カール・ジーグラー・モーガン
(Karl Ziegler Morgan)
について
その① 反原発・反核の闘士としての最後半生
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ガーディアン紙の訃報 |
写真引用 http://www.rikart.de/bmb/html/005.html
Dr. Karl Z. Morgan,
der erste Strahlenschutzbeauftragte.
Atlanta, Georgia. 8. August 1983.
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放射線被曝の歴史を勉強していると、時折、複雑に屈折した評価にむずかしい、それだけに魅力的なキャラクターに出会うことがある。マンハッタン計画でロス・アラモス研究所の所長だったロバート・オッペンハイマーがそうだったし、やはりマンハッタン計画」でテネシー州オークリッジ国立研究所の保健物理部門ディレクターを務め、「保健物理学(health physics。私は健康物理学、と訳した方がいいとおもうのだが)の父」とまで呼ばれ、ICRPの教義の確立に力を尽くし、核推進派の重要人物の一人と目されながら、人生の最後は「反原発」・「反核兵器」に転じ、低線量電離放射線の人体への深刻な影響について警告を鳴らしたカール・ジーグラー・モーガン(Karl
Ziegler Morgan)もその一人であろう。
また、フクシマ放射能危機に直面している私たちにとって、内部被曝の専門家でもあったカール・モーガンの変遷をたどって見て、電離放射線を知り、その低線量被曝の危険について学んでみることも大いに意味のあることだ。
1999年、大動脈瘤破裂でモーガンは91歳の生涯を終えるのだが、その時イギリスのガーディアン紙が長文の訃報を掲載している。最初に、それを眺めながらモーガンについて概観しておこう。(後年、ICRPを代表する保健物理学者の立場から反核に転じたモーガンに対し、ニューヨーク・タイムスをはじめとするアメリカの大手マスコミの反応はガーディアンに比べれば冷淡だった) |
この記事はガーディアン紙の1999年6月15日付けの「カール・モーガン」と題する記事で、「マンハッタン計画における優れた物理学者。核放射線(nuclear radiation)に関しアメリカに警告し続けて後半生を送った。」とリード風のサブタイトルがつけられている。(<http://www.guardian.co.uk/news/1999/jun/15/guardianobituaries1>)
1999年と言えばその年11月ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦の終わりを象徴する年でもあった。
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91歳で亡くなったカール・モーガンは保健物理学のパイオニアの一人だった。保健物理学とは放射線被曝の健康に対する影響科学である。モーガンはマンハッタン計画に基盤を置き最初の原爆を製造した研究グループの一員だった。
しかしながら「核エスタブリシュメント」(nuclear establishment)の「内閣中枢」( inner cabinet)で過ごした30年後、モーガンは所を変えた。主要な“放射能事件”で核兵器や原発産業から被害を受けたと主張する人々になり代わって証言したのである。
彼がその見解を変える最初の徴候は1968年にあらわれていた。その時X線照射の際の過剰放射線被曝を制御する専門医療を要求するアメリカの法律を作ろうという動きがあったが、モーガンはその先頭にたって影響力を行使した。』 |
1968年といえば、モーガンはまだオークリッジ国立研究所の保健物理部門のディレクターであり、ICRP-国際放射線防護委員会の委員でもあったころだ。相当勇気のいる行動だったろう。
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カレン・シルクウッド事件 |
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(オークリッジ国立研究所を)1972年に退職した後、放射線防護措置に対する制限を加えることに注意を集める活動を一層活発化した。特に、核の告発者(the nuclear whistleblower)、カレン・シルクウッド(Karen Silkwood)が1974年に謎に満ちた自動車事故で亡くなった時、その家族から起こされた訴訟で、(家族側に有利な)証拠を提供した。』 |
これは有名な“カレン・シルクウッド事件”のことである。カレン・シルクウッドは、エネルギー企業のカー・マッギー社のシマロン核燃料加工施設で働く化学技術者だった。カー・マッギー(Kerr-McGee Corporation)の本社はコロラド州デンバーだが、シマロン施設はオクラホマ州にあり、エネルギー省傘下のワシントン州ハンフォード施設にある実験炉用の燃料ピンに使うプルトニウム-ウラン混合酸化物(MOX)を製造していた。カレンはその製造現場で働いていた。石油・原子力労働組合
(Oil, Chemical & Atomic Workers Union)の活動家でもあったが、施設内で発生している様々な規則違反やずさんな現場管理のために施設従業員の健康被害が発生している実情を議会やアメリカ原子力委員会に内部告発しようとしていた。
