No.9 平成18年1月22日




 前回で見たように、結局、原爆投下に伴う「大統領声明」原稿にトルーマンが署名することによって、「原爆投下」に対する正式な政治決断が下された。この政治決断は、結果として7月25日に先行して行われた軍事決断の追認作業となったのである。つまり広島への原爆投下は、形の上では(そして後に見るように実質的にも)軍事決断先行の形で実施された。

 ところで一つどうしても不思議なことがある。ロバート・ファレルの編纂した「トルーマンと原爆:文書から見た歴史」に沿って、「決断」に至る過程を追っていくと、段々「決断者」トルーマンの影が薄くなっていくのだ。これはまだ漠然とした感じなのだが、トルーマンを取り巻くある種の勢力が、原爆投下へ向けての強い意欲を持っていて、トルーマンに決断させたという感じである。これもやがてはもう少しはっきりした輪郭を取ってくるだろう・・・。

 第10章は、原爆投下の大統領声明に付随した形での陸軍長官声明である。
(原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap10.htm 訳文は第10章 陸軍省広報発表 C.1945年8月6日

 ロバート・ファレルはこの陸軍省広報発表の性格について、次のように述べている。

 「合衆国大統領に承認された広報発表資料ですら、原爆開発計画の詳細な陳述という意味では、新兵器に関する一般アメリカ人の強い好奇心を十分に満足させるものではなかった。従って陸軍長官スティムソンは、追加データを盛り込んだ自分自身の広報発表資料を用意した。」
 つまりスティムソンは、アメリカ国民に対して説明責任を果たそうとしたわけだ。説明責任を果たそうとしただけあってその内容は、網羅的である。スティムソンの立場から原爆開発のいきさつを鳥瞰的に描いており、その意味で私の断片的・孤立的知識を上手につないでくれている資料ともなっている。この意味で、先の大統領声明よりはるかに理解の整理に役立った。早速見てみよう。
(原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb11.htm 
訳文は陸軍省長官声明

   「数千もの参加者の最大限のエネルギー、極めて高い国家への義務感、工程遵守への気持ちなどからもたらされたこの開発は、科学、産業、労働力、そして軍が一緒となった、恐らくは歴史上最高の業績であろう。」

 と最大限に自画自賛したあと、すぐに本題に入っている。

 原爆開発を準備した科学上の諸発見が1939年までに主として西ヨーロッパとアメリカで行われたこと、そうした科学的知見は秘密でも何でもなく学会発表を通じて、各国の科学界によく知られていたこと、1939年、第二次世界大戦が勃発すると各国が一斉に開発競争に入ったことなどが説明されている。

 「1939年の遅く、原子力エネルギーの軍事的利用問題がルーズベルト大統領の関心を引くようになった。」

 と陸軍長官声明は述べている。これは有名なアルバート・アインシュタインの手紙がそのきっかけを作った。ファレルはこのくだりを次のように補足している。

 「1939年、アルバート・アインシュタインは原爆を製造する計画にアメリカ政府が支援するよう要請する手紙に署名した。実際は、その手紙は1938年にドイツで実験に成功し、その後警告を発するようになった2人の物理学者、ユージン・ウインガーとレオ・シラードがアインシュタインために書いたものだった。
その手紙はルーズベルトにすぐコンタクトのできるニューヨーク市の経済学者、アレキサンダー・サックスに託されサックスが届けた。サックスがルーズベルトを2度訪問した後、ルーズベルトは委員会を任命し、イタリアからの亡命者であり、コロンビア大学で教鞭を執っていた科学者、エンリコ・フェルミを委員に指名、6000ドルの基金で原子層を構築できる黒鉛を購入させた。
全体的な研究開発に着手する決定が出たのは、1941年12月6日、パールハーバーのまさに前日であった。この間2年実際のところ3年経過している。この結論がベルリンの実験の直後に行われていたとしたら、2−3年の時間的ロスはなかったことになり、1943年までには原爆は完成していたろう。
そうすれば原爆はナチス・ドイツに対して使われていたろう。その時ソビエト軍はまだ東部戦線に突入していなかった。」

