(2011.12.25) | |
No.036 |
カール・ジーグラー・モーガン (Karl Ziegler Morgan) について その⑤ マンキューソの研究と「T65D」のほころび |
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ハンフォード兵器級プルトニウム工場での被曝 | |||||||
ICRPにとって、広島原爆・長崎原爆の原爆生存者生涯調査(Life Span Study-LSS)は生命線である。事実上、このLSSを唯一の根拠としてそのリスクモデルは成立しているのだから。そのため、ICRPのリスクモデルに反する事実関係は、アリス・スチュアートの研究だろうが、マンキューソの研究だろうが、2000年以降続々と現れたチェルノブイリ原発事故に関連した低線量被曝研究だろうが、一切無視してLSSを金科玉条としてきた。 しかし、マンキューソ・スチュアートのハンフォード工場被爆者研究やチェルノブイリ低線量被爆者研究に比べると、LSSには致命的弱点がある。それは被爆者の被曝線量が明確でない、という点だ。そのため、広島・長崎の被爆者の被曝線量推定体系(Dosimetry System-DS)が必要となってくる。DSによってLSSが支えられる、という脆弱な構造となっている。 DSが崩れればLSSも崩れる。その意味ではDSは生命線中の生命線だ。その最初の大掛かりなDSが、ネバダ砂漠で、むき出しの原子炉を、ほぼ広島原爆の爆発地点の高さまでつり下げて放射線を放出させるという一大ショーまで演じて決定した「T65D」(65年の暫定的な線量推定体系という意味)だった。 その「T65D」について、中国新聞社刊「核時代-昨日 今日 明日」(1995年)という本の中で、カール・モーガンはこの「T65D」に誤りがあった、それはオークリッジ国立研究所の、一研究者のミスのためだった、そのため「T65D」から新たな線量体系「DS86」に変更しなければならなかった、と述べている。 もし本当にモーガンがこう言ったとすれば、これほどあからさまな大うそはない、というところまでが、前回の話だった。 「T65D」から「DS86」への線量体系の見直しは実際には、オークリッジ国立研究所の一研究者の誤りが発覚したからではない。 先にハンフォード工場の生い立ちを見ておこう。前にも引用した「原爆投下直後の陸軍長官声明」は1945年8月の時点で次のように述べている。
テネシー州のクリントン工場が2つの兵器級ウラン濃縮工場だったのに対し、ワシントン州のハンフォード工場は兵器級プルトニウム製造工場だった。ここで作られた兵器級プルトニウムが長崎原爆に搭載されたわけである。この時点で厖大な数の労働者がこの工場で働いていた。ヘンリー・スティムソン(当時の陸軍長官)によれば、(おそらく一部家族も含めて)約1万7000人だった。当時の劣悪な労働条件と大甘な被曝上限値を考えれば、労働者に放射線障害がでないと考える方がおかしい。 戦後もハンフォード工場は、兵器級プルトニウム工場として拡張を続けた。マンハッタン計画時代は3つの兵器級プルトニウム原子炉しかなかったが、1963年に最後の拡張が終了した時点で、合計9つの原子炉(入れ替え分含む)が建設され、アメリカの核兵器燃料をほとんど全てまかなった。兵器級核燃料を作りすぎたアメリカは1987年最後の原子炉の操業をやめ閉炉となった。その後アメリカ・エネルギー省の管理下で放射性廃棄物の貯蔵施設(いわばゴミ捨て場)となったが、深刻な環境汚染問題を起こしている。 (以上英語Wikipedia“Hanford Site”の優れた記述によった。この記事は長文ではあるが是非多くの人に読んで欲しい) 従ってここで働いた労働者も数も膨大である。彼らに放射線障害が現れないと考える方がおかしい。 |
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AECは頼んだ相手が間違っていた | |||||||
