No.13-4 | 平成18年3月19日 | ||||||||||||
1945年6月21日の暫定委員会では、科学顧問団は、核兵器開発に関する重要な提言を行った。 (1)研究・開発・管理に関する将来政策 (2)原爆の即時使用 (3)暫定計画 の3つである。 (1)の将来政策では、現在戦時で暫定的にマンハッタン計画という一時的な、日本流に云うならば時限立法的に、核エネルギー開発を進めているが、戦後も引き続きこの研究・開発を行わなければならない、そしてこの研究・開発は、戦後は政府の科学研究開発機構と統合一体化しなければならない、と述べている。 そしてバーンズがこれを受け、「戦後には、核エネルギー開発を担当する委員会が別途に設けられる必要がある」と述べている。 これに続いてバニーバー・ブッシュが「委員会そのものは、直接の行政執行機関ではなく、請負契約を発注する運営形態であるべきだ」と発言する。 これが実現すれば、核兵器開発・核エネルギー開発は、戦時の一時的なプロジェクトではなく、恒常的にアメリカ連邦政府の政策として取り組むということになる。 そしてこれが肝心な点だが、連邦政府の一般行政機構と統合はするが、この問題に関しては別途に発注権限をもった委員会(のちにこれは米原子力委員会として実現することになる)が、請負契約で発注をすることになる。 つまり、連邦政府が予算を支出するが、その使い道は原子力委員会が自由にできるという提言だ。 わかりやすくいえば、核兵器を含めた核エネルギー開発を完全に軍産複合体制の中に取り込もうと云うことになる。 こうした流れの中で、科学顧問団は、(2)原爆の即時使用、を提言する。 ここで科学顧問団は議論抜きに「警告なしの原爆の即時使用」を提言する。 今われわれが手に入れられる直接資料の中では、この「警告なしの原爆の即時使用」の問題になると、いつも議論抜きで結論だけが書かれている。 6月1日の暫定委員会議事録でもそうだし、6月16日に提出された科学顧問団の報告でもここになると「原爆を使用しない、から警告抜きの即時使用まで意見が分かれた。 しかし警告なしの即時使用で全員が一致した」とまるで納得のいかない結論だけの記述である。 スティムソン日記もこの問題になるといかなる経過だったのか、誰がなんと主張したのか、まるで沈黙したままである。 耳に入って来るのはトルーマン回想録に代表されるように、「原爆の投下でアメリカ将兵の命が100万人救われた」という、当時問題を理解している人なら誰もまともに取り合わなかったようなプロバガンダばかりである。 今ここで扱っているような、極秘書類が50年間の秘匿期限を過ぎて公開され、内容を知ることができるようになれば、こうしたプロバガンダをそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。 何故無条件で「警告なしの原爆の使用」が決定されたか。 一つの大きな要素は、これまで見てきたとおり、ソ連に対日参戦を促すためである。 ただし低コストで。 しかし、要素はこれだけではない。 というのがすべての議事録で、「日本に対する原爆の使用」の問題が、必ず戦後の「核兵器を含めた核エネルギー使用」を論ずる流れの中で出てきている点が注目される。 整理して云えば、次のようになる。
以上な様な背景があって、初めて暫定委員会の中での「日本に対する原爆使用」の位置づけが明確になってくる。 従って「日本に対する原爆使用」の問題は、常に「戦後核エネルギー政策の持続・発展」の文脈の中で語られることになる。 |
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フランク・レポートの記述はまさに、上記の推測をひっくり返しに裏付けている。()内は私の註である。 フランク・レポートを引用しよう。(原文。訳文)
と自らの立場とこのレポートの目的を明らかにする。
