No10 | 平成18年1月30日 | ||||||||||
さて暫定委員会は定期的に会合を開き、原子力エネルギー全般に関わる諸問題を議論しながら、大統領に対する勧告と助言をまとめていった。この議事録は全てインターネットを通じて入手できるが、特に1945年6月1日の委員会が興味深い。 (この記事の原文は以下から入手できる。 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=8 訳文は暫定委員会議事録1945年6月1日金曜日) ところでこの議事録の作成者は、R・ゴードン・アーネソン中尉だ。暫定委員会では、いつもアーネソンが書記役を務めている。アーネソンといえば、スティムソンの命令で、原爆投下に伴う大統領声明の最終草稿をポツダムにいるトルーマンの下にクーリエとして届けた人物だ。大統領の署名をもらってスティムソンに届けるという重大任務も帯びていた。 早速1945年6月1日の暫定委員会、アーネソンが作ってくれた議事録を見てみよう。 (アンダーラインはすべてアーネソンが付けたもの) この日の会議はテーマが多くて朝11時から12時30分まで、昼休憩をはさんで午後1時45分から3時30分まで続いている。 委員会はこの日8人の委員全員に、産業界から意見を聞くとして次が招聘されている。 ジョージ・H・ブッチャー氏 ウエスティングハウス社 社長 電磁分解プロセスの装置メーカー ウォルター・S・カーペンター氏 デュ・ポン社 社長 ハンフォード計画の建設 ジェームズ・ラファーティ氏 ユニオン・カーバイド社 副社長 クリントン蒸気拡散工場の建設及び操業 ジェームズ・ホワイト氏 テネシー・イーストマン社 社長 テネシー州ホルストンのRDX工場の建設及び基礎化学物質の生産 いずれもある意味「原爆特需」の受注側企業だ。 このうちテネシー・イーストマン社はイーストマン・コダック社の創業者、ジョージ・イーストマンがテネシー州に作った化学品製造会社。RDXはResearch Department Explosiveの略で恐らく爆発性化学物質の研究をしていたのだろう。 この日彼らが招聘された理由は、原子力エネルギー問題に関して産業人の意見を聴取するところにあった。 会議はスティムソンの挨拶の後、「競争力の懸隔」というテーマからはじまっている。要するに核競争の相手国、ソ連との差がどのくらいあり、ソ連がアメリカに追いつくのにどのくらい時間がかかるかを議論しているのである。 暫定委員会がこのテーマから始めている事実は、極めて重要である。当時対日戦争は終盤を迎えており、ソ連の参戦も確約が取れている。それでなくてもソ連は喜んで参戦しただろう。日本が条件はどうあれ降伏するのは時間の問題だ。後に見るようにこの日の会議では、「原爆の日本に対する使用」も議論され、「使用」に正式決定もされている。 つまり、「原爆の使用」問題は対日戦争終結の決定打としてとして議論されているのではなく、戦後の核装備競争の文脈の中で議論されている。ここが日本側の文献を読んでいてベクトルの合わない点だ。 日本側の理解は、「原爆投下は戦争終結の手段」という視点に固定してしまっている。だから、戦争終結の手段として「原爆投下は必要だったかどうか」などというおよそ見当違いな議論を延々と60年以上経た今でも続けている。 戦争終結の手段としての「原爆投下」は軍事問題である。しかも、日本降伏が見えているその時点では、さして重要な軍事問題でもなかった。投下しようとしまいと、どのみち日本は降伏したのだから。 「日本に対する原爆の使用」が重要だったのは、それが戦後の核競争をいかにスタートさせるか、それがどれほどのビッグビジネスに発展するか、そしてそれを政治主導でいかなる枠組みで運営していくか、そして「戦後の原子エネルギー市場」でいかにアメリカが圧倒的な主導権を取っていくか、と言う政治問題だったからだ。 これが全ての問題の要点である。 この問題の要点を当時きっちり理解していた人は、アメリカの政権内部でも数少ない。恐らくこの暫定委員会のメンバーとそれを補佐するほんの一握りの人たちだけだっただろう。軍部に置いてもほんの一握りのトップだけだっただろう。「決断者」である大統領トルーマン自身にしても、この問題の要点を理解していたかどうかは非常に疑わしい。 「アメリカ将兵の犠牲をできるだけ少なくする」という課題で頭がいっぱいのトルーマンには、実際に原爆投下が行われるまで、この問題の要点を理解することはできなかったのではないだろうか? |
