No.6 平成18年1月10日





 今、私のテーマは、トルーマンは何故原爆投下を決断したか、である。
それはこのテーマを追求することによって、原爆投下の意志決定のプロセスをある程度明らかにし、そうすることによって、このプロセスが今後再び起こらないようにすることに役立つ、と考えたからだ。
少なくとも、「原爆投下は防げたか、防げなかったか」という議論を繰り広げるより有益だろう。
1945年広島に原爆が投下されるには、そのカタストフへ向けて数え切れないほどの偶然が折り重なり、必然の糸を紡ぎ出している。そして偶然の要素が、ちょうど玉突き台の上の無数の玉のように、お互いがダイナミックに関連し合っている。一つの要素に「もし・・・だったら」という仮定を置くと、関連する他の偶然要素にもそれぞれ「仮定」を設けなければならなくなる。そうすると仮定から出発したテーマは、結論を見出すどころか、「仮定」の藪に紛れ込むことは必至である。

 手近な所から云えば、もしルーズベルト大統領が1939年時点で「ナチス・ドイツに対抗してアメリカは原爆開発を行うべき」とするアルバート・アインシュタインの手紙をすぐに取り上げ、その時点ですぐに開発に着手していたら、1943年か4年のはじめには原爆は完成していたろう、そうすれば原爆は日本に対してではなく、間違いなくドイツに対して使用されていた・・・。

 もし、トルーマン大統領が、実務型の大統領ではなく哲人型大統領であれば、アラモゴードにおける実験結果から「核兵器はパンドラの筺である。私はこれを開ける大統領にはならない。」と人類の行く末を見通し、原爆投下を見送ったかも知れない・・・。

 もし、陸軍長官スティムソンとトルーマンが不和でなければ、スティムソンの影響を受けて、トルーマンは投下を思いとどまったかの知れない・・・。

 もし1945年の中頃、日本の意志決定が依然軍部の手に握られておらず、平和勢力の手に落ちていれば、政権内部の暫定委員会(interim committee)は、日本侵攻に伴う米軍の犠牲を、当初参謀総長のマーシャルの試算(3万1000人程度)として原爆投下は思いとどまったかもしれない。

 もしポツダム宣言に対する日本側回答「黙殺」が「reject」ではなく「ignore」と訳されていたら・・・。

 もし8月6日の広島の上空が快晴でなければ・・・。

 私は歴史に「if」は無意味とは思わない。場合によれば意味がある。しかし原爆投下に関しては、ひとつの「もし」が連鎖反応的に他の偶然関数に影響を与えて、収拾不可能になってしまうのだ。こんなものに意味があるとは思えない。
 
 「何故、トルーマンは原爆投下を決断したのか?」

 それには意志決定をした本人に聞いて見るのが一番手っ取り早い。
 
 トルーマンは亡くなっていても、いわゆるトルーマン文書は、米国国立公文書館(U.S. National Archives)に所蔵してある文書を含めて膨大だ。いったいどこから手を付けていいのかすらわからない。そこで、トルーマンの代弁者と見られる、インディアナ大学名誉教授ロバート・ファレルという人のまとめた「トルーマンと原爆:文書からみた歴史」と題する文書を中心にトルーマンの意志決定のプロセスを辿ろうとしているわけだ。
 
 「トルーマンと原爆:文書からみた歴史」の序章では、巷間いろんなことが言われているが、善人トルーマンの頭の中にあったことは、いかに日本本土侵攻を犠牲少ないものにし、アメリカ将兵の生命の犠牲を最小限にするかという問題であることが分かった。
すくなくとも序章を調べる限り、ほとんどこれだけだったといっていい。実際の所、トルーマンの心配事は、「善良」な若いアメリカ人将兵の損害をいかに小さくしながら、対日戦を終結にもっていくか、ということだった。犠牲数字のスペキュレーションは当初ジョージ・マーシャルのいう3万1000人から、戦後トルーマン回顧録用に算定された100万人以上までいろいろな試算があった。トルーマンにとって、その数字が問題だったのではない。たとえて云うなら100万人の犠牲なら原爆を落とす価値があって、20万人なら落とす価値がない、といった種類の問題ではないということだ。
硫黄島、沖縄で見る限り日本は徹底抗戦してくる、日本の行く末は軍部が決定権を握っている、ならば相当の犠牲を覚悟しなければならない。若いアメリカ人将兵の命を救うことができるならば、どんなことでもやろう、極端に云えば悪魔にでも魂を売ろう・・・。これが善人大統領トルーマンの偽らざる心境だったに違いない。序章を要約すれば以上のようになるだろう。
(トルーマンと原爆:文書から見た歴史 序章 参照のこと)