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暫定委員会の決定、すなわち「警告なしの日本への使用」は、フランク・レポートが指摘するような方法論そのものである。 狙うところは、ロシアに脅威と恐怖を与え、核競争に引きずりこむことである。 以上が恐らく、まず間違いなく、バーンズの基本戦略であったに違いない。 (ただバーンズの誤算は、ロシアとアメリカの懸隔が考えていたほど大きくはなかった、ことだ。この点科学者たちの予測は正確であった) このバーンズの戦略は、ある意味産業界の利益にも合致していた。 この点ではアメリカ支配階級の忠実で誠実な政治家スティムソンの利益にも合致していたはずである。 また暫定委員会委員の一人であるハーバード大学学長、ジェームズ・B・コナント、同じく委員の一人でマサチューセッツ工科大学学長カール・T・コンプトンなどアメリカの学界の利益とも一致する。 連邦予算からの支出を受けながら、「研究・開発サービス」を提供し、その経済的基盤を確立していく事ができるからである。 コンプトンのマサチューセッツ工科大学が、アメリカの軍部と関連の深い大学であることはよく知られた話だ。 またハーバード大学は、学長コナントのもとに、大学改革を行いニューイングランド地方の一名門大学から世界に冠たる総合研究教育大学に発展していくのである。 こうして、アメリカの現在の軍産学複合体制ができあがる基礎がこの時期形成されていくのである。 現在アメリカで「研究開発サービス」を販売し、連邦政府から資金を獲得している大学のトップ10(もちろん軍事関係だけではない)を見てみると、カリフォルニア工科大学(14億7200万ドル、1ドル=110円として約1620億円。以下同じ)、ジョンズ・ホプキンス大学(9億4000万ドル。約1034億円)、シカゴ大学(6億6600万ドル。726億円)、マサチューセッツ工科大学(6億ドル。660億円)、スタンフォード大学(5億900万ドル。約649億円)など有名大学がずらりと並ぶ。特徴的なことは日本の大学と違って、これらは補助金でもなく交付金でもなく、すべて「研究開発」というサービスの対価である点だ。 (潮木守一著:世界の大学危機 中公新書 182頁) こうしたバーンズの軍産(学)複合体制の立場からすれば、スティムソンの考えた「ソ連と話し合って戦後国際核管理機構」創設しようと云う思想は、全く相容れないことになる。 もちろん決定するのは大統領トルーマンだが、その後の経過を見る限りトルーマンは明らかにバーンズ戦略を採用した。 今日の核兵器をめぐる状況からすれば、ここで「核戦争の危険がない世界」へ向けて、ボタンの掛け違いが発生している。 従って、1945年6月21日の暫定委員会は、ロシアと核管理に関して話し合う件について玉虫色だった決定をはっきり、ロシアとは話合わない、という明確な決定を出すことになる。 暫定委員会議事録は、次のように伝えている。
しかし、スティムソンは、この結論はすでにトルーマンに確認済みだった。 と言うのは5月31日・6月1日と連続した、山場の暫定委員会の報告に、6月6日トルーマンを訪ねてこの問題を話し合っているからだ。 スティムソン日記には次のように記してある。 「私は(トルーマンに)合意のポイントを述べた。 ・日本への最初の原爆投下が成功裏に終わるまで、S−1(原爆計画のこと)は ロシアにも他にも明らかにしない。 ・ロシアがパートナーになりたいと申し込んで来たらまだ準備が整わないとロシアに云う。」 (原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm 訳文:1945年6月6日 トルーマンに報告するが) この時スティムソンの念頭にあった事は、原爆投下が終わったら、核兵器の管理体制についてロシアと話し合う、という事だった筈だ。 と言うのは、この時同時にトルーマンに、将来の管理体制について、 1.自国の情報を公開する、 2.約束をすること、 3.約束が守られているかどうか権限を持って国際査察をすること、 がなし得ることだ、と説明しているからだ。 そして、ロシアが同意するかどうかは分からないが、この方法が将来われわれを守ってくれる方法だと、トルーマンに指摘している。 そしてこの日、スティムソンがトルーマンに重要な事を云っている。 「私は2つの理由で今回の戦争の性格を心配している。 一つは、残虐行為に置いてアメリカがヒトラーを上回っている、という評価があってはならないこと。 二つ目は、アメリカの空軍が、空襲で日本の破壊しつくし、原爆を投下してもその効果が判別でき なくなる事だ。」 警告なしの原爆投下が、ヒトラーより残虐だったかどうか、は人によって評価が分かれるだろう。 しかし、ヒトラーの方がはるかに残虐だった、と手放しで言い切ることは誰にも難しい。 南京大虐殺がヒトラーより残虐でなかった、というのが難しいように。 ここで、「戦争というものは本来残虐なものだ」という陳腐なお題目を繰り返すつもりはない。 国際司法裁判所が、旧ユーゴ・スラビア国際裁判で、残虐行為の原因と責任を明らかにしたように、原爆投下についても、その責任と原因を明らかにする必要がある、と言う点が重要だ。 |
