(2011.12.22) | |
No.033 |
カール・ジーグラー・モーガン (Karl Ziegler Morgan) について その② 内部被曝に基準を示せなかったNCRPのカール・モーガン |
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「カール・モーガン氏インタビュー記事」 | ||||||||||||||
フィルムバッジは、X線フィルム面の写真乳剤が放射線の入射量に応じて黒化度が増す性質を利用したもので、放射線管理区域等で作業する場合の放射線被ばく量管理に使用されている。フィルムバッジは、X線、γ線、β線、中性子線による被ばく線量とこれら放射線の平均的なエネルギー(中性子線を除く)を推定することができ、また機械的強度が大きいなど優れた特徴を有する一方、被ばく線量の算定には、フィルムを現像する必要があり時間がかかる欠点がある。長い間個人線量計として使われていた、とATOMICAの「X線フィルムの構成と応用」(<http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=08-02-04-02>)は説明している。 ポケット・リーダーはポケット線量計のことである。
とモーガンはこのインタビューで説明している。これは外部被曝には当てはまるが、内部被曝には全く当てはまらない。体の内部に、遮蔽物など構築できはしない。そのことは後にモーガン自身が思い知ることになる。
「核兵器工場」というのは、これは先にも見たように、正確にはオークリッジに隣接したクリントン技術工場のことを言っている。「核兵器」を最終製造していたわけではない。クリントン技術工場には、大きく2つの種類のウラン濃縮工場があった。K-12は電磁分解法によるウラン235の分離濃縮工場である。 天然のウランには核分裂しにくい同位体U238などが99.3%、核分裂しやすい不安定な同位体U235が約0.7%含まれている。電磁分解装置カルトロンを使って、U235を分離しこれを繰り返していけば、U235の濃縮率90%以上の兵器級濃縮ウランが製造できる。気の遠くなるような作業である。Y-12工場が製造を開始したのは1943年の11月である。従ってモーガンがオークリッジに移ってまもなくY-12が操業開始になったことになる。 一方、Y-12の建設開始は1943年2月である。凄いスピードである。前出の「陸軍長官声明」にもあったように、建設開始時点で兵器級ウランが製造できるという見通しがあったわけではない。「声明」にもあるようにそれは一種の賭け(ギャンブル)であった。 K-25は、半透膜を利用してU235を分離・濃縮するガス拡散(gaseous diffusion)方式の濃縮工場だった。この方法はなかなか苦戦し、操業開始になったのはやっと1945年3月のことだった。だから、広島原爆リトル・ボーイに搭載された兵器級ウラン燃料は主にY-12で製造されたものだった。(以上英語Wikipedia“Y-12 National Security Complex”も参照した) クリントン工場やそれに隣接する住宅都市オークリッジには、「陸軍長官声明」にもあったように、最盛期家族を含め約7万8000人の人が働き、住んでいた。ここでは、ウラン酸化物などの微粒子で相当数の内部被曝が発生したと見られる。こうしたことから、モーガンはいつしか内部被曝の専門家になっていく。 |
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早くも出てくるモーガンのおとぼけ | ||||||||||||||
インタビューを続けよう。
これは正確に言えばなかったのではなく、内部被曝データを収集しようとしなかっただけだ。当時(今も基本的には同じだが)、ABCC(原爆障害者調査委員会)の研究方針は、被曝による放射線障害は、初期放射線(そのほとんどはガンマ線と中性子線)による外部被曝でのみ生ずるという方針でデータを収集していった。だから最初から内部被曝は問題にしなかったのである。これは基本的にABCCの後身である放射線影響研究所(放影研)も同じ方針を受け継いでいる。また原爆被爆者の認定作業に直接関わる厚生労働省も、基本的にABCC=放影研の認識を受け継ぎ、放射性降下物(いわゆる黒い雨)や入市被曝などによる健康損傷はない、という立場を取っている。 ABCCが広島・長崎の原爆生存者のデータを収集しているのは、1950年以降の生存者データであり、1945年8月から1949年12月までに死亡した被爆者のデータは表向き持っていないことになっている。(こうした、1949年以前の被爆者データが全くなかったかというとそんなことはない。例えば、1947年にABCCは報告書を作成しているが、その中には日本側の調査データも含まれていた) こうした事情をモーガンが知らなかったかといえば、後ほど述べる理由で、モーガンが知らなかったと考える方が難しい。彼はそれを知りうる立場にあったし、私はある程度知っていた、と想像している。もし私の想像が当たっているなら、ここでモーガンはいわば公式論を繰り返していることになる。 |