 こうして、アメリカはドイツに対する対抗手段として、原子爆弾開発に着手したのである。以降マンハッタン計画がスタートするまでに2回転機が訪れている。1回目が1941年である。長官声明はこう説明している。

   「1941年の終わりには、全面的な研究体制への移行が決定され、科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development-OSRD)の下に、著名なアメリカの科学者グループが指示し、全ての計画がOSRDとの請負契約下に移行した。OSRDの局長、バニーバー・ブッシュ博士は直接大統領に報告を上げることとなった。」

 この時点で原爆開発計画は、連邦政府内の行政システムの中に取り込まれ、科学研究開発局の傘下に置かれた。そして局長が大統領に直接責任を負う体制をとった。問題は科学研究開発局局長、バニーバー・ブッシュという人物である。やや詳細に次のURLが説明している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vannevar_Bush

 ブッシュは1890年生まれ。エンジニアであり、科学行政官でもある。またワールド・ワイド・ウエブ(WWW)の基本概念の提唱者の一人でもある。Vannevar Bushだから、「バネバー」と発音するのだと思っていたら、そうではなく、「バニーバー」と発音するのだそうだ。

 Wikipediaの記述を読むと、とわざわざ発音記号まで書いてある。よほどみんな最初は正しく読めなかったものと見える。

 ブッシュは、1932年―1938年の間、マサチューセッツ工科大学の副学長、工学部部長を務めている。1939年には社会的地位の極めて高いとされたカーネギー協会の理事長に就任している。(カーネギー財団とは別)また1939年には国家航空諮問委員会の委員長に就任し、完全な政界入りをすることになる。1940年には国家防衛研究委員会の委員長に就任。1941年に同委員会が科学技術開発局に取り込まれた時、局長に就任している。アメリカの科学技術を産業と結びつける扇の要の人物と言うことができよう。もちろん原爆開発計画にも最初から関わっている。ブッシュがいかに重要な人物だったかは次のエピソードが物語っている。1940年夏といえばすでにヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていたが、「この夏、死んだら困る人の一番目はまず大統領、それからバニーバー・ブッシュは二番目か、三番目だろう」と云われた、という。

 つまり、原爆開発にあたって、最も優れた科学行政家であり、科学界と産業界を結びつける要の人物を、肝心な研究開発の政府ポジションに据えたわけだ。


 アメリカの原爆開発計画に取って次の転機は、いうまでもなく「マンハッタン計画」の発足である。スティムソンの声明は次のように述べている。

   「1942年6月には研究の大幅拡大と主要な部分の陸軍省移管を勧告した。陸軍省長官は、レスリー・R・グローヴズ少将をこの計画全体の執行責任者に任命、報告を直接陸軍省長官と参謀総長に上げる体制を敷いたのである。」

 その半年後には、早くもテネシー州にクリントン技術工場、ワシントン州ハンフォード技術工場の建設に着手している。

 話は変わるが、英語の文献を含めいろんな文献に、この工場のことが出ているが、その名称と所在地について私は混乱を来していた。しかしこのスティムソンの声明を読んではじめてスッキリ整理ができた。

 マンハッタン計画では大規模生産・製造工場はテネシー州とワシントン州の2カ所にあった。テネシー州がクリントン技術工場(Clinton Engineering Works)、ワシントン州がハンフォード技術工場(Hanford Engineering Works)である。声明文から引用しよう。

 「クリントン技術工場は、テネシー州ノックスビルから西に18マイルほど離れた連邦政府保留地区内に5万9000エーカーの敷地を占めた。・・・オークリッジという名前の連邦政府所有運営の新しい都市が、そこで働く従事者を収容するために連邦政府所有地内に建設された。」

 「ハンフォード技術工場は、ワシントン州パスコ市から西北に15マイル離れた連邦政府保留地区内に43万エーカーを占めた。ここでは連邦政府所有運営になるリッチモンドという町が作られ、約1万7000人が居住した。」

