年にはニクソン政権入りして予算局長に就任する。生年からみてこの時40才。英語Wikiは『予算局長としてほとんどの時間を防衛問題に費やした。』と書いている。
1971年、ニクソンはシュレジンジャーを原子力委員会の委員に指名し、委員長とする。アメリカ原子力委員会は「原子力の平和利用の推進機関」と勘違いする人もいるかも知れないが、そうではない。原爆開発を担当した陸軍の「マンハッタン計画」が、1946年原子力委員会が創設された時に、人員ごとそっくり移行する。その後、核兵器の開発、実験を積み重ねて、アメリカの核兵器開発の推進力となった。原子力の平和利用問題に本格的に着手するのはアイゼンハワー政権以降である。
この時のシュレジンジャーの役割について英語Wikiは次のように書いている。
『 |
シュレジンジャーは、原子力委員会の法制定機能を改善するため、原子力委員会の運営と機構的改革に着手した。』 |
これだけではわかりにくいが、乱暴に云ってしまうと、原子力の平和産業応用分野は、「マンハッタン計画」時代と違って、GEやユニオン・カーバイドなど民間企業が手掛けられるレベル、言い替えるとビジネス・レベルに達していた。政府の役割を縮小して、逐次民間産業に移行しようとしていた。しかし、その特許権などを含めた技術やノウハウの民間移行やさらに管理・監督などの強化のためには、数多くの立法化が必要だった。原子力委員会ではその事態の流れに対応できなかった、ということだ。
25年前のトルーマン政権の時に作られた、核政策に関する暫定委員会では、原子力の平和利用問題は、
とされ、政府の予算で開発を進め、その成果は人材を中心に民間に蓄積し、この市場を大きく育てていこう、という結論が引き出されていた。
それから25年経過し、いよいよ民間が本格的に原子力の平和利用産業をテイクオフさせようという時期に、シュレジンジャーが原子力委員会の委員長に指名され、その体制作りをすることになる。
1973年2月、シュレジンジャーはCIA長官に任命される。これは前任者のリチャード・ヘルムスが、「ウォーターゲート事件」の調査を妨害しろ、というニクソンの指示を拒否し、そのためにニクソンがクビにしたからだと伝えられている。CIA長官に就任したシュレジンジャーの第一声は、「私は君たちがニクソンに手を突っ込まないようにするため、ここに来た。」だったとも伝えられている。CIA内部で散々の不評だったシュレジンジャーは、わずか半年で今度は国防長官に任命される。44才に若差にもかかわらず、この人事は、各方面から好評だった。それは彼の経歴が国防長官にふさわしいものだったからだ。
国防長官としてのシュレジンジャーは決して「核抑止論」に全幅の信頼を置いていなかった。もっともアメリカの国防省関係者は伝統的にみなそうだ。核兵器は最初に使用して相手を叩いてこそ軍事的価値がある。これは「核抑止論」という一種の詭弁論法を排除した軍事関係者のまっとうな軍事理論だ。
英語wikiは次のように書いている。
『 |
シュレジンジャーは次のように信じていた。「核抑止論は国防に取って代わるものではない。防衛能力こそが抑止の基本的要素だ。」彼は、敵の都市工業地帯に大量の核攻撃を行うという考え方に基づいた「相互確証破壊理論」に重大な疑いを抱いていた。』 |
しかしこれは当然の考え方だろう。敵は大量の核兵器による報復を恐れるが故に核兵器攻撃をしない、とする核抑止論は軍事専門家からみれば、とんだお笑いぐさである。
『 |
1974年、シュレジンジャーは、核攻撃に際してコントール出来ない相互エスカレーションの機会を限定するための能力が必要である、と述べた。相互に広がる損害を排除するため、有意味な敵の目標を叩かねばならない。』 |
こうしてシュレジンジャーはNATOを巻き込んで、大陸間弾道ミサイルによるソ連包囲網を構築していく。またこの目的のため、NATO諸国に対して、もっと防衛予算を増額するようにと要求し、それぞれ国内総生産の5%を防衛予算に割くようにと説くのである。
シュレジンジャーは国防長官時代、第4次中東戦争(1973年)、キプロス紛争(1974年)、カンボジア紛争にも積極的に介入していく。
1977年、ジミー・カーター政権時、シュレジンジャーは初代エネルギー省長官に就任する。エネルギー省は、アメリカのエネルギー政策全体の変換の中で創設されたが、原子力委員会が持っていた核兵器政策全般をエネルギー省は引き継ぎ、原子力の平和利用目的で必要な法的整備・規制は、新たに原子力規制委員会が創設されて、原子力委員会は解体される。
エネルギー省長官退任後は、隠然たる影響力を保ちつつも、執筆や講演活動、民間企業の顧問職などに勢力を注ぐ。なかでも注目されるのは、リーマン・ブラザーズやクーンローブなどという投資銀行の上級顧問に就任している事だ。
2007年、石油業界の集まりの中で、「世界の石油産業はその生産のピークを迎えている。」と講演していることは注目して良い。
これまでの断片的な事実を繋ぎ合わせると、核兵器産業を含む原子力産業全体をリードしてきたシュレジンジャーは、本格的に原子力平和産業(直接的には原子力発電産業)をテイクオフさせるため、エネルギー長官退任以降、アメリカと世界の体制を構築してきたのではないか、ということがいえよう。
そして今回ペリーと共同で、「アメリカの戦略態勢」報告書をまとめた、こういう文脈でシュレジンジャーの役割を捉える事が出来よう。
|
|
△back |
ハリー・E・カートランド (Harry E. Cartland) 委員(member) |
|
カートランドはローレンス・リバモア研究所(註1)出身の物理学者である。「各委員の履歴」を引用する。
『 |
ハリー・カートランドは独立の技術コンサルタントであり、また防衛、宇宙開発、更新可能エネルギーなどの分野におけるアントレプレヌールでもある。カートランドは最近まで下院議員ダンカン・ハンター(註2)の個人スタッフの中で上級メンバーだった。この枠内でカートランドは、下院軍事委員会ランキング・メンバー(註2)とカリフォルニア第52選挙区(註2)のために、国防と国境安全保障の問題について課題をこなしてきた。2005年から2007年の間、カートランドは下院軍事委員会の上級専門スタッフだった。この時、委員会委員長のための特別全体チームを率いると同時に予測軍事力小委員会のスタッフを管理した。
