(レオ・シラードの請願書へ) 
(レオ・シラード インタビュー記事)
 Truman Did Not Understand



 マンハッタン計画の主要登場人物の一人、物理学者のレオ・シラードは1960年U.Sニューズ・アンド・ワールド・レポートという雑誌からインタビューを受けている。
シラードといえば、最後の最後まで日本への原爆投下に反対した物理学者だ。その内容は、60年後の今日の核拡散時代を予見し、その出発がヒロシマへの原爆投下にあったことを鋭く見抜いていて、非常に面白い。
思想的にも深い。

 その前にレオ・シラードという人物についてみておこう。

 レオ・シラードは1898年ハンガリーのブダペストに生まれた。
1964年カリフォルニア州ラホーヤで亡くなっているから、66歳で死んだことになる。
このインタビューは従って最晩年のことだ。ユダヤ系ハンガリー人である。

 シカゴ大学時代シラードは学者仲間から「エキセントリックなヒラメキ屋で人を驚かすのが大好き」な人物として有名だった。ヘンテコでちぐはぐなことをいうけれど、極めて鋭いことを云ったり、鋭い質問をした、というから「陽気な天才型」の人物像が浮かんでくる。
ノーベル物理学賞選考委員会が好むタイプの人間ではない。また政治的事件を予言するのが得意だったともいう。子どもの時第一次世界大戦の勃発を言い当てたり、最初にナチス党が出現した時に、「1日でヨーロッパを席巻する」と予言したという。第二次世界大戦が始まると、ホテルに引っ越し常にスーツケース1個を手元に置いておいたという。
流浪の民の血が、シラードの第六感を異常にとぎすましたのかも知れない。

 ナチスの追及を逃れてロンドンに居を移したのが1933年。ここでアーネスト・ラザフォードが書いた原子力エネルギーの概念を否定する論文を読んでいる。
当時核分裂はまだ発見されていなかったが、シラードは町で交通信号を待っている間に、連鎖反応を思いついたと云われる。1936年シラードは秘密をより確かなものにするため、持っていた核の連鎖反応に関する特許をイギリス海軍本部に譲渡している。またシラードは、エンリコ・フェルミと共に原子炉に関する特許を共同で所有している。

 
 1938年招聘されてコロンビア大学に移り、ニューヨークに住むことになった。すぐにイタリアの亡命者フェルミもやってきた。二人はヒトラーとムッソリーニから逃れて来た仲間同士だ。
1939年核分裂が発見されて、2人はウランが核分裂に伴う持続的連鎖反応にもっとも適した物質であると結論するに至った。

 マンハッタン計画においてシラードは大きな存在(instrumental)だった。
フランクリン・D・ルーズベルトに核兵器の可能性を説明し、その開発を奨める秘密の手紙を送ったのはシラードのアイディアだった。1939年の8月、アルバート・アインシュタインを説き伏せて、原爆開発を進める、いわゆる「アインシュタイン−シラード・レター」を送るのだが、これがアメリカ政府が核分裂研究所を設立するきっかけとなる。
その後シカゴ大学に移り、マンハッタン計画の仕事を続ける。そしてフェルミと共に、1942年最初に持続する連鎖反応を実現する原子炉を開発した。1943年にはアメリカ市民権を取得している。

 戦争が続く中、シラードは自分の科学的開発が次第に自分の手を離れ軍部の手に握られつつあることに内心うろたえるようになった。ここら辺はスパイ映画に出てくる科学者の内面的な葛藤を地で行く展開だ。そしてこの計画の責任者であるレジール・グローヴズと衝突を繰り返すようになった、という。
シラードのアメリカ政府に対する憤激は、戦争で原爆を使用させないようにという彼の試みが失敗したと分かった時に、その頂点に達する。マンハッタン計画のシカゴの科学者仲間と語らって、トルーマンに原爆による無差別攻撃はやめるようにという請願を出すのだがこれも失敗する。
戦争前、シラードはアメリカ政府が世界で唯一人間的政府であると信じ、またこの確信がアメリカ政府を支援しようと云う彼の動機にもなるわけだが、戦後はこの見解を撤回する。