 テネシー州のオークリッジも、ワシントン州のリッチモンドも、直接工場のある地域を指す地名なのではなくて、いずれもそれぞれの工場で働く従事者と家族を住まわせるために、新たに生まれた政府所有・直轄運営の「住宅都市」の名称だったのだ。なお、オークリッジには7万8000人が居住したという。

 そしてニュー・メキシコ州サンタフェ近郊にできた研究所が通称、ロスアラモス研究所で、原子爆弾そのものの研究開発に取り組んだ。ここの最高責任者がオッペンハイマーだった。そして―――、

 「規模に置いて小さいその他の工場は、必要とする原材料の基本的な生産・製造を目的として、合衆国内及びカナダにあった。計画に必要な特殊機器、原材料、処理装置などを開発したり、研究するのに大きく貢献した研究所は、コロンビア、シカゴ、カリフォルニアの諸大学内、その他の学校内、あるいは民間企業の研究所内に置かれた。」 
のである。


 次ぎに非常に計画と産業界の結びつきに関する、興味深い記述がある。引用しよう。

 「計画の成功に大きく寄与した産業界の企業をすべてリストするわけにはいかないが、いくつかは触れておかないわけにはいかない。デュポン・ド・ヌムール・カンパニーはワシントン州ハンフォード工場の設計建設とその運営を担当した。ニューヨークのM・W・ケロッグズ・カンパニーはクリントン工場の設計をし、そのクリントン工場はJ・A・ジョーンズ・カンパニーが建設し、ユニオン・カーバイド&カーボン・カンパニーが運営した。クリントン第二工場はボストンのストーン&ウエブスター・エンジニアリング・コーポレーションが設計建設をし、テネシー・イーストマン・コダック・カンパニーが運営した。装置機器類についてはほとんどアメリカの全ての主要な企業が供給した。代表的なところではアライド・ケミカルズ、クライスラー、ジェネラル・エレクトリック、ウエスティングハウスなどである。」

 前述のように、1941年原爆開発の研究体制が科学研究開発局に全面的に移行した際、この計画に関わる発注は全て「科学研究開発局からの請負契約」となった。ここで上げられている企業群は、全てこの輝かしい「成功」に「貢献」した企業として上げられている。
しかし見方を変えて云えば、これらの企業は全て「原爆特需」の恩恵にあずかった軍需産業群である。しかもわずか3−4年の間に20億ドル市場に急成長した「将来有望な原子力エネルギー市場」のまっただ中にいる企業群だ。こうした企業群が自分たちの手にした「新市場」を戦争が終了してからも維持、発展させたいと考えるのはごく自然な成り行きである。
また、そのためにも、どこでもいい、原爆を使用してみたいと考えるのもまた、ごく自然な成り行きである。ここに、産業界と軍部とが利害を等しくしてゆく過程を推測するのは行き過ぎだろうか。
マンハッタン計画の立役者、レスリー・グローヴズは1946年、昇進したばかりの陸軍中将の地位を去って、スペリー・ランド・コーポレーションに副社長として転出、日本流に云うなら天下っている。

 ここに、後のアイゼンハウワー大統領が職を去る時の演説でその危険性を警告した「軍産複合体制」の萌芽を見出し、その体制が「広島に対する原爆投下」への大きな圧力となった、と考えるのはうがちすぎであろうか?今のところ直接証拠はない。しかし状況証拠は上記の推測を裏付けている。

 今から30年前以上も前、まだ私が駆け出しの経済記者だったころ、ハンフォード工場を設計・建設したデュ・ポン社の東京事務所長にインタビューしたことがある。東京事務所の役割は、日本の提携先との連絡事務が主な仕事だったというが、所長のちょっと変わった経歴を聞いて不審に思ったことがある。その所長の名前は仮にW・D氏としておこう。日本語がぺらぺらなのだ。戦時中アメリカ軍の諜報機関に所属して、そこで半年で漢字を含めて日本語をマスターしたのだそうだ。当時そういう訓練コースがあったという。こういう人物が戦後デュ・ポンに入り、東京事務所長として、一体どんな仕事をしていたのか・・・。