1960年代、アメリカは大変な放射能汚染にさらされていた。1950年代ネバダ砂漠で大規模な核実験が続いてその放射性降下物が風に乗って東海岸に達した。また60年代初めには原発の操業ラッシュが続き、事実上規制がないに等しい放射性物質放出のため、事故ではない通常運転でも大量の“死の灰”が放出された。そこからの放射性物質で各地が汚染され、放射線障害が各地に発生した。特に乳児や幼児がその被害者だった。それとともにICRPやNCRPの放射線リスクモデルに対する批判が全米で高まった。その先頭に立ったのがジョー・ウィリアム・ゴフマンやアーサー・タンプリンなどであった。 「放射能安全神話」を宣伝し、アメリカの国民に刷り込む必要のあったアメリカ原子力委員会(AEC)は、こうした一連の批判に対抗する必要があった。いわゆる許容線量以下の低線量被曝では健康障害は発生しないことを科学的に証明する必要があった。 目をつけたのが、ハンフォード工場である。ここでは厖大な労働者がそれまで働いてきた。そこでの被曝線量は、いわゆる「低線量」である。ここで健康障害が見られなければAECの正しさが証明されると同時に、ゴフマンやタンプリンなどを「うそつき」呼ばわりもできる。しかも広島や長崎と違って、ハンフォード工場で働く労働者はフィルムバッジをつけており、個々人の被曝線量が明確だ。推定に頼らなくても済む。 (もともとゴフマンもタンプリンもAEC傘下の研究所の優秀な研究者だったはずだが・・・)
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大掛かりで本格的なマンキューソの構え | |||||||
マンキューソの研究は本格派の疫学者らしく大掛かりで約50万人を対象としていた。ハンフォードの労働者はその後全米に散らばっていたので、ソーシャル・セキュリティ番号(社会保障保険番号。実は、社会保障保険税や所得税徴収もこの番号で追跡させるので、国民総背番号制度である。日本では社会保障保険は掛け金であるが、アメリカでは税金である。日本の官僚政府は、アメリカ風に社会保険掛け金を税金にしたいらしい。)から労働者を追跡して情報を収集するなどといった方法も編み出したという。 このマンキューソの大掛かりな研究が進むうちに、ハンフォード工場のあるワシントン州でとんでもない研究が現れた。1974年のことである。ハンフォード工場で働いたことのある労働者の死亡率が、そうでない労働者よりも25%も高かったと言う研究である。この研究を手掛けた人物は、ワシントン州政府の健康・社会サービス局(Washington State Department of Health and Social Services)の医師サムエル・ミラム(Samuel Milham Jr.)である。経歴を見ると公衆衛生畑の人のようで、ニューヨーク州公衆衛生局で働いた後、ワシントン州に移ってきた。この研究を続けて、1968年から1986年までワシントン州健康・社会サービス局の疫学部の部長をつとめた。(<http://www.sammilham.com/bio.shtm>) 74年以降もワシントン州政府でこの研究を続け様々な角度から論文発表をしている。その一端はたとえば、1985年の学術誌「環境保健の視点」第62巻に発表した「電磁分野で被曝した労働者の死亡」(Mortality in Workers Exposed to Electromagnetic Fields)という論文にも現れている。 このミラムの研究は、AECにとって晴天の霹靂だった。それはそうだろう。「放射能安全神話」を宣伝しよう、そのためにハンフォード工場を利用しよう、そのためにマンキューソに研究を委託した、マンキューソがぐずぐずしているうちに、その当のハンフォード工場の労働者のデータを使って、AECの意図と全く相反した研究が出たのだから。 しかし、ミラムにしてみれば、核産業や放射線の恐ろしさを訴えるためにこの研究を発表したのではない。あくまで公衆衛生を司る科学者の立場から、一般市民の健康の敵となる要因を見つけ、これを社会から葬り去ろうとしただけだ。そのため1950年から1971年の間にワシントン州で死亡した30万7828人について疫学的研究を行い、異常な事実を発見し、ハンフォード工場にたどり着いたに過ぎない。(それだけに説得力があるとは言える) |
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ミラムを黙らせるアメリカ原子力委員会 | |||||||
この後は私のネタ本である中川保雄の「放射線被曝の歴史」から引用する。