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肝心な話をしないモーガン | ||||||||||||||
ここでモーガンが述べていることは、まず、モーガンは最初から放射線内部被曝の専門家だった、それは43年オークリッジ国立研究所に移った当初からそうだった、44年当時内部被曝に関するデータは動物実験によるデータしかなかった、ということだ。 しかし本当にそうか?このインタビューでは時期が特定されていないので何とも言い難いが、45年当時になると、兵器級ウラン濃縮を行っていたクリントン工場や兵器級プルトニウム製造を行っていたワシントン州ハンフォード工場の従業員内部被曝問題はすでに大きな問題になっていたはずだ。特にハンフォード工場のケースは後に大規模な訴訟問題になっているし、マンキューソやアリス・スチュアートの決定的な研究(後述)も出てくる。内部被曝問題が全く動物実験によるデータだけだった、と言う話は余りにも荒唐無稽だ。 次に述べていることは、内部被曝による被曝線量基準を研究したが、それは1950年になってICRPを通じて発表した、ということだ。しかしそれは真実ではない。結局モーガンは自身の内部被曝に関する研究を発表しなかったのだ。 そのことに言及することを避けるため、その最晩年になってもモーガンは肝心な話をすっ飛ばしている。 (あるいは著者の田城が書かなかった、とも考えられるがそれは薄い。話の中でモーガンは明確に1950年に発表した、といっているからだ。50年に発表したのは内部被曝独自の基準ではない。つまり外部被曝も内部被曝もリスクは同じとしたのだ。そして、そうでないことはモーガン自身が一番よく知っていた。) |
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アメリカ放射線防護委員会(NCRP)の成立 | ||||||||||||||
1950年のICRPに先だって1946年に全米放射線防護委員会(National Committee on Radiation Protection-NCRP)が成立し、すぐに外部被曝の許容線量作成とともに内部被曝の許容線量作成が企画されたが、合意に至らずに結局外部被曝許容線量をそのまま内部被曝許容線量に準用し、つまり内部被曝と外部被曝とでは、人体に対する影響を線量自体で区別をつけずに同等とする結論を出し、その結論を1950年に成立したICRPが踏襲する、そしてモーガンの研究(と称するものも)、そのICRPが出した1950勧告に吸収されていった、というのが真実である。 ここの話は、そうとうややこしい。が、すこぶる付きに重要だ。ICRPに先行するNCRP成立のいきさつから見ておかねばならない。そうしないと、このインタビューでカール・モーガンが肝心な話をすっ飛ばしていることの重要性が理解できない。 このために使う参考書は中川保雄の『放射線被曝の歴史』(技術と人間 1991年)である。(なお『 』引用文中の青字は私の補足である) 放射線はまず医療用や工業用の部門で実用化された。すでに早くからこうした分野で放射線障害があらわれていた。こうした職業被曝から、医療従事者や、研究者、工業労働者を防護する必要に迫られた。こうして1928年、「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」(The Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection)が成立する。この委員会のメンバーは、当時の放射線学会の科学者、放射線器機メーカー、そして当時唯一の規制当局的役割を担っていたアメリカ連邦政府・規格標準局(National Bureau of Standards- NBS。現在はNational Institute of Standards and Technology-NIST”に改組されている。)だった。 ところがマンハッタン計画が始まると事情は一変する。まず防護対象がラジウムやX線からウランやプルトニウムに変わった。なによりも大きな変化は厖大な人員が参加する核産業の成立である。つまり被曝対象が圧倒的に拡大したのである。一言で云えば「核時代」が始まったのである。 戦後マンハッタン計画(アメリカ陸軍の組織としては「マンハッタン工兵管区」-Manhattan Engineering District)はアメリカ原子力委員会(AEC)に衣替えをした。このAECが核時代を先導したのである。また核時代にふさわしい放射線防護基準も必要となった。そこで、戦前からの組織であった「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」が衣替えをして誕生するのがNCRPだった。1946年のことである。この時(正確にはその準備会合で)、次のことが決定された。