その上彼女自身もプルトニウムに犯され深刻な健康被害にあっていることも判明した。告発資料を整えてニューヨーク・タイムスの記者に会いに行く途中で、交通事故で死亡する。この交通事故が謎に満ちていたので他殺説が浮上する。ちなみに車内からは告発資料は消えていた。カレンの遺族はカー・マッギー社を訴えた。争点はカレンのプルトニウム被曝が会社側の責任かどうかという点だった。カー・マッギーは自社の責任を認めないまま和解に応じ和解金を支払うという不可解な動きをする。この裁判の時にモーガンは、プトニウム被曝は業務中に発生した、カー・マッギーに責任があるという見解を示し、それを支持する証拠を提出したのである。
ちなみにカー・マッギーは1929年創設のアメリカでも歴史のあるエネルギー関連開発会社でもともとメキシコ湾での石油開発を得意としていた。核エネルギー分野に進出したのはもちろん戦後のことである。同社は環境汚染問題でアメリカ以外でも問題を起こしていたが、2006年アナダーコ石油会社(Anadarko Petroleum Corporation)に買収されその歴史を閉じている。(以上日本語ウィキペディア「カレン・シルクウッド」と英語Wikipedia“Kerr-McGee”、“Karl Z. Morgan”を参照した)
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ネバダ核実験被爆者訴訟 |
ガーディアン紙の記述に戻ろう。
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1982年10月、モーガンは、1950年代ネバダ核実験場で行われた一連の核実験で健康管理に怠慢があったとしてアメリカ連邦政府を告発した、原告ほぼ1200名という裁判で証言した。原告は核実験のため白血病やその他のガンを発症した、と主張したのである。
モーガンは実験場での放射線防護措置は水準以下であり、放射線の健康への危険性について当時すでにわかっていたことに対してその“趣旨にもとっていた”と述べた。また、モーガンはナバホのウラン鉱山で働く鉱山労働者に成り代わって、連邦政府当局は鉱山で発生する放射線の危険に関して知っていたにも関わらず、鉱山労働者を防護する措置をとらなかった、と述べた。』 |
ネバダ実験場では、1950年代度重なる核実験のため風下側に位置する住民に健康被害が現れていた。実験場からの放射性物質がアメリカ大陸特有に吹く西から東に吹く風にのって、風下住民の居住地域に放射性降下物(フォールアウト)をもたらした。風に乗って遠くニューヨーク州の北部地域にまで達したと見られている。
以下は英語Wikipedia“Downwinders”(風下居住者)の記述である。この記述から“Nevada”(ネバダ)という項目の記述を引用する。(なお、“風下居住者”は自らのサイトを持っており、様々な非人道的な被曝の様子を伝えている。(<http://www.downwinders.com/index.php>)
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ネバダの実験場では、1951年から1962年の半ばまで、地表あるいは地上核実験が86回、地下核実験が14回行われた。これらのすべては大気中に相当量の放射性物質を放出した。
50年代、ネバダ実験場近辺に住んでいた人々は戸外にすわって核爆弾爆発のキノコ雲を眺めるようにとし向けられていた。多くは衣類つける線量計(もとの英語は“radiation badges”。これは熱ルミネサンス線量計=ThermoLuminescent Dosimeterのことだと思われる。)を渡されていた。この線量計は後にアメリカ原子力委員会に放射線レベルに関するデータを集めるため回収されたのである。
1977年に公表されたアメリカ国立癌研究所(the National Cancer Institute)の報告の中で、ネバダ核実験場で行われた約90の核実験は、アメリカ合衆国の大陸側の大きな地域に高いレベルの放射能を残した、特に1952年、53年、55年、57年は大きかった。その放射能はヨウ素131で550京ベクレル(550万テラベクレル)だったと結論していた。国立癌研究所の報告では、これらの期間での被曝は、アメリカ全体で1万人から7万5000人の過剰甲状腺癌事例を発症させていると推定している。
またアメリカ科学研究協会(the Scientific Research Society)が公表した報告によると、ネバダ実験場や地球規模の放射性降下物のために全米で放射線関連の癌が2万2000件、白血病関連の過剰死が2000件発生すると予測した。
(実は私からするとこの報告も過小評価である。1つには当時のICRPのリスクモデル自体がガン発生を過小評価している上に、電離放射線による人体損傷をガンのみに限定しているため、その他の心臓病や循環器系、呼吸器系、脳神経系など全身にあらわれる健康欠損を全く無視している)
