No.20 | 平成19年3月15日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は広島の生まれである。小学校も幟町小学校だった。佐々木禎子のいた小学校である。亡くなった祖父母も被爆者手帳を持っていた。小さい頃から「ピカドン」は私の頭に刷り込まれていた。 私の頭に刷り込まれていた原爆は、今考えてみると、随分いびつなものだった。被爆の惨状だけが大きい空間を占め、「誰が、何のために、原爆を投下したか?」という問題に与えられる空間は、ほんの少しか、あるいはなきに等しい状態だった。 まして、「ピカドン」が、今自分が生きている「現在」とどうつながっているか、などという問題意識は、恥ずかしい話だが、全くなきに等しかった。 私の頭に刷り込まれていた原爆は、その意味では「過去」のことであり、抽象的に「もう二度とあってはならないこと。」だった。「ノーモア、ヒロシマ」であり、「繰り返しません、過ちは。」そのものであった。こうした考えが、実は「ピカドン」を「現在」につなげるものではなく、「過去」に固定するものであることにすら気づかなかった。 自分に違和感を覚えたのは、大久野島の人たちの話を聞いた時からである。広島から東へ60Kmぐらいのところに竹原市がある。竹原市の沖合に浮かぶ大久野島では、太平洋戦争中に旧陸軍が「毒ガス」を生産していた。ここで生産した毒ガスは、大分県の陸軍曽根兵器工場へ送られ、「毒ガス兵器」として、日本国内に配備されただけでなく、中国大陸へ送られ、実戦で使用されていた。こうしたことが判明するのは、戦後何十年も経ってからである。日本の政府は、従軍慰安婦問題同様、こうした事柄には積極的に解明に動かない。 大久野島の人たちというのは、この毒ガス工場で実際に働いていたか、あるいはそれに関連した仕事に直接従事していた人たちのことである。もちろん一番危険な現場にいた人たちは昭和30年頃までにはほとんど死んでしまっている。だから今生き残っている人たちは、比較的危険でない現場で働いていた人たちか、あるいは当時若く、頑健な体をもっていた例外的な人たちである。島全体が毒ガスの霧で覆われていたことを考えると、今日の基準で言えば、危険でない現場などはなかったのであるが。 大久野島の毒ガス工場で働いていた人たちは実にさまざまである。徴用工、養成工、島に病院と呼んでいいほどの診療所があったから医師、看護婦。島全体は秘密を保持する必要があったから、完全なアウタルキーだった。だから有りとあらゆる職種の人が必要とされた。最盛期島全体で働いていた人は6000人だったという。最後には、高校生、中学生、女学生、小学校の児童までかり出された。 |
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竹原市の仕事でこうした人たちにインタビューする機会をもった。 違和感を感じた、というのはこうしてインタビューした人たちの意識である。一致した共通点がある。毒ガス工場で働いたという経験が、現在のわれわれを取り巻く政治情勢とキチッとつながっているのである。何故かはわからない。はっきりしていることは、自分たちの、「毒ガス生産に携わった」という体験が、決して過去の断絶した体験ではなく、「現在」に連続しているのである。こうした観点から現在を見据えているのである。 大げさに言えば、自分の個人的体験を「歴史的に相対化」しているのだ。歴史家や評論家がこうした「歴史の相対化」に成功するケースはよく見られる。しかし大久野島の人たちは、これに庶民レベルで、一般市民レベルで成功しているのだ。何故かはまだよくわかっていない。 当時私が持っていた「原爆観」との決定的違いがここにある。私は原爆の直接体験者ではないが、小さい頃から刷り込まれた内容からいえば、「ピカドン」の話は身近以上のものがある。幼い頃聞いた祖母の逃げまどった話はいまでも生々しく私の脳裏にこびりついている。 |