2004年から2005年の5月まで、カートランドは技術プロジェクトと公共政策に関するコンサルタントだった。特にミサイル防衛分野が専門だった。2001年6月から3年間、下院軍事委員会の専門スタッフとして公職にあり、2003年に戦略軍事力小委員会が設立されると、そのスタッフの管理にあたった。彼は国家防衛問題の極めて幅広い課題に対してその専門性をもって委員会スタッフに貢献した。
1993年4月、カートランドはカリフォルニア州リバモアにある国立ローレンス・リバモア研究所でプロジェクト・リーダー及び物理学者として勤務した。リバモアにおける技術工学部でいくつかの特別プロジェクトのリーダーだった。そしてリバモア研究所における戦域及び国家防衛ミサイルの計画能力がどの程度あるかという議会の諮問に対して回答すべく国防省を援助し、このプロジェクトを組織したのである。
1992年9月から1993年3月までは、彼はデューク大学物理学部の客員研究員だった。そしてノース・カロライナ州にある米国陸軍研究所でコンサルタントをつとめた。ここでは、陸軍研究所に対してナノテクノロジー分野などのアドバイスをした。カートランドはこれ以前に陸軍に実際に勤務した事があり、この時は米国陸軍アカデミーのある部門で任務に就いたほか、陸軍弾道研究所のスタッフでもあった。
(この後はカートランドが受けた賞や所属学会が続くがカット。)
カートランドは1958年ケンタッキー州フォート・ノックス生まれ。1980年にコーネル大学で最優秀で化学の学士号を取得した後、1985年カリフォルニア州バークレイ校で物理化学の博士過程を完了している。』 |
註1 |
ローレンス・リバモア研究所:Lawrence Livermore National Laboratory。1952年にカリフォルニア大学が設立した、核物理を中心とする科学研究所。現在はエネルギー省の予算でまかなわれている。年間予算は約16億ドル。スタッフは約6800人。運営はローレンス・リバモア・ナショナル・セキュリティという有限責任法人(LLC)が運営している。
元来はマンハッタン計画で有名なロス・アラモス国立研究所の補助研究所としてカリフォルニア大学バークレイ校が設立したが、その後熱核融合爆弾の研究にも力を注ぎ、ロス・アラモス研究所とならぶ有力研究所となった。核分裂爆弾を主張するオッペンハイマーと激しく対立したエドワード・テラーもここの所長をつとめたことがある。名前は共同創立者の一人、マンハッタン計画での有力科学者の一人、アーネスト・O・ローレンスに由来している。
冷戦時代数多くのミサイル用核弾頭がこの研究所で開発された。現在厖大な量の兵器級核分裂物質が貯蔵されており、この移転計画が進んでいる。またこの研究所の核兵器開発事業に対する反対運動も近年起こっており、正門付近での抗議行動のため、07年には64名、08年月には一度に80名以上の逮捕者が出た。またプルトニウムの研究でも大きな成果をあげている。近年は、エネルギー、ナノテクノロジー、バイオなどの分野へ研究の幅を広げている。またコンピュータ研究でも評価が高い。しかし、一言で云えばアメリカの核兵器開発の最重要拠点研究所の一つ、ということができる。
(http://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Livermore_National_
Laboratory)
|
註2 |
ダンカン・ハンター、ランキング・メンバー、カリフォルニア第52選挙区:Duncan
Hunter。ダンカン・ハンターは永年共和党選出の下院議員だった。選挙区はカリフォルニア第52選挙区。2008年の大統領選挙に共和党指名候補になろうとしたが早い機会に撤退した。2009年1月下院議員を引退、第52選挙区を自分の息子に世襲させている。2007年まで下院軍事委員会委員長だったが、民主党がマジョリティをとったので委員長を辞任。ランキング・メンバーとなった。ランキング・メンバーはアメリカの議会の委員会で、少数派の筆頭議員のことをいう。たとえば上院軍事委員会におけるランキング・メンバーは、オバマと大統領選挙を争った共和党のジョン・マケインである。カートランドの経歴を見ると有名大学を優秀な成績で卒業し、ローレンス・リバモア研究所やランド研究所など有名シンクタンクや研究所へはいって研究者や政策立案者として実績を積んで、軍部と関係をもち、軍事専門家となって出世し、有力議員のアドバイザーや政策スタッフになる、というのは一つの出世パターンである。 |
|
|
△back |
ジョン・S・フォスター (John S. Foster) 委員(Member) |
|
1922年生まれのジョン・フォスターは、ペリーやシュレジンジャーなどより、若干早い世代に属する。有名大学を出てローレンス・リバモア研究所に入り、軍部と関係をもちつつ、専門家として行政官となり、その後軍事産業関連の企業で余生を過ごす、というパターンを作った、もしかすると第一世代に属するのかも知れない。以下は「各委員の履歴」からの引用。
『 |
ジョン・S・フォスター・ジュニアは、GKN航空宇宙トランスペアレンシー・システム社(註1)の取締役会会長であり、核戦略フォーラム(註2)共同議長、ワケンハット・サービス社(註3)の取締役、ノースロップ・グラマン社(註4)、シコースキー航空社(註5)、インテレクチュアル・ベンチャーズ(註6)、デフェンス・グループ社(註7)のそれぞれコンサルタントをつとめている。
1988年、TRW(註8)の科学技術担当の副社長(註9)を退いてからもなお、1988年から1994年まで同社の取締役だった。1942年フォスターはその職業経歴をハーバード大学の無線研究ラボラトリーからスタートさせた。1943年から44年まで第15航空隊の顧問をつとめ、地中海空域作戦におけるレーダーと対レーダー対策を専門とした。1946年と47年の夏には、カナダ・チョークリバーにおける国家研究評議会にも参加した。1952年、フォスターはローレンス・リバモア研究所に参加し、核爆発物の設計に携わり、1961年から65年までローレンス・バークレイ・ナショナル研究所(註9)の准所長をつとめている。それから1965年から73年までの8年間、共和・民主両党政権下で、国防省の国防技術研究局の局長をつとめた。