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スティムソンは、日本への警告問題をこの時点で放棄したわけではない。 具体的な日付ははっきりしないが、少なくとも1945年6月26日から30日の間の日記にその事が窺える。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson6.htm 訳文:1945年6月26日から30日 日本への警告問題)
そして大統領に提出するつもりの、スティムソンが準備した手紙を読み上げる。 この3省長官会議ではこのメモに基づいて、日本に送る降伏勧告文を起草することを決定した。 この降伏勧告文はポツダム宣言の原案ともなるべき性格を帯びている。 このスティムソンが準備した手紙は6月26日付けでトルーマンに提出されている。 この手紙は、日本本土侵攻前に日本に降伏を勧告する内容を含んでいた。 また警告する項目の一覧リストも含まれている。 しかし、この手紙のポイントは「日本の立憲君主制(すなわち天皇制)を排除しない、という一項を付け加えれば、降伏受諾の可能性が大きくなる」という一点にある。 従って、もし日本が降伏すれば、原爆投下をしないで済むという考えが背後にある。 もしこれができれば、アメリカはヒトラーより残虐だった、という歴史の評価を避けることになる。 この手紙は、フランク・レポートの警告、すなわち第二次世界大戦中の使用は、核兵器の国際管理体制創設・将来の核戦争を回避する機会を損なうという警告にも触れていた、という。 (私はこの手紙の原文を入手できなかった。) 7月2日、スティムソンはトルーマンに会ってそれまでに準備してきた対日降伏勧告文書の原案を渡して説明をした。しかしそれまでに、割り当てられた時間が過ぎ、この会談はでは意を尽くせなかった、とスティムソンは云っている。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson6.htm 訳文:1945年7月2日 大統領に提言) |
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この後、7月17日から始まるポツダム会談のため、トルーマンも、新任国務長官のバーンズも、スティムソンも、マーシャルも、ベルリンへ向けて出発した。 これまで見たとおり、トルーマンは原爆を交渉のカードに使うため、わざわざポツダム会談の開始を2週間以上延ばした。 そして目論見通り、会談が始まる前日7月16日にニュー・メキシコ州のアラモゴードで原爆の実験に成功する。 原爆カードをもってポツダム会談に臨むことができたわけだ。 マンハッタン計画の総責任者グローヴズは、ポツダム会談に間に合わせるため、天候の悪条件の中で、実験を強行し、立ち会ったエンリコ・フェルミが誤爆を恐れてグローヴズに腹を立てたという話は、このシリーズのU呱々の産声を上げた核兵器でもご紹介した。 しかし、7月16日の実験強行は、政治日程から見て絶対至上命題だったのである。 しかし実験が成功したといっても、その詳細はまだ分からない。 先述の通り、原爆は人間の創造力を超えている。 トルーマンは、原爆がスターリンとの交渉カードとして使えるのかどうか、使えたとしてどの程度有効なのか、不安を抱き、その詳報をポツダムで待っていた。 その詳報がもたらされたのは、7月21日である。 スティムソンの日記は次のように記している。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm 訳文:1945年7月21日 原爆実験成功の詳報)
報告書でみるみる生気を取り戻したトルーマンの顔が目浮かぶようである。 それからその足で、スティムソンは、バンディをともないチャーチルの宿舎を訪ねる。
その日5時から、トルーマン、チャーチル、スターリンのいわゆる3巨頭会談が始まる予定だったので、チャーチルはそちらへ急がなければならなかったのである。
もう1本の電信は、原爆の京都投下の許可をグローヴズが求めているという内容だったことは、先に見た通りである。 翌7月22日、朝一番でスティムソンはトルーマンを訪ねる。昨夜受け取った電信の報告と、ソ連との関係を考察したメモを渡すためだった。
