(2011.5.8) | |
No.027 |
福島原発事故:民主主義社会における市民の力― 学び、深く理解し、そして闘うこと |
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誰を見直すか? | |||||
菅首相が5月8日(金)、浜岡原発の一時全面停止を要請した。毎日新聞の記事を引用すると、
このニュースが入ってきた昨夜、私は、すぐさまある女性からメールをもらった。この人には一度もお目にかかったことがない。が、この人が福島原発事故発生直後から、自分のサイトを開設し反原発の訴えを続け、さまざまな市民運動にも参加していることを知っていた。そして彼女が原発の危険を知りながら、それに何らの意志表示をしてこなかったことに対して、一市民として自己批判をしていることも知っていた。(この点私も同様である。私も一市民として、原発を消極的に容認してきた自分の不明を恥じなければならない。) そのメール。
私は違うと思う。彼女が見直すのは「菅総理」なのではない。彼女自身なのだ。自分自身の力を見直して見るべきなのだ。自分の中に、世の中を変えていくというとんでもない力が秘められていて、それがちょっとばかりほとばしり出て、それが首相菅直人を動かして、浜岡原発を止めたのだ。 市民1人1人にはとんでもない力が秘められている。それは政治を簡単に動かせるほどの力だ。ただ残念ながらこれまで、日本の市民は、それを、自分たちの力を、本当には信じてこなかった。それも無理はない。敗北続きだったからである。 |
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自分の力が実感できない日本の市民 | |||||
明治初期の自由民権運動は、簡単に立身出世主義の野心家たちに乗っ取られ、最後は明治天皇制政府につぶされた。富山の「米騒動」は天皇制政府の軍隊に潰された。日中戦争・太平洋戦争での敗戦は、その大きなチャンスだった。しかし十分利用価値があると見た占領軍アメリカと利用されることによってアメリカを利用しようとする旧天皇制支配層の暗黙の契約によって大きくねじ曲げられ、そのチャンスは潰えた。かわりに日本の市民は擬制民主主義をあてがわれた。50年代の「原水爆禁止運動」は、戦後日本の市民が自分たちの力を実感できるチャンスだったのかも知れない。それも誘発された党派争いのために潰された。 60年安保、70年安保(70年安保闘争と呼べるものがあったとしての話だが)の闘争は、結局暴力主義に走ったためと、経済成長至上主義に誘いに簡単に乗ってしまった私たち自身の愚かさのために自滅した。今考えてみれば、学生や軍人主体の民主主義化運動そのものがその市民社会の未成熟を表明していた、と見ることも出来る。中国の「5・4運動」や50年代60年代のアジア、アフリカ、ラテンアメリカの革命運動が象徴しているように、学生や一部知識人、軍人階層主体の「民主化運動」は所詮、その社会が未成熟であったことを示している。 「60年安保」「70年安保」闘争の敗北の後、私たちは、まるで飼い慣らされたヒツジのようである。支配階級にとってはもっとも支配しやすい国民となっていった。 2000年代に入ると、調子に乗り、図に乗った日本の支配層はフリードマン流の「新自由主義経済路線」をアメリカの要求で日本に持ち込んできた。しかしこの路線は簡単に破綻した。時期も悪かった。アメリカで「新自由主義経済路線」が政策として持ち込まれたのは80年代レーガン政権の時である。この破綻した経済政策にかわって台頭したのが、金融成長至上主義経済政策である。 日本は従って「新自由主義経済政策」と「金融成長至上主義経済」を同時に持ち込まなければならなかった。旗振り役の小泉純一郎が日本の金融資本の強力なバックアップを受けたポピュリスト政治家であったのは決して偶然ではない。 しかし、金融成長至上主義経済政策はつづめたところ国家レベルでの借金政策に過ぎなかった。その欺瞞性は2008年の「リーマン・ショック」で暴露された。 日本は、「新自由主義経済政策」と「金融成長至上主義経済政策」の破綻を同時に経験することになったのである。しかしその爪痕は深かった。ただでさえ薄かった中間市民層―それは健全な資本主義社会をしっかりと支える担い手だったのだが―が没落し、相対的貧困層がその厚みを一層増したのである。擬制民主主義の支配層は、こうした相対的貧困層(かくいう私も立派にその一員だが)からさらに税金を絞り上げ、「健康保険金」という名前の税金を搾りとろうとしている。こうして厚みを増した相対的貧困層は、いまや悲鳴を上げはじめている。 |