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マンハッタン計画に参加していた科学者たちの一部はさすがに鋭く問題の本質を見抜いていた。有名な「フランク・レポート」を読んでみると、彼らが「日本に対する原爆使用」の本質をいかに正しく捉え、戦後予想される果てしのない核競争に警鐘を鳴らしているかが読みとれる。フランク・レポートは、「日本に対する原爆」の使用を、核競争の出発点として捉え、核競争を排除する手段として国際核戦争防止協定の成立を提案している。 つまり、核競争をスタートさせたい勢力と核競争をスタートさせてはならないとする勢力との人類史的せめぎ合いが行われていたのである。そのカギを握るイベントが「日本に対する原爆の使用」、すなわちその軍事的表現が「広島への原爆投下」だったのである。 こうした視点で、1945年6月1日の暫定委員会の議事録を、読んでみると興味深い論点が浮かび上がってくる。 デュ・ポン(E.I. duPont de Nemours and Company)はもともと銃砲用火薬の製造業者としてスタートした。南北戦争では両軍に火薬の供給も行っている。第一次世界大戦・第二次世界大戦では大量の軍需物資を供給した。戦後は、各種の化学繊維を開発したことでも知られている。同社の年次報告を詳しく分析していないので何とも云えないが、現在でも原子力産業に関係していると思われる。と言うのは2004年の大統領ブッシュのイラク進行時、当時のフセイン政権の核兵器開発に協力した企業として同社の名前があがったことがあるからだ。(同社は当然認めていない。)当時ブッシュ政権はイラクのフセイン政権に関係したアメリカ企業の名前をひた隠しにしてきたが、デュ・ポンの名前は何らかの理由でリークされた。 マンハッタン計画ではデュ・ポンはワシントン州のハンフォード工場(主としてプルトニウムを製造していた)の設計・建設を担当した。質問は、ソ連が同様の工場を造るとすればどれくらいかかるだろうか、といった類と思われる。当時社長のカーペンターはこう答えている。
I.G.ファーベンインダストリーエは戦前ドイツのコングロマリットである。アグファ、BASF、バイエル、ヘキストなど多くの企業を傘下に持った。(ファーベンでなくドイツ語風にファルベンと表記するのが正しいのかも知れない) ジーメンスは電機、通信、電子などの分野での世界的企業である。戦前はドイツの再軍備に関連していたとされる。 テネシー・イーストマンは、イーストマン・コダック社の創業者、ジョージ・イーストマンがテネシー州に作った化学品製造会社。この当時はイーストマン・コダックの子会社化されていたらしい。と言うのはコダックのホームページに「1931年、テネシー・イーストマンがセルロース・アセテート生地の販売を初めて開始した。」と言う記述が見えるからだ。またこの委員会が開催された同じ1945年の項に「パーリー・S・ウィルコックスが取締役会会長に就任。彼は1920年に設立されたテネシー・イーストマンの体制作りを指揮した。」という記述が見える。つまりウィルコックスはテネシー・イーストマンでの業績を買われて本社イーストマン・コダックの会長に昇進したわけだ。この当時同社はテネシー州ホルストンのRDX工場の建設及び基礎化学物質の生産を担当していた。(RDXはResearch Department Explosiveの略)。なお、コダックのホームページでは、テネシー・イーストマン社がマンハッタン計画に関係していたことは全く触れていない。
産業人を交えたこの日の委員会では、次のような注目すべき発言もでている。 ユニオン・カーバイド社は化学会社として知られている。1984年インドにおける子会社インド・ユニオン・カーバイド社が引き起こしたボーパル事件の方が有名かも知れない。事故で有毒化学物質が流出し、有毒ガス化した物質で約15万人から60万人が被害を受け、そのうち少なくとも1万5000人が死亡したとされる。2001年に同じく化学会社ダウ・ケミカルの100%子会社となっている。 「ラファーティ氏(ユニオン・カーバイド社副社長)は、現在の政府・産業界・大学間のパートナーシップは継続すべきだと述べた。」 |