 シラードは戦後、物理学者から分子生物学者に転向する。
かとおもうと1950年には1発で地球を消滅させると豪語するコバルト爆弾を提唱したりしている。
最後まで「陽気な天才学者」の面目躍如と云ったところだ。
しかしユダヤ系ハンガリー人だったシラードが、心の奥に深く持っていた人道主義は疑うべきではない。
(以上は次のサイトの記事に依った。(http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Szilard



(記事のリード)

 レオ・シラード博士、62歳、はハンガリー生まれの物理学者。
ルーズベルト大統領を説得し原爆開発計画を打ち上げさせるのに与って力があった。またその計画では大きな役割も演じている。
しかし1945年、彼は原爆の使用に反対する科学者たちの中心人物となった。後に生物理学の分野に(同誌の紹介はbiophysicsとなっているのでそのままにした)に転じている。
今年(1960年)、自然科学の分野で優れた業績があったとして「アインシュタイン・メダル」を受賞している。

 (以下記事本文)


ニューヨークで
Q. シラード博士、日本に対する原爆投下問題に関する1945年時の博士の姿勢はどんなものだったですか?
A. 全力を尽くして反対しました。しかし私が望んだほど効果はありませんでした。
Q. あなたとおなじように感じた科学者は他にいましたか?
A. とても多くの科学者が同じように感じていました。これはオークリッジ(テネシー州のオークリッジ工場。ウラン燃料を生産していた)やシカゴ大学の冶金工学研究所においては特にそうでした。ロス・アラモス(ニューメキシコ州ロス・アラモス研究所。Y計画を担当)の科学者たちがどうだったかは分かりません。
Q. オークリッジや原爆計画のシカゴ支部では、意見の分裂はありましたか?
A. こういう風に云っておきましょう。創造的な物理学者はほとんど例外なしに原爆の使用に関して不安と疑念を持っていました。化学者たちも同じとは云いませんけどね。生物学者たちは物理学者とかなり同じ感じ方をしていました。
Q. いつあなたの中に不安がもたげましたか?
A. そうですね、1945年の春頃、原爆の使用に関しては心配をし始めました。しかし自分たちのやり方に疑念を憶えたのは、シカゴにいて、日本の各都市にかなり大規模に焼夷弾(incendiary bomb)が使われていると知った時でした。
もちろん、これは私たちの責任ではありません。実際私たちは何もできなかったのです。でもマンハッタン計画での私の同僚の一人がこのこと(日本の各都市に対する無差別焼夷弾攻撃)に悩んでいたのを、はっきり憶えています。
Q. 原爆使用問題に関して、この時、スティムソン陸軍長官が関係していたことを知っていましたか?
A. スティムソンさんが原爆について深い考えをもった思慮深い人であることは知っていました。彼はトルーマン内閣の中ではもっとも思慮深い人の一人でした。
ヒロシマの後、スティムソンさんがハーパーズ・マガジンに書いた記事は例外だと受け止めておかねばなりません。その記事の中で、彼は原爆の示威使用(demonstration)は、2つしか原爆を持っていなかったのだから、不可能だったといっています。そして2つとも示威使用の段階で仮に不発だったとしたら、アメリカの面目は丸つぶれだった、と言っていました。

 今この議論は全く無効ということがはっきりしています。確かにヒロシマの時点では原爆を2つしか持っていませんでした。だけどあと数発持つのにそんなに長く待つ必要はなかったのですから。
Q. あなたはその時点でラルフ・バード海軍次官やルイス・L・ストラウスの回顧録に示されているような姿勢を知っていましたか?