 また当時やはりここに名前のあがっている、GEやウエスティングハウスの東京事務所を取材したこともある。主な仕事は、日本の技術提携先への支援だった。
彼らが日本に売り込みたがっていたのは、日本の電力会社向けの原子力発電用軽水炉だった。
戦後25年以上もたって、極東の島国への原発用軽水炉の売り込み、その原点はマンハッタン計画・ヒロシマへの原爆投下だったことは疑いようがない。


 陸軍長官声明はまた、報道管制・検閲に関して、非常に興味深いことを云っている。

 引用してみよう。
 「アメリカの新聞やラジオは、その他で見られるケース同様、検閲局( the Office of Censorship)の要求に誠心誠意応え、この話題のいかなる段階に置いてもその報道を抑制した。」

 このくだりは、計画成功に向けてアメリカ中が協力してくれた、マスコミも例外ではなかったことを強調した箇所である。いわば愛国美談だ。

 こういうことである。原爆の秘密を守るために、検閲局の要請に応えて、アメリカのマスコミは計画に取って不利益になるような報道は一切自分で抑制してくれた、と言うのだ。実際原爆投下の後も、逆に投下の後だからこそ、アメリカ軍は徹底的な検閲をおこなった。これは、7月25日、ハンディから出された原爆投下の指示文書中でも明確に指示している。また事実マッカーサーはこの指示を忠実に守った。

 ここで思い出すのは、ウィルフレッド・グラハム・バーチェット記者のことである。
(やや詳しい説明は以下。http://en.wikipedia.org/wiki/Wilfred_Burchett

 オーストラリア・メルボルン生まれのバーチェット記者は、9月2日、ミズーリ号で連合国に対する日本帝国の降伏調印式が行われたその日、東京を発って、20時間(一説には30時間)汽車を乗り継いで広島に入った。マッカーサー司令部は、当時南日本への外国人記者立ち入りを厳禁していたから、潜入というべきである。欧米の新聞が米軍部の徹底的な検閲のため、米軍部発表を丸写して報道していた頃であり、世界には広島の惨状は全く伝わっていなかった。これは現地に行けないのだからやむを得ないという見方もあるが、日本から送られる記事はマッカーサー司令部が検閲をかけ、少しでも都合の悪い記事はすべてボツにしたためでもある。

 バーチェットは自分でモールス信号発信器を持参し、特派員契約をしていた、ロンドンのデイリー・エクスプレス紙に記事を送った。これが有名な9月5日付け同紙に掲載された「The Atomic Plague」(原子の伝染病)である。この記事の中で、バーチェットは自分の見たままの広島の惨状を報告したばかりでなく、原因不明の伝染病にかかって死んでいく広島市民の様子も報道した。これは急性放射線障害による死亡で、記事のタイトルにもなっている。この記事が世界に大反響を呼んだ。原爆の惨状報告をはじめて英語で世界に伝えた記事である。バーチェットはその後、反資本主義的な観点から、カンボディア・北朝鮮・中国・ベトナムなどに取材し、ポト・ポル政権礼賛の記事を書いたりしている。オーストラリア共産党員ではないか、KGBのメンバーだ、とか噂も立てられた。

 この時期、広島に入って、原爆の惨状を取材した外国人記者がもう一人いる。ウイリアム・H・ローレンスと言う人で、盛んにマンハッタン計画賛美の記事を書いてピューリッツァ賞を受けた、同じくニューヨーク・タイムスの同姓同名の記者ウイリアム・L・ローレンスとは別人だ。
ここの話は以下のホームページに詳しい。
http://www.commondreams.org/views04/0810-01.htm
この記事の訳文も次で見ることができる。
http://hiddennews.cocolog-ifty.com/gloomynews/2004/09/by.html