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「生存権要求運動」 | |||||
福島原発事故はこうした時期に発生した。福島原発事故で発生した放射能でいまや少なからぬ部分の日本の市民の「生存権」がおびやかされている、あるいはおびやかされつつある。こうした状況にまず立ち上がったのが、「新自由主義経済」と「金融成長至上主義経済政策」で犠牲となって、自らの生存権をおびやかされている「相対的貧困層」であるのは決して偶然ではない。彼らは(といって私もその1人であるが)、まず自らの「生存権」を求めているのだ。これが「反原発運動」の本質である。そしてその要求は至極まっとうである。 もし私の分析が正しくて、今全国に拡がっている「反原発運動」の本質が、「生存権要求運動」であるなら、明治以来日本が経験したことのない全く新しいタイプの市民運動に発展する可能性がある。ようやく日本の市民社会も成熟の兆しを見せてきたようだ。 既成政党の指導もなければ、「前衛」もいない。シュプレヒコールもなければ、ジグザグデモもない。右翼が「反日分子」とわめいてもが全く的外れにしか聞こえない。(原発反対が何故反日分子なのか?) 日本の支配層は、最初福島原発事故を甘く見てなめてかかったのと同様、現在の「反原発運動」をなめてかかっている。彼らの本質が「生存権要求運動」であることがわかっていない。 一方で「反原発運動」に立ち上がった側にも弱みがある。最大の弱みは「自分たちの実力を知らない」という点だ。自分たちが本気で立ち上がれば、政治などは簡単に動かせる、それだけの力があるということを知らない。 (しかし、1986年アメリカの傀儡政権だったマルコスを倒したフィリッピンの市民たち、チュニジアの独裁政権を倒した「ジャスミン革命」の市民たち、アメリカの力を借りて長期独裁政権を築き上げたムバラク政権を打倒したエジプトの市民たち、あるいは韓国でアメリカの強力なバックアップを持っていた軍事独裁政権を倒した市民たち、タイでアメリカ傀儡政権を倒した市民たち・・・彼らもまた自分たちの本当の力を知らなかった。自分たちの「生存権」「生活権」を圧迫する政権を倒した時、初めて自分たちの力に気がついたのだ。) 自分たちの力を知らないということは、要求が貫徹するまで、政治を動かすまで戦い抜く粘り強さを持ち得ないかもしれない。途中でやはりダメだ、と思ってしまうかも知れない。あるいは菅政府と簡単に妥協してしまうかも知れない。(浜岡原発一時全面操業停止などはほんの手始めに過ぎない) |
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「Tea67」さんの鋭い嗅覚 | |||||
今年の3月11日福島原発事故発生以降、日本全国で市民が「反原発」に次々と立ち上っていく姿を、ネットを通じて日本の市民に最初に伝えたのは、『皆でつなごう(^-^)地域別「脱(反/卒)原発デモ&イベント』<http://d.hatena.ne.jp/tea_67/>のサイトを運営する「Tea67」さんである。 彼女は(私が勝手に女性だと思っているだけであるが)、自分のブログに次のように書いている。