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「広島や長崎に何故原爆が落とされたのか?」そして「それは、今現在の核兵器を巡る情勢とどう連続しているのか?」というテーマは、こうして私の問題意識となった。そしてロバート・ファレルという歴史学者が編纂した「トルーマンと原爆:文書から見た歴史」という一種の電子ドキュメンタリーに出会った。 ファレルは(いまでもこの発音に自信がない。フェレルかもしれない。)、「トルーマンと原爆」というテーマを展開するにあたって、自分ではほとんど分析めいたことは言わずに、理解するのに最低限必要な文書を示す、と言う方法をとった。「理解したければ、この文書とあの文書を読みなさい。」というわけだ。そして「読んだ結果、君がどのような見解を抱くかは、私の預かり知らないところだ。それは君の見解だからだ。」 ファレルの指示した文書は、すべて同時代の第一次資料だった。これが可能だったのは一つには、アメリカ政府が、政府文書は人民の共有財産であり、一定の期間をすぎれば人民に公開しなければならない、と考え文書を保管してきたからである。そしてどんな秘密文書も50年の保持期間を過ぎ公開文書になっていたからである。もう一つの大きな要因は、われわれがインターネット時代に突入していたことである。いくら公開文書だからといって、米公文書館に出かけてマイクロフィルムを探し出し、そこから必要な文書をコピーするなどと言うことは、私にとっては費用的にも時間的にも絶対不可能である。検索する手間さえいとわなければ、ファレルの指示する文書はいくらでもインターネットから取り出せる。米公文書館に行く費用と手間暇を考えれば、インターネットで検索する手間などなにほどのことがあろうか・・・。 |
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こうしてファレルの指示する文書を読み進むうちに、いくつか分かってきたことがある。 まず、広島への原爆投下(日本に対する原爆の使用)は完全に100%政治問題だったが、長崎への原爆投下は100%軍事問題だったということだ。 このうち政治問題としての「広島に対する原爆投下」は特別な意味をもっていた。この意味は、私の問題意識「なぜ原爆を投下したか?」というテーマと直接関わっていた。 当時トルーマン政権内部で、政治問題としての「日本に対する原爆の使用」は、常に戦後の「核エネルギー研究開発・管理体制」をどう構築するか、という文脈の中で語られていた。決して対日戦争をどう早期終結するか、という文脈の中では語られていなかった。 つまりこういうことである。 もともと、原爆の開発計画である「マンハッタン計画」は、特殊な戦時計画としてスタートしている。だから、この計画は秘密予算(blind appropriations)だった。予算については連邦政府は連邦議会と常に緊張関係にある。連邦議会は連邦政府のお金の使い方に常に目を光らせる役割を担っている。しかし、特殊な、戦時予算については別扱いを受けた。マンハッタン計画の予算についてもそうである。当時陸軍長官だったヘンリー・スティムソンは、広島への原爆投下直後出した陸軍長官声明で次のようにいっている。
マンハッタン計画に対する支出については、戦時下において政府と議会の信頼関係の元に、議会はめくら判を押してくれたというのである。 |
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ところが、「マンハッタン計画」をすすめ、原子爆弾の研究開発を進めるうちに、原子力エネルギーの将来がとてつもない可能性を秘めていることが、関係者の間で了解されるようになった。それは単に軍事兵器としての可能性ではない。文明社会に一大エネルギー革命をおこすような大きな可能性だった。トルーマン政権が、「日本に対する原爆の使用」の問題を常に「戦後の核エネルギー体制構築」の文脈で語ってきたにはこういう背景がある。 ためしに、暫定委員会の議事録の討議項目を順番に並べてみよう。議事録のなかでもっとも重要と思われる1945年5月31日、6月1日、6月21日の3点である。
ここでやっと「産業界」が登場する。 「マンハッタン計画」は、連邦政府がすべて内部で開発・研究・製造まで一貫しておこなったのではない。「計画」そのものが「請負契約」で、必要なプロジェクトを秘密保持条項のもとで、どんどん民間企業に発注していったのだ。重要な研究は、マサチューセッツ工科大学やハーバード大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学といった研究開発機関が担当した。大学側から言えば、これは貴重な「売り上げ」である。 |