1956年まで空軍科学諮問委員会で勤務し、それから1958年まで陸軍科学顧問団で勤務、弾道ミサイル防衛諮問委員会の委員になり、1965年には先端研究計画局のメンバーにもなっている。この間、大統領科学諮問委員会に断続的に顧問として参加もしている。1973年から1990年までは、彼は大統領国外諜報委員会のメンバーだった。現在フォスターは国防科学委員会の上級研究員であるが、1990年から1993年までは、国防科学委員会の委員長もつとめている。また彼は最近では「アメリカの戦略態勢議会委員会」の委員もつとめている。同時にDARPA(註10)の局長諮問委員会のメンバーでもある。
フォスターは1922年9月18日、コネティカットのニュー・ヘイブンで生まれた。カナダ・モントリオールのマッギル大学の科学で学士号を、1948年に取得、カリフォルニア大学バークレイで、1952年物理学の博士号を取得している。
(以下彼が取得した勲章や表彰、所属学会などが続くがカット。)』
|
シュレジンジャーが「核抑止論」に深い疑いを抱き、またアメリカの軍人が常に「核兵器先制使用論者」であることは、前にも述べた。フォスターもまた「核先制使用論者」のようだ。1972年に第一次戦略兵器制限協定(「SALTT」Strategic Arms Limitation Talks T。アメリカはニクソン政権、ソ連はブレジネフ政権だった。)が締結された時、時の国防長官メルビン・レアードは議会に対して「SALTに関して修正すべき戦略計画」のリストを提出した。9つの新たな計画を推進する内容だったが、この時国防技術研究局長だったフォスターは、この計画を次のように説明している。
『 |
アメリカはSALTを発行させるにあたって、協定の期限が切れたり廃棄される時に備えて、引き続き強力な立場を保ち、いつでも役立つ信頼できる逃げ道をつくっておくべきだ。』 |
要するに、SALTの抜け穴探しをやろうという計画だが、その内容はすべて核の先制使用につながる計画だった。相互確証破壊理論に基づく核抑止論では、敵国は核兵器の大量報復攻撃を恐れて、核兵器の先制使用を行わない、だから大量の核兵器を保有すると相手の核兵器の使用を抑止する事になる、という理屈だ。こんな屁理屈は、外交官や政治家の間でならともかく、軍事関係者の間では通用しない。相手が使用する前に核兵器を使用して相手を潰せばいい。SALTで相手を縛ると同時に自分も縛られる事になる事態においては、アメリカの国家防衛は出来ない、だからその抜け穴を見つけて対処しておこう、というのが、フォスターの理論である。
( |
ここの記述は岩波新書「核先制攻撃症候群」C・ R・オルドリッジ著<1978年6月>による。) |
|
|
△back |
ジョン・S・グレン (John H. Glenn) 委員(Member) |
|
初期の宇宙飛行士で、後にオハイオ州選出民主党上院議員になって25年間つとめたジョン・グレンである。1921年生まれだから今年89才である。以下は「各委員の履歴」の引用。
『 |
ジョン・H・グレンは1921年7月、オハイオ州ケンブリッジに生まれた。子供時代、彼の家族はオハイオ州ニュー・コンコードに移転、そこでグレンは小学校、中学校時代を過ごした。ニュー・コンコード高校卒業後は、マスキンガム・カレッジに入学、ニュー・フィラデルフィア飛行場で飛行の訓練を受けた。1941年に飛行士免許を取得。パールハーバーの後、カレッジをやめて海軍航空候補生プログラムに志願。1943年海兵隊に入隊した。1962年マスキンガム・カレッジから工学分野の科学学士を授与されている。第二次世界大戦中は、グレンは南太平洋で59回の戦闘出撃を行った。戦争後は、軍隊に残って海兵隊のパイロットになった。そして高級飛行訓練の教官もつとめた。朝鮮動乱の時には、海兵隊第311飛行大隊で63回、空軍に出向して27回出撃した。
(受勲の記述があるがカット)
1954年、グレンは海兵隊テストパイロットに任命され、57年ロスアンジェルスからニューヨークまでの最初の大陸間横断超音速飛行の記録を達成した。59年、508名の候補者の中から7名のNASAマーキュリー計画宇宙飛行士の一人に選ばれた。3年後の1960年2月20日、地球を軌道飛行する最初のアメリカ人となる歴史を作った。そして5時間にわたって3回の地球軌道飛行を行い、生還して英雄として迎えられた。
1965年大佐で海兵隊を退役し、ロイヤル・クラウン社の取締役に就任、後にはロイヤル・クラウン・インターナショナルの社長となった。
(ロイヤル・クラウン社は飲料のコーラの製造販売会社)
この時、彼は民主党の活動家となり、オハイオ州で早い時期に環境保護問題に力を尽くした。1974年、上院議員に当選しオハイオ州88郡すべてを遊説した。1988年オハイオ州で最大の勝利を収めて上院議員に再選された。オハイオ州民は、1986年に3回目、1992年に4回目の再選でグレンを迎えた。彼はオハイオ州初の4期連続上院議員となって再び歴史を作った。彼は1998年上院議員を引退した。
グレンは、1998年10月29日から11月7日の間、NASAのスペースシャトルSTS−95ディスカバリーの乗組員として宇宙に戻り、他の乗組員と共に宇宙飛行と加齢に関する83件の研究と探査を行って、地球を134回軌道飛行をし、213時間44分宇宙にとどまった。
(この後は、記念館開設の話なのでカット)』 |
ジョン・グレンは大統領選挙の民主党候補指名選挙に出馬した事にも触れないし、上院議員としての実績にも全く触れていない。事実さして実績はなかった。他の委員の経歴と事績と比較して、何故彼が委員の一人に選ばれたのかは私などには理解に苦しむが、それなりの内部事情があったのだろう。
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_Glenn> |
|
△back |
モートン・H・ハルペリン (Morton H. Halperin)委員(Member) |
|