ネバダ核実験場に残っている放射能からの風下住民被曝の脅威は2007年まで依然として存在した。国防省は硝酸アンモニウムと燃料石油からなる700トンものバンカー・バスター兵器(地下貫通弾)の実験を計画していた。この“車輪の神”計画が実施されれば、放射能に汚染された大きなキノコ雲が舞い上がり、ラス・ベガス(ネバダ州)、ボイジー(アイダホ州)、ソルト・レーク・シティ(ユタ州)、セント・ジョージ(ユタ州)といった人口中心地に降り注ぐ可能性があった。この計画は2007年2月に、放射能が風下地域に降り注ぐという脅威による政治的圧力でその大部分がキャンセルされた。』 |
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ナバホ・ウラン鉱山労働者事件 |
“ナバホ・ウラン鉱山労働者事件”も深刻な事件である。第二次世界大戦後、アメリカは莫大な量のウラン需要があったが、西南州(いわゆる“サウスウエスト”。アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ユタ、ネバダなどの諸州がそれにあたる)の先住民ナバホ族の居留地に大きなウラン埋蔵が存在していることがわかった。ここでウラン採掘をする民間企業は、多く労働力の安い先住民(アメリカン・インディアン)のナバホ族の人々をウラン鉱山労働者として雇ったのである。
しかしウラン鉱山で働くのは放射線被曝のリスクがつきまとう。しかし、こうしたウラン採掘会社やアメリカ原子力委員会は、ナバホ族のウラン鉱山労働者にこうした危険性を知らせることを怠り、放射線被曝を最小化するような規制を行うことを怠った。こうして数十年にわたって労働者のみならずその家族も放射線被曝をした。放射線源はウラン鉱山に存在するラドンであるが、かなりの率で健康損傷が労働者やその家族にあらわれた。補償を求めて裁判になったが、政府や鉱山採掘会社は、健康損傷と被曝との因果関係を認めず、多くの場合原告側の敗訴が続いた。
1990年、議会で「放射線被曝補償法」(the Radiation Exposure Compensation Act。2000年に追加改正が行われている)が通過し、やっとこうした鉱山労働者にも補償の道が開けたのである。
今日、アメリカ議会のサイト(the Radiation Exposure Compensation Act-RECA-放射線被曝保障法<http://www.radiationexposurecompensationact.com/>)を見ると、ウラン鉱山労働者ばかりでなく、核実験による環境汚染被害者なども補償の対象となっている。フクシマ放射能危機に直面している私たち日本でも、今進められている東電による補償ばかりでなく、より広汎な放射線被害者救済を目指した日本版「放射線被曝保障法」が必要であろう。
2008年、アメリカ議会は、ナバホ国立居留地のウラニウム汚染のクリーンアップ(それは単に除染ではない)5カ年計画を承認した。優先順位がもっとも高いのは水と建造物である。このため幾つかの貯水場は閉鎖された。また汚染度の高い建造物は取り壊された。また2011年の夏までに、アメリカ環境保護局は2万立方ヤードにのぼる汚染表土を取り除いている。
(以上「ナバホ・ウラン鉱山労働者事件」の記述は、英語Wikipedia「Uranium mining and the Navajo people」などを参照した)
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マンハッタン計画に参加 |
さてずいぶん寄り道してしまったが、ガーディアン紙の「カール・モーガン」訃報の記述に戻ろう。カール・モーガンは、こうして最後半生を反原発・反核兵器、一言で云えば「反核」の闘士として過ごすようになっていた。
ガーディアン紙の“カール・モーガン”訃報の書き手は、モーガンの最後半生、すなわち“反核の闘士”としての業績に焦点を当てたかったようで、記述の順序を逆転させている。すなわちここから後がモーガンの生い立ち、前半生の記述となる。
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カール・モーガンはノース・カロライナ州のイノックスビルに生まれた。ノース・カロライナ大学で数学と物理学の学士号を取得した。1934年、ノース・カロライナ州のデューク大学で宇宙放射線の研究によって博士号を取得。その職歴を物理学教授としてスタートさせた。しかし1943年、「マンハッタン工兵区」(Manhattan Engineer District)と暗号名をつけられた最高機密の原爆プロジェクトに招かれ、保健物理に関する上級科学者となった。』 |
英語Wikipedia ”Karl Z. Morgan”によれば、モーガンはマンハッタン計画に参加した当座は、アーサー・コンプトンが所長だったシカゴ大学の冶金工学研究所に参加したという。ここには、「私は原爆の使用を止めるためにマンハッタン計画に参加した」と述べたニールス・ボーアもいたし、後にフランク・レポートを提出する多くの優秀な物理学者や化学者、さらに最後まで原爆の日本への使用に反対する大統領あて請願書を書いたレオ・シラードもいた。
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その翌年モーガンは新設のテネシー州オークリッジ国立研究所に行き、そこで退職の日まで保健物理部のディレクターを務めた。』 |
オークリッジはテネシー州に作られた兵器級ウラン製造拠点、クリントン技術工場で働く従業員やその家族のために作られた新しい住宅都市である。そのいきさつは、「原爆投下直後の陸軍長官声明」にやや詳しい。関係箇所を引用しておくと。
