No10 | 平成18年1月30日 | ||||||
世界で初めての原爆被爆国、日本ではじまった核兵器廃絶運動が、何故世界的な説得力を持ち得ないのか?それは日本の「日中戦争・太平洋戦争・大東亜戦争」の清算の仕方と大いに関連があろう。 別な云い方をすれば、原爆被害者―ヒロシマが戦後60年以上へても自分の体験を歴史的に相対化できていないから説得力を持ち得ないといっていい。 原爆被害者の言い分を聞いていると、「原爆の被害を直接受けた、私たちがここまで事実を示して、ここまで云っているのに何故あなた方は、核実験をするのか、核兵器を保有するのか」、まるで聞き入れない「あなた方」がどうかしていると云わんばかりだ。しかし今もアメリカの一部にある「広島原爆売り物論」は別としても、たとえば次のような声にも耳を傾けて見ると良い。 1995年8月6日原爆投下50周年に際して、韓国KBS(コリア放送)のユ・スンジェ特派員の報道だ。
このユ・スンジェ特派員の批判は、そのまま「原爆」の体験を歴史的に相対化できないでいる、広島の核廃絶運動に対する批判ともなっている。「非人道性」という意味では、南京大虐殺も従軍慰安婦問題もバターン死の行進も中国大陸での毒ガス兵器使用も「ひめゆりの塔」も等量ではないにしろ、等質だ。原爆の遠因が、遅れてやってきた帝国主義国家「日本」の侵略戦争にあるものとすれば(それに間違いはないのだが)、広島の核廃絶運動は、必ずたとえば従軍慰安婦問題を同質の問題として取り上げなければならないし、連帯しなければならない。それでなければ、日本をのぞく世界と「核廃絶運動」は認識の上で噛み合わない。「日本の言い分」以上には取り扱われない。このような「ヒロシマの核廃絶運動」は今のところ、日本がなし得る唯一の「歴史の正当化運動」以上ではないのだ。共感を呼ばないし、真の力とはなり得ない。 被爆者団体連絡協議会が、2005年のノーベル平和賞で最後まで国際原子力機構(IAEA)とせりながら、外れた理由もここにあろう。中国新聞はこのとき、「被団協の活動を賞賛」と見当違いな中見出しを入れたが、ノーベル賞委員会が、真に共感を示したのは「佐々木禎子」である。2005年のノーベル平和賞授賞式で、平和賞委員会・委員長、オーレ・ダンボルト・ミョースはこう述べている。
ミョースは明らかに、「佐々木禎子と千羽鶴」に、より大きな共感を示している。それは、理不尽にあらゆる可能性を奪われた少女の「祈り」だからだ。「佐々木禎子と千羽鶴」はこうした「ヒロシマの祈り」のシンボル(象徴)として扱われ、ミョースはそれに大きな共感を示しているのである。「原水禁運動」より、「平和公園での座り込み」より、「広島市長の抗議電報」より、「佐々木禎子と千羽鶴」の方がはるかに大きい共感を勝ち得ているのだ。共感は何にもまして大きい説得力である。説得力は力である。 われわれが成し遂げなければならないことは、この佐々木禎子の「祈り」を理論化し、事実を基に体系化し、そして「原爆投下」を行った真の勢力を、歴史の中からあぶり出すことではないだろうか?そしてその勢力が「アウシュビッツ」を、「南京大虐殺」を、そしてもろもろ非人道的な行いをした勢力と同じ穴の狢であることを証明することではないだろうか? |
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さて前回までで、確認し得たことは、当時アメリカの政権内部では、「日本に対する原爆の使用」は政治問題であり、「原爆の投下」は軍事問題だった、ということだ。各種文献を読んでみると、使用にはuseと言う言葉が使われており、投下にはdropないしはcarryという言葉が使われ、明確に使い分けてある。そして日本への原爆の使用(use)という政治問題よりも投下(drop)という軍事問題先行で、ことが進められていった。そして1945年7月31日、当時ポツダムにいた大統領トルーマンのもとに、原爆投下に伴う「大統領声明」の最終草稿が届けられ、それにトルーマンが署名を行うという形で政治決断が行われた。すなわち、原爆投下という軍事決断を政治決断が追いかける格好で、決着をつけた。従って大統領声明では、「原爆が使用された」ではなく「原爆が投下された」で文章がはじまっている。 原爆投下の最終決断者は大統領トルーマンだが、これまで見たように、トルーマンが最初からイニシアティブをとって原爆投下に至ったのではない。トルーマンは、マンハッタン計画から投下に至る歴史の最終段階で「決断者」として急登場してきたのであり、トルーマンにその決断を迫る勢力が見え隠れしてきたのである。それは恐らく、アメリカの軍部であり、それと経済的・政治的利害を等しくするアメリカの産業界・政界であろう。