 短い第2章は、当時のトルーマンの身辺状況の要約と1945年7月16日のトルーマン日記を例にとって、トルーマン日記の性格を簡単に紹介している。

 タイトルも「7月16日の大統領の日記より」となっているが(参考資料:第2章 7月16日の大統領日記より 全訳)、ファレルにとって7月16日のトルーマン日記の内容が重要だったわけではない。

 第2章で、頭に止めておいていいことは二つある。
一つは4月30日アドルフ・ヒトラーが自殺し、ドイツ軍は連合国軍に5月8日までに無条件降伏していたことだ。第二次世界大戦のヨーロッパにおける戦いは終了していたのである。この日記が書かれた時点では、トルーマンは巡洋艦と飛行機を乗り継いでポツダム会談に臨むためにベルリンに到着していた。

 もう一つは原爆実験の成功である。日記の7月16日当日、ヨーロッパとアメリカでは時差があるものの、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠で、最初の原爆「ガジット(Gadget)―小さな機械装置という意味」が炸裂し、実験は成功裏に終わった。実戦で使用できる態勢がはじめてできたわけだ。ドイツは降伏しているから使う対象は日本しかないことになる。





 第2章では、トルーマン日記の性格についても注記してある。
私は全くの門外漢だから、トルーマン日記というとなにか立派な革表紙か何かの日記帳に、毎日もっともらしく執筆したのかと思っていたらそうではない。トルーマンという人は、大統領に就任した当日から、こまめに関連のある出来事や感想を公務の合間に書き留めたのだそうだ。ほとんどが走り書きである。参考に1945年7月16日付けの日記にリンクをつけておく。(http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb02.htm)

 これでは、トルーマンの手稿を読み慣れた人でなければ読めない。トルーマンメモと行った方がふさわしい。ファレルによれば、メモに日付が入っていたので後でまとめて、トルーマン日記としたのだそうだ。7月16日の日記の内容自体は、確かに大して重要ではない。ファレル自身も、当日のベルリンでの行動、と一言で片づけている。 
 アメリカン・エクスペアリアンスというホームページ(http://www.pbs.org/wgbh/amex/truman/psources/ps_diary.html)にフル・テキストバージョンがあったので、参考に全訳を掲げておく。(トルーマン日記 7月16日)
 
  読もうと読むまいと大勢には影響はない。それほど無内容だ。

 それから、トルーマン日記の性格についてだがもう1点。
ファレルは用心深くこの問題に触れていないが、当然トルーマンの頭の中には、この日記が後で読まれるだろう意識があったはずだ。ないはずがないし、日記の随所にそれを意識した記述が見えて、私には興味深かった。後世を意識した記述の中に、トルーマンの無意識の本音が見えている。下品に云えばボロを出している。全くの偶然だったが、ちょうどこの内容に乏しい7月16日の日記に、無意識の本音をちょろっと見せていて面白い。

 ちょっと引用してみよう。
  「それからベルリンに到着した。完全に廃墟である。ヒトラーの愚かしさ。無理をしすぎて全部ダメにした。領土を拡げようとしすぎたのだ。ヒトラーにはモラルのかけらもないし、支えてくれる人もいなかった。これ以上悲しい光景を見たことがない。またこれ以上、果てしのない天罰の証左も見たことがない。」
 ここから読みとれるトルーマンは善意の、優しい人物である。ところが思想的には極めて浅い。平板なキリスト教的勧善懲悪論を展開している。トルーマンは政治家としては思索家タイプではなくて実務家タイプだ。だいたいベルリンを廃墟にしたのは、直接的には、ソ連軍の戦車とアメリカ軍の爆撃機なのだ。ヤハウェではない。