この時、京都への投下は絶対に不可であることの念押しをした事は先に見たとおりである。 それから、前日と同じように、バンディをともなって、イギリス本部にチャーチルを訪ねる。
グローヴズの報告を読んだあと、トルーマンが人が変わったようになった事は、もちろんスティムソン自身も気がついている。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm 訳文:1945年7月22日 一変したトルーマン) |
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スティムソンは恐らく複雑な心境だったろう。 スティムソンが棚上げされはじめたのは、恐らく5月31日・6月1日の暫定会議の頃からではないだろうか。 7月3日のバーンズ国務長官就任を境にして、棚上げは露骨な形を取り始めた。 肝心のポツダム会談の3巨頭会談には立ち会うことができなかったのだ。 ルーズベルト時代からその死後も、事実上閣内のナンバー2として、戦争全体を指導しただけでなく、数々の重要な政策に決定的に関わってきたスティムソンが肝心の3巨頭会談に列席を許されなかったのだ。 今はスティムソンは、有り体にいえばトルーマンに取って原爆に関する連絡係でしかない。 翌日7月23日、バーンズはスティムソンに電話を寄越し、「原爆がいつ使用可能になる連絡を欲しい。」と云う。 原爆の使用が早ければ、早いほどロシアの参戦は早まる。 この時点では、ロシアはすでに満州の国境に兵力を終結し終わっていた。 ソ連の参戦が早まれば早まるほど、日本の無条件降伏は早まる、というのがトルーマン政権の見方である。 その日バーンズの電話の後、10時15分、駐ソ米大使のハリマンがスティムソンを訪ねてきた。 話題は当然ソ連問題である。 ハリマンも原爆実験の詳報報告でトルーマンがみるみる元気になったことに気がついている。 ハリマンは、ソ連がヨーロッパで要求を次々と出してきていることを、報告した。 11時にスティムソンは、リトル・ホワイトハウスにトルーマンを訪ねる。 そして会談に出席できないため、段々情勢認識がいびつになってきていること、従って毎朝ミーティングを行って、前日何があったかを教えて欲しいと依頼をする。 トルーマンはこのスティムソンの申し出に快諾を与える。 その日昼食の後、スティムソンを訪ねて、マーシャル(参謀総長)とアーノルド(空軍総司令官)が、やってくる。 用件は、「大統領がソ連の参戦が本当に必要なのかどうか、ロシアなしでやっていけないのか、と諮問があった。この諮問に答えるために協議したい」と云うことだった。 トルーマンはもともとソ連を参戦させるために、ポツダムにやってきた、といっていた。 これは、7月18日、19日、20日ポツダムから、トルーマンの妻ベスに宛てた手紙から明らかである。 それが原爆実験成功とその詳報を受けた途端に、大きな変わりようである。 マーシャルは困った。マーシャルの考えでは、ソ連は参戦しようとしまいと、結局最低限、欲しいものは手に入れるだろう、ソ連が自分の参戦を高く売りつけようとしているのなら、もうアメリカの参謀総長をはじめ軍関係者をすべて引き上げさせ、もうこれ以上、ソ連参戦にこだわらない姿勢を見せたらどうだろうか、と云う。 スティムソンはこれに賛同した。 スティムソンもマーシャルも頭にあったのは原爆の存在である。 マーシャルの本音は、日本を征服するのに、ロシアの助けはいらない、だった。 結局トルーマンはマーシャルの進言を取り入れ、軍関係者を引き上げさせ、ソ連の参戦にはこだわらない、というポーズを取ることになる。 この後、マーシャルは「原爆投下の見通しに」について次のように云っている。 「今の時期、日本は雨期だ。もし投下を妨げるものがあるとすれば、それは重くたれ込めた雲だ。」という。 そして、マーシャルの心配は的中することになる。 (スティムソン日記より。原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm 訳文:1945年7月23日 原爆使用のタイミング) その日夜、ハリソンから電信を受け取った。 その電信はハリソンは、8月1日から3日の間で可能、8月4日―5日の間で大いに可能、よほどの障害がない限り8月10日までになら決定的に可能というものだった。 翌7月24日、スティムソンはリトル・ホワイトハウスにトルーマンを訪ね、ハリソンからの原爆投下に関する日程について報告をする。 トルーマンは非常に上機嫌になって、これから彼が行う日本に対する警告に対して決定的一突きになる、とスティムソンに云う。 |