トルーマンの次の大統領ドワイト・D・アイゼンハウワーが1961年の退任演説(Farewell Address)の中で、指摘し警告を発した軍産複合体制の萌芽といっていいのかもしれない。 彼らは当時すでに、戦後を見据えていた。そして生まれたばかりの、しかしすでに20億ドル市場に急成長した「原子力エネルギー産業」をいかに独占的に発展させるかを構想していた。「ヒロシマ」はその戦後体制構築の第一歩に過ぎなかった。 おおよそここまでが、予測のつくことである。 再びスティムソンの陸軍長官声明に戻って、これをテキストにテーマを進めてみることにしよう。 (陸軍長官声明はhttp://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb11.htm 全訳は:陸軍長官声明) 次ぎに注目すべきは予算である。これまでにも見たように、原爆開発に投入された予算は、それまで秘密予算であり、その使い道は一切国民には知らされていなかった。ポツダム宣言の時に、トルーマンが一番心配したのは、この予算の秘密性だった。つまり、予算の使い道をアメリカ国民に知らせる前に、ポツダム宣言に書き込んで敵国日本に知らせるわけにはいかなかった。従ってポツダム宣言からは、原爆開発成功のことは一切省かれた。 (ポツダム宣言に原爆開発成功のことに触れていないのは、わざと日本が受諾しにくくするためだ、と言う説があるが、これは単に当て推量であろう。少なくとも資料的根拠はない。) 陸軍省長官の声明では、短いがこう触れている。
つまり、1945年6月現在19億ドル5000万ドルにのぼる「マンハッタン計画」は秘密予算(blind appropriations)だったが、議会は快く承認をしてくれた、と言うことだ。そして一握りの人たちがそれを知っていて、計画の進行に合わせて調整を行った、と言うことだ。 |
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ここでの問題は、アメリカ国民が知らなかったことではなく、知っていた一握りの人たちの存在である。知っていたのは、トルーマンをはじめ政権の一握りのトップ、軍部の一握りのトップ、科学者グループの指導層の一握り、それに産業界の一部トップである。 一般には知らせずにある予算を一握りの人たちが自由に使うことを、一般に「利権の分け取り」と呼んでいる。一般企業のデュ・ポン、GE、ウエスティングハウスは当然のこととして、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学などもこうした利権の分け取りに参加していたわけだ。 (参考:トルーマンは何故原爆投下を決断したか?X.投下を推進した勢力) もともと、納税問題がアメリカ独立戦争のきっかけとなったように、アメリカはこの種の秘密予算や利権の分け取りには極めて神経質なお国柄だった。その代わりIRS(国内歳入局 Internal Revenue Service 日本で云えば国税庁みたいな役所)は警察権をもって、脱税者からは容赦のない、密告制度も取り入れた取り立てを行う。 それがマンハッタン計画の秘密予算の時から、タガが外れたように、国家安全・国家利益のお題目の下にBlind Appropriations(秘密予算)が増えていく。そして分け取りが始まっていく。 現ブッシュ政権になると、巨額のイラク戦費やハリケーン復興予算が大統領ブッシュや副大統領チェイニーが関連した企業がいつの間にか受注する、といったおおっぴらな構図ができあがっている。誰も怪しまない。アイゼンハウワー政権の時なら一大スキャンダルになるところだ。 (次の記事などは参考になるかも知れない。http://tanakanews.com/f0918katrina.htm) こうした米政権のいわば民主主義のチャンピオンとしての堕落はマンハッタン計画の秘密予算に始まっているという見方もできる。 さて原爆開発計画がもともと、アメリカ・イギリス・カナダ三国間の共同事業だったことも、このスティムソン声明で概観できる。声明はこう述べている。
つまり、原爆開発はイギリスとアメリカでほぼ同時期にスタートしたが、その後一本化したというのだ。そしてこれにカナダが加わった。 アメリカ側の計画が、後にマンハッタン計画に発展した計画であり、イギリス側の計画が「テューブ・アロイ計画」である。(次のURLが詳述している:http://en.wikipedia.org/wiki/TUBE_ALLOYS) ドイツなどからフランスやイギリスから亡命した科学者からの提言で、イギリス政府は原爆開発計画「テューブ・アロイ」を進めるが、ドイツからの爆撃でその進行に支障を来すことになった。それでマンハッタン計画に合流することになったのが1943年である。この時優秀な科学者がアメリカにやってきて、マンハッタン計画に合流することになる。 1943年8月この3カ国の間で合同政策委員会が結成され3国から委員を出し各国間の調整にあたった。この時アメリカからの委員は、例のバニーバー・ブッシュとジェームズ・コナントである。 |