(ラルフ・オースティン・バード。1944年から1945年海軍次官。もともとはシカゴの金融家。原爆の使用に関する暫定委員会メンバーの一人。暫定委員会が1945年6月1日の会議で警告なしの原爆投下を大統領に対する勧告として決定した後、バードは陸軍長官に手紙を送り、少なくとも2−3日の予備的警告を出すべきだ、アメリカは人道主義の国であり、フェアプレイの精神を示すべきだとした。
詳しくは次のURL
http://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Austin_Bard 
またこの時の手紙(メモランダム)の内容は次ぎ。
http://killeenroos.com/5/bomb/bard.htm
ルイス・リヒテンシュタイン・ストラウスについては次ぎ。http://en.wikipedia.org/wiki/Lewis_L._Strauss
ただストラウスが回顧録でなんと云っているかは調べていない。時間があれば調べるのだが、その時何も云わずに、あとで自分は実はこうだった、ああだったという人の話は時間がもったいないので、取りあえず今回の私のテーマ外とした。マッカッサーも、どこかで私は実は原爆投下に反対だった、と言っているそうだが、こういう人物の話は資料的価値がない。)

A. ノー。
Q. そうすると、原爆の軍事的使用に関して、大きく一致した反対はなかったわけですね?
A. はい、ありませんでした。
いいですか、私がルイス・ストラウスの所へ行って何か話すなんて云うことは不可能だったのですよ。秘密保持条項がありましたからね。
Q. トルーマン大統領やその直属の人たちが、原爆の使用に替わる代替案をすべて良心的に研究したと思いますか?
A. 私はそうは思いません。彼らはただ軍事的な方法によってのみ、われわれのいう「戦争の終結」ばかりを考えていました。
私も軍事力なしに日本が無条件に降伏したとは思いません。
しかし日本に無条件降伏を要求する必要はなかったのです。日本にある種の平和協定―実際できる範囲の一を提示すれば日本と平和交渉はできたと思いますよ。
Q. 今思い返して見て、あなたの見解は完全に聞き入れられたとおもいますか?
A. 実際に私の見解がどう聞き入れられたかを詳しく説明することで、この答えにさせて下さい。

  1945年3月、ルーズベルト大統領に提出するメモランダムを準備しました。
そのメモランダムの内容は、日本に対する原爆の使用は、ソ連との原子力競争をスタートすることになる、と警告する内容でした。
そうして、日本を戦争からノックアウトするという短期的目標より、そのような軍拡競争の開始を避けることの方が重要ではないのか、と言う問題提起をしたものでした。
私はこのメモランダムをいわゆる「チャンネル」を通じて提出した場合に、確実に大統領の手元に届くかどうか確証がもてませんでした。そこで私は、ルーズベルト夫人に面会を申し込んで、私のメモランダム−封印した封筒に入れていました−を彼女の手を通じて大統領に渡すつもりでした。
ルーズベルト夫人が私との面会を整えてくれた時、私は、シカゴプロジェクトの責任者アーサー・H・コンプトン(1927年のノーベル物理学賞受賞者。マンハッタン計画のシカゴ大学冶金工学研究所でプルトニウム爆弾を開発した。冶金工学研究所というのは研究の目的を隠すためのカバーネームである。詳細は次ぎ
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_H._Compton
に会いに行きました。
私はコンプトンが私のメモランダムの内容に異議をはさむものと思っていました。
だから、コンプトンが私に、私がメモランダムを直接手渡して大統領の関心を引いて欲しいものだ、と云ってくれた時には救われた思いがしました。それから自分の事務所に戻って5分もしない内に、誰かがドアをノックしました。
見るとノーマン・ヒルベリー博士(冶金工学研究所の同僚らしい。詳しくはわからない。http://www.atomicarchive.com/Photos/CP1/image5.shtml を参照)
が立っていました。「今ラジオで聞いたんだが、ルーズベルト大統領が亡くなった。」と云いました。

しばらくの間は、メモランダムをトルーマン大統領にどうやって渡し、その注意を引いたものかと途方に暮れました。
私はルーズベルト大統領を直接知っている人たちを大勢知っていました。しかしトルーマン大統領は、同じ知り合いサークルには入っていないように見えました。計画のカンサス・シティの幾人かの人間のことが頭に閃きました。彼らのうち誰かがトルーマン大統領に近づく方法を知っているかも知れないと思ったのです。