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ここでスティムソン、トルーマンに、日本に対して天皇制維持の再保証をしておく重要性を説明した。 スティムソンは、天皇制維持を盛り込んだ日本に対する降伏勧告原稿をトルーマンに提出していた。 先にも説明したように、天皇制維持が項目に盛り込まれていれば、日本は即時降伏をするかも知れない、ならば原爆を投下する必要はないかも知れない、と考えていたようだ。 このスティムソンの提出した、日本に対する降伏勧告原稿が、ほぼポツダム宣言の内容になるはずだった。 しかし、バーンズとトルーマンはこの「天皇制維持」条文を最終的に、削除してしまう。 そしてその内容で、最終的に蒋介石の諒解を取り付けていた。 この時点で、ポツダム宣言に「天皇制維持条文」を書き込むことは、あるいは難しかったかも知れない。 アメリカを除く3国(イギリス、中国、ソ連。ただしソ連はまだ中立だったので、宣言には加わらず、当然スターリンは署名していない。) スティムソンはこのことが非常に心配だったのだ。 この日の日記にこう記してある。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm 訳文:1945年7月24日 再び京都不投下に念押し) 「しかし、私がバーンズから聞いたところでは、その文言(天皇制維持)は、挿入されないと云うことだった。大統領が第三国の外交チャネルを通じて、口頭でもいいからその皆を伝えて、再保証する事が望ましいと思う。彼は(トルーマンは)、心にとめておいて何とかしよう、と云った。」 スティムソン日記はタイプで書かれている。スティムソン研究家、ダグラス・ロングによると、この日の日記の冒頭には、手書きで「H・T(ハリー・トルーマンの頭文字)に警告で天皇の事の重要性を云う。バーンズが削除してしまった。」と書いてあったという。 この日に、京都に原爆を落とさないことを最終的に、トルーマンに再確認していることは前述の通りだ。スティムソンは日記にこう書いている
しかし、トルーマンからすでに棚上げにされていることはスティムソンは分かっていた。 ダグラス・ロングに依れば、7月24日ポツダムからスティムソン夫人に宛てた手紙の中で、次のように書いているという。
翌7月25日スティムソンは、一足先にポツダムを離れ、帰国した。そしてその翌7月26日ポツダム宣言が出されたいきさつは、「Yポツダム宣言と投下前夜」で見たとおりだ。 従って、このポツダム宣言では、「天皇制維持」のことも全く触れていないし、「原爆投下の警告」もなされていない。 「原爆投下の警告」がなされていないのは、前回「Yポツダム宣言と投下前夜」では、ロバート・ファレルの解釈に従って、「マンハッタン計画は秘密予算だった。 総額20億ドル近い秘密予算のプロジェクトを、議会の承認をもとめないまま、敵国にその存在を知らせるわけにはいかなかった、だからポツダム宣言に書き込むわけにはいかなかった」とした。 しかしこうして詳細に「警告なしの原爆投下」のいきさつを見てくると、その理由すら表面的で、全く見当はずれではないにしろ、実際はもっと奥深い所に理由があったのである。 スティムソンは、ワシントンに戻ってくると2つの事が主要な関心を占めた。 一つは、今回のテーマである「ソ連と協議して原爆の秘密を公開し、戦後核競争と核戦争回避の方策作り」である。 もう一つが、「戦後日本の天皇制維持の問題」である。 先にも見たように、もともとスティムソンの原案では、「天皇制存続」をはっきりした確約するかたちではないのもの、ポツダム宣言の中に文言として挿入していた。 ポツダムで最終的にバーンズがこの文言を削り、スティムソンは不安を覚える。 日本が降伏を受け容れにくくなるのではないかという不安だ。 この問題をしっかり理論化しトルーマンに進言しておくことが必要と考えたのだ。 1945年8月2日、スティムソンはマーシャルを呼んで、天皇制維持の問題を話し合っている。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson9.htm 訳文:1945年8月2日 天皇制存続の進言) この時、スティムソンは空軍のデ・フロスト・スリック大佐の書いた論文をマーシャルに示して、天皇制維持の意見を求めた。 日記にはマーシャル自身の意見は書かれていないが、マーシャルは「太平洋方面軍総司令官のマッカーサー大将も天皇制維持を進言してきている。」とスティムソンに語った。 スリックの論文はおおよそ以下の内容だ。