 ここでどうしても浮かぶ疑問は、もしトルーマンがベルリンの廃墟に立ったように、ドレスデンや広島の廃墟に立ったとしたら、果たして同じように「果てしのない天罰の証左」と云っただろうか?
 哲学的にも浅い。

   「しかし機械化がここ数世紀、人間の道徳観の先を行ってしまっている。道徳観が機械化に追いついた時には、平和の存在理由がなくなっているのではないかと恐れている。」
 これは単純な物と心の二元論だ。もう少しつっこんで云えば古呆けた唯心論だ。とても政治哲学をリードしていける人物ではない。

   「私はカルタゴ、バールベク、イエルサレム、ローマ、アトランティス、ペキン、バビロン、ニネベ、スキピオ、ラムセス2世、タイタス、ハーマン、シャーマン、ジンギスカン、アレキサンダー、ダリウス大王などのことを思った。しかしヒトラーはスターリングラード・・・それにベルリンを壊滅しただけだ。」
 恐らくその時思いつく限りの歴史的地名と人名を並べたのであろう。後世を意識した見栄が見え隠れしている。それぞれの歴史的背景を研究、理解した上で書いたとは思われない。子どもぽくって、かえってほほえましい感じもする。





 第3章は「レスリー・R・グローヴズ少将からスティムソン長官へ、7月18日」と題する章である。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap3.htm
短いが全訳は次ぎに掲載した。(第3章 レスリー・R・グローヴズ少将からスティムソン長官へ、7月18日)

 これはマンハッタン計画の総責任者グローブズ少将から、陸軍長官のヘンリー・スティムソンに当てた報告書である。日付が7月18日となっているから、もちろんニューメキシコ州の最初の核爆発実験の後である。内容は開発の困難性はどこにあったか、それをどう克服したか、実験の結果はどうだったか、に関する報告書だと思われる。いわば技術的決算書だと思われる。思われるというのは、私がどうしてもフル・テキストバージョンを入手できず、読めなかったからだ。トルーマン博物館にも米国公文書館にもスキャンドバージョンしかない。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb03.htm

 きちんとテキスト化された文書でも四苦八苦して読んでいるのに、こんなもの読めるわけがない。あきらめかけていたところに救世主のようなホームページに遭遇した。「マンハッタン計画」と題するページである。(http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/manh1.htm)

 どうも林という人のページらしい。よく分からない。これは1997年テキサス大学オースティン校の機械工学部から出版された「The History and Ethics Behind The Manhattan Project」の日本語訳である。著者はミゲル・A・ブラッキーニ(Miguel A.Bracchini)という人らしい。
このホームページの作者、すなわち、日本語訳者と思われるが、自分のホームページで次のように云っている。
 「著者は文中で“広島と長崎の罪のない人たちを殺したことは弁明の余地がない”と述べているように、米国人、特に退役軍人、の間で原爆投下によって数十万もの米国兵士の死が救われたとする自己弁護とは異なる見解を展開しており、その特異性に注目して訳文を掲載することにした(訳者)。」

  内容を読んでみて驚いた。もしこうした内容で、グローヴズ少将からスティムソン長官にあてて報告されていたとすれば(恐らくそうだと思うが)、フル・テキストバージョンを仮に入手できたとしても私にはとても歯が立たなかったろう。専門技術的すぎるのだ。しかしこの問題を避けては、肝心の原爆開発を巡る諸問題の核心が私には理解できない。この点このホームページの作者には心から感謝したい。

 私はホームページに書かれてあることは全て信用するわけではない。むしろ現在はためにするサイトも決して少なくない。しかし詳細は次ぎに譲るとして、簡単に言えば見分け方がある。第一に事実関係に裏付けがあるということだ。次ぎに使用してある言葉が正確である。この意味で「米陸軍省秘書」としてあるサイトは落第だ。

 第三に必ず資料の出典が明示してあるということだ。第四にその資料ができるだけ第一次資料に近いと云うことだ。これだけ守っているサイトであればまず信頼ができる。逆に言えばこれが守られていないと、例え日本政府のサイト(あるいは記事)であろうと、東大のどこそこ研究室のサイトであろうとあぶないものだ。要は信頼のポイントは、権威ではなく内容だ。