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つまり「マンハッタン計画」とは、トルーマン政権・米軍部・一部大手企業・大手総合研究教育大学の知恵と力を総結集した、一大プロジェクトだったのだ。こうしてマンハッタン計画に参加した一部大手企業もまた、「原子力エネルギー産業」がとてつもない可能性を秘めた「市場」であることに気がつく。いや彼等こそ、工場の建設、運営、調達、製造まで直接担当したのだから、その可能性にいち早く気がついたに違いない。 こうした企業群の中には今もアメリカを代表する企業が含まれている。スティムソンの陸軍長官声明は次のようにいっている。
こうした企業群が手にした新たな「核エネルギー市場」の規模はどれだけだったか。先の陸軍長官声明では、1945年6月30日までの予算期限での規模を19億5000万ドル、と述べている。少なくとも20億ドルはくだらなかった、と見ることが出来る。 こうした企業群やそれを支持する利権型の政治家(当時国務長官だったジェームズ・バーンズはこうした利権型政治家の代表格と見なされる)たち、また後の大統領アイゼンハウワーが「軍産複合体制」と適切にも形容したように、産業界と癒着した一部軍人(戦後すぐにスペリー・ランドの副社長となった、マンハッタン計画の執行総責任者レジール・グローブズはこの代表格と見なされる)たちが戦後も「核エネルギー市場」の開発・研究を継続したい、と考えたのも自然な成り行きだろう。 |
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しかし民間企業側には大問題があった。戦後も「核エネルギー市場」の研究・開発を継続するのは、あまりにも金がかかりすぎるのである。今考えてみれば、当時やっとの思いで製造した原爆も、ほんのよちよちあるきの初歩的なものだった。これをさらに可能性をめざして開発を続けて行くにはどれくらいの金がかかるのか、誰にも予測すら出来なかった。しかし関係者の間ではこの「開発・研究は継続しなければならない。」という点では完全に一致していた。となれば残る手段は連邦予算を使うしかない。民間企業家の立場からいえば、基礎研究にかかる金は連邦政府に肩代わりさせ、あとでその成果だけをすくい取って商品化していくことになる。 マンハッタン計画に協力した大企業の経営者たちを招聘して行われた、1945年6月1日(金曜日)の暫定委員会では、企業家たちは秘密会議であることに気を許したのか、かなりあけすけにその本音を語っている。
要は、これからも膨大な基礎研究開発予算が必要だが、それは民間企業にはなじまない、連邦政府の予算でやってくれ、ということだ。今は議事録に残る形で誰もこんなにあけすけには語ってくれないだろう。 |
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こうなると次の問題は、いかにしてこうした要求を政策化して、連邦予算の中に組み入れるかである。ここで忘れてならないのは、「マンハッタン計画は」戦時予算だったということである。戦時予算だったからこそ、議会はこの予算の規模・使途・結果に目をつぶり、フリーハンドをトルーマン政権に与えたのだ。平時予算となるとそうはいかない。ひとつひとつ議会のチェックが入り、規模・目的使途に制限が加わることになる。実際に、戦後「マンハッタン計画」がどのようなチェックを受けたか、私はまだ調べていないが、それまでのような自由な使い方が出来なかったであろうことは間違いない。また平時においても「マンハッタン計画」が必要にして不可欠の予算項目として、連邦議会がこれ自体を承認したかどうかは全くの推測の域を出ない。現実は全く別な方向をたどったのだから。 ここで「日本に対する原爆の使用の仕方」、別ないいかたをすれば、「広島への原爆投下の仕方」が政治的に決定的重要性を帯びることになる。 当時「原子爆弾」という秘密兵器の帳の開け方には様々な議論があった。
忘れてならないことは、「原爆は秘密」だったという単純な事実だ。だから上記の議論も各界トップのほんの一握りの関係者の間で行われていた議論である。しかしこうした議論を整理してみると上記のような分類のどれかに当てはまるだろう。 しかし上記の議論も、さらによく整理してみると、2段階の2者択一の組み合わせであることが分かる。 それは、