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アメリカでは1945年4月にルーズベルトが急死して大統領にトルーマンが就任する。そしてトルーマンに勧告することを目的に、暫定委員会(Interim Committee)がその翌月に作られる。トルーマンは大統領に就任してからスティムソンの説明ではじめて原爆開発計画の存在を知ったばかりだ。 (トルーマン研究家でもあるファレルの別な研究ではトルーマンもうすうすは知っていた、という) 大統領に就任したばかりのトルーマンが、スティムソンから原爆開発計画を聞かされた当日の記述があるので引用しよう。トルーマン回想録にでている記事だそうだ。そうだ、と言うのは、私が直接回想録を読んでいるわけではなく、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの日記を研究しているホームページに引用してあったので、この記述を知った訳だ。そのホームページは以下である。 (http://www.doug-long.com/stimson2.htm) 1945年4月12日、トルーマンは大統領就任式に臨み宣誓をした後、短い閣議に参加した。(大統領なのだから主催したと言うべきか) 閣議が終了した直後、トルーマンは陸軍長官ヘンリー・スティムソンに呼び止められる。 「ある極めて重大な問題について、(スティムソンは)話があると云った。スティムソンはある巨大な計画が進行中であることを私に知っていて欲しいといった。それはほとんど信じられないくらいの破壊力を持った爆弾開発を見据えた計画、とのことだった」 「これが私の原爆に関する知り始めだった」(トルーマン回想録。第1巻。10頁) この話の通りだとすれば、トルーマンには最初何のことか分からなかったと思う。 (ただ前述の如く、ロバート・ファレルの別な研究によれば、原爆の存在を大統領就任前に薄々知っていた、とも云う。だとすれば、トルーマンはこの回想録でおとぼけを演じていたことになる。同時代資料として日記は信用できるが、この手の回想録は全面的に信頼するわけにはいかない。自分に都合よく話を持っていく。マッカーサー回想録ほど酷くはないが。) 整理するとこういうことになる。トルーマンは大統領に就任して初めて本格的に原爆問題に関わることになる。そのため原爆問題に関して大統領に助言と勧告をおこなう目的で、早くも1945年5月暫定委員会(Interim Committee)が発足する。 そして原爆投下に関するトルーマンの意志決定にこの暫定委員会が決定的な役割を演ずることになる。 |
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まずスティムソンの声明から見てみよう。
つまり暫定委員会は、陸軍長官スティムソンの発案で構想され、発足した。メンバーを決めたのもスティムソン自身である。スティムソンを含めてメンバーは8人。最後に決まったのは、閣内の実力者ジェームズ・バーンズである。 この時の模様をスティムソン日記は次のように伝えている。 (http://www.doug-long.com/stimson2.htm) 日記の日付は1945年5月3日である。
そうそうたるメンバーと云っていい。当時「原爆問題に関する」アメリカの最高意志決定機関だ。国民の選挙で選ばれたものは一人もいない。全て大統領の権能が彼らの正統性の根拠になっている。 またこの委員会には、一流の科学者からなる顧問団が付けられ専門的アドバイスを行うことになった。
と声明文では説明されている。 この委員会は、要するに「原爆の使用と管理」について大統領に勧告を行うことが主要任務だ。 Wikipedia の説明も合わせて見ておこう。 (原文:http://en.wikipedia.org/wiki/Interim_Committee 訳文:暫定委員会<Interim Committee>について) メンバーの紹介がまず行われている。Wikipediaでは、委員長代行、ニューヨーク生命保険会社社長のジョージ・L・ハリソンの肩書きがan assistant to Stimson、すなわち文字通りには陸軍長官補となっているが、声明文ではSpecial Consultant to the Secretaryとなっているので陸軍長官特別顧問としておいた。