 この訳文の内容の確かさと言う点は、私にとって天佑であった。以下第3章でいうグローヴズからスティムソンに対する報告書を検討する代わりに、この訳文の内容を整理し、理解することにしたい。


 ついでにここで超短い第4章も片づけておこう。実験参加者のルイス・アルバレスによる、アラモゴード実験の原爆キノコ雲のスケッチである。第4章は次のURLへ。
(http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap4.htm)
またアルバレスによるスケッチは、
(http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb04.htm)がURLだ。
なおアルバレスは1968年のノーベル物理学賞を受賞している。
(http://nobelprize.org/physics/laureates/1968/alvarez-bio.html)


 グローヴズ少将とスティムソン長官について簡単に予備知識を仕入れておこう。

 グローヴズ少将はある意味有名人である。
マンハッタン計画がスタートした当初からこの計画の総責任者として、7月16日の原爆実験までプロジェクトを成功に導いた功労者である。「マンハッタン計画に絶対不可欠の男」(The Manhattan Project's Indispensable Man)の異名を取っている。(http://www.arlingtoncemetery.net/lggroves.htm)。

 またこの人物が「マンハッタン計画」という名称の名付け親だったとは知らなかった。
(http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/manh2.htm)。1948年に退役する1ヶ月前に中将に昇進し、退役後はコンピュータで有名なスペリー・ランドの副社長に転じ、1961年に引退している。ところでグローヴズのファーストネームだがこれは「Leslie」だから、レズリーまたはレスリーと発音すると思っていたし、実際こう書いてある日本語文献の方が多い。ところが先ほどの「マンハッタン計画」の訳者は「レジール」または「レジル」と表記している。どうもレジールとフランス語風に発音するのが正しいようなので、この文章の表記も訳文に従って「レジール」とすることにした。

(※追加註・・・後にレスリーが正しいと分かりましたので訂正しています。2009.8.17)





 一方のヘンリー・スティムソンである。この時スティムソンは陸軍省長官である。
陸軍省は英語では「The Department of War」であり、なぜ「陸軍省」と日本語訳をするのか分からない。戦争省とした方がより実態に近いし、わかりやすい。何しろ動員から、兵站、兵器調達・開発から何から一手に引き受けていたのだから。しかし研究社英和大辞典をはじめ、信頼のできる文献はすべて陸軍省と訳しているので、この文章でもそれに従った。なにかそうすべき理由があるのだろう。戦争時は独立した省であったが、平和時(?)の現在は、国防省の一部局に格下げとなっている。

 ヘンリー・L・スティムソン(Henry L. Stimson)は1867年の生まれ、つまり日本の明治維新の頃に生まれている。1945年の段階では、すでに70歳をはるかに越していたはずだ。
イエール大学で学び、最終的にハーバード大学法律大学院を卒業した後、弁護士となった。ばりばりのエリートである。セオドア・ルーズベルト大統領(日露戦争を仲裁した大統領で、トルーマン大統領の前任者、フランクリン・ルーズベルトとは年は離れているがいとこ同士になる。)からニューヨーク南部地区の地方検事に任命されている。1895年のことだから、28歳の随分若い地方検事さんだ。
そして第一次世界大戦中、当時のタフト大統領から陸軍省長官に任命され、1911年から1913年まで在任した。40歳台の半ば頃だ。つまりスティムソンは大きな戦争のたびに陸軍省長官にかり出されたことになる。頭も良かったのだろうが、それよりも誠実で信頼の置ける人柄だったのだろう。写真で風貌を見ても、政治家タイプではなく、良心的な哲学者タイプだ。胸の奥に常に痛みをこらえている。そういえば歴代のアメリカの政権内部にこうしたタイプの政治家がジミー・カーター以来ぷっつり途絶えてしまっている。いるのだが、出世できないのかも知れない。