ホワイトハウスへ行ってトルーマンの面会調整担当官マット・コナリーに会えと言われた時、シカゴ計画の副部長のウォルター・バートキー(シカゴ大学の諮問評議会のメンバーらしい。1945年の名簿にその名が見える。http://cowles.econ.yale.edu/archive/people/directors/staff_uc.htmに、私をコナリーの所へ連れて行って、注意を引くように私のメモランダムを読み上げてくれ、と頼みました。
バートキーは「こりゃ、えらい大仕事だぞ」と云いました。
「率直に言って、この面会取り付けがカンサス・シティ経由になっていること自体が若干疑わしい。大統領はわれわれの用件を薄々感づいていて、スパルタンバーグ(ノース・カロライナ州。後の国務長官バーンズが住んでいたところ。)へ行ってジェームス・バーンズに会え、と言ってくるかも知れない。」とバートキーは云いました。
何故バーンズに会いにいかなきゃならんのか、さっぱり訳が分かりませんでした。というのは、その時点ではバーンズは政権内にどんな立場も占めていなかったからです。
でも会えと言うなら、もちろん誰にでも会いに行きます。原子力科学者のH・C・ウレイを同行する許可をもらって、5月27日に一緒に夜行列車に乗り込んでスパルタンバーグに向かったのです。
Q. それからどうなりました?
A. メモランダムを読み上げると、バーンズは云いました。
「グローヴズ将軍(原子爆弾開発のマンハッタン計画の総責任者)によると、ロシアにはウランがないそうだ。もしロシアにウランが全然ないなら、原子力兵器競争に参加しようがないじゃないか」でも私にはこれは到底ありそうにもない推測のように思えました。
ロシアが高品位のウラン、瀝青ウランの原鉱を埋蔵していないことは大いに考えられます。ロシアの統制下にある範囲内で、唯一知られている瀝青ウランの埋蔵はチェコスロバキアにあります。しかもこれは大量の埋蔵ではないと信じられています。
しかしロシアの膨張範囲の領土の中に、低品位でもウラン原鉱が全くないと考えるのはちょっと難しい、低品位のウランでも原爆の製造に必要なウランを獲得できるのですからね。

 バーンズ氏に会って私の関心を引いたのは、原爆が世界に突きつけている難問をうまく処理するような政府の政策がまったく存在していないと言う事実でした。
そこで私は、原爆実験をここで延期して時間を稼ぎ、そういう政府の政策を発展させる方が賢明ではないかという疑問を提起しました。私にはいったん実験をすると、原爆の存在をそう長くは秘密にしておけないように思えたのです。
バーンズは実験の延期はいい考えではない、と言いました。そして、今振り返ってみると、私だって彼に賛成しかけたんです。振り返ってみて実験の延期は、問題を解決することにはならなかったのですから。

 バーンズの関心は、ロシアがポーランド、ルーマニア、ハンガリーを乗っ取ってしまいはせぬかと言うことでした。その点は私も心配でした。
バーンズはアメリカが原子爆弾を保有していると、ヨーロッパにおいてロシアを御しやすくすると考えていました。使うこともできないでいる状況にあり、ただ鎮座しているだけの原爆にそんなことができるとは思えませんでした。むしろ逆効果ではないかとすら思えたのです。

 シカゴへ戻ってバーンズが国務長官に任命されていることを知りました。私は、私が重要だと思っている論点は考慮だにされなかったのだという結論に至りました。

 その時、私にはこの最終決定(原爆投下の)にスティムソン長官が主要な役割を演じていて、彼ならバーンズさんより私の見解をよく理解してくれるだろうということが分かっていませんでした。

 シカゴで私はいわゆるフランク・レポートを共同執筆していました。これはスティムソン陸軍長官に宛てたものですが、ジェームズ・フランク教授を含めてこの報告の執筆に参加しているものの中でスティムソンさんに会った人間が誰もいませんでした。