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依然として、爆発物質生産方法に関する理論上の諸問題が未解決のままだったが、時間的制約からくる大きな圧力があったため、1942年12月、大規模な工場建設の段階に進むことが決定された。2つの大規模工場がテネシー州クリントン技術工場内に置かれ、3つ目の大規模工場がワシントン州ハンフォード技術工場内に置かれた。こうした早期の段階で、大規模工場建設に踏み切ったのは、もちろん一種の賭であった。しかしそれは戦争における必要不可欠なリスク計算というものであり、そのリスクは回収できている。
クリントン技術工場は、テネシー州ノックスビル市から西に18マイルほど離れた連邦政府所有地区内に5万9000エーカーの敷地を占めた。この広さ、また孤立と言う立地条件は、未だ知られざる危険や障害を考慮すれば、保安上も安全上も必要であった。オークリッジという名前の連邦政府所有運営の新しい都市が、そこで働く従事者を収容するために連邦政府所有地内に建設された。人々は、相応の住宅、寄宿舎、仮兵舎、トレーラーなどで通常通り快適に暮らし、そこは宗教施設、レクレーション施設、学校、医療機関、その他必要な施設を備えた近代的小規模都市であった。オークリッジは総人口約7万8000人。建設労働者、工場操業従事者とその直近の家族より成り立っている。その他の人々もすぐ隣接した回りに取り巻く地域に居住した。』 |
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オークリッジ国立研究所の保健物理部門責任者 |
トルーマン政権は、この住宅都市オークリッジに国立研究所を開設し、その目的の一つがクリントン工場で発生する放射線障害に関する研究と従業員の放射線被曝限度の研究だった。モーガンはその部門の最高責任者になったのである。ガーディアン紙の記述に戻る。
『 |
保健物理部に配属になると聞かされて、モーガンはショックを受けた。そして、それはとんでもない間違いである、だって私は保健物理などという学問は聞いたこともないのだから、と言った。この研究計画のリーダーたちは言った。私たちだって似たようなものだ、と。
しかし彼らは、最初に原子の堆積-今日では原子炉という名前で知られているが-を建設しようという企ては相当量の放射線源を創り出すことになるため、人をいかに防護するかについて理解する必要があることを思い知らされた。』 |
ここでモーガンは、職業病としてのガンの発症は、時計などの器機の文字盤にラジウムで蛍光塗布をする労働者の間に生じていることに思い至った。その当時世界のラジウム在庫はたった2ポンドに過ぎなかったにもかかわらずだ。そしてモーガンはそれから積み上げられようとしている放射線の強さは、それまでの数十億倍に上ることを教えられる。
放射線源から人を防護することなどできはしない。最大の防護方法は、そうした人工放射線源を作らないことなのだ。しかし、モーガンがそのことを思い知らされるのはずっと後になってからだ。
『 |
こうした怪物じみた(莫大な放射線源の)山は6フィート以上の厚みのあるコンクリートで囲まれた。そしてこれで人々を放射線から防護するのかどうかを発見しようと、同僚のグループと研究しなければならなかった。
モーガンは自らの自伝、「怒れるジン:核時代を通り抜けた一人の男の足跡」(The Angry Genie: One Man's Walk Through The Nuclear Age)の中で、放射線が安全であると定められたとは信じていない、と述べている。しかし「私たちは受容しうると考えた」
放射線被曝の影響で苦しんでいると主張する人々に対するモーガンの支持に対して、彼の同僚のあるものたちは驚いた。原子力に対する彼の信念は確固不動だったように思える。1954年「保健物理」の第1号でモーガンは次のように書いている。「われわれは、核時代と共にあり、その未来は放射線被曝を成功裏にコントロールできる大きな手段があると信じている。われわれはこの被曝の完全なそして究極の結果について理解しておかねばならない。そしてわれわれとわれわれの後に続く人たちが、この新しい時代における最大限の利益を刈り取りできるレベルに放射線被曝を制限しなければならないことを理解しなければならない。」
物理学者、カール・ジーグラー・モーガンは1907年9月27日に生まれ、1999年6月8日死去した。』 |
ガーディアン紙の「カール・モーガン訃報」の書き手が、なぜ1954年に発行された「保健物理」にモーガンが書いた一文でこの訃報を締めくくったのかわからない。
『新しい時代における最大限の利益を刈り取りできるレベルに放射線被曝を制限しなければならない』とは、1950年に事実上のスタートを見たICRP(国際放射線防護委員会)の「正当化の原則」そのものである。この訃報の書き手はモーガンが自ら長い間委員でもあったICRPの原則に忠実だった、といいたいのであろうか?しかし、モーガンの最後半生は、その前半生と比べるとまったく正反対の見解を低線量被曝に対して持っていた。何故モーガンは放射線に対してその態度を変えたのだろうか?
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(以下その②へ) |
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