 その後の経歴は、クーリッジ政権の時、米国フィリッピン諸島総督(Governor of General)、フーバー大統領の時は国務長官を務めている。著書も多い。
極東問題の権威でもある。もともと共和党の有力メンバーだったが、民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領の時、2度目の陸軍省長官に就任した。1941年、第二次世界大戦が勃発すると精力的に動き回って、アメリカの産業界・経済界の資源を戦争に収斂するよう組織した、という。
戦争も終わりに近づくと、戦後共産主義との対決に備えて、不必要なドイツ大空襲に反対した。またこの反対は同時に、道義的な見地からでもあったそうだ。ドイツや日本に対する無差別空襲は「戦争犯罪」を構成するかもしれない、とした。特に1945年3月9日の東京大空襲には反対の立場から大きな関心を抱いていたという。こうしたスティムソンが「広島」「長崎」への原爆投下にどのような見解をもったかは容易に想像がつくだろう。しかし、すでにトルーマン大統領とは不仲説が伝えられ、1945年9月21日にトルーマン政権を去っている。年齢も80歳に近い。1950年、83歳で亡くなっている。
(以上は主として次の記事によった。(http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/USAstimson.htm)

 スティムソンはアメリカ支配階級の知性と良心を代表する人物だったといえないこともない。第3章の内容は、有能な軍務官僚グローヴズから、このスティムソンに送った原爆開発に関する最終決算報告だったのである。誇らしげなグローヴズの輝いた表情と陸軍省長官として喜んでいいはずなのに、どこか浮かぬスティムソンの顔が目に浮かぶようである。





 さてマンハッタン計画である。最初に直面した最大の問題は原爆用燃料を十分な量だけ入手できるかどうかにあった。考えられる燃料は2種類存在した。
ネイル・ボーア(http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/manh2.htm)の提唱したウラン235同位元素(U-235)とグレン・シーボーグ(http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/manh2.htm)の提唱したプルトニウム239同位元素(P-239)である。ネイル・ボーアの研究が核分裂実用化の突破口になった。

 ところで、ウラン235同位元素(U-235)はウラン鉱石中1%しか含まれていない。しかし非常に不安定で連鎖反応を起こしやすい。核燃料には最適だ。
残りの99%は原爆製造に不要なウラン同位元素238((U-238)である。問題はどうやってウラン鉱石からウランU−235を抽出するかということだった。
3つの方法が案出された。サイクロトンによる電磁分解法、6弗化ウランガスによる気体拡散法、遠心力を用いた遠心分離法の3つである。
電磁分解法はサイクロトン建設に数百万ドルかけたにもかかわらず、わずか1グラムのウランU−235しか分離できなかった。原爆製造には最低でも50Kgから100Kgのウラン燃料が必要である。

 遠心分離法も効率が悪く、まだまだ開発が必要であることが分かり、結局捨てることになった。
そして残ったのが気体拡散法である。この方法だと効率よく濃縮ウラン(U-235)ができる。と駆け足で見て来たが、この結論に至るまでいくつものノーベル賞級の発見や開発があったのである。

 1941年、シーボーグがプルトニウム(原子番号94)を発見した。(シーボーグは1951年ノーベル化学賞を受賞)

 そしてやがてプルトニウム同位性元素P-239が、ウランU-235同様非常に不安定で核分裂しやすい物質であることを発見した。そしてウラン鉱石に大量に含まれ、原爆製造には不要と思われていた同位元素ウランU-238を原子炉内に長時間放置すると、プルトニウムP-239に変化することも発見した。

 これで一応最初の大きな課題、原爆燃料入手の課題は不十分ながら克服でき、ウラン同位元素U-235とプルトニウムP-239という2つの原爆燃料が確保できることとなった。

 次の大きな課題は原爆の設計である。

 設計は、ウランU-235とプルトニウムP-239を燃料とするのでは大きく異なる。

 まずウランU-235から見てみよう。U-235は大変核分裂しやすい物質であるため、爆弾の設計は比較的簡単だったという。「マンハッタン計画」の訳文の該当箇所をそのまま引用しよう。

 「ウランは核分裂しやすいので、爆弾は砲撃形式を基本にした。基本的にウラン部が左右にある形とした。一方のウランを他方に向けて加速するために通常爆薬を用いた。この爆弾は、いわゆる高度計爆弾である。高度計は空気圧を感知して、地表からの高さを測定する。爆心直下の地表を爆心地と呼ぶ。」
つまり、出口のない大砲の砲身みたいな物をつくり、ウランU-235を両方左右に配置した。そして一方に通常火薬を詰めて推進薬とし、U-235をもう一方のU-235に向けて発射し、U-235同士をぶつけて核分裂の連鎖反応を起こさせたのである。