 その間、私は大統領宛の請願書の下書きを書きました。請願は損得の視点から出たものではありません。日本の各都市に対する原爆の使用に対して、全く純粋に、正しい人道主義の立場から反対を唱えているものでした。
 (* 原文ではmoral groundという言葉が使われている。通常「道徳的見地」とでも訳しておけば済みそうだが、それでは「道徳」と言う日本語に含む儒教的倫理観が災いしてシラードの気持ちがうまく伝わらない。Moralという英語は「善悪の規範」という意味だが、当然シラードの規範は、直接のキリスト教的倫理観ではなく、ヨーロッパ啓蒙主義から出発したヒューマニズムである。一連のジュネーブ条約の精神に代表される、近代ヨーロッパが獲得した貴重な思想的財産である。それで「正しい人道主義の立場から」と訳すことにした。) この請願書にはシカゴチームから約60人の同僚が署名してくれました。その中には、この請願書は「公的チャンネル」を通じて大統領の手元に届けるべきだという主張をする人がいました。これに私は不承不承ですが、同意しました。
その時点では、私はもうこの請願書が今後の成り行きに大きな影響力を持つとは考えていませんでした。それよりこの請願書にみんなが署名をし、記録に止めることの方が意味が大きいと考えていました。公的チャンネルを通して、この請願書は送られましたが、その後ある時、この請願書がついに大統領の手元に届かなかったのを知ってもさして驚きはしませんでした。
Q. その頃ロシアもまた原爆開発をしていると言うことを知っていましたか?
A. 全然思ってもみませんでした。われわれの前にある問題はこうです。
つまり、  「戦後どれくらい長い期間、アメリカは原爆の独占を続けられるのだろうか?」言い替えれば、「どれくらい短期間の間にロシアが原爆を保有するようになるのだろうか?」、です。
もし原爆を使用すれば、われわれが原子力兵器競争時代に突入することは、私には疑いようもありませんでした。
Q. その時点で、原爆の示威投下(デモンストレーション)は、実現可能だったんですか?
A. 少なくとも思い起こす限りでは、簡単なことでした。どんなに恐ろしい威力を持つかを示せばいいことですからね。通常の外交チャンネル、そうですね、たとえばスイスを通じて日本と連絡を取って、誰も殺したくないと日本側に説明するんですよ。
そして、一つの都市、たとえば広島を指定して、全員避難してもらうんです。で、爆撃機を1機だけ飛ばして、1発だけ落とすんです。

 しかし、繰り返しになりますが、示威投下の段階は現実的な問題ではありませんでした。ある意味、暴力を用いて暴力的に脅し無理矢理戦争終結に持っていこうとすること自体が、人道的に見て間違っているわけですからね。
私の論点は、もしわれわれが喜んで交渉しようとさえすれば、そのような暴力は不必要だった、と言う点です。結局の所、日本だって和平を追求していたんですからね。
Q. その時、あなたはそういう状況を分かっていましたか?
A. いいえ。その時私が分かっていたことと云えば、われわれが戦争に勝ったということ、日本には戦争に勝利するチャンスはまるでなかったこと、日本はそのことを理解しなければならなかったこと、です。
私にとって、日本がどこにさしかかっているかは問題ではなかったのです。
戦争に勝てないことを理解しているか、最終的には負ける、と言うことを理解しているか、これが私にとって問題でした。
(日本の軍部に対する理解は、さすがにトルーマン政権の方が深い)

大きな失敗
Q. あなたの見解には1945年以降、何か変化がありますか?
A. いいえ。その時考え、その時云えたことが、今ではもっと明確な形をとって云うことができるようになったと言う点を除けば。
今、私が強調しておきたいことは、日本に対して無条件降伏を固執したことが全ての失敗の根源だった、と言うことです。今日、日本に侵攻するかあるいは日本の各都市に原爆を投下するかと言う問題の立て方自体がまやかしだったのであり、全ての混乱の根本原因だった、と私は思います。
Q. ロシアを含む他の国々が、原爆の使用という同じ機会に直面したら、アメリカがしたのと同じことをしたと思いますか?
A. ねぇ、いいですか、この質問に対して答えることは完全にあてずっぽうですよ。
しかしながら、こういうことはいえます。全体的に云ってみて(by and large)、アメリカ政府は正しい人道主義からものを考えて筋道を追っていった、というよりも、損得勘定(expediency)から考えて、追っていったということです。
そしてこれが全て政府というものの普遍的原則だということです。(ここに、ハンガリー系ユダヤ人、シラードの深い絶望が見て取れる)

