No.8 | 平成18年1月17日 |
Fail-Safe(フェイル−セーフ)という映画があった。1964年の作品らしい。監督はシドニー・ルメットだ。 (http://www.imdb.com/title/tt0058083/) Fail-Safeは軍事用語らしい。「核装備の爆撃機が何かの誤りで攻撃目標を爆撃することを防ぐ制御装置」(研究社 英和大辞典)のことだそうだ。いわば人的・機械的ミスをカバーする安全弁といったところだ。ユージン・バーディックという人の小説が基になっている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Eugene_Burdick) ユージン・バーディックは1962年にこの小説を出版している。映画が発表された翌年、突然の心臓麻痺のため46歳でこの世を去っている。「突然の心臓麻痺」と聞くと何か嫌な想像をしてしまう。 映画は全く題名の通りの展開で、水爆を搭載したアメリカの編隊が誤って、モスクワを攻撃に出かける。ところがこの「フェイル・セーフ」が機能しない。アメリカの大統領はソ連の書記長とホットラインで話をし、この編隊を撃墜するように要請するが、ソ連の書記長はなかなか信用しない。もしモスクワに水爆が誤って投下されたら、その謝罪として、アメリカはニューヨークに水爆を落とすと約束して、書記長はやっと大統領を信用し、共同でこの爆撃機を落とそうとする。ところが、1機だけソ連の防空体制をかいくぐり、モスクワへの水爆投下が確定的になる。 この時ソ連の書記長は、自ら死を覚悟しながらも大統領にこういう。「誰の責任でもない。いわば巡りあわせなのだ」。この言葉に大統領は猛然と反論する。「この世の出来事に誰の責任でもないことは起こりえない。誰かが責任を負わねばならない。」 ここらは日本語にするとニュアンスが少し変わるかも知れない。日本語で「責任を負う」というと、罪を引き受けて「ハラキリ」するというニュアンスもある。誰かが糾弾されなければならない、と言う意味でもよく使われる。大統領の云う「誰かが責任を負う」というのは、もちろんそういう意味で使っているのではない。「責任の所在を明らかにし、その原因を追求する」という意味で使っている。誰かを単に責めると言う意味で使ってはいない。 人口500万人のモスクワが消滅した直後、約束を守って、人口800万人のニューヨークに水爆が落とされたところでこの映画は終わる。ところでこの時、アメリカの核爆撃機が搭載していた水爆は220メガトンだった。つまりTNT換算で2億2000万トン相当の破壊力だ。広島に落とされた原爆は、直後の大統領声明によれば2万トンだったが、これは誤りで、実際投下後の計測では1万3000トンだった。1945年から1960年頃、わずか15年の間に核兵器という怪物は、とてつもないモンスターに変貌を遂げていたわけだ。アラモゴードの実験では、半径800メートルの中にいる人間はほとんど蒸発状態と云うから、この水爆が落ちたモスクワでは単純に云って爆心地から半径8800Km以内の人間はほとんど蒸発状態ということになる。 (こんなものを何万発も作ってどうしようというのだろう?気が違っているとしか思えない。) ところで、問題はこの米大統領の言葉だ。「誰かがその責任を負わねばならない」この言葉をそのまま、ヒロシマに対する原爆投下に当てはめたとしたらどうだろうか? 責任を負わねばならないのはトルーマン(実に気の毒とは思うが)だが、その原因とメカニズムは明らかにされているだろうか? 戦後の核競争・核拡散の原点がすべて広島に対する原爆投下から出発しているとすれば、「ヒロシマの追求」は何もなされていないとしか私には思えない。 「トルーマンは何故原爆投下を決断したか?」―――、 このテーマを追求することは、「戦後の核競争・核拡散の原点はすべて広島の原爆投下にある」という仮説の検証でもある。 |
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さて、運命の1945年7月25日を迎える。前回まで見たとおり、大統領トルーマンはこの時ポツダム会談出席のため、ベルリン郊外のバベルスベルグ、通称「ポツダムのホワイトハウス」いた。トルーマンと共にポツダムにいた陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャルは、参謀総長代行(Acting Chief of Staff)のトーマス・T・ハンディに指示を送る。この指示を受けてハンディは米陸軍戦略航空隊の司令官のカール・スパーツ大将へ、日本に対する原爆投下の実行指示書を送る。