アメリカの政治学者。専門は外交政策論、核戦略論。ペンタゴン秘密文書事件の時、ダニエル・エルズバーグに文書を渡したのは彼ではないかという説もある。当時大統領ニクソンの「敵リスト」に名前が載っていたとされる。ニクソンに盗聴されていた事は事実のようだ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Morton_Halperin>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%
BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%
8F%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%B3>
外交問題評議会と関係が深い。同じく外交問題評議会の重鎮、ヘンリー・キッシンジャーとはハーバード大学時代の同僚にあたる。以下は「各委員の履歴」の引用。
『 |
モートン・H・ヘルペリンは、オープン・ソサエティ・インスティチュート(註1)及びオープン・ソサエティ政策センター(註2)のコンサルタントである。また彼は「アメリカの進歩」センター(註3)の上級研究員でもある。
ヘルペリンは、クリントン、ニクソン、ジョンソン政権の時に連邦政府で働いていた。これら3政権の時いずれも担当は核政策及び軍備管理問題に関わっていた。1998年12月から2001年まで、彼は国務省政策立案局長をつとめた。1994年2月から1996年3月まで大統領特別補佐官であり、また国家安全保障会議(註4)の民主主義担当上級ディレクターだった。1993年、国防長官顧問及び政策担当国防次官をつとめ、さらに大統領指名による民主主義と平和維持担当の国防長官補佐官をつとめた。1969年、国家安全保障政策立案担当の国家安全保障会議スタッフの上級スタッフメンバーだった。1966年7月から1969年1月までは国防長官副補佐官(国際安全保障問題担当)、として政治軍事計画及び軍備管理問題に責任を負った。
ハルペリンは96年3月から98年12月まで及び2001年1月から2003年12月まで外交問題評議会の上級研究員(核政策プロジェクトを指揮)だった。97年7月から98年12月まではセンチュリー財団/20世紀基金(註5)の上級副理事長だった。1992年11月から94年2月までは、カーネギー財団(註6)国際平和担当の上級メンバーだった。69年9月から73年12月まではブルッキングス研究所の外交政策研究の上級研究員だった。
核政策、軍備管理及びその他外交問題に対する関与について付け加えるならば、ヘルペリンはアメリカ市民自由ユニオン(ACLU)で永年働いた。84年から92年までACLUワシントン事務所の所長だった。また75年から92年まで国家安全保障センターの所長だった。
1960年から66年まで、ヘルペリンはハーバード大学で教鞭をとり、連邦政府学部の助教授、国際問題センターの上級研究員、ハーバードーMIT軍備管理セミナーの執行ディレクターなどを歴任した。ハルペリンはコロンビア大学、ハーバード大学、MIT、ジョージ・ワシントン大学、ジョン・ホプキンス大学、エール大学などで客員教授として教鞭を執ってもいた。
ハルペリンは、単独または共著あるいは編著で、核政策や軍備管理に関するテーマで、1ダース以上の本を出版している。その中には「戦略と軍備管理」(1961年。トーマス・シェリングとの共著)、「核時代の限定戦争」(1963年)、「中国と核爆弾」(1965年)、「近代軍事戦略」(1967年)、「官僚政治と外交政策」(1974年)、「核の誤謬」(1987年)などがある。』 |
またとりわけ国際開発協会(IDA)や国際戦略研究所(IISS)などに核問題に関する専攻論文を数多く著している。また文庫、新聞、雑誌、定期刊行物などに数多くの記事を寄稿している。こうしたものには、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポスト、ニュー・リパブリック、ハーパーマガジン、フォーリン・アフェアーズ、フォーリン・ポリシーなどが含まれている。
1938年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。1958年にコロンビア・カレッジで学士を取得、1961年イエール大学において国際関係論で博士号を取得している。彼は外交問題評議会の会員であり、アメリカ市民の自由ユニオンの会員である。
|
|
△back |
リー・H・ハミルトン (Lee H. Hamilton) 委員(Member) |
|
ハミルトンは34年間にわたってインディアナ州から選出された民主党下院議員だった。1931年生まれ。1999年に引退。現在はウッドロー・ウィルソン国際研究者センター(註1)の理事長である。下院議員時代は、イラン・コントラゲート事件に関係した武器密輸に関する調査委員会の委員長をつとめた。また9/11調査委員会の副委員長をつとめ、最終報告書作成に関わっている。下院議員時代は国際問題の専門家だった。以下は「各委員の履歴」の引用。
『 |
1999年1月、リー・H・ハミルトンはウッドロー・ウィルソン国際研究者センターの理事長に就任した。その以前はインディアナ州選出のアメリカ議会下院議員を34年間にわたってつとめた。その任期中、彼は下院国際問題委員会(現在の外交関係委員会)の委員長並びにランキング・メンバーだった。また1979年代初頭から1993年までヨーロッパ及び中東小委員会の委員長もつとめた。また諜報問題特別永久委員会、対イラン秘密武器調査特別委員会の委員長をそれぞれ歴任した。ハミルトン氏は国際問題に関する下院の声を主導する一人としての地位を築いた。特に民主主義の推進、旧ソ連や東ヨーロッパにおける市場改革、中東における平和と安定化、アメリカ市場と海外取り引きの拡大、アメリカの輸出及び外国援助政策を精査検証するなどの分野において実績があった。(註2)
ハミルトン氏(原文にすべてMr.がついているのでこうしておく。)は、また一貫して議会機構や経済政策に関するリーダーの一人だった。議会機構に関する上下合同委員会の委員長として、また下院公式運営委員会の委員の一人として、彼はいくつかの倫理的改革に関する、主要な起草者だった。そして議会を一つの組織としてより効率的かつより統合的に改革する事を推進した。