 戦争の前、私はアメリカの政府だけは違う、という幻想を抱いていました。この幻想はヒロシマの後(after Hiroshima)、完全に吹っ飛びました。

 ご記憶のこととは思いますが、1939年ルーズベルト大統領は、人が大勢住む都市に対して爆撃を加えることは、あまりに好戦的な行為だとして、警告を発しました。これがぴったりくるし当たり前だと思うんですよね。

 それから戦争の間、全く何の説明もなしに、日本の各都市に焼夷弾攻撃を募らせていきました。これが私を悩ませたし、多くの友人たちを悩ませたのです。
Q. それで幻想が終わった?
A. はい。これが幻想の終焉でした。でもね、分かってもらえますでしょうか、焼夷弾を使うことと、破壊を目的として自然の新しい力を使うことの間には、それでも大きな違いがあるんです。それでもこれを使うのは、はるかに大きい一歩なのです。原子力は全く新しいエネルギーなんです。

  破壊を目的として原子力を使うことはとても悪い先例を作ったと思っています。そうしてしまったことによって、戦後の歴史に大きな影響を与えることになったと考えています。

原爆投下のブーメラン
Q. どのような影響?
A. 戦後、(アメリカが)原爆から逃れたいと思っても、その立場を取るのが非常に難しくなったということです。と言うのは、一般市民に対して非人道的にそれを使用してしまったのですからね。戦争が終わるやいなや。
アメリカは人道主義の立場から是非を論じる立場を失ってしまった。多分、将来原爆から逃れることができるかも知れませんけれど。

  この問題について人道主義的に善悪を論じるなら、私には次のようにしかいえません。仮にドイツがわれわれより先に、原爆を2個保有したとしましょう。
そして仮に原爆を1個落としたとしましょう、そうですね、ロチェスターかバッファローに落としたでもいいです、そして原爆を落としてしてしまった後で、ドイツが戦争に負けたとしましょう。都市に原爆を落とすことを「戦争犯罪」と定義することに誰が疑いをさしはさむでしょうか?そしてニュールンベルグで、ドイツに対してこの罪で有罪を宣告し、責任者を絞首刑にしませんか?