これがロバート・ファレル編集「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」第6章の中心内容となっている。 (原文はhttp://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap6.htm、訳文は第6章:トーマス・T・ハンディ将軍からカール・スパーツ将軍へ 7月25日) 当時太平洋戦線は、海軍・海兵隊はチェスター・W・ニミッツ元帥の指揮下、陸軍はオーストラリアから北上中のダグラス・マッカーサー大将の指揮下にあった。だから、原爆投下は大統領−陸軍参謀総長ラインから実行部隊への直接の命令と言うことになる。 ここで思い出して欲しいのだが、「日本への原爆投下」は政治問題として大統領が暫定委員会の助言を受けて決定、投下そのものは軍事問題として、目標地点を含めて米軍部が決定することになっていた。だから日本に対する原爆投下は、まず大統領が陸軍長官に「投下の命令」を出した後、すなわち政治問題を解決した後、軍事問題としてこの指示書が出されるという手順にならなければならない。 (参考:http://www.inaco.co.jp/isaac/back/007/007.htm) ところが、大統領から陸軍長官への正式文書は見あたらない。大統領は三軍の総司令官でもあるわけだから、手続き上おかしいわけではないが、形の上では政治問題未解決のまま、ハンディからスパーツへ指示書が出されている、という事実だけは記憶に止めておいていい。いわば軍部先行で原爆投下の指示が出されたわけだ。 次ぎにどうしても記憶に止めておいておかねばならない事実は、この指示書が7月25日に出ているとことだ。 日本にポツダム宣言が出されるのは7月26日だから、原爆投下の指示はポツダム宣言の前に出ている。もちろん、日本がポツダム宣言を即座に受諾すれば、この指示は取り消しになったであろうが、それは今大きな問題ではない。 「日本がポツダム宣言を受け入れないので原爆を投下した」というなら、手続きの上で順序が逆になっている。このことも記憶に止めておかねばならない。ファレルは、「日本がポツダム宣言を即時受諾すれば、原爆投下の軍事的指示は取り消しになった筈だ」として大して問題にしない姿勢だが、政治手続きとはそういうものではない。順序の逆転はトルーマン政権の一定の政治的意思表示と見るべきである。 さてハンディの指示の内容は、おおよそ以下の通りである。 (指示書の全文は:第6章:トーマス・T・ハンディ将軍からカール・スパーツ将軍へ 7月25日) 1.第20航空隊509混成航空群は1945年8月3日以降、天候により広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を運ぶこと。 2.追加爆弾は準備ができ次第運ぶ。 3.厳重な報道管制を敷く。 この指示書からも窺えるようにこの時点で投下のできた爆弾はウラン型(リトル・ボーイ)1発だけで、プルトニウム型(ファットマン)はまだ準備ができていなかった。ということはよく言われるように、ウラン型原爆は実験なしの、ぶっつけ本番だったということだ。 ところで509混成航空群は英語ではComposite Groupである。これはファレルも云っているようにおかしなネーミングである。Compositeは寄せ集めて一つにしたということだから分かるにしてもGroupという編隊名称はどうしても見つからない。例によって研究社の英和大辞典によると、アメリカ空軍の名称で「航空団−Wing−の編成単位で2個以上の飛行大隊−Squadron−よりなる」としてGroupに「群」の訳語を与えている。空軍軍事術語の一つなのだろう。因みに飛行大隊(Squadron)は2個以上の中隊(Flight)からなるのだそうだ。1中隊は普通10機から18機からなるから、航空群はかなり大きな編成となる。 またファレルに依れば、509という数字はB29爆撃機が含まれていることを意味しているという。多くの文献が509編成部隊の訳語を与えており、それなりの根拠があるのだろうが、「群」という言葉が専門訳語にある以上、この文章では、509混成航空群としておく。 もう1点重要なことは、この指示書で指定されている、広島、小倉、新潟、長崎の4都市のうち、5月10日・11日の投下目標委員会で「AA」(ダブルA)に分類された都市は広島だけで、小倉(正確には小倉造兵廠)と新潟がAだった。長崎は名前もあがっていない。まるでとってつけたようだ。この時京都もAAだったが、後に国務省の強硬な反対にあって、投下目標から外された。 |