である。 実際には上記分類の4.「日本に対して警告なしに使用する。」が決定されたわけだが、ここで私がとまどうのは、あれほどいろんな議論が出ていた日本に対する原爆使用問題が、「警告なしの使用」となるとピタリと議論がなくなってしまうことだ。つまり暫定委員会の議事録も、科学顧問団の勧告書も、スティムソン日記ですら、まったく説明してくれないのだ。なぜ「警告なしの使用」となったのか誰も説明してくれていないのだ。 唯一、暫定委員会のメンバーだったラルフ・バードが、「警告なしの投下」を決定した暫定委員会の後で、委員長でもあったスティムソンのもとに書簡を送り、「人道主義的観点から見て、自分は警告なしの投下には反対である。」という趣旨の付帯意見書とでもいうべき手紙を送りつけたのみである。といってこのバードも体を張ってこの決定を覆そうとしたわけではない。「自分は反対だった。」という見解を歴史にとどめようとしたものである。従って、このバードの手紙も「何故警告なしの投下に決まったか」という肝心な説明は全くしていない。まさに歴史の謎である。 |
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当時関係者ではあったが、トルーマン政権とは全く異なる観点からこの問題を注視していたグループがある。シカゴ大学冶金工学研究所で働くマンハッタン計画の主要な科学者たちだ。トルーマン政権が、資本主義の擁護者・担い手という観点(もう少しむきつけにいえば、独占資本主義の政治的支配者の観点)から、この問題を見ていたのに対して、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちの観点は、「近代民主主義思想に裏打ちされた人道主義」ともいうべき観点だった。 その科学者たちは、1945年6月11日、陸軍長官スティムソンあてに「政治ならびに社会に関する委員会報告」と題する報告書を提出する。いわゆるフランク・レポートである。 フランク・レポートは、自らを「原爆の危険性をもっとも知悉した科学者でありかつ市民グループである」と規定し上で、「核兵器が人類の運命にとって極めて危険な存在であり、これを廃絶しなければならない。」と訴え、「今なら、それができる。」と説いている。そうして、もし、その逆、すなわち、無限の核競争に入り、核戦争の危険に大きく近づきたいならば、たったひとつのことをすれば事足りる、といっている。
トルーマン政権内部の第一次資料から直接の裏付けはとれなかったものの、「広島への警告なしの原爆投下」の真相は、このフランク・レポートの指摘通りだったであろうと、私は考えている。 政治問題としての「広島への警告なしの原爆投下」は、意図的にも結果的にも、第二次世界大戦後の核軍備競争の時代を華々しく開き、髪の毛が逆立つほどの恐怖を覚えたスターリンは、なりふり構わず原爆開発を急ぎ、製造の秘密はマンハッタン計画から盗んで、わずか4年後の1945年にはセミパラチンスクで長崎型とそっくりのプルトニウム原爆を炸裂させて、アメリカに対抗するのである。当時ソビエトは、対ドイツ戦争で工業も農業も市民生活も荒廃し尽くしていた。戦後予算はこうした分野に振り向けられるべきであった。しかし、スターリンはアメリカの読み通り、核兵器開発に狂奔し、冷戦の骨格を自ら固めていくのである。 トルーマン政権の狙いはあたった。冷戦構造が深化していく過程のなかで、戦後も核兵器関連予算は、最重要事項としてなんなく議会を通過し、あまつさえ「冷戦」という準戦時体制のもとで、ある程度軍事機密も保持できたのである。 こうして、「核エネルギー開発計画」としてのマンハッタン計画は、平時における国家政策として、戦後も膨大な予算を注ぎ込みながら、戦時体制から平時体制移行に成功するのである。 この意味で「広島への警告なしの原爆投下」は、戦後仮想敵国としてのソ連との冷戦を激化させるためであり、連邦予算を潤沢につかいながら、戦後も核エネルギー関連の基礎研究を継続するためだった、と考えて差し支えない。 それは、対テロ戦争を口実に、今なお膨大な国家予算を軍事や新たな種類の核兵器の開発に注ぎ込んでいるブッシュ政権の姿と似ていなくもない。 |