彼の出身州においては、教育の改善、職業訓練の改善、社会基盤の改善に力を尽くした。またインディアナ大学において議会センターを設立、その理事に就任した。
ハミルトン氏は、国際関係問題、アメリカの国家安全保障問題に関する重要かつ能動的な存在の一人であり続けている。「21世紀国家安全保障アメリカ委員会」(ハートーラッドマン委員会)の委員、前上院議員のハワード・ベーカー氏と共同議長で、ロス・アラモスにおける安全保障に関する問題調査委員会(ハワードーハミルトン委員会)なども手掛けた。「アメリカに対するテロリスト攻撃国家委員会(9/11委員会)の副委員長に指名され、2004年7月報告書を提出、さらにトム・キーン知事と共に「9/11公共談論計画」の共同議長もつとめた。2006年3月「イラク研究グループ」の共同議長に指名された。2007年7月には国家戦争能力委員会委員に指名された。同委員会は超党派で組織された私的な評議会で、元国務長官のジェームズ・ベーカー三世とワレン・クリストファーが率いていた。
ハミルトン氏はその政府における卓越した働き、公職活動及び人権擁護活動によって数々の賞を受けると共に、名誉学位も受けている。彼は「創造的緊張―大統領と議会の外交政策の役割」(2002年)、「いかに議会は機能するかそして何故注意を払わねばならないか」(2004年)の著者であり、また「もし大統領がなければ:9/11委員会の内幕」(2006年)、イラク研究グループ報告(2006年)の共著者でもある。
フロリダ州デイトナ・ビーチで生まれ、家族とともにテネシー州、それからインディアナ州エバンズビルに移り住んだ。デ・ポウ大学、インディアナ大学ロースクールを卒業、またドイツのゲーテ大学に1年間学んだ。高校バスケットボール、大学バスケットボールのスターであり、インディアナ州バスケットボール名誉の殿堂入りをしている。下院議員になる前は、シカゴとインディアナ州コロンバスで法律事務所を開いていた。
(家族構成があるがカット)』 |
イラン・コントラゲート事件に関して当時レーガン大統領及びハーバート・ブッシュ大統領を訴追しようという声もあったがハミルトンは、「大統領にそうすべきでない。」と押しとどめたといわれている。「9/11報告書」「イラク研究グループ報告書」はまだ十分に批判検討されたとはいえない。
註1 |
ウッドロー・ウィルソン国際研究者センター:The Woodrow Wilson International Center for Scholars。サイトは<http://www.wilsoncenter.org/>。たまたま1月の論考で「イランと対話は可能か?」「南アジアにおける核抑止に対するアメリカの役割」という興味深い記事が載っている。核問題に関する論考はアメリカの核シンクタンク、研究所で一斉に議論されており、5月のNPT再検討会議へ向けて着々準備が整いつつあるように見える。同センターはワシントンDCにあり、1968年議会が、スミソニアン・インスティチュートの一部門として設立した。ウィルソン大統領を記念して命名された。なおウイルソンは博士号をもつただ一人の大統領だそうだ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Woodrow_Wilson_International_Center
_for_Scholars>
「ウイルソン大統領の理念を実現するため、内外の研究者が共に切磋琢磨する」(大意)のが設立の趣旨。連邦政府と民間の共同運営の形を取っており、年間予算の1/3は連邦政府から支出され、残りはスミソニアンの基金、後は個人・法人の寄付、発行物収入などで運営されている。
|
註2 |
「特に民主主義の推進、旧ソ連や東ヨーロッパにおける市場改革、中東における平和と安定化、アメリカ市場と海外取り引きの拡大、アメリカの輸出及び外国援助政策を精査検証するなどの分野において実績があった。」の文章は恐らくハミルトンの考え方を表現している。アメリカによる「民主主義の推進」とは「自由な経済活動」が第一義的であり、それは世界における金融市場、投資市場、商品市場の拡大に他ならない。 |
|
|
△back |
フレッド・チャールス・アイクル(Fred Charles Ikle) 委員(member) |
|
1924年生まれ。ソ連のアフガニスタン侵攻はアフガニスタン人民の粘り強い戦いで失敗に終わったが、戦術的にはアメリカが、アフガニスタンの対ソ連ゲリラに対して携行式地対空ミサイル(スティンガー)を大量共与した時がターニング・ポイントだとされる。当時レーガン政権の国防次官だったアイクルの強い進言で、CIAの反対を押し切って、アメリカはスティンガーミサイルの共与に踏み切った。以下は「各委員の履歴」の引用。
『 |
フレッド・C・アイクルは戦略国際問題研究所(註1)の「碩学」(Distinguished Scholar)の一人である。最近国家安全保障及び民主主義に与える技術の強い影響についての研究に従事している。現在国防政策諮問委員会(シュレジンジャーの項註3参照)の委員、スミス・リチャードソン財団(註2)理事、北朝鮮人権問題アメリカ委員会(註3)の理事、アメリカ外交政策諮問会(註4)顧問委員会委員などでもある。
1988年、戦略問題研究所に参加する前は、第1期及び第2期レーガン政権の政策担当国防次官だった。1987年、超党派で結成された統合長期戦略委員会の共同委員長だった。この委員会は「差別の抑止」(Discriminate
Deterrence)という報告書を出版した。アイクルは国防省で文民が受ける最高の賞を受賞している。
(後2つ受賞の記述があるがカット)
1973年から77年まで、アイクルはニクソン、フォード両大統領に仕え、アメリカ軍事軍縮局局長をつとめた。77年・78年は共和党全国委員会の国際安全保障諮問委員会の委員長をつとめた。1979年から80年にかけてはロナルド・レーガン知事外交政策顧問団のコーディネーターだった。
アイクルは9年間民主主義のための全米財団の理事をつとめ、99年から00年はテロリズムに関する全米委員会の委員をつとめた。彼はテロス・コーポレーション(註5)の取締役会長、チューリッヒ・ファイナンシャル・サービス(註6)の取締役を歴任。1968年から72年まではランド・コーポレーション(シュレジンジャーの項註5参照)の社会科学部門の長をつとめた。1964年から67年まで、マサチューセッツ工科大学政治科学の教授、ハーバード大学国際問題研究所(62年―63年)、ランド・コーポレーション(54年―61年)、コロンビア大学応用社会研究局(50年―53年)などに籍を置いた。