 一方プルトニウム爆弾はもっと設計が難しい。と言うのは燃料のプルトニウムP-239はその後、U-235よりも核分裂しにくいということが分かったからである。結局爆縮型が採用された。ここも訳文をそのまま引用しよう。
「連鎖反応を始めるには、放射能源が中性子を放射している間にプルトニウを核分裂させねばならない。中性子を放射するベリリウム・ポロニウム化合物を球の中央に置く設計法が採られた。この球の内側は一様な間隔を置いた成形されたプルトニウム部で作られた。この球はサッカーボールによく似ている。この爆弾が炸裂すると、球は内部に向かって壊れ、すべてのプルトニウムが融合して超臨界質量に達し、連鎖反応を起こす。この爆縮(インプロージョン)現象を起こす最初の爆発には通常爆薬を用いる。この爆弾もまた高度計爆弾で、両爆弾ともこれを投下する乗員の安全ばかりでなく、確実な炸裂を保証する多くの安全策が採り入れられた。」

 つまりサッカーボールのような構造の爆弾は、内部を低密度にしておく。通常火薬を推進薬とするのはウラン原爆と同じだが、爆裂は密度の低い内部へ向かって進み、核エネルギーの連鎖反応を起こさせる仕組みだ。

 私は今回、インプロージョン(implosion)という英語があることをうかつにもはじめて知った。
接頭辞のim-はin-の異形で意味は同じである。すなわち「前へ」とか「中へ」とか「内へ」とかを表す。
そしてインプロージョンの技術的訳語が「爆縮」である。ふつう爆発はエクスプロージョン(explosion)だ。
しかしこれは爆裂が外に向かって起こるからエクスプロージョンなのだ。爆裂が内に向かって起こると、これはインプロージョンだ。つまり爆発ではなく爆縮だ。プルトニウム爆弾はこの爆縮をさせればいいということが分かって、開発の基本的問題が解決した、と言っていい。

 実際の開発過程はこんな簡単ではなかったろうが、基本的課題だけを大ざっぱに取り出せば以上のようなものだったろう。





 2つの基本的課題を解決して、マンハッタン計画は大詰めを迎える。すなわち本当に爆発する、あるいは爆縮するだろうかと言う課題である。ウランU-235とプルトニウムP-239とどちらが入手しやすかったかといえば、ウラン鉱石から大量に(といってもウラン鉱石自体が希少だったが)分離できるU-238を原料とし得る、P-239を燃料とするプルトニウム爆弾だった。

 8月6日の広島原爆投下までに3個の原爆が製造された。
1個がウラン原爆の「リトルボーイ(Little Boy)-小さい男の子」。プルトニウム原爆が2個。
「ガジット(Gadget)―ちょっとした機械装置」と「ファットマン(Fat Man)-デブ男」である。

 1945年8月の時点で、これ以上の原爆は製造できなかった。燃料がなかったからである。
当然、7月16日人類最初の原爆、ニューメキシコ州アラモゴードでの実験では、やっと完成したばかりの「ガジット」が使われることになった。

 当日の模様を「マンハッタン計画」の訳文からそのまま引用しよう。

   「実験は予定通り進められた。グローヴズ将軍は、トルーマン大統領が結果を持ってスターリンとチャーチルとのポツダム会談に出席できるよう実験を実行することとした。実験場に至る山野は大きな障害物であった。でこぼこの多い道、さそりやがらがら蛇は問題だとしても最も些細なものであった。だれも本当にどれ位放射能が放出されるか知らなかった。百トンのTNTと適量の放射性物質を用いて、放射能等の測定装置の校正のための予備実験が行われた。もし爆発が失敗した場合に備えて、農場を疎開させるために軍隊が派遣された。また、グローヴズ将軍はもしこの実験が不成功の場合、高価で価値のあるプルトニウムが無駄になるのを恐れた。プルトニウムはウランより多く備蓄していたが、その製造は非常に難しかった。実験は完璧であって欲しかった。」