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さて、こうしてこの指示書が出た翌日の7月26日、さらに運命的なポツダム宣言が出される。これが第7章の中心の話題となる。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap7.htm 訳文:第7章 ポツダム宣言) このポツダム宣言も今考えると、おかしな宣言である。というのはこの宣言の署名者は、トルーマン米大統領、チャーチル首相、蒋介石主席の3人だが、この時ポツダムにいたのは、トルーマン一人だったからだ。スターリンもいたけれど、ソ連は当時まだ日本の戦争相手国ではないので署名者からは外れた。チャーチルは総選挙のためイギリスに帰っていてポツダムにはいなかった。蒋介石はポツダムくんだりまで出てこれるような状況ではなかった。 「英国代表クレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在であり、中華民国代表蒋介石もポツダムにいなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。 ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったためヨシフ・スターリンは激怒したという。8月8日にソ連対日宣戦布告してから宣言に加わった。」 (ウィキペディアより:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80) つまり、トルーマンはチャーチル・蒋介石と自分自身と3人分の署名をしたわけだ。前代未聞である。 13箇条からなるポツダム宣言には、原爆が使用可能であることには触れていなかった。どころか新兵器開発成功にすら触れていなかった。(ポツダム宣言の原文は、http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap7.htm) ポツダム宣言の英文原文はインターネットでどこかでも手にはいるが、日本語の訳文がなかなか手に入らない。唯一公式の訳文が、以下である。ちょっと見て欲しい。 (http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html) この文章を理解できる日本人が何人いるか?少なくとも私は分からない。英語の原文を読んで何を言っているかはじめて知ることができる。ポツダム宣言は、日本が戦後再出発することになる基本文書だ。日本人全員が戦後の歴史の大前提条件の一つとして共通認識を持っておくべき文書だ。この宣言を受け入れることによって、連合国との戦争は終結したのだから。 ところが、今なおかつこの公式訳文の状態で止めておくと云うことは、日本政府は宣言の内容を、日本国民に知らせたくないのではないかと邪推したくもなる。民間の訳もないではない。しかし、すべてこの日本政府の訳(と思うけれど・・・)を下敷きにしているため、ところどころ意味の通じないところが出てきている。参考に私が訳した文章を掲げて置く。較べてみて欲しい。(ポツダム宣言訳) 私は英語の専門家でもなければ、国際政治の専門家でもない。その私が簡単に発見できる、「意味の通じないところ」がそのままになっているのはどういうわけか。この文書を、日本再出発の基本文書と見なしていない、という他理由が思い当たらない。 私が誤っているかも知れないので、いくつか例示しておく。 まず第1項。「グレート・ブリテン国総理大臣」としてある。原文は「the Prime Minister of Great Britain」である。the Prime Ministerを総理大臣というのはまだしも、Great Britainを「グレート・ブリテン」としたのでは、この署名者の資格が分からなくなる。ここは明らかに「英国本土政府」という意味だ。すなわち、英連邦に所属する政府全体ではなく、英国本土に限定した政府の首相という意味だ。 第3項で、「the British Empire」という言葉が使ってあり、これは大英帝国に属する国々の軍隊という意味で、Great Britainとは明確に使い分けてある。 第9項「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、」とあるが、ここは原文では「The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes」である。「return to their homes」は「各自の家庭に復帰し」なのか?そうではないだろう。特に日本国外に展開する日本将兵を念頭に置けば、「帰還を許されるものとする」ではないのか。