アイクルは「爆弾破壊の社会的影響」(58年オクラホマ大学出版)、「いかに国家は交渉するか」(ハーパー&ロウ64年)、「内からの残虐」(コロンビア大学出版06年)、などの著作がある。アイクルは「フォーリン・アフェアーズ」「フォーチュン」「ナショナル・インタレスト」及び各新聞の意見欄に数多くの記事を書いてきている。』 |
|
|
△back |
キース・B・ペイン (Keith B. Payne) 委員(Member) |
|
キース・ペインの生年は確認できなかったが、1976年にカリフォルニア大学バークレイの政治科学の学士号を得ているので1950年代半ばの生まれと思われる。博士号は81年南カリフォルニア大学で取得(国際関係論)している。ブッシュ政権時、兵員政策担当の国防長官副補佐官に就任している。核戦略政策の専門家と見なされている。以下は「委員の履歴」の引用。
『 |
キース・ペインは、バージニア州フェアファックスに本部を置く、非営利法人の研究所、全米公共政策研究所(註1)の共同創立者であり、現在理事長である。同研究所では、アメリカの戦略政策、軍事態勢問題、軍備管理、ミサイル防衛(BMD)、ロシア外交政策などのテーマで研究に参加、統括している。またペインはミズーリ大学の国防戦略研究大学院(ワシントン・キャンパス)の長をつとめている。また2005年、ジョージタウン大学で21年間教鞭を執ったことに対して、バイセニアル賞を受賞している。
2002年と03年、いったん公共政策研究所を離れて、兵員政策担当の国防長官副補佐官をつとめた。ラムズフェルド国防長官(=当時)から「卓越せる公職章」を授けられた。またペインは同盟国からの諮問に関してその代表団団長を数多くつとめた。またロシア連邦とのミサイル防衛協力交渉の代表団長もつとめた。
ペインは「比較戦略:インターナショナル・ジャーナル」誌の編集長であり、戦略命令上級諮問団政策部会部会長、アメリカ核戦略フォーラムの共同議長、また国務省国際安全保障諮問委員会委員(シュレジンジャーの項註4参照)などをつとめている。またペインは政府や民間の研究に参加したり、そのリーダーをつとめている。ホワイト・ハウスの「アメリカーロシア協力関係研究」や国防省の「ミサイル防衛・軍備管理・拡散研究」、国防省の「抑止概念諮問グループ共同議長」などがそうである。彼はまたホワイト・ハウスの科学技術政策室、軍備管理軍縮局のコンサルタントであり、また1998年ミサイル拡散に関する“ラムズフェルド研究”にも参加した。
ペインはまたしばしば、議会委員会での証言に立っている。(註2)また北米、ヨーロッパ、アジアの各カレッジ、大学において防衛・外交政策問題で講演を行っている。彼は著者または共著者として100本以上の記事と16冊の本と論考を発表している。彼の最近の本は「偉大なアメリカのギャンブル:冷戦から21世紀への抑止政策と理論」である。
ペインの記事は主要なアメリカ、ヨーロッパ及び日本の専門紙誌、「フォーリン・アフェアーズ」「フォーリン・ポリシー」「オービス」「ポリシー・レビュー」「ストラテジック・レビュー」「ワシントン・クオータリー・レビュー」「ジャンのインテリジェンス・レビュー」「ミリタリー・スペクテイター」「エア・ユニバーシティ・レビュー」「パラメーターズ」「コンパラティブ・ストラテジー」「エア・フォース・マガジン」「科学と技術問題」「ハーパーズ・マガジン」「ウォール・ストリート・ジャーナル」「クリスチャン・サイエンス・モニター」「USAツデイ」などに登場している。』 |
|
|
△back |
C.ブルース・ターター (C. Bruce Tarter) 委員(Member) |
|
ターターは元ローレンス・リバモア・研究所所長。所長としては第8代目。以下は「各委員の履歴」の引用。
『 |
C.ブルース・ターターはローレンス・リバモア・研究所及びカリフォルニア大学の名誉理事であり、1952年創設の同研究所を8代目の所長として率いていた。彼は経験と訓練による理論物理学者であるが、その物理学者としての職歴をほとんど同研究所で過ごしている。所長として、その難しい時代における重要な諸問題に対して科学と技術を応用して国家の安全保障を確かなものとする使命に基づいて研究所を指導した。(註1)研究所は、アメリカの核兵器貯蔵計画と大量破壊兵器によって引き起こされる世界の危険を削減するというエネルギー省の計画の主要な貢献者の一つだった。
ターターはマサチューセッツ工科大学で学士号を取得し、コーネル大学で博士号を取得した。ローレンス・リバモア研究所における職歴は1967年、理論物理学家部門におけるスタッフとして始まっている。彼の研究はスーパーコンピュータを使った計算に集中された。高温・高熱における領域の計算で、これは核兵器、融合、エネルギー、宇宙物理学に応用された。1978年には理論物理学部門長になった。
1980年代を通して、彼はカリフォルニア大学とより鞏固な結びつきと相まって、研究所全体の指導者の一人になっていく。彼は数多くの機関設立委員会や作業部会で働いた。そして研究所を長期計画委員会のメンバーの研究所として、研究所の戦略的方向性を計画委員会に合致させるよう定式化するよう支援した。1988年、彼は物理学担当の准理事として研究所の上級経営階層に参加した。この地位で、彼は、兵器物理学、月面着陸を果たした「クレメンタイン・ミッション」を導く事になった宇宙工学、地球的な気象や環境研究に基づいた幅広い諸計画などに、その範囲を拡大していった。
ターターは1994年、短い副所長及び所長代理の時期を経て、1994年所長に選任された。彼は「ポスト冷戦時代の核兵器世界」への移行期間中研究所を指導し、アメリカの核貯蔵を遵守していくという近年の計画の基礎を築いた。彼はまた不拡散及び抗テロリズムに対応した諸計画作成、またエネルギー、環境、バイオ科学に関する諸計画作成にも働いた。(註2)以来2002年前半まで所長として勤務し、それから1年半の無任所准所長(Associate Director At Large)を経て、2004年所に退職した。