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ここで大きく浮上してくるのは、アメリカの、直接的にはトルーマン政権の責任の問題だ。広島や長崎に対する原爆投下は、これまで見てきたいきさつからして明らかに戦争犯罪を構成する。さらにいえば、「人道に対する犯罪」である。 私は自分の中で、一時「あれは戦争という特殊な状況でおこった出来事だ。特にトルーマン政権が相手としていたのは、日本の天皇制軍国主義だった。当時日本の軍部は、史上まれに見る劣悪で卑劣な軍事組織だった。自分たちのメンツや利益を守るためなら、一般市民も、沖縄の女学生も、子供も、学生も道連れにすることをいとわない、卑怯者集団だった。トルーマン政権が日本に原爆を使用したのはある意味でやむをえないことだった。」と考えた時期があった。 「米国戦略爆撃報告調査団書 ヒロシマとナガサキ」の中に次のような一節がある。
残念ながらこの話は本当だと思う。当時日本の首脳部は、非軍人も含めて、「天皇制維持」のことしか考えていない無責任な人たちばかりであった。 「日本に対してアメリカが原爆を実戦使用したのはある程度やむを得ないことだった。」 この私の考え方を一変させたのは、フランク・レポートだった。 フランク・レポートは、その問題に精通した科学者の立場から、核兵器が人類の運命に破滅的な影響を及ぼすことを説き、日本に対して原爆を使用することは、「核戦争時代」へ大きく道を開くことになる、と警告している。そして近代人道主義の立場から核兵器の使用に反対し、次のようにいう。
フランク・レポートのメンバーの一人でもあったレオ・シラードの、大統領宛請願書になるともっと痛切 な響きをもっている。
シラードは、アメリカ(トルーマン政権)は、想像を絶する破壊の時代に扉を開けることに責任を持つべきだ、と明確にアメリカ(トルーマン政権)の「責任」を問うている。 私の考えは間違っていた。今現在核兵器を巡る状況を見てみると、危機的状況にある。ヒロシマ型の原爆に換算して約10万発の核兵器原材料がある。その半分以上をアメリカは保有している。核兵器廃絶をめざした「核兵器不拡散条約」(NPT)の追加議定書(プロトコル)すら締結していない。世界中に「核抑止論」をばらまき、「核兵器の保有」を正当化しようとしている。 こうして状況の根元は、さかのぼって突き詰めていくと、トルーマン政権の日本への原爆投下の問題がキチッと今にいたるも清算出来ていないからだ、と考えるに至った。今から60年以上も前に、フランク・レポートは、「もしアメリカ国民が、核兵器の全容を理解すれば、それを最初に使う国がアメリカであるなどと言うことは、決して容認しないだろう。」といっているが、私も同感である。これをさらに敷衍してみると、現在の核兵器を巡るアメリカの状況、ブッシュ政権の政策を、アメリカの国民が是認しているのは、アメリカ国民が「核兵器の全容を理解していないからだ。」と考えるに至った。 原爆を投下したトルーマン政権の責任を追求し、その全容を明らかにすることこそが、現在の核兵器を巡る世界の情勢を、「核兵器廃絶」に向けて正しく進めていく第一歩なのである。 |
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ロバート・ファレルは、今度は「米国戦略爆撃報告 ヒロシマとナガサキ」(1946年6月19日)を読め、という。それが「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」第16章」の内容になっている。(原文・訳文)。ファレルは例によって、ポンとこちらに放り投げてよこす調子だ。ただ、この報告書のメンバーの多くは、空軍独立派で、「従来空爆信奉主義者」が多いので、原爆の効果を過小評価しようと言う傾向にある、その点注意して読めよ、といってくれているだけだ。当時空軍はアメリカ陸軍や海軍の指揮下の軍事組織だった。戦争において空軍のもつ比重が重くなるにつれ、空軍内部では独立し、陸軍・海軍とならぶ地位をしめようという動きがあった。これが「空軍独立派」である。 実際に彼等の希望は叶えられ、この報告書の2年後、1947年、国家安全法が成立し、国防省が創設され、陸軍、海軍と並んで合衆国空軍が創設された。 