なぜ一介の生命保険会社の社長がこんな最高機密委員会に出てきて、委員長代行を務めるのか不思議な気もするが。 もう一度メンバーを見ておこう。 ヘンリー・L・スティムソン 陸軍長官 (http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_L._Stimson) ジェームズ・F・バーンズ 前上院議員ですぐに国務長官に就任。大統領全権代表でもある。 (http://en.wikipedia.org/wiki/James_F._Byrnes) ラルフ・A・バード 海軍省次官 (http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Asst_Navy_Sec_Ralph_A_Bard.jpg) ウイリアム・L・クレイトン 国務省次官補 (http://en.wikipedia.org/wiki/William_L._Clayton) バニーバー・ブッシュ 科学技術研究開発局長 カーネギー協会理事長 (http://en.wikipedia.org/wiki/Vannevar_Bush) カール・T・コンプトン 科学技術研究開発局現業活動事務所長 マサチューセッツ工科大学学長 (http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Taylor_Compton) ジェームズ・B・コナント 国家防衛研究委員会委員長 ハーバード大学学長 (http://en.wikipedia.org/wiki/James_B_Conant) ジョージ・L・ハリソン 陸軍省長官特別顧問 ニューヨーク生命保険会社社長 (http://en.wikipedia.org/wiki/George_L._Harrison) 国務次官補のクレイトンは、もとはと言えばアメリカの綿花業界を代表する産業人だ。 バニーバー・ブッシュは前回(トルーマンは何故原爆投下を決断したか?X.投下を推進した勢力)も述べたが、もう一度簡単に見ておこう。1932年―1938年の間、マサチューセッツ工科大学の副学長、工学部部長を務めている。1939年には社会的地位の極めて高いとされたカーネギー協会の理事長に就任している。(カーネギー財団とは別)また1939年には国家航空諮問委員会の委員長に就任。1940年には国家防衛研究委員会の委員長に就任。1941年に同委員会が科学技術開発局に取り込まれた時、局長に就任している。アメリカの科学技術を産業と結びつける扇の要の人物と言うことができよう。もちろん原爆開発計画にも最初から関わっている。科学技術と産業界を結ぶ、いわば軍産複合体制の要の人物と言うことができよう。 海軍次官補のバーンズももとはと言えば、シカゴの金融家だ。委員長代行のハリソンはこの時はニューヨーク生命保険会社の社長だが、ニューヨーク連邦銀行の総裁も務めており、アメリカの金融界の利益代表といった格好だ。 ジェームズ・コナントは学者だが、有能な教育事業経営者でもある。ハーバード大学学長に就任してから、大幅な大学改革を行い、ハーバード大学を「ニューイングランド地方の有名大学」から世界に冠たる「総合研究教育大学」に育てた人物としても有名だ。ヤリ手である。 カール・テーラー・コンプトンはマサチューセッツ工科大学の学長を1930年から1954年までなんと24年間も務めている。特に第二次世界大戦をはさんでマサチューセッツ工科大学を科学技術の側面から米軍部との協力関係を強化させた人物としても知られている。 スティムソンについては前回おおよその説明をした。ここで補足しておくことは、1927年クーリッジ大統領の時ニカラグアに特使として派遣され、「ニカラグア人に独立して自治を行う能力はない」と報告した。同様にフィリッピン総督時代に、同じ理由でフィリッピンの独立に反対している。フーバー政権の国務長官の時、1930年から31年のロンドン海軍軍縮会議ではアメリカ主席代表として参加している。スティムソンはこの時日本全権代表だった元首相若槻礼次郎とやりあったことになる。ついでに云えば、この条約に批准したことで統帥権干犯問題が起き、以後日本は軍部の暴走を招くことになる。スティムソンはまた、1931年満州事変が起きたとき、「満州国」を傀儡政権だとして断固として承認に反対した。いわゆるスティムソン・ドクトリンである。スティムソンは旧日本軍部の手口をよく知る人間の一人でもあった。 |
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委員会はこうしたメンバーで構成されていた。 Wikipedeiaの解説はこう続けている。
