(原文は次:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/ bomb/large/documents/pdfs/9-14.pdf#zoom=100 ) |
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スティムソンからトルーマンへの手紙 1945年4月24日付け |
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スティムソンの書いた日付は45年4月24日となっており、恐らくトルーマンの手書きで「45年4月25日披見」(“saw 4-25・45”)と書いてある。また「国際関係」(“foreign relations”)の言葉にアンダーラインが引いてある。以下本文。 |
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フランクリン・ルーズベルトが突然死去するのは45年4月12日。同日副大統領だったハリー・S・トルーマンは宣誓の上、大統領に就任する。トルーマン回想録によれば、その日、スティムソンが「原爆に関する最初の情報の断片」をトルーマンにもたらした、といっている。トルーマン研究家によれば、その以前にトルーマンはある程度知っていた、ということだが、それは大した問題ではない。いずれにしてもトルーマンは「原爆計画」について詳細を全く知らなかったことにかわりはない。 (「トルーマンが原爆を知った日」 <http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman_ex01.htm>も参照の事。) ここでの問題は、トルーマンがその回想録で「スティムソンは・・・、この戦争を短縮する力として歴史を彩る原爆の役割について、少なくとも関心を持っているように見えた。」と対日戦争終結と結びつけたウソの記述をしていることだ。このスティムソンの手紙でも明らかなように、スティムソンの「原爆開発」への関心は「ソ連との関係」においてであり、この問題、すなわち「原爆とソ連を巡る関係」で頭がいっぱいだと述べていることだ。スティムソンは1950年に亡くなっていて、トルーマンの回想録を読むことができなかったが、仮に読んだとしても、ここの記述には何の抗議もしなかったと思う。この回想録がでる頃には、すでに「対日戦争終結のために原爆が日本に対して使用された」とするプロパガンダが「歴史的事実」として定着しかけており、戦後すぐ、スティムソンもそのプロパガンダ形成に一役買っていたからだ。 |