中川の話の途中であるが、これを読む人の中には中川を「講釈師、見てきたような・・・」と同じ類と見る人があるかもしれない。しかし全然そうではない。彼は、厖大な基本文献を読み通しているだけではなく、アメリカ滞在中に問題意識をもってアメリカの、まだ存命中だった数多くの関係者にも会っている。単に会っているだけでなく、相当量のインタビューをしている。(このインタビュー記録がもし公表されれば第一級資料となるだろう)何より、天才的な閃きと問題点をかぎつける鋭い批判精神を持っていた。また何より「無私」を知っていた。 「Mr.放射線防護」と呼ばれたローリストン・テイラーにも会っているし、マンキューソ自身にも会っていると想像する。恐らくここの部分はマンキューソから直接聞いた話をもとにして記述された、と私は思う。 (中川は天才である。単なる学者・研究者ではない。なんでこんな男が50前に死ななきゃならんのか。正力直系の子分、ナベツネは90近くなってもまだ現役で、日本の“原発の父”中曽根康弘は、90過ぎてもまだ生きているというのに。フクシマ放射能危機の直面する今の私たちに、もし中川が生きていれば、と思うのは私一人ではあるまい。) マンキューソの研究はまだ途中であり、ミラムとは全く異なる結果が中間段階として出ていた。AECにとっては渡りに船であった。当然マンキューソに中間段階でいいからその研究を発表してくれと依頼した。ところが全く意外なことに、マンキューソはそれを拒否した。調査研究が中間であり、まだ発表できる段階ではなかったからである。AECにとっては心外である。マンキューソにとっては、AECはいわば注文依頼主である。その依頼主が発表してくれと頼んでいるのにそれを断るというのである。 中川は『(マンキューソは)科学者の良心にかけて未だ完成していない研究の結果を頑として拒否した』と書いている。(前出書 p151)
このシドニー・マークスという人物は、当時AECの生物・医療部門(Division Biology and Medicine)のスタッフで、どうもマンキューソと契約を行ったAEC側の直接の当事者だったようだ。もちろん“博士号”を持っている。 |
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アルバレスの報告 | |||||||
ロバート・アルバレス(Robert Alvarez)という、マンキューソとも親好のあった学者が2006年に書いた論文「核兵器を作る危険」(The Risks of Making of Nuclear Weapon)という論文の中で、このいきさつを比較的詳しく書いている。アルバレスによれば、マンキューソはすでに全米にかくかくたる名声と実績を築いていた疫学者だったようだ。また、AECはミラムの事件が起こる前から、高まるAEC批判に対抗して部分的でもいいからその研究発表をして欲しかったが、完璧主義者のマンキューソの態度に我慢を重ねていた。それがミラム事件が起こって堪忍袋の緒が切れて態度を一変させる。
AECにとっては最悪のタイミングで最悪の報告である。アルバレスはミラムとこの件についてワシントン州のリッチモンドで面談したようで、その時のミラムの様子を次のように書いている。
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契約を打ち切られるマンキューソ | |||||||
どこの国のどの世界にも、“サムライ”はいるものだ。“サムライ”の本場であるはずの我が日本にも、もっともっと“サムライ”が出てきて欲しいものだ。 話は脱線するが、原発訴訟を手掛けてきた弁護士の海渡雄一は「原発訴訟」(岩波新書 2011年11月18日 第1刷)の中で次のように言っている。
彼らは初期からのサムライたちというべきであろうが、こうした核物理や核エンジニアリング畑からのサムライばかりではなく、医科学界からももっともっとサムライたちが出てこなければならない。でなければ、日本のこどもたちを放射能から守ることはできない。 中川の記述に戻る。アメリカ原子力委員会は、ミラムの研究を抑える一方で、マンキューソの拒否を振り切って、マークスの名前で先の名前で「ハンフォードには放射能障害はない」といデマを報道発表した。この事件が、折角決定したばかりの、放射線線量推定システム、金科玉条とされた「T65D」の修正を迫られる事態の導火線になったのである。