 ところが当日は決して望ましい天候ではなく、このため実験が失敗する可能性があった。再び引用する。

   「陸軍気象担当官の勧告を無視して、ジャック・ハバードとグローヴズ将軍は実験日を1945年7月16日とした。前夜の雷雨のため、試験が数時間延期されたので心配は極限に達した。フェルミは、この気象条件で爆弾が誘爆するのではないか気に病んで、実験を強行したグローヴズ将軍に腹を立てた、と記している。午前4時、科学者達は計測装置に戻り始めた。爆心から10,000ヤード北にいた観測者達は床に顔を伏せるよう命じられていたが、皆それを無視した。爆発を観測するため、保護用に溶接眼鏡と日焼止めローションを用いた。10万枚以上の写真が爆発の報告書に添付するために撮影された。」

 この10万枚以上の写真の一部は、グローヴズを通じて報告書とともに、スティムソン陸軍長官のもとに届けられていたに違いない。

 再び引用する。
   「爆発時、フェルミは数枚の紙を引き裂いて空中に放り上げた。衝撃波判定に熱中していたので、爆発の大音響は全く聞こえなかったという。爆発のすぐあと、フェルミは重し綱のついた戦車のところに出かけて行って、損傷の程度を検査した。爆発は彼が予想していたよりずっと強力であった。爆発の規模はTNT換算で約20キロトン相当であった。」

 爆発、正確に言えば爆縮による核エネルギーの連鎖反応、はだれの予想よりもはるかに凄まじかった。
 破壊の度合いによって、破壊の状況は次のように区分された。

  1.蒸発点 爆心から半径0.5マイル(約800m)まで。死亡率98%。
    死体は行方不明または識別できないほど焼けこげる。
    行方不明とはこの場合すなわち蒸発である。
  2.全破壊帯 爆心から半径1マイル(約1.6Km)まで。
    死亡率90%。全ての建物が破壊。
  3.過酷な爆風損害地域 半径1.75マイル(約2.8Km)まで。
    死亡率65%・負傷率30%。
    橋・道路損壊。川の流れは逆流。
  4.過酷な熱損害地域 半径2.5マイル(約4Km)まで。
    死亡率50%・負傷率50%。
    死亡はほとんど火災のための酸欠死。
  5.過酷な火災と風による被害地域 半径3マイル(約4.8Km)まで。
    死亡率15%・負傷率50%。
    もし生きていても二度三度と火傷を負う。

 ついでに云えば、急性放射線障害による被害・損傷はこの区分のなかに含まれていない。実験に立ち会ったものにしか、その凄まじさは理解できなかった。いや本当の恐ろしさは、立ち会ったものでもわからなかったのである。それは後で広島と長崎で立証することになる。

 以上の記述と、1945年、7月25日ポツダムにいたトルーマンの次の脳天気ぶりと較べてみよ。

   「世界の歴史上、最も恐ろしい爆弾を発見した。伝説のノアの方舟のあとユーフラテス谷時代に予言された『破壊の火』なのかも知れない。ともかく、われわれは原子の同位性元素崩壊を招来する方法を見つけたのだ。ニューメキシコ砂漠での実験は、ごく控えめに云っても驚くべきものだ。13ポンドもの爆発物が、深さ600フィート、直径1200フィートのクレーターを出現させた。50フィートの高さの鉄塔を半マイルほど吹っ飛ばし、1万ヤード先の人間もやっつける。爆発は200マイル先からも見え、40マイル以上も離れた所でもその音が聞こえた。

  この兵器は今から8月10日の間に日本に対して使う予定になっている。私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標としないようにと言っておいた。いかに日本が野蛮、冷酷、無慈悲かつ狂信的とはいえ、世界の人々の幸福を推進するリーダーたるわれわれが、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかないのだ。」(トルーマン日記 1945年7月25日より)
(http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap5.htm)
(全訳:トルーマン日記 1945年7月25日)


 ニューメキシコ州アラモゴードで呱々の産声を上げた核兵器は「パンドラの筺」であった。
善人トルーマンには、「パンドラの筺」であることが、この時点で、本当には理解できていなかったのである。

(以下次回)