「米国戦略爆撃報告書 ヒロシマとナガサキ」を読む私の視点には、これまで説明したような視点、「広島・長崎に原爆を投下したトルーマン政権の責任を追求する」という視点が意識的に加わっている。さらにこの視点自体も一定の進化を見せている。「広島・長崎に原爆を投下したトルーマン政権の責任」ではなく「人類史上初めて原爆を実戦使用したトルーマン政権の責任」へ、である。 こうした視点でこの文書を読んでみると、全体としては実に退屈で平凡なレポートであることが分かる。 一つに収集した事実をいろんな視点で眺め、検討してみようと言う気迫に欠けていることが挙げられる。単眼的なのだ。 それとこれは単眼的であるということと大いに関連がありそうだが、全体に非人道的である。原爆を常に投下した側から見ており、投下された側から見てみる、と言う視点が全体に欠けている。従ってレポートとしては、全体として平板であり、非人間的である。これが、「米国戦略爆撃調査団報告 ヒロシマとナガサキ」に一貫する大きな特徴である。 長い退屈な文章だが一度読んでごらんになるのも良かろう。
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しかし、部分的にははっとする記述も時々でてくる。ほとんどの記述が、事態を投下された側から眺めようとする部分の記述だ。書き手の複眼的視点と人道主義的な姿勢があって大いに勉強させられる。この報告書のおもしろいところは、明らかにテーマごと、項目ごとに書き手が替わっている、という点だ。しかも最終的な報告書にまとめるときに、単一の編集者がいて、全体的なトーンを統一したり、言葉遣いを訂正したりしたあとがない。項目の書き手の言葉がそのまま報告書の地の文章になっている。だからほとんどの書き手が、広島・長崎での原爆の犠牲者たちのことをcasualty (人的損害)やsurvivors(生存者)と表現しているのに対して、こうして原爆を投下された側から眺めてみようする書き手は、victims(犠牲者、被害者)と表現している。また原爆そのものを表現するにも、こうした書き手は時々、ominous (縁起の悪い、不吉な、不気味な)と形容している。 これは単に言葉遣いの違いというだけに止まらず、原爆の理解に深く関わっている。米国戦略爆撃調査団に参加した軍人の多くは、原爆の破壊力、惨状、その科学的現象にのみ関心を奪われ、原爆の持つ人類史意味にまったく気がついていない。トルーマン同様原爆が理解できていないのだ。ところが一部複眼的な視点をもつ書き手は、原爆を投下された側から眺めることが出来、従って人道主義的な観点を自分の中に取り込むことが出来、また従って原爆のもつ人類史的意味に気がつくのである。これは単に犠牲者に同情を寄せているのではない。同じ人間として、自分や自分の家族のイメージを原爆の犠牲者に重ね合わせているのだ。だから原爆をominous(不気味、不吉)と形容できるのである。原爆を理解している。 (* 今つくづく思うことは、すでに引退していたヘンリー・スティムソンはこの報告書を読んだのだろうか、ということである。スティムソンは原爆を理解していた。) それともう一つ、これまで不思議に思っていたことが、この米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)を読んで、わかったような気がする。 |
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「原爆」に関する資料を収集する過程の中で、「米国戦略爆撃調査団報告は、『原爆投下は必要なかった』といっています。」といった種類の記述に時折お目にかかる。こうした記述は多く引用出典を明示していない。もしそれが言われているなら、この「米国戦略爆撃調査団報告:広島及び長崎の原子爆弾投下の効果」だろうと考えていた。しかし一向それらしい記述にはお目にかからない。あえていうなら、この報告書の中の「日本の降伏の決定」の中で次のようにいっている箇所だろう。