マンキューソは資金源を絶たれた。しかし研究は継続した。特にイギリスのアリス・スチュアートのチームと全面的に協力し、長い研究の結果を1976年に公表した。
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ハンフォード・データの意味 | |||||||
「ハンフォードのデータは(A)、(B)、(C)のいずれもが測定されたもの」というのは、こういうことである。 話は電離放射線のリスクをどう定量化するかと問題である。 電離放射線のリスクはなにもがんや白血病ばかりではない。全般的な免疫低下であり、生命力に対する攻撃であり、その結果としての諸健康損傷である。しかしICRPの教義に従えば、低線量被曝のリスクはがんであり白血病(血液のがん)であるとする。いわば電離放射線のリスクを単純化、矮小化しているわけだ。さらにがんや白血病になったとしても全て死亡するわけではない。しかしICRPはそのがんや白血病のリスクもさらに単純化し矮小化する。そして電離放射線のリスクをがん死や白血病死に限定して定量化しようとする。 中川が(A)としているのは、放射線被曝した人々の集団の間での「がん・白血病死亡率」を指している。しかし「がん・白血病」で死亡するのはすべて放射線被曝をした人ばかりではない。放射線被曝をしなくても「がん・白血病死」はある。だから放射線被曝をしていないグループを慎重に選んで、そのグループの中の「がん・白血病死亡率」を求める。これが(B)である。 そして(A)死亡率から(B)死亡率を引く。そうすると純粋に放射線被曝による「がんん・白血病」死亡率となる。というのは(A)の死亡率の中には、放射線被曝によらない「がん・白血病死亡率」も含んでいるからだ。こうして求められた「(A)-(B)」、すなわち純粋に放射線被曝による死亡率を「被曝による過剰死亡率」と呼ぶ。 被爆者集団の個々の被曝線量はわかっているものとして見れば、その集団の平均被曝線量を求めることができる。これが中川のいう(C)である。そして(C)で「(A)-(B)」を割れば放射線によるがん・白血病死のリスクが比率の形で求められるということになる。 広島・長崎の原爆生存者の場合、(A)も(B)は調査で判明するが、(C)はあくまで推定によるものだ。そしてその推定は「T65D」を根拠になされている。 (実際には、ABCC=放影研が実施した広島・長崎の被曝生存者調査の場合、(A)にも(B)にも誤魔化しがあり、結果として「(A)-(B)」自体に過小評価と矮小化があったのだが、この点についてはいまは触れない) ところが、ハンフォード工場労働者の場合は(A)も(B)も、マンキューソやアリス・スチュアート、ミラムらの努力で科学的に完全に信頼のできる数字が得られている。また(C)については、労働者個々人がフィルムバッジをつけているので広島・長崎とは比べものにならないくらい正確な測定値だ。 また、対象集団の数も広島・長崎にひけをとらないくらいの大きい。つまり誰が見てもマンキューソの研究は科学的に信頼がおけるものだ。 ところがマンキューソの研究を当てはめてみると、「T65D」をもとにした広島・長崎での放射線被曝リスクに対してハンフォードは10倍の違いがあると言うことになったのだ。 つまり広島・長崎でのリスクは実際より1/10も過小評価されているということになる。これは核(原子力)推進派にとって致命的な問題だ。というのは広島・長崎の原爆生存者のデータ(LSS)をもとにして、ICRPのリスクモデルが作られ、そのリスクモデルに基づいた放射線防護行政に関する勧告が作られ、これを各国政府が絶対唯一の権威として、各国の放射線防護行政に取り入れられているからだ。もし「T65D」を親ガメとするなら、その上に乗った広島・長崎での放射線リスク評価、その上に乗ったICRPのリスクモデル体系、その上に乗ったICRPの放射線防護勧告、その上に乗った各国の放射線防護行政や種々の基準はすべて子ガメだ。そして「親ガメこけたら皆こける」という科学的な見地から見れば極めて脆弱な構造を持っている。 |
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中性子爆弾開発の過程で出てきた問題 | |||||||