スティムソンはマーシャルにこの論文は非常に良くできている、と感想を云っている。 8月4日(土曜日)は、スティムソンはこのバン・スリックの論文を読んで、自分の思索を巡らせた。 |
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8月3日(金曜日)は、日本に原爆投下の予定になっていた。 しかし、思うような天候にならず、8月4日に延期され、また天候のために結局8月5日(日曜日)の夜に投下が延期される事になった。 8月6日(月)、ロング・アイランドの自分の農場で静養していたスティムソンは、午前7時45分、マーシャルから、原爆投下成功の知らせを受け取る。 ワシントンと東京の時差は14時間である。 広島に原爆が投下されたのは、8月6日月曜日の午前8時15分である。 スティムソンは投下後約14時間後に第一報を受けたことになる。 この日の日記には、原爆投下後発表される諸声明に関する電話連絡の記述があるだけで、特にスティムソンの感懐は記されていない。 トルーマンはその時、ポツダムからワシントンへの帰途で大西洋上にいた。 8月8日、スティムソンはワシントンに帰って来たばかりのトルーマンに辞意をもらす。 健康上の理由だ。トルーマンはこの時、健康上の理由なら長い休暇を取ったらどうだ、戦争が終わっても内閣にとどまっていて欲しい、とスティムソンに云う。 私はこれはあながちお世辞でなくトルーマンの本音だと思う。 スティムソンの原則主義、理想主義をうるさく思っていたことは事実だが、スティムソンは、政治家として、トルーマンに欠けていた資質を持っていた。 ソ連の参戦と原爆の広島と長崎への投下で、アメリカにおける「戦争は終わる。終わって欲しい。」という気分は一気に加速した。 実際アメリカの産業界は労働力を必要としたのである。 スティムソンは、「今年冬場の石炭は一体誰が掘るのか、という議論が起こっていた。」と日記に書いている。 戦争を終えて、早く故国に帰りたいと気分は、ヨーロッパ戦線の兵士の中にも強く出てきており、それがアメリカ軍の士気の低下現象に繋がっている、ということもスティムソンは書いている。 その意味で、長崎に原爆を投下した後の8月9日はトルーマンをはじめとしてアメリカが最もいらついた日だろう。 翌8月10日から、スティムソンは静養のためバケーションに出かける予定にしていた。 荷物を詰め、まさにこれから車で出発しようというその瞬間に、マーシャルの副官、マッカッシー大佐から電話があった。 日本が降伏を申し込んで来たというのだ。 朝8時半のことだ。「これで私のバケーションは吹っ飛んでしまった。」とスティムソンは日記に書いている。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson9.htm 訳文:1945年8月10日 日本降伏の第一報と天皇問題) この時、スティムソンの書斎に届いた知らせでは、日本の降伏条件に天皇問題が全く触れられていなかったので、スティムソンは、「奇妙なことだ。」と書いている。 と言うのはこの問題が最後の最後まで、日本の降伏を遅らせる要因になるだろう、とスティムソンは考えていたからだ。 スティムソンのポツダム宣言原稿には、天皇制維持を思わせる文言が入っていたが、いわば土壇場で「大統領とバーンズがこの文言を削除(struck that out)してしまった」とスティムソンはこの日の日記にも書いている。 「2人とも頑迷ではないが、この案件は(日本との)停戦の後、秘密の交渉で調整できると考えたのだろう。この国(アメリカ)には、主としてギルバートとサリバンの「ミカド」以上の知識を持たない連中の、日本の天皇に関する規格化した扇動的言辞が長い間存在している」とスティムソンが自分の日記にやや憤慨口調で記している。 ところで「ミカド」は、W・S・ギルバート(作詞家、劇作家)とアーサー・サリバン(作曲家)のコンビによるビクトリア王朝時代のオペレッタでファース(笑劇)である。 日本を思わせる「ティティプ」を首都とするミカドの国で繰り広げられるお話しで、実際にはビクトリア王朝時代のイギリスをからかったものだ。 