 広島の惨状と急性放射能障害を報告したH・ローレンスの記事は、ニューヨーク・タイムスに掲載されることはなかった。検閲にかかったのである。

 シカゴ・デイリー・ニュースのジョージ・ウエラーも長崎に潜入して記事を書いたがこれもマッカーサーの検閲にかかって全くのボツになった。

 ウイリアム・L・ローレンスは次のURLで見ることができる。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_L._Laurence
L・ローレンスはニューヨーク・タイムスの科学記者である。マンハッタン計画の総責任者、レスリー・グローヴズと仲が良く、アラモゴードの最初の核実験に立会い、長崎原爆投下の時には観測機に乗り込んで、投下を目撃している。「実験と投下」を目撃した唯一のジャーナリストである。
科学記者の立場から、原爆礼賛の記事を書き、ピューリッツア賞を受けた。バーチェットが広島で目撃した「急性放射線障害」については、全体として云えば「あり得ない」と否定している。その後、ニューヨーク・タイムスの科学部部長を務めてもいる。
先ほどのWikipedeia の紹介によれば、原爆投下に関する大統領声明も陸軍省長官の声明も、このウイリアム・L・ローレンスが書いた、という。しかし2つの文章は、明らかにスタイルや調子が違う。恐らく一人の人物の手になるのではなく、何人もの人によって手が加えられたものだろう。「美文だが格調がない」と私が感じた部分は、L・ローレンスの手になるものかも知れない。

 当時原爆の被害地に直接潜入して、現地レポートを書いた外国人記者は3人いた。バーチェット、H・ローレンス、ウエラーだ。このうち2人はマッカーサー司令部の検閲にかかって、記事をボツにされた。バーチェットだけが送稿に成功し、惨状を世界に伝えた。逆にL.ローレンスのように積極的に米軍部の世論操作に積極的に協力したものは、ピューリッツア賞を受賞し、出世していく。全体として云えば、米軍部のマスコミ対策・世論誘導は成功したことになる。

 ウイリアム・L・ローレンスに代表されるように、アメリカのジャーナリズムがマンハッタン計画、広島への原爆投下以降、「政府や軍部に書かされるジャーナリズム」の性格を、次第に帯びていく。
そしてアメリカの一般国民は、核兵器の実態を知らされずに一方的に政府の発表を信じていく傾向を持ちはじめる。さらに、これはベトナム戦争報道、グレナダ侵攻報道、最近の湾岸戦争、イラク戦争報道と一つの流れになっていく。 

 アメリカ軍部と癒着した形で報道するアメリカの「一流ジャーナリズム」が次第にできあがっていくわけだが、このことが現在、「核兵器廃絶」が前進しない、隠れた、しかし大きな障害となっている。
その原点は「ヒロシマの原爆投下」にある、このことは記憶しておいていいことだ。


 さて陸軍長官の声明に戻ろう。どうでもいいことだが、次のような文章が唐突に差し挟まれている。

  「計画の成功に関する責任はレスリー・R・グローヴズ少将との関連において語られるべきである。かくも短期間に我が軍事力にこの兵器の効率的開発を保証したグローヴズ少将の手腕は実にめざましいものであり極めて大きな賞賛に値する。」

 グローヴズと仲のいい、ニューヨーク・タイムスのL・ローレンスがこの部分を書いたものだと想像すれば、グローヴズとローレンスの「もちつもたれつ」の関係が浮かび上がって来て面白い。

 そういえば、陸軍省長官の発表にはもう一カ所、個人名を上げて賞賛した箇所がある。オッペンハイマーに関する所だ。声明はこのように記述している。

 「効果的爆弾と密接に関連した部品に関係する技術的諸問題を取り扱うために特別研究所が、ニュー・メキシコ州サンタフェ市の地域内で、孤立した地区に立地している。この研究所はJ・ロバート・オッペンハイマー博士が計画、組織化し自ら采配をふるった。原爆そのものの開発は、彼の天才と着想、それに彼の同僚たちへのリーダーシップに大きく負っている。」

 ここもL・ローレンスの手になる所かも知れない。

 グローヴズとオッペンハイマーといえば、この時期非常に仲が良かったようだ。
広島への原爆投下後、ロスアラモス研究所にいたオッペンハイマーにグローヴズが電話をかけて、投下の報告をしている。そのやりとりから窺えることだ。この電話記録は次のURLで見ることができる。
http://www.dannen.com/decision/opp-tel.html