彼の研究所時代の活動について付け加えるならば、彼はその専門性を活かして数多く研究所外活動を行っている。たとえば6年間の陸軍科学団(註3)、カリフォルニア大学デイビス校での臨時教授、カリフォルニア科学技術諮問委員会、研究所運営委員会(エネルギー省長官諮問委員会)、太平洋国際政策評議会(註4)、核エネルギー研究諮問委員会(註5)、外交問題評議会、国防科学委員会(註6)、ドレイパー研究所(註7)の理事会理事などの活動がそうである。
(以下所属学会や受勲、受賞などの記述なのでカット)。』
|
註1 |
マンハッタン計画時代の多くの科学者は、自分たちが「人類絶滅兵器」の開発に携わっていることをよく理解していた。そしてそのことと科学者としての使命=人類の発展に寄与すること、との間の矛盾に深刻に悩んでいた。そして科学者もまた地球市民の一人であり、その立場から「原爆の使用」やその開発に大きな疑問を抱いていた。
(たとえば「フランク・レポート」「シラードの大統領請願書」
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm>
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/seigansho.htm>)
これに対して、恐らく彼らの次の世代の科学者の一人であろうターターには全くこうした葛藤は見られない。このことには注目しておく必要がある。
|
註2 |
対テロ戦争は「9/11」の後、突然浮上してきたテーマのように思われがちであるが決してそうではない。90年代を通して「冷戦に替わりうる戦争」として着々と準備されていた。数多くの証拠がある。
|
註3 |
陸軍科学団:Army Science Panel。陸軍長官への科学者諮問機関。第二次大戦前は、軍部と科学者の間には一定の垣根があった。第二次世界大戦がはじめるとアメリカの軍部は戦争遂行のための科学的R&Dの必要性に迫られた。1944年、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの主導で「陸軍科学諮問団」が設立された。その後1947年の国家安全保障法に基づいて、国防省が創設され陸軍省が国防省の1部局となり、1977年連邦諮問法が成立した時に、それまでの科学諮問団が現在の陸軍科学団に改編された。
|
註4 |
太平洋国際政策評議会:Pacific Council on International Policy。1995年に設立された非営利法人で、一種のシンクタンク。
サイト<http://www.pacificcouncil.org/Page.aspx?pid=326>を見るとエネルギー問題、環境問題に力が入っているようだ。カリフォルニア州を中心として問題を捉えている。
英語Wiki(<http://en.wikipedia.org/wiki/Pacific_Council_on_
International_Policy>)は設立当初から外交問題評議会とパートナーシップをもっていると書いている。会長は電力会社大手のエジソン・インターナショナルの会長、ジョン・ブライソンと元国務長官のワレン・クリストファー。理事会メンバーの中には日本人で唯一、岡本行夫
(<http://www.yukio-okamoto.com/index2.html>)が入っている。財政的な基盤は全く不明。
|
註5 |
核エネルギー研究諮問委員会:Nuclear Energy Research Advisory Committee。エネルギー省の諮問委員会。直接的には担当長官補佐官に答申する。
(http://www.ne.doe.gov/neac/neNeacOverview.html)。
系統的にはエネルギー省の核エネルギー局に属する。
|
註6 |
国防科学委員会:Defense Science Board。国防長官に答申する科学者の諮問委員会。
1956年設立。メンバーは指名された科学者であるが、軍人は除外される。
|
註7 |
ドレイパー研究所:Draper Laboratory。1930年代、マサチューセッツ工科大学教授、チャールス・スターク・ドレーパーはMIT内に精度の高い科学機器の設計や飛行機の動きを調べ学生に教える研究所を作った。第二次世界大戦中、連邦政府から慣性航法装置の研究委託を受けこの誘導システムの研究を発展させる。この技術は弾道ミサイルなどに使われる。こうして国防省との結びつきを深め大きく発展するが、1973年、反戦運動の厳しい批判を受けてMITから切り離して独立の非営利法人となった。本部はマサチューセッツ州ケンブリッジ。現在では研究の幅が広がっているが、国防省が最大の発注先であることは変わらないようだ。
サイト(<http://www.draper.com/>)を見ると、主要な分野は「戦略システム」「戦術システム」「バイオケミカル工学」などが業務分野としてあがっている。従業員約1400名。 |
|
|
△back |
エレン・D・ウイリアムス (Ellen D. Williams) 委員 (Member) |
|
エレン・ウイリアムスは、1953年生まれの物理学者。メリーランド大学が主として彼女のホームグラウンドである。全米科学アカデミーのある記事(<http://www.pnas.org/content/105/43/16415.full>)は、「彼女は有機エレクトロニクス材料分野に精力を費やした。こうした材料はプラステック材料や新しい電子材料分野に対して、伝統的なシリコンを基礎においた材料よりたやすく結合できる。」と評している。以下は「各委員の履歴」からの引用。
『 |
1953年、ウィスコンシン州オシュコシュの生まれ。ミシガン州リボニアで育った。1976年ミシガン州立大学で科学学士を取得。1981年カリフォルニア工科大学で博士号を取得している。それからメリーランド大学物理学部に参加。メリーランド大学では、国防省と米国国立科学財団(註1)から資金を得て、走査型トンネル顕微鏡(註2)を定量分野や構造的変動の解析分野に応用する研究を開拓した。現在ではこのアプローチを、ナノエレクトロニクス(註3)応用のための新しい電子材料の開発に応用している。彼女の研究は180種類の関連出版物に発表されており、数々の賞で認められている。