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これは端的に大学の持つ研究開発力を軸にして軍産複合体制の維持強化が必要だという意味に他ならない。 ウエスティングハウス社はもともと大手電機メーカーである。創立者ジョージ・ウエスティングハウスの立志伝はかなり有名な話である。同社が原子力産業に参入したのは1930年代のころで、核微粒子加速器のメーカーだった。その後原子炉の製造も手がけることになる。この会社は戦後複雑な経緯をたどるが、とにかく本社(Westinghouse Electric Corporation)から、原子エネルギー部門が切り離され、イギリスのイギリス核燃料会社に販売、その子会社となった。これがWestinghouse Electric Companyである。イギリス核燃料会社はイギリス政府の子会社で、イギリスの原子力政策の要の一つである。Westinghouse Electric Companyが2006年1月23日付けのフィナンシャル・タイムスの記事によると、日本の東芝に50億ドルで買収されるというのだ。マンハッタン計画の要の会社の一つ、ウエスティングハウスの原子力部門を60年以上経て、日本の会社が買収するというのだから、言葉もない。フィナンシャル・タイムスの記事を翻訳するのも面倒なので、1月24付けの朝日新聞から引用する。
ちょっと読むと、本家のウエスティングハウス自体が身売り、とも取れるが、本家はWestinghouse Electric Corporationとしてアメリカで健在だ。 ジョージ・ブッッチャーはこの当時のWestinghouse Electric Corporationの社長である。
ここで云っていることは、原子力エネルギーは将来無限の可能性がある、この市場が育つまで政府の金で民間企業を援助することが国家利益にかなう、ということだ。 産業界は「原爆開発」で得た「20億ドル市場」を決してあきらめない。 |
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ここでデュ・ポン社長、カーペンターが云っていることは、要約すると次のようになる。
原爆産業は、それを使用しようと使用しまいと、生産しなければ衰退するということである。 この発言は、何故今何万発もの核兵器が貯蔵されているのか、と言う問題を考える大きなヒントになっている。 この会議の10日後、シカゴの科学者たちが提出したフランク・レポートでも同じ意味合いのことが指摘されている。 アメリカが将来想定しうる核競争で優位に立てるかどうかを議論したくだりである。
アメリカが将来、核競争で優位に立つためには、平和時に置いても、兵器としての原子力エネルギー装置を作り続けなければ、その優位を保てないと云っている。果てしのない核競争の本質をえぐり出した指摘だ。 もちろん、フランク・レポートは「だから作り続けよう」と言っているのではなく、これは人類にとって恐ろしい結果をもたらす、だから核競争がはじまる前に、この問題に関する各国の主権を一部制限して、「すべての核」を国際管理に移そう、と提言する。 核競争の本質に関する限り、フランク・レポートと暫定委員会とは完全に認識が一致している。ただ、そこから引き出している結論が全く違っている。 バニーバー・ブッシュはこれに関連しておもしろいことを云っている。原爆を生産し続けるには、それを支える原材料工場の継続的生産が前提になる、しかし継続的生産に道を開いておこうとすれば、常に核実験をしなければならない、と言っている。核実験は性能テストのために必要なのではなく、原材料生産工場に常に道を開けておくために必要なのだ。 何故核兵器がなくならないのか、何故核実験を続けなければならないのか、核競争・核拡散時代初期の開発製造トップたちはあからさまに、そして無遠慮に、そして無警戒に、その理由を述べている。今誰もこんな本音は言わないだろう。 |
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ここで、この日の暫定委員会はいったん休憩に入り、産業人は退席、場所をハリソンの執務室に移して、委員会を継続する。 この後は、「戦後における原子力エネルギーの管理・統御機構」の検討に入り、招聘参加者として出席していた、マンハッタン計画の最高執行責任者、レスリー・グローヴズから予算の報告がなされる。グローヴズによれば、今割り当てられている予算だと、1946年6月まで持つ、と報告した。 これに対して国務長官のジェームズ・バーンズは、 「それまでに戦争が終わったら、残りの予算を使う名目がなくなる、だから議会に戦争が終わってもこの核兵器開発を取り上げさせるために、別途に総関連予算を検討しておいてくれ」 と指示を出している。もちろん、バーンズにしたところで戦争が終わっても、この20億ドル市場を凋ませるつもりはない。 また、このバーンズの指示は、原爆製造が戦争遂行目的から、戦後の「原子力エネルギー産業」維持発展へと、彼らの目的が移行していることを意味している。 これに対してグローヴズは、5人の有力下院議員にすでに根回しをしている、と委員会に報告をする。あからさまなものだ。 そしてこの委員会は次ぎに重要な決定をする。「日本に対する原爆投の使用」だ。引用してみよう。