でなければポツダム宣言の精神が分からなくなる。 第11項「但し、日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は、此の限に在らず。」この文章が英語原文のどこに該当するのかというと唯一該当しそうなところは、「permit the exaction of just reparations in war.」である。「exaction」は取り立てることを意味する名詞である。「reparations」は「賠償」という意味である。従って「もって戦時賠償取り立てを可能とする(経済の維持)」という意味以外にはあり得ない。再軍備云々は前段、6項で「日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。」といい第7項でも「そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。」(いずれも拙訳)と明確に述べており、第11項で再軍備に触れる必要もないところだ。 第11項で云いたいことは、平和産業・経済は一営んでいいし、支配の目的でなければ原材料輸入もしてもいい、ただし賠償を忘れるなよ、と言うことだ。 私は私の訳が正しいと言っているのではない。ポツダム宣言は戦後日本再出発の基本文書であり、全ての日本人が賛成・反対は別としてその内容を、そしてそれを受け入れることによって戦後がスタートしているということを理解しておく必要がある、そのためには正しい、わかりやすい日本語文章を作らなければならない、と云っているだけだ。日本政府がこんな訳文をまだ公式文書として掲げているのは、ポツダム宣言の精神を日本人に理解させたくないと気持ちがあるのではないか、と考えたくもなる。専門家を集めて作業すれば、すぐできることではないか。 |
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さて本題に戻ろう。ファレルが、原爆投下の文脈の中で、ポツダム宣言を持ち出しているのは、そこに「降伏を受け入れなければ、原爆を使用するぞ」という警告が書き込まれていなかったからだ。 この理由をファレルは次のように解説している。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap7.htm 訳文:第7章 ポツダム宣言 7月26日) 「トルーマンはそのことを明瞭にしたくなかったのである。というのは、米国議会はこれまで、20億ドル近い費用のかかる計画がいったい何なのか知らされず、寛大に認めていた。ところが、実際金を払っている立法府に知らせないまま、敵国政府に先にその情報を提供することに議会が異議を唱えるかも知れないからだ。」 当然マンハッタン計画は極秘の計画だ。トルーマンでさえ副大統領時代は全くなにも知らされていなかった。トルーマンが恐れたのは、納税者であるアメリカ国民に知らせる前に、敵国政府にその存在を知らせ、米議会と国民に知らせることが後になることだった。 「20億ドルの巨額の費用を使って、それが失敗したときのアメリカ国民の非難が恐くて、原爆投下に踏み切った」という説明がなされることがあるが、これは少し事実にそぐわないかも知れない。そんな計画があること、ましてや20億ドル(正確には19億5000万ドル)も使っていることなどは一切秘密で、米国民の知る所ではなかったのだ。それに20億ドルという予算は、戦時中にしてみればさほど驚く金額でもない。インフォプリーズというホームページに1789年から2006年までの米連邦政府の歳入と歳出の表がある。 (http://www.infoplease.com/ipa/A0104753.html)これで見ると1945年は、451億5900ドルの歳入に対して927億1200万ドルの歳出だった。475億5300万ドルの赤字である。恐らくは国債などで穴埋めしたのであろう。20億ドルと言う額は大きな額ではあるが、政治問題化するような額ではない。しかも1941年から1945年6月までの予算総額が19億5000万ドルだったのである。政治問題化するのはそれが秘密予算(いわゆるblind appropriations)であり、米議会と国民に知らせる前に敵国政府に秘密予算の使途を教えることが政治問題だったのだ。20億ドルという額自体は、トルーマンの原爆投下決断の一要素にも成り得ない。大体ぶっつけ本番のヒロシマ原爆投下が成功する保障はどこにもなかったのだ。「失敗すれば、あるいは使わなければ、20億ドルを無駄に使ったとして非難を浴びる」という説明よりも、ファレルの解説の方が説得力に富む。 (確か広島平和記念資料館もこの20億ドル説を原爆投下の理由の一つとして上げていたように思う) 健康保険金や失業保険金、税金を集めてどこにどう使ったか知らぬ存ぜぬを決め込むどこぞの政府とは、ちょっとわけが違う。こういう政府には、税金を払わなくてもよろしいとアメリカの独立宣言には書いてある。(書いてあったかな?) |