なおこの時、ローリストン・テイラーは全米規格標準局のX線部長だった。このX線部は1951年には原子および放射線物理部になり、引き続きテイラーが部長だった。 (以上<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR_sankou_05.html>の<「Mr.放射線防護」ローリストン・テイラー>の項参照の事) つまり、原子力委員会は全米規格標準局を通じてNCRPに影響力を与える体制をとった。もちろん、キーパーソンはローリストン・テイラーである。
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アメリカ原子力委員会の別働隊 | ||||||||||||||
中川の講義の最中であるが、ここでの人体実験などが、1990年代中頃アメリカの議会で問題となるのである。この一文の冒頭で、「口承歴史プロジェクト“人類放射線研究:初期の時代の記憶”」のことに触れ、カール・モーガンが重要な証言者の一人となったことを述べたが、中川の記述もこのことである。アメリカの議会で問題になった時は、中川はすでに死去していた。 ところで、1レムは生体の放射線吸収線量の単位で、この当時は使われていたが今はシーベルトになっている。換算は通常100レム=1シーベルトである。従ってここで扱われている「20-25レム」というのは200ミリシーベルトから250ミリシーベルトのことであり、「40レムまでの放射線量」というのは、400ミリシーベルトのことである。「300レムまでなら障害は現れず」といっているのは、3シーベルトのことである。無茶苦茶である。
要するに、NCRPは政府と独立した学術組織どころか、完全にアメリカ原子力委員会(AEC)の影響力のもとにあり、財政的にもNCRPを支えた。いってみれば、AECの政策を「放射線防護」の立場から推進する別働隊だったのである。 |
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結論を出せなかったモーガンの「内部被曝」委員会 | ||||||||||||||
NCRPには緊急の仕事があった。それは、「核時代」に対応した放射線防護の基準を定めることであった。しかもその仕事は、AECが要請する、すなわち原爆開発を通じて急激に膨張したアメリカの核産業が要請する「核と人類が共存できる」レベルの基準値でなければならなかった。そんなものはありはしないのだが、少なくとも科学的外観を装ってその仕事を急がねばならなかった。 この仕事に取りかかったのは、NCRPの下に置かれた各小委員会であった。特に重要だったのが、ファイーラが委員長の外部被曝許容線量を決定する小委員会とほかならぬモーガンが委員長の内部被曝許容線量小委員会だった。NCRPが改組(事実上の設立)された翌年の1947年には、外部被曝許容線量小委員会は早々と、放射線作業従事者に対し1週あたり0.3レム、年間15レム(それぞれ3ミリシーベルト、150ミリシーベルト)と決定した。それまでの1週当たり0.7レムに比べると大幅な引き下げである。この時は公衆の被曝上限は決めなかった。そしてこれがほぼそのまま、ICRPの1950年勧告の中身になるのである。 モーガンの内部被曝許容線量小委員会はどうなったのであろうか?結論をだせなかったのである。 この間のいきさつについては、欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告に詳しい。関係箇所をその第5章「リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会」から引用しておこう。
というよりNCRPはAECの別働隊であったという中川の分析の方がより的確であろう。
“フェイラ”は中川の表記では“ファイーラ”である。カール・モーガンの肩書きは、保健物理部の“ディレクター”だった。
当時は分子生物学が未発達であり、細胞の機能や性質、染色体やDNAに関する基本的知識が絶対的に不足していた。電離放射線の細胞に対する影響などは科学的に決定できなかった。さらに、「1kg」を基本単位とする「レム」という吸収線量の考え方は、細胞や分子レベルでの放射線の影響を考えるにはあまりに巨大すぎる単位であった。細胞レベルでは、1kgあたりの放射線量などはほぼ意味を持たなかったのである。(この事情は現在のシーベルトという単位に置き換えても全く変わらない。)
やや長い引用になったが、「核時代 昨日・今日・明日」(中国新聞社刊)という本の中でインタビューに答えているカール・モーガンは、内部被曝の許容線量を決定するNCRPの小委員会がついに結論を出さずに終わり、その結果放射線量においては、内部被曝も外部被曝も人体への影響については区別をつけない現在のICRPモデルを作ることになったいきさつについては一言も触れていないのである。 先に引用したモーガンのコメントは、放射線の標的は「臓器・組織」などであるとするを含め完全にICRPの主張を忠実に繰り返している。これはこのインタビューの後半での矛盾した発言と考え合わせると実に奇妙な内容になっている。 |
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(以下その③) | ||||||||||||||