この文章でいっていることは、「広島への原爆投下が、日本降伏の決定打になったのではありませんよ。精々降伏時期を早めたか、あるいは陸軍のメンツを救った程度でしょう。」ということだ。 しかし、今考えてみれば、「原爆が日本を降伏に導いたわけではない」ことは、当時トルーマン政権内部でも陸軍内部でも常識だった。この報告書はごく常識的なことを書いているに過ぎない。広島への原爆投下の目的はこれまで見たようにまったく別なところにあったのだから。まさしくトルーマンがポツダム会談の時に、自分の日記に書いているように、「ソ連が参戦すれば日本は音をあげる。」だった。マーシャルは「少々時間はかかるかも知れないが、ソ連なしでも日本を無条件降伏に持っていける。」とポツダム会談前のホワイトハウスでの「分析会議」で言っている。 この文章はその当時の常識を単に皮肉っぽくなぞったに過ぎない。 問題はこの文章(直接この文章ではないかも知れないが、これに類した記述。あちこちにこうした記述は出てくる。)を、何故「原爆投下は必要なかった。」と読むのかである。 |
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戦後トルーマン政権は、日本に対する原爆投下を正当化するために一大キャンペーンを張る。その趣旨は、
と言うものである。引退して80歳だったスティムソンもこのキャンペーンに協力した。アメリカの有名な雑誌に「原爆投下擁護論」を展開する。トルーマンは自分回想録にも大まじめでそういう内容のことを書いている。このころから常識が常識でなくなる。 私の問題意識からして、今一番重要なことは、一般のアメリカ人がこのキャンペーンに進んで乗っていった、ということだ。まだ詳しく調べてないが、恐らくは広島・長崎への原爆投下は一般アメリカ人の「心の痛み」とまではいえないにしても、「心の痛み」のその又下層の「疼き」になったのではないかと思う。その疼きを癒してくれたのが「原爆投下は100万人のアメリカ人の将兵の命を救った」とするキャンペーンだった。 |
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このアメリカ人一般がもった「疼き」について、戦後レオ・シラードがUSニューズ&ワールド・レポートとのインタビューで実にうまい表現をしている。 アメリカ人は原爆の投下に対して「罪の意識」を感じているだろうか、というUSニューズ&ワールド・レポートの質問に対してこう答えている。
こうしたアメリカ人のセンティメントに、「原爆はアメリカ人将兵の命を救った。」とするキャンペーンはぴったり合ったのである。 なお同じインタビューで、シラードはスティムソンがキャンペーンに協力して有力雑誌に寄稿した記事のことを、こういっている。
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しかも、トルーマン政権の「原爆投下正当化」は原爆投下直後からすでにはじまっているようなのだ。その痕跡は、1946年6月に公表された、この「米国戦略爆撃報告 広島と長崎への原爆投下の効果」にも表れている。それは「日本の降伏」と「原爆」をそれとなく近づけようという努力だ。 「米国戦略爆撃調査団報告-太平洋戦線」の団長、フランクリン・ドリバーはこの報告の日付の翌日6月20日づけで大統領トルーマンに手紙を送り、19日付の報告の内容は、国務長官、陸軍長官、海軍長官の承認を得てあり、またマンハッタン計画の機密保持事項とも合致していると確認した上で、トルーマン大統領の見解を取り入れてあるので、もう公表しても大丈夫だと、いっている。 (ドリバー団長のトルーマン大統領への手紙 原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/ documents/index.php?documentdate=1946-06-20&documentid=16&studycollectionid =abomb&pagenumber=1 訳文:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/ 20thletter.htm) この手紙の内容から察するに、ドリバーは1946年6月9日付けの報告書をまず作成し、事前に大統領トルーマンと面談し、トルーマンの見解をとりいれて若干修正し、修正した内容で6月19日付けの報告書としているようなのだ。 それではどこに修正が加わったかというと、「日本の降伏の決断」の項である。それではどう変化したかというと以下の通りである。