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このことが大きく影響したのかどうか、日本政府は「拒絶」の回答を寄越した。この時点で万事休すである。ファレルはこう書いている。 「日本政府はやや侮蔑に近い反応を返してきた。日本の首相は『宣言を無視』という選択をした。その時使った言葉は、多義性をもった言葉『mokusatsu(黙殺)』であり、字義通り訳せば『黙って殺す』と言うことになる。しかし実際ははっきりしないニュアンスをもった言葉だった。東京ラジオは、日本政府は宣言を『mokusatsu』し、戦争を続行する、と放送した。英語の翻訳は『拒否』(reject)となった。」 ところで、この「拒否」(reject)はやや侮蔑的ニュアンスをもった言葉である。少なくともトルーマンはそう取った。ファレルに依れば、トルーマンは後年、この時のことを回想してこういっているそうだ。 「ポツダムで、降伏してはどうか、と聞いたのに(ask)、日本側の返事は実にすげないものだった。私のとらまえ方は、ウーン・・・。要するに彼らは私に地獄へ堕ちてしまえ(go to hell)、と云ったわけだよ。実に効果的な言葉だったね。」 この時のトルーマンの心情は、demandでもないrequireでもない、割と丁寧に「頼んだ(ask)」のに、身の程しらずにも拒否してきた、と感じたのである。それにポツダム宣言は、「日本の軍部が交渉の相手」として、念頭に置かれたものとは思えない。日本の国民、もう少し具体的に云えば日本の天皇を念頭に書かれたものと思われる。そういう観点でもう一度よくポツダム宣言を読んでみて欲しい。トルーマンの念頭にあったのは、日本の天皇だ。だからaskだったのだ。それが侮蔑的な返事を寄越してきた・・・。 当時でも日本の天皇は、「平和主義者」「人道主義者」として捉えられていたらしい。少なくとも日本の軍部とは一線を画す存在として受け止められていた。だからファレルの次のような記述が生まれている。 「こうした行為に日本の天皇が関わっており、いわば共犯だったかどうかについては、当時西側の世界はほとんど何も知らなかったし、その後も長い間知らなかった。裕仁が亡くなった後、宮内庁の当局者が、全くそれまでとは異なる裕仁像を明らかにしてはじめて知ったのである。天皇は軍の司令官たちを支持していたし、しばしば政治的助言も与えていたのである。」 こうして、最初のウラン型原爆は、AAの広島に投下されることが決定的になった。あとは天候次第である。 |
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ファレルの次の章には、「大統領から夫人へ 7月31日」と題する第8章がはさまれている。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap8.htm 訳:第8章 大統領から夫人へ 7月31日) なぜこの章がここにはさまれるのかよく分からない。恐らくその時、トルーマンがどこにいたのかを明確にしたかったのと、夫人を愛する良き夫トルーマンの人柄を伝えたかったのだろう。 広島に原爆が投下された時にトルーマンは、ポツダムからの帰途で、大西洋上にいた。はっきりしていることは、この時点でもトルーマンは、「原爆開発成功」の事実をスターリンが知らないと信じていたことだ。これは7月31日付けの手紙だから、当然原爆投下の指示を出した後のことである。 引用しておこう。(トルーマンが7月31日にベス夫人に出した手紙より) 「スターリンは私が伏せたまま、エースのカードを持っているとは知らない。他のカードは晒している。だからもし彼がスリーカードかツーペア位じゃないかぎり(そうじゃないとわかってはいるがね)、安心して座ってられるというものだ。」 一説には、トルーマンは、ソ連の参戦を知って、原爆投下を急ぎ8月6日に広島に原爆投下をした、と言うことになっている。しかし、この時点でトルーマンはソ連が8月15日にソ連が参戦することをスターリンから直接聞いて知っている。8月3日以降天候さえ許せばいつでも原爆投下できる体勢にあって、なにもここに来て急ぐこともない。実際にソ連が参戦したのは8月8日だ。だから原爆投下がソ連の参戦を早めた、と言うことはできても、その逆ではない。