  しかし、繰り返しになりますが、誤解しないで下さい。政府というものは、肝心な時には損得勘定に導かれるものだ、人道主義的善悪にはほとんど考慮が払われない、この観点からはアメリカ政府も他の国の政府となんら変わりない、これが引き出せる唯一の結論です。
Q. もし日本に原爆を落とさなかったら、この世界はどのように変わっていたでしょうか?
A. もし日本に原爆を投下せず、代わりに示威行為で止めていたとしたら、また、その上、戦後われわれが本当に核兵器の世界から逃れたいと思ったとしたら、恐らくは、逃れることができたでしょうね。
 (シラードは知ってか知らずか、核兵器廃絶問題について論じている。今戦後60年を経た世界が、核兵器を廃絶できない根本原因はヒロシマに対する原爆投下にある、と言っているわけだ。シラードは思想的にも政治的にもヒロシマを解決しなければ、核兵器廃絶運動の出発点ができない、と言っているのに等しい)
 今、世界が善い方向に向かっているのか、どうなのか、私には分かりません。
  (シラードがこのインタビューを受けているのは1960年であることを想起せよ。)
 でも、もし(原爆投下がなかったとしたら)、この世界は今と全く違ったものとなったろうことは請け合います。
Q. 核兵器競争は避けることができた?
A. 私は、核兵器競争は避けることができたと思います。イエスです。
しかし、その他の政治課題では、ロシアとの軋轢は続いているでしょうね。
Q. もし、私たちが原爆投下をしなければ、ロシアは原爆や水爆をこんなに早く開発できたでしょうか?
またヒロシマの後、ロシアが諜報活動や開発研究を通じてこんなに急いだでしょうか?
A. ロシアには、他の選択肢はありませんでした。
しかし彼らが開発を急いだのは、アメリカに核の独占を許したくなかったからです。
Q. ロシアはアメリカの核開発のことを分かっていましたか?
A. はい。でもこれは当時私の知らないことでした。思い返してみていえることなんですが、もし核実験をしなければ、そんなに時間が稼げなかったでしょうね。
Q. 原爆なしにミサイル時代がこんなに早く到来したと思いますか?
A. いいえ。長距離ミサイルは核弾頭なしには全く無用の長物です。TNT爆弾をつけて飛ばすには、(ミサイルは)あまりに高くつきすぎます。
Q. 一般論で、宇宙時代についてはどうですか?切りのない開発競争に入っていきますか?
A. そう考えるべきですね。
Q. 宇宙探査についてですが、原爆、水爆、その他、必然的に原子力兵器は外に向かって膨張しますか?
A. そう思いますね。私は火星や金星に行くのにそんなに急いではいませんけれどね。他のことより太陽系の探査が価値あることだとは思いません。
Q. アメリカ人は、原爆(投下)に対して「罪の意識」を感じているでしょうか?
A. 私は、それを「罪の意識」そのものとはよびません。ジョン・ハーシーの書いた「ヒロシマ」という本を憶えているでしょう。アメリカでは大変な反響を呼びましたが、イギリスではさっぱりでした。なぜ?
  (ジョン・リチャード・ハーシーはアメリカの作家・ジャーナリスト。北京生まれ。ピュリツアー賞を受けている。ヒロシマは原爆投下後ちょうど1年経った1946年のニューヨーカー・マガジンの8月号に掲載された記事。後に本として発行された。原爆の被害にあった6人の個人に焦点をあてて、その悲惨さをレポートしている。
ハーシーについては次のURLへ:http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hersey
「ヒロシマ」については次へ:http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima_%28Hersey%29


  それは原爆を投下したのがアメリカであって、イギリスではないからです。意識の下のどこかで、われわれは原爆のくさびを打ち込まれているのです。イギリス人にはこれが全くありません。でも私はそれをまだ「罪の意識」とは呼びませんね。
Q. この感情は、それが一体何であれ、実際上何かわれわれに影響をあたえているでしょうか?
A. 普段に働いている自己抑制に対する義務感にかかる力は大きいものがあります。われわれはこの義務感に照らして恥じない行動を取らなかったのです。
 曰く言い難いところで(in a subtle sense)、科学者の多くがこの感情に影響を受けています。このことが引き続き原爆の仕事を続けようという意欲を減退させているのです。
Q. ヒロシマは水素爆弾の開発に影響を与えましたか?
A. 5年は遅れた、と云っておきましょう。もし普段に働いている自己抑制に対する義務感が立派に全うされたとしたら、多くの科学者は引き続き原子力開発の仕事を続けたでしょう。実際には、多くがそうしなかった・・・。
Q. もし、今の合衆国政府が、同じような選択肢に直面し、大体同程度の軍事的知性を持っているとすれば、最初の原爆使用に関して異なる決定にいたったでしょうか?
(このU.S.ニューズ・アンド・ワールド・レポートの記事が出たのは1960年8月15日号だった。この時点で大統領はドワイト・アイゼンハウワーだった。1961年1月20日、ジョン・F・ケネディが大統領宣誓を行う。)
A. 大統領の人間性による、と思いますね。
トルーマンは、自分が何に関わっているかまるで分かっていなかった。
彼の使っている言葉からそれが分かりますよ。
広島に原爆を投下した時、トルーマンはポツダムからの帰途で海の上にいました。
その時の大統領声明の中に次のような文句があります。1945年8月7日付けニューヨーク・タイムス紙から引用しますが。
「われわれは歴史上最大の科学的ギャンブルに20億ドルも投じた。そして勝った。」

 原爆を20億ドルのギャンブルに例えて、そして「勝った」というのは、私のバランス感覚を逆なでします。
私のその時の結論はただ一言です。
トルーマンは自分が何に関わっているのか、全く分かっていなかった・・・。