この時点でバーンズはトルーマンに対する影響力という点ではスティムソンよりも上であり、この意味では一番の実力者だったかも知れない。少し詳しく見ておこう。 ジェームズ・フランシス・バーンズは1879年生まれだから、ヘンリー・スティムソンより一回り若い。だが、スティムソンとは全く対照的な経歴の持ち主だ。以前見たように、スティムソンはバリバリのエリートであり、アメリカの支配階級の知性と良心を代表する人物なら、バーンズは典型的なたたき上げであり、日本風に云うなら寝業師の政治家といってもいい。アメリカの大野伴睦とまでいうとバーンズに失礼かも知れない、しかしバルカン政治家三木武夫以上ではない。 (こう云うとき、引き合いに出す日本の政治家が、すでに20年以上も前に政治の表舞台から姿を消した人になってしまうのは、どうした訳なんだろう。今引き合いに出せる政治家は小泉純一郎くらいか。扇動政治家、ポピュリスト小泉純一郎は云うまでもなく日本のヒトラーだ。大分小粒だが、危険きわまりないことには変わりない) バーンズは、サウス・カロライナ州チャールストンで、カトリックの家に生まれた。14歳でカトリック教区の学校を出ると、すぐに裁判所の速記者になった。その後カトリックをやめて監督派教会に属している。裁判所の現場たたき上げだけの経験で1903年に弁護士の資格を得ている。 20台のちょうど半ば頃だ。だから、バーンズは高校も大学も法律学校も出ていない。大学を出ていなかったトルーマンとちょっと共通するところがある。最初のチャンスは1910年にやってきた。地域の民主党の下院議員候補になったのだ。サウス・カロライナが圧倒的な民主党の地盤であったことを考えると、自動的に下院議員に当選したのも同じことだった。そして有能な立法家であることを証明する。 ただ政治家としては、人目を引く雄弁家というタイプではなく、裏で妥協を図るタイプだった、という。1930年には上院議員となり、着々出世の階段を登る。このころ、フランクリン・ルーズベルトと知り合いになり、後に「刎頸の友」と言われるほどの強い絆を持つことになる。 「私はニューディーラーであることを認める。もしニューディール政策が、一握りの支配層から金を奪って、標準的なアメリカ人に分配するというのなら、私はワシントンへ出かけて、大統領(ルーズベルト)を支援する」とはこの時の彼の言葉だそうだ。 といって彼が左翼的なニューディーラーだったわけではなく、どちらかと言えばニューディール政策のケインズ主義的傾向が彼の利益に合致したのだと思われる。 すなわち政府が借金をしてでも、公共投資を増加させ、社会に有効需要を政策的に作り出せば、経済は回復し不況知らずになる、という考え方だ。日本では池田内閣の所得倍増論から本格的に導入された経済政策である。もちろん何事にも落とし穴はあるのであって、この政策は政府の歳入が永久に歳出を上回ることを前提にしなければ鉄壁の政策とは成り得ない。 ともあれ、バーンズは政府の公共投資の増えることを歓迎したのだ。実際当時彼は「道路建設」のチャンピオンとも目されていた。1938年にルーズベルトが試みた「保守的民主党員の追放」には反対の立場をとった。 しかし、外交政策に置いては、ドイツに反対しフランスとイギリスを支援するというルーズベルトの政策を熱烈に支持した。1941年から1942年には、最高裁判事にも任命されている。バーンズは後に国務長官になっているから、アメリカの立法・司法・行政で主要な役割を演じたと言うことになる。 1943年5月には戦時動員局(the War Mobilization Board)の局長に就任、「大統領補(assistant president)」の異名をとった。1944年の大統領選挙では民主党副大統領候補の本命と目されたが、その保守的傾向が嫌われ、結局トルーマンが民主党の副大統領候補に指名された。 そして1945年の6月にトルーマン政権の国務長官に任命される。従ってバーンズは、先に暫定委員会の委員に指名された後、国務長官に任命されたことになる。 こうしたバーンズの経歴から、彼が日本への原爆投下にどのような態度を取ったかは、容易に想像がつくだろう。 バーンズを理解するために、その後の経歴をたどっておこう。1947年、バーンズはトルーマンと不仲になり、結局閣外に去ることになる。1951年から1955年にはサウス・カロライナ州の知事を務めている。1952年には、共和党のアイゼンハウワーを支持し、事実上民主党から共和党へ鞍替えする。 副大統領のリチャード・ニクソンに古き南部の民主党をいかに共和党が打ち負かすかについても伝授している。1972年93歳の高齢でこの世を去った。 (以上は主として以下の記事に依った。http://en.wikipedia.org/wiki/James_F._Byrnes) (以下後編へ) |