AECにとってこれが重要な問題でないはずがない。AECにとって取りうる手はそういくつもない。マンキューソやアリス・スチュアートの研究はデタラメだと否定するか、広島・長崎のリスク評価は1/10の過小評価だった、と認めるか、あるいは「T65D」に誤りがあったと認めるか、どのいずれかの道を選択するしかない。 再び中川の記述に戻る。
それは、そうだろう。マンキューソとスチュアートの研究が公表された以上、「T65D」の信頼性は大きく揺らいだ。 どちらにせよ、T65Dは全く信頼のおけない線量評価体系だった。というのは、ガンマ線や中性子線をもとにした健康損傷は、所詮外部被曝によるものでしかない。ハンフォード工場労働者の健康損傷は、そのほとんどが低線量内部被曝によるものであり、「T65D」が「DS86」であれ、一致するはずがない。そもそも内部被曝による損傷を一切考慮しない「T65D」そのものが「お伽噺」だったのだ。 しかし「T65D」はお伽噺としてもその信頼性は大きく傷ついた。 1974年といえば、ウォーターゲート事件で大統領リチャード・ニクソンが失脚し副大統領のジェラルド・フォードが第38代大統領に就任したのが、その年の8月である。同時に副大統領には、大物中の大物、ネルソン・ロックフェラーが就任してアメリカ政界の収拾にあたった。ニクソン・フォード共和党政権を通じて国防長官の任にあたったのが、気鋭のジェームズ・シュレジンジャーだった。 シュレジンジャーの任務は「ポスト・ベトナム戦争」のアメリカの基本軍事政策を計画・立案することだった。シュレジンジャーはニクソンによって国防長官に就任する(73年7月)前はCIA長官だったが、そのもうひとつ前はやはりニクソンによって任命されたアメリカ原子力委員会の委員長だった。 アメリカ原子力委員会がその度重なるスキャンダルによって維持できなくなり(信頼性と権威が地に落ちた)、その仕事を引き継ぎ統合するのが、アメリカ・エネルギー省である。 すでにニクソン失脚後のフォード政権の時にこの法案は議会を通過していたが、次の大統領ジミー・カーターは就任した翌日にこの法案に署名し、エネルギー省が発足し、原子力委員会が解体され、産業用核利用分野の行政は新たに成立した原子力規制委員会に委ねられる。このエネルギー省の初代長官に就任したのが、これまたシュレジンジャーだった。 こうした見てくるとシュレジンジャーは、核兵器・原発を含めたアメリカの基本的核政策を総合立案し、「ポスト・ベトナム」時代に対応した体制を構築していくキーパーソンだったことがわかるだろう。 (以上「ペリー報告」「各委員の略歴・シュレジンジャーの項」参照の事 <http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/USA_SP/strategic_posture_6-08.htm#03>) 実務家国防長官としてシュレジンジャーの仕事の一つは、核兵器を「使える核兵器」とすることだった。こうして中性子爆弾の実戦使用開発が本格的に開始された。中性子爆弾自体はすでに50年代の終わりに開発されていたが、シュレジンジャーの「限定核戦略構想」に従って実戦での使用が計画されたわけである。爆弾としては熱核融合爆弾(水素爆弾)を使うのだが、発生する核融合エネルギーのうち、爆発するエネルギー(すなわち熱や爆風に変わるエネルギー)の発生を抑え、中性子が発生する割合を高めた爆弾である。従って戦域で使えば、破壊力は小さいが発生する中性子(高い透過力をもつ)で確実に敵に兵士は殺すことができる、と宣伝された。核兵器の破壊力の基本要素は、熱線、爆風(ショック・ウェーブ)、放射線の3つであるが、熱線と爆風のエネルギーを抑え、放射線のエネルギーを高めようとした兵器である。破壊よりも人間の殺傷に焦点を当てた兵器だと言えよう。 実際に使用するためには、中性子線の実際の殺傷能力を調べる必要がある。それには格好の実験材料がある。広島・長崎での結果である。広島・長崎の原爆では大量の中性子線が発生した。この中性子線でどれほどの市民が殺傷されたかを調べるほど、貴重なデータはない・・・。 |
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(以下その⑥へ) | |||||||