 少しご紹介しておこう。

 グローヴズは1945年8月6日、サンタフェ時間午後2時にオッペンハイマーに電話をかけている。

グローヴズ: 君をとても誇りに思うよ。君の所の全員にもだ。
オッペンハイマー: うまくいきました?
グローヴズ: 明白だ。ものすごい爆発だった。
オッペンハイマー: いつでした?日が落ちてから?
グローヴズ: いいや。残念だったが、日中にやってしまわなきゃならなかった。
飛行機の安全を考えるとね。なにしろ決定権は現地の指令官の手にあるんでね。日が沈んでからの方がいいことは彼も分かっていた。
散々いっといたからね。でも私は、あなた次第だ、と云った。最重要事項じゃないけれど、その方が望ましいからね。
オッペンハイマー: そうです。誰だってその方がいいと思っていますよ。
でも心からおめでとうを申し上げます。長い道のりでしたね。
グローヴズ: そうだ、本当に長い道のりだった。
私のこれまでのもっとも賢明な考えの一つが、君をロスアラモスの責任者(the director)に選んだことだった。
オッペンハイマー: さあ、私は疑ってましたがね、グローヴズ将軍。
グローヴズ: 私がいっときだってそれを疑ったことがないのは君も知ってるだろう。
オッペンハイマー: シクスターさん(誰かは分からない) がミューチュアル(これもどこかはわからない)から電話をくれました。
あなたのオフィスに連絡を取るようにと言っておきました。
グローヴズ: はい。
オッペンハイマー: 彼が何を考えているのかわからない。
グローヴズ: いや、私にインタビューして放送したいんだよ。
ご要望には応じかねます、といった所だ。
オッペンハイマー: 私もそう思います。
グローヴズ: 今できるだけ、私が分かっている限り、これまでもそうだったように、「保安」を真ん中に据えておかなきゃならない。
オッペンハイマー: まさしくそういうだろうと思っていましたよ。2−3日前にそれに関連した注意書きを作っておいた所です。今日、みんなに発表しようと思ってるんですが、全くあなたが云いたいことが書いてあります。
(中略)
電話をありがとうございました。ご親切な言葉にも感謝します。これから少しでもあなたがやりやすくなるといいですね。
グローヴズ: 今から、パーソンズとファレルから来たある内容のレジュメを送る。内容が広まらないように取り扱いに注意して保管して欲しい。
君の「飛行中隊 」(Flight)のトップのほんの少しに見せるのは構わないが。
オッペンハイマー: ええ、そのことについてちょっと質問が・・・。
グローヴズ: 君の質問もこの私の手元にある内容も結局、次の言葉、ということだ。
「あらゆる努力は次なる目標に捧げられる」
オッペンハイマー: よろしいです。
グローヴズ: 次なる目標がはっきりし次第、それ以上の努力を傾けなければいかん。
オッペンハイマー: いいですね。予定に遅れないようにします。
グローヴズ: 今から君は新聞とかそういったものに悩まされると思うが、そいつが何であれ、君は全体観はしっかり持っていると思う。
オッペンハイマー: いや大して悩まされませんよ。私は彼らの中身を十分事前チェックできますからね。(I’ve got a lot of censors between me and them.)
グローヴズ: オーケー。 


 ざっとこんな調子だ。

 グローヴズのいう次なる目標が具体的に何かは分からないが、課題は広島原爆投下後のマスコミ対策であり、世論誘導であろうことは間違いない。

 バーチェットの記事がロンドン、デイリー・エクスプレスに発表され、世界に衝撃を与えた4日後、グローヴズはアラモゴードの核実験場(トリニティ実験場)に乗り込み、アメリカから選りすぐった30人のジャーナリストを集めて、いかに実験場に残留放射能が残っていないかを説明する。
この時の広報発表は例のウイリアム・L・ローレンスが書いたと言われている。
そしてほとんどローレンスの書いた広報資料の通りに、各新聞は実験場に放射能が残っていないという「事実」を報道した。グローヴズのバーチェットに対する反撃である。
「事実」にあからさまな「捏造」を持って対抗したわけだ。

(以下次回)