赤字の部分が6月19日付けの報告書である。日本の指導者が降伏への本格的模索を開始し始めた時期を、9日では1945年の5月としてあったのを、6月26日御前会議に遅らせている。しかも昭和天皇臨席の御前会議とわざわざ昭和天皇の役割を強調しようとしている。次にこの26日の御前会議でも、全員の合意には至らなかった、と19日付けの報告では書き加えている。これらはドリバーの手紙によれば、大統領トルーマンの見解を取り入れたものということになる。トルーマンは「日本の降伏への決断」に関して昭和天皇の影響をできるだけ大きく見せようとしたと同時に、少しでも原爆の影響を大きく見せようとした、と考えて差し支えない。 |
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こうして、「原爆は日本を降伏させた。そして100万人のアメリカ人将兵の生命をすくった。」というプロバガンダは、戦後一人歩きを始める。この議論に対して、「いや、原爆を使わなくても日本は降伏した。」という議論は当然起きてくる。こうして延々「必要・不必要議論」がその後60年以上も続くことになる。 しかしプロバガンダに対して、反論するのなら、そのプロバガンダ性を暴かなければならない。「日本降伏に原爆は必要だった。」というプロバガンダに、「いや不必要だった。」と反論するのは反論になっていない。自ら「必要・不必要論」の泥沼にはまりこみ、反論どころか、原爆投下の実相を一緒になって覆い隠す効果しか持たない。 さて、こうした「原爆必要・不必要」の議論が頭に刷り込まれた人が、たまたま戦略爆撃報告書を読んだとしよう。そして先ほどのような記述にお目にかかったとしよう。 「ほら、調査団も原爆は不必要だった、といっている。」とならないだろうか? 「米国戦略爆撃調査団報告も原爆投下は不必要だった、といっている。」という話の出どころは案外こんなところではないか、という気が今私にはしている。 「原爆投下は不必要だった。」と主張すること自体が、すでにトルーマン政権のプロバガンダに乗せられている。 |
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もうひとつ私には、大きな疑問がある。それはこの米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)を読んだあとでも氷解しなかった。長崎に何故原爆を落としたかである。広島への原爆投下は、100%政治問題だった。そしてその理由は今ではよく分かる。しかし長崎については氷解しない。 米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)の翻訳メモに私はこう書いている。
また別な箇所では次のようなメモを残している。
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鹿児島大学の平和学専攻の木村朗は「原爆投下問題への共通認識を求めて−長崎の視点から」という論文の中で、何故長崎へ原爆が投下されたかという問題をとりあげて、いろんな学者の説を紹介しながら、次のようにいう。
木村のいう人体実験は、やや正確な表現ではないかも知れないが、プルトニウム型原爆を実戦で実証実験して見たかったのだ、と言う主張には大いに心を動かされる。 |
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こうして長い、全体として言えば退屈な米国戦略爆撃調査団報告書を最後まで読み進めていった。そして一番最後の「結論」(conclusion)を読んで私は自分の目を疑った。 この項の書き手は、「フランク・レポート」やレオ・シラードのいう、人類最初の実戦原爆使用を行った国家としてのアメリカの責任、国民としてのアメリカ人の責任を明確に認めているのだ。あきらかにこれまでの執筆者ではない、全く別の書き手だ。 短いので全文引用しよう。(原文)
私にはこの無名のアメリカ軍人の文章が、広島と長崎の犠牲者に対する誓いの言葉のように思えてならない。あるいはファレルはここを読ませたかったのかも知れない。 ここの部分の私の翻訳メモには次のようにある。
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