彼女が緊急事態、と云っているのは「福島の人々」だ。もう少しいえば、福島の子供たちだ。放射能の子供たちへの影響は一刻も猶予がならない。それで彼女のサイトは「皆でつなごう(^-^)原発疎開&移住情報」へと衣がえをした。福島から避難するには住むところが必要だろう、という彼女の独特の鋭い嗅覚である。 (今回の「フクシマ危機」で、恐らくは後世、時代を画した出来事として記憶されることは、大手新聞社、1県1紙の地方新聞社、共同通信、NHKをはじめとする既成テレビ局、一言でまとめれば既成大手マスメディアが、完全にその報道機関としての機能を喪失している、ということが明らかになったことだろう。彼らは基本的に政府・国家権力のプロパガンダ機関としてしか機能しなかった。 もう一つ特徴的なことがある。広島原爆の直後、原爆被害者はまず切り捨てられた。そしてまだ広島市内に死体がごろごろ転がっている中で、いち早く復興が唱えられ、実施されていったことだ。原爆被害者に救援の手がさしのべられなければならないその時に、政府の金はどんどん広島の復興に流されていった。そして原爆被害者の救済は、一部市民や医師たちの個人的な努力で細々と行われた。その姿は今「フクシマ」を切り捨てて、復興に国民の注意を集め、政府の金をそちらに回そうとしている菅政府の姿とあまりに酷似している。) |
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学び、深く理解し、賢くなって闘うこと | |||||
4月28日付の「Tea67」さんの日記をそっくり引用しよう。
事態を眺める的確な目とともに、彼女の鋭い嗅覚は、現在の「反原発運動」が「ガス抜き」に使われる危険性を早くもかぎ取っている。 「反原発」に立ち上がる市民たちが、自分たちの本当の力を身体で感じ取る前に、現在の「生存権要求運動」が「市民社会のガス抜き」として使われる危険性は大いにありうる。 それを避けるのはどうするか?まず学ぶことだろう。アメリカの核兵器搭載艦を自国領土から完全に叩き出した1980年代半ばのニュージーランド市民のように、また原子力再処理工場からの汚染水に反対して立ち上がった1950年代なかばのスコットランド市民のように、また関西電力美浜原発に反対して長い間闘ってきた「美浜の会」(<http://www.jca.apc.org/mihama/>)の市民のように、深く学んで事態を理解することだろう。 その中で、日本の原子力発電が、アメリカの核兵器産業とその双子の兄弟である原子力産業を維持するために日本に押しつけられたこと、それを喜んで自国産業として育てようとしてきた日本の産業資本とそこから利益を吸い上げる金融資本、国民の税金を吸い上げて国家予算に集め、その金で東芝、日立、三菱グループとそれを同心円状に取りまく巨大な原子力器機産業が大きくなっていったこと、そして自民党政権(とその弟分である現民主党政権)が路線を敷いて政策的にそれを支えたこと。その有様は、最初の原爆を開発したルーズベルト―トルーマン政権、そしてそれを引き継いだアイゼンハワー政権がとった政策と瓜二つであること。 国民の「反原発感情」を抑えるために、電通を中心とした広告宣伝機関が既存大手マスコミを使って「原発安全神話」を作り上げてきたいきさつ、また「原発安全神話」を学校教育の現場から推進してきた文部科学省。東京大学、東京工業大学などの著名科学者や学者がこの「原発安全神話」に学問的体裁を装った無責任なお墨付きを与えてきたいきさつ、そして高線量被曝はともかく、低線量被曝は安全だと言い続けてきた東京大学、長崎大学、広島大学を中心とする医科学者たち。原発推進を側面援助してきた、いわゆる文化人、知識人、ジャーナリスト(その実態はPR屋だが)たち。 こうした実態を深く理解することが、そして、「福島原発事故」「フクシマ危機」の真の原因は、津波でもM9.0の地震でもなく、こうした戦前国家総動員体制にも似た、国家的無責任体制にあることを理解すれば、決して今の「反原発運動」は途中で挫折することもなければ、ガス抜きに利用されることもないだろう。 学び、深く理解し、賢い市民となって闘うことだ。いや、なに、自分の出来る範囲で、自分のスタイルで闘えばいい。それで、自分たちの力を信じれば、そして粘り強く闘えば、世の中は変わる・・・。 |
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