しかしここのいきさつは全体から云えば、マイナーなことだ。どのみちソ連は参戦したし、トルーマンの予想通り、ソ連が参戦すると日本はすぐ無条件降伏した。 それとこの手紙で、明らかになっていることはポツダム会談では、ポーランド問題が大きな暗い影を落としていると云うことだ。 「ポーランドと諸問題も頭痛の種だ。ポーランドは東プロシャに動いており、プロシャのオーデル地方に進入している。もう一回戦争でもしない限りは、彼らはボルシェビキの後押しでそのまま居座ってしまうだろう。」 (夫人への手紙より) ポーランドに代表される東欧問題もソ連のウラニウム原鉱入手と言った観点から見てみると、私のテーマに関連があり、それ自体非常に興味を引く問題なのだが、煩雑になるため割愛する。 |
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ヨーロッパではすでに冷戦が始まっていた。 一方ヒロシマは刻一刻近づいている。 しかしその前にどうしても処理しておかなければならないことがある。原爆投下に関する政治的決断を形にすることだ。前述の通り、7月25日の投下指示は、あくまで軍内部の作戦遂行指示である。指示書に大統領の署名もない。政治的決断、すなわち「原爆投下に関する大統領指示」は明確に文書の形を取っていない。そこで、陸軍長官は大統領に、原爆投下に関する政治的決断を、「原爆投下に関する大統領声明」に事前の、署名による承認をとると言う形で文書化しようとした。 以下は少し長くなるが、ロバート・ファレルの記事から引用しよう。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap9.htm 訳文:第9章 ホワイトハウス 広報発表 C.8月6日) 「アメリカの国民に対して、数年間の原爆開発計画を含めて詳細ないきさつを説明しないまま、広島原爆投下に関する発表を行うわけにはいかない。そしてそのような発表を合衆国大統領の名前を入れないで行うわけにも行かない。そこで、陸軍省の高官たちは広報発表という形で一緒にして詳細なコメントを付けて発表することにした。その発表内容は、当時ポツダムにいた大統領の同意を得て行われている。陸軍省長官スティムソンはポツダム会談のはじめの頃、ポツダムにいて、この広報発表について大統領と色々議論している。 ワシントンに戻ってから、スティムソンは、ポツダム宣言、劇的なアラモゴードにおけるプルトニウム爆弾の実験結果及び英国政府からのいくつかの小さなアドバイスなどを参照しながら、広報発表原稿を見直した。7月30日、長官はバベルスベルグに滞在するトルーマンに、電文メッセージを送り、8月1日以降のいついかなる時でもこの内容で発表していい許可を求めた。7月31日には追いかけて本文テキストをクーリエで送ってもいる。 広報発表に大統領の「署名」を求める段階となり、事態はいよいよ興味深い(fascinating)ことになってきた。原爆の使用に関するゴーサインはすでに7月25日、トーマス・T・ハンディ将軍からカール・スパーツ将軍への手紙で出されている。この手紙は通常軍用文書であり、大統領の承認は取っていない。トルーマンはもちろんこの手紙を、原爆投下の前の、いついかなる時でも取り消しすることができた。従って、事実上、この広報発表に大統領の署名を求めると云うことは、ハンディの手紙の確認作業ということになったのである」 この時の大統領手書きメモ入り文書は次のURLで見ることができる。 (http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb07.htm) 陸軍長官ヘンリー・スティムソンはこの時ポツダムにいたトルーマンに送った手紙の中で、こういっている。 なおこれは、電信で送った内容ではなく、クーリエ(R・C・アーネソン陸軍中尉)が届けた内容で、日付は7月31日となっている。 「私がこれを急いでいる理由は、天候さえ許せば、この兵器が太平洋標準時で8月1日までに使用される可能性があることを、私が知ったのがつい昨日だったからです。」 陸軍長官スティムソンは、スパーツに対する原爆投下指示を知らなかった、そして知ったのは、「昨日」、すなわち電信を送った日の前の日、7月29日だというのである。 7月25日に指示が出されて4日もたっている。もちろん大統領の正式な政治決断は文書の形を整えていない。だからスティムソンは、この大統領声明の原稿に大統領の署名を得て、政治的決断の証にしようとしたのである。広島への原爆投下に関する限り、形式の問題とはいえ、軍事が優先し政治が追認した、ということになった。 