スティムソンは、日本へ投下できる原爆が完成するのははどんなに早くても8月初旬、という報告を受けていたから、この時点で委員会のメンバーもそれを知っていたはずだ。(スティムソン日記より。日記はマイクロフィルムに収められているそうだが、テキストは次のURLで見ることができる。http://www.doug-long.com/stimson.htm) 先にも述べておいたが、特に注目しておかなければいけないのは、「原爆の使用」すなわち日本への原爆投下の議題が、この日の暫定委員会の流れでどう位置づけられているか、と言う問題だ。この日の議題を順に並べてみよう。 T 委員長挨拶 U 競争力の懸隔 V 戦後における機構―産業人の見解 W 戦後における機構―委員会討論 X 直近の予算 Y 日本への使用 Z 広報活動 [ 法制化 \ 次回会合 となっている。暫定委員会にとって「日本への使用」は、あくまで戦後の「核兵器・原子力エネルギー」体制をどう構築するかという文脈の中から論じられているのである。だから彼らの使っている言葉も使用(use)であって、決して投下(drop)ではない。これは「drop」ではなまなましいから、「use」に言い替えよう、といった問題ではなく、彼らの問題意識を如実に投影した言葉遣いだ。別に言い替えるなら、「use」は政治・経済問題だが、「drop」は軍事問題なのだ。 この日の委員会を見る限り、「日本への使用」は戦後の「核兵器・原子力エネルギー」体制構築の一ステップとして論じられている。最後まで原爆投下に反対した核物理学者、レオ・シラードは、「広島への原爆投下から戦後の核競争・核拡散は始まった」と指摘しているが、彼は実に鋭く問題の本質を見抜いていたことになる。 さて、議事録は「日本への使用」の項目を簡単に済ませている。討論の過程を全部省いて、結論だけ記録している感じだ。 しかし、実際はこんなものではなかった筈だ。ただ議事録で記憶に止めていいことは、バーンズが原爆投下を主唱し、暫定委員会全体がそれに賛同した、ということだ。奇妙なことにスティムソンは、冒頭で当たり障りのない委員長挨拶をしたきり、この議事録には一切発言が記録されていない。 確認しておこう。 (1)日本への原爆投下(正確には、日本への使用)は、1945年6月1日の暫定委員会で勧告が決定された。 (2)その際無警告で行うことも決められた。 (3)投下目標決定は軍事問題である。 の3点となろう。 ここで重要なのは、「(2)その際無警告で行うことも決められた。」ことの意味である。この「無警告で原爆投下」をする事の解釈は、「人道主義」の観点から論じられることが多い。代表的には、委員の一人ラルフ・バード(海軍省次官)が後に出した異議申し立てであろう。 バード(海軍省次官)は、自分も賛同した、この委員会の決定勧告に対し、後に正式に異議を唱えている。バードは7月24日(といえばハンディの広島原爆投下指示書が出される前日だ)、スティムソンに対し極秘のメモランダムを送り、原爆投下に際しては、日本に事前警告を出すべきだとしている。(バードのメモはつぎのURLで見られる:http://killeenroos.com/5/bomb/bard.htm このメモでバードはS−1という言葉を使っているが、これは日本に落とす原爆の暗号だ。スティムソンも日記の中でこの暗号をしばしば使っている。 バードは、2−3日猶予を置いた事前警告を出すべきだと主張し、こう云っている。 「偉大な人道主義国家としての合衆国の地位、そして全体として云えばフェアプレイの精神を持った国民性からして、(この取り扱いについては)アメリカの国民感情に応えるべきである」 そしてこう続ける。 「この警告が、日本政府に降伏の口実として使われ、和平の機会を模索するかも知れない」 これはよく読むと、バードは、事前警告を出すべきだ、と言っているのでなく、日本への無差別投下に反対しているもとれる。少なくともその気持ちがにじみ出ている。 しかし、バードは「日本に対する無警告使用」の本当の意味が理解できていなかった、と言うべきである。打撃を大きくし、日本に大して降伏への強制力を強めるために「無警告」としたのではない。ここの議論の過程は、暫定委員会も沈黙しているし、スティムソン日記も何も云ってくれない。唯一フランク・レポートだけがその意味を解説してくれている。問題の要点はいかなる形で戦後、核競争をスタートさせるか、である。 フランク・レポートはこういう。