(以下受賞歴が並ぶがカット)
2003年にはアメリカ人文科学アカデミー(註4)の会員に、また2005年には米国科学アカデミー(註5)の会員に選出された。
1995年米国国立科学財団(NSF)の支援を得て、メリーランド大学に材料研究工学センターを開設した。この研究所は連携研究計画を支援し、科学・工学・技術・材料工学の分野でこれから自分の職歴を築こうとしている大学入学前の学生を励まし支援する外延計画を進展させている。彼女は引き続きこのセンターの所長をつとめるかたわら、各種専門委員会や再検討及び諮問会議など専門分野でも活発に行動している。また物理学会賞選考委員会委員(1996年、1998年、2008年)、サイエンス・マガジンの再検討編集者委員会委員(2008年から現在まで)、「ナノ・レター」の編集委員会委員(2001年から現在まで)、凝縮系物理学年鑑委員(2008年から現在まで)などの編集編纂委員会も活発である。
(以下全米有名大学での外部諮問委員会の役職が並ぶがカット)
1993年、ウイリアムスは独立型政府諮問グループである「JASONs」(註6)に参加した。そして、兵器貯蔵防護、エネルギー資源、ナノ技術、通常兵器即時地球規模攻撃(註7)、知的生産向上(註8)、位相配列レーダー・システム(註9)など極めて幅広い研究に携わった。これに関連した公的活動は、カリフォルニア大学学長諮問委員会の国家安全保障会議メンバー(2000年―2007年)、NNSA助言委員会委員(註10)(2001年・2年)、アメリカ情報統合情報機関のためのNRCナノテクノロジー委員会(註11)(2003年・4年)、アメリカ科学振興協会核兵器複合体評価委員会(2006年・7年)、NRC通常兵器即時地球規模攻撃能力に関する委員会(2007年・8年)、NRC軍事科学委員会(2007年―09年)などの各委員、メンバーなどがある。』 |
|
|
△back |
R・ジェームズ・ウールジー (R. James Woolsey)委員 (Member) |
|
ウールジー(Robert James Woolsey Jr.)は、ビル・クリントン政権の時の第16代CIA長官である。1941年生まれ。
英語Wiki(<http://en.wikipedia.org/wiki/R._James_Woolsey,_Jr.>)はウールジーを外交政策の専門家と位置づけている。それ以上にウールジーが不思議な存在なのは、民主党員でありながら、ネオコン的傾向を持っている事である。従って共和党にも受けがよい。英語Wikiは、「ウールジーは、第一義的にはネオ保守主義の民主党員として知られている。外交政策問題に関してはタカ派、しかし経済、社会問題についてはリベラル派。彼はジョン・マケインを大統領にする動きに参加し、マケインの外交政策に関する顧問の一人だった。」と書いている。しかし、アメリカは「金融資本主義党一党独裁国家」であり、共和党・民主党も金融資本主義党の別々の政治的看板だと考えれば、ウールジーのような存在がいても少しも不思議ではないのかも知れない。以下は「各委員の履歴」からの引用。
『 |
R・ジェームズ・ウールジーはカリフォルニア州サン・ブルーノに本社を置く、バンテージポイント・ベンチャー・パートナーズ(註1)の共同パートナーの一人である。またスタンフォード大学にあるフーバー研究所(註2)の「アネンバーグ著名客員フェロー」でもある。また未公開株を対象とする投資ファンド、パラディン・キャピタル・グループ(註3)の戦略諮問グループ議長である。コンサルト会社ブーズ・アレン・ハミルトン社(註4)の上級執行アドバイザーでもある。またボストンに本拠を置く法律事務所、グッドウイン・プロクターのワシントン事務所顧問である。
ウールジーは、以前に5回の異なるポジションで連邦政府に奉職した。2回は共和党大統領による指名、2回は民主党大統領による指名であった。もっとも直近はCIA長官(1993年―95年)であった。2002年7月から2008年の3月まで、ウールジーはブーズ・アレン・ハミルトンの副社長だった(註5)。また以前はワシントンに本拠を置く法律事務所シェア・ガードナーのパートナーであり、22年間民事訴訟、仲裁・調停・斡旋などの分野で法律実務を行った。シェア・ガードナーは今グッドウイン・プロクターとなっている。
CIA及び連邦政府統合情報機関を率いたことに付け加えるなら、12年間連邦政府で働いていた期間に、ヨーロッパ通常兵力交渉(ウィーン:1989年―1991年)のアメリカ大使であり、海軍省次官(1977年―79年)、上院軍事委員会の全般顧問(1970年―73年)などを歴任した。また1983年―86年にジュネーブで開かれた米ソ戦略兵器削減交渉(START)及び核宇宙兵器交渉(NST)では、半駐在ベースで大統領指名による無任所代表だった。米国陸軍の士官だった時は、ヘルシンキ及びウィーンで開かれた戦略兵器制限交渉(SALTT)(1969年―70年)でアメリカ代表団顧問だった。
ウールジーは政府、企業、非営利団体と幅をもった分野で働いてきた。ワシントンの企業、エグゼクティブ・アクション有限責任会社(LLC)の会長、全米エネルギー政策委員会委員、「現在の危険」委員会共同委員長(もう一人の委員長は元国務長官ジョージ・シュルツ)、クリーン燃料財団諮問委員会委員長などがそうである。
(以下、各機関・法人の役員、顧問、理事、委員職が列記されているがカット。)
ウールジーは、過去に上場・非上場会社の役員をつとめた。総じて技術、防衛関連の会社である。そうした会社の中には以下のものがある。マーチン・マリエッタ(註6)、ブリティッシュ航空宇宙(註7)、フェアチャイルド・インダストリーズ、ユーリエ・システムズなどである。
ウールジーはオクラホマ州タルサ生まれ。タルサの公立小学校に通ったのち、タルサ中央ハイスクールを卒業。スタンフォード大学で学士号を取得。(1963年)オクスフォード大学で修士号を取得。(1963年―65年)、イエール大学法学大学院で法学士の資格を取得している。
(家族構成や寄稿記事が多い事が出てくるがカット)』 |
|
|
|
|