またスティムソンはこの手紙を大統領に送るについては、バーンズ国務長官にも確認を取っておく、とも云っている。 政権内部の「原爆投下派」バーンズも承知の上だと云っているのである。 整理すると、陸軍長官スティムソンは、原爆投下の軍事的指示を29日になって知った。政治決断の証がまだ済んでいないことを憂慮して、急いで最終的「大統領声明」をまとめて、30日に電文をポツダムにいるトルーマンに送った。そして追っかけて、自分の手紙をつけて正文をクリーエに持たせて、ポツダムにいるトルーマンのもとに届けて、署名を求めた、と言うことになる。 以下は送られてきた電信文に大統領が手書きでメモを加えた文書である。(スティムソンからの声明原稿 電信文1P)。スティムソンからの声明文原稿では、冒頭の___時間前、一発の爆弾が___に落とされた」の所に、手書きで、それぞれ「3」と「HIROSHIMA」が書き加えられている。解説はないが、この電信文にメモを書き入れたのはトルーマン自身と見るのが適切だ。すなわち、この時点でも、スティムソンは投下するのなら、軍事目標という認識があったのではないか。今まで出ている候補地で、軍事目標といえるのは、小倉の「小倉兵器廠」、長崎の「長崎海軍基地」の2つしかない。 次ぎに、この大統領声明の原稿を見ておこう。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=20 訳文 原爆投下直後なされる予定の米政府広報発表 1945年7月30日原稿) まず気になるのは、この文章のスタイルだ。まるでニューヨーク、マディソン・アベニューの有名PR代理店のベテランコピーライターが書いたような文体だ。表現が大仰な割に内容がない。美文だが格調がない。ある意味トルーマンの本質をさらけ出したような文章だ。 訳文を読んで貰えば分かるように、すでにここまで検討してきているわれわれにとっては、目新しい事実はほとんどない。ただ、次のようなくだりである。 「われわれはこの歴史上最大の科学的ギャンブルに20億ドル遣い、そして、勝った。」 トルーマン政権にとって、原爆の開発は「20億ドルの科学的ギャンブル」だったのだ。科学的研究とはギャンブルではないだろう。科学にとって成功よりも、一つ一つ発見と事実を積み上げて行く過程の方が貴重なのだ。それを「20億ドルのギャンブル」とはあまりに見識がなさすぎる。 それから次のようなくだり。 「われわれは、日本の都市から地上にある全ての生産的施設・設備を、素早く完全に跡形なく消し去ってしまう準備が整った。われわれはその船渠、工場、通信設備を破壊しつくすだろう。失敗はあり得ない。われわれは日本の戦争力を完全に破壊しつくすだろう。ポツダムに置いて出された7月26日の最後通牒は、日本の人々を悲惨な壊滅から救済するものだった。日本の指導者たちは即座にこの最後通牒を拒否した。もし日本が今私たちの条項を受け入れないなら上空からこの地球上でかつて見なかったような、破壊の雨が降り注ぐことになろう。この上空からの攻撃の後には、彼らがかつて見たこともない数と力の、そしてすでによく承知の戦闘技術をもった陸海軍が、後続することとなる。」 この文章には、原爆のもつ非人道性、無差別攻撃性に対する葛藤が全くない。旧日本軍の大本営発表や南京入城で多くの無辜の中国人を数多く屠った日本軍人の「手柄話」を伝える当時の日本の新聞記事に通じる非人道性と非見識が横たわっている。 もしトルーマンの正義が古ぼけたキリスト教的勧善懲悪主義ではなく、ヨーロッパ近代が獲得したヒューマニズムに基づく正義ならば、こんな恥ずかしい文章をとても容認しなかったろう。原爆の使用に対する「やむを得ざる痛み」が全くないのだ。 また、これは極めて注目すべきことだが、早くも戦後のアメリカによる核の独占制御の意図を、従ってその後の核競争と核拡散を暗示するような文章が出てきている。 「しかし現在の状況下では、製造の技術的工程、軍事的目的用途、懸案中の更なる可能な方法論の研究過程などは、われわれとその他の世界を壊滅から保護するため、その機密を明らかにするつもりはない。私は合衆国連邦議会に対して、合衆国内における原子力の使用と生産統御を目的として適切にその任を託された機関の設立を直ちに考慮するよう、勧告するものである。また原子力をいかにすれば世界平和を維持する方向で強力かつ強制力を富ませるかについてより深く考えることを合衆国連邦議会に勧告するものである。」 この7月30日の原稿に対して、7月29日の原稿も残っている。その原稿には、発表時間が「2時間前」となっており、投下目標も「長崎海軍基地」となっている。そして、それぞれ取消線が引かれていた。スティムソンはまだ抵抗していたのだ。 (以下次回) |