少々長い引用だったが、フランク・レポートは核を巡る諸問題そのものは、暫定委員会と全く認識を一つにしていた、と言うことを念頭に置いておいて欲しい。ただそこから引き出している結論が全く異なっているというだけだ。 戦後核競争をスタートするにあたって、最も効果的な方法は、 「日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。」 暫定委員会の関心は、すでに原子力エネルギーに関する戦後体制の構築にあった。軍事的に云えば日本はすでに「死に体」である。そうして戦後体制の中で核競争をスタートさせたいとする勢力があった。その「核競争スタート」の最も効果的な方法が、「広島に対する無警告原爆投下」だったのである。この意味ではまさにレオ・シラードの指摘の如く、「ヒロシマ」が「戦後核競争・核拡散」の出発点だったのである。 (核競争は必然的に核拡散をもたらさざるを得ない) |
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日本原爆投下の決定は、議事録ほど簡単ではなかった筈だ、と先ほど書いた。これには根拠がある。というのはこの委員会は科学者顧問団にも原爆投下(正確には、日本への使用)に関する意見を求めており、この4人の意見は割れていたからだ。次が4人である。
スティムソンの陸軍長官声明では、オッペンハイマーが筆頭に書かれていたから、あるいはオッペンハイマーが座長格なのかも知れない。ともかくこの4人の意見は割れた。 グローヴズと仲のいいオッペンハイマーは云うまでもなく投下派だろう。シカゴ大学冶金工学研究所のコンプトンはレオ・シラードと考え方を同じくしていたから恐らく投下反対派だろう。(最後まで原爆投下に反対し続けたレオ・シラードは恐らく祈るような気持ちで、コンプトンに思いを託したのではなかろうか) その後4人は協議を重ね、6月16日に協議内容をとりまとめ、委員会に報告を送った。 (この報告書の原文は次:http://www.nuclearfiles.org/menu/key-issues/nuclear-weapons/history/pre-cold-war/interim-committee/interim-committee-recommendations_1945-06-16.htm) この報告書を引用しよう。
4人は一致を見なかった。しかしルールに則って4人の共通見解を出したのが、この報告書である。 要は原爆による無差別攻撃は「無法」(outraw)という立場から、即時使用派まで、幅がありすぎる。4人の報告書は結局、6月1日の暫定委員会の結論を科学顧問団が追認したことになった。 ここでもう一つ非常に興味深いことをこの報告書は述べている。 「さらにこの特殊な兵器の廃絶を持ってするより、戦争の防止をもってする方により大きな関心を抱いている。われわれ全体の見解は、後者の見解により近い。」 すでにここに「核廃絶論」と「核抑止論」の対立の萌芽が見られる点だ。「このような恐ろしい兵器は廃止してしまえ」というのが核廃絶論だ。(恐らくコンプトンだろう) それに対し「核兵器は恐ろしい兵器だからこそ、相手は怖がって戦争を起こさない。戦争抑止力がある。核兵器はそういう風に平和を維持する力がある」というのが核抑止論だ。(恐らくオッペンハイマーだろう) しかしすでに見たように、核抑止論者の本音は「原子力エネルギー市場を維持発展させたい。そのためには原爆の継続的生産・備蓄を行わなければならない。またそのためには関連した原材料生産を続けなければならない。その生産への道を常にあけておかねばならず、そのためには核実験が必要だ」と云うところにある。いわば「核抑止論」は後からつけた屁理屈だ。屁理屈は常にわかりにくい。 従って「核抑止論者」は常に「核備蓄論者」であり「核実験容認論者」である。これは3点セットなのである。 6月1日の暫定委員会の結論は、委員長のスティムソンをさしおいて、バーンズがトルーマンの所に報告に行った、という。そしてトルーマンはこの委員会結論におおいに心を動かされたという。(ピーター・ウエイドン著:Day One: Before Hiroshima and after 163P) (以下次回) |