従って登場する天皇も日本も全く荒唐無稽なものだ。 ただし、テーマメロディの「宮さん」は、本当のメロディが使われている。 (ギルバートとサリバンについては次のURL。 http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_and_Sullivan 「ミカド」については次のURL:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Mikado ) スティムソンは、続けて次のように書いている。 「非常に奇妙なことだが、現在国務省に影響力のある人たちにこうした扇動的言辞が心の奥深くに埋め込まれていることに、今日気がついた。ハリー・ホプキンス、アーチボルト・マクライシュ、ディーン・アチソンの三人は、突出した対天皇強硬派だ」とスティムソンは書いている。 ハリー・ホプキンスは、トルーマンの特使として45年の6月にスターリンに会いに行った人物としてご紹介した。 マクライシュは広報文化担当の国務長官補佐官である。 ディーン・アチソンは当時議会担当の国務長官補佐官。 この後国務次官となり、1949年(昭和24年)には、バーンズの後の国務長官に就任している。 バーンズの回りには、天皇強硬派ばかりがいる、とスティムソンは言いたげだ。 |
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ワシントンに取って返して、陸軍省の執務室に入ったステムソンはすぐにマシュー・コナリー(大統領面会予約係補佐官)に連絡を入れて、「執務室に入ったので、大統領に用事があれば、いつでも出かける準備がある」と告げた。 折り返し10分も経たないうちに、コナリーから連絡があってすぐ来てくれという。 ホワイトハウスの会議室に行ってみると、トルーマンの他、すでに、バーンズ(国務長官)、フォレスタル(海軍長官)、レーヒー(大統領特別顧問。海軍元帥)がいて、協議をしていた。 やはり、日本からの降伏通告には、天皇制保持条項がついていた。バーンズはこの通告を受け容れるかどうかについて苦慮していた。 毎日新聞の昭和史全記録の8月9日の項を見ると、次ぎのように書かれている。 少々長いが引用する。
天皇制維持を条件としてポツダム宣言を受け容れる、という内容の日本政府の通告をどう取り扱うか、というのがこの会議の中心議題だった。 バーンズはこれまで無条件降伏を繰り返して来たため、この事実上の「条件付き降伏」を飲むかどうかで苦慮していたのだ。 しかし、事がここまで至れば、政治に全く素人の私の目から見ても、単なるメンツ問題であろう。 どちらにしても、日本軍解体、戦後占領政策において天皇は利用できる、という政策合意はこの時点でトルーマン政権の中で形成されつつあったのだから。 大統領顧問のレーヒーは、良い意味の大局観をもっていた、とスティムソンは書いている。 「天皇問題は、今手中に収めつつある勝利に較べれば比較的小さな問題だ」と発言したのである。 それからトルーマンは、途中出席したスティムソンに意見を求めた。
この堂々とした議論に優る議論はだれからもでなかった。 トルーマンとバーンズは別室で協議した後、日本の降伏通告受け入れを発表するのである。 この時、スティムソンは別に極めて重要な提言をする。
この提言は、日本の降伏はまだ正式なものではない、という理由で却下される。 スティムソンは日記に、「これは(まだ正式な降伏ではないという理由で空襲を停止しないのは)確かに正論だ。しかし狭い考え方だ。(narrow reason)だ。日本はすでに世界の諸国に降伏を伝えている。」と書いている。 この会議が終わった後、スティムソンはバーンズと別室で協議した。 マーシャルの希望をバーンズに伝えるためだ。 マーシャルの希望というのは、アメリカ人捕虜の取り扱いのことだ。 日本軍に捉えられているアメリカ人将兵をどこかお互いに合意できる施設に集めさせて欲しい、飛行機で迎えに行きたい、とマーシャルはいうのだ。 これに対するバーンズの回答は伝えられていない。 ふっと窓を見ると、「日本降伏」の報道を伝え聞いた、群衆がホワイトハウスに押し寄せ、ペンシルバニア通りは車も通れない状況になっていた。 それからスティムソンは陸軍省に戻り、海外から戻ったばかりのマクロイ、マーシャル、バンディ、ロベット、ハリソンと協議に入った。 後でバン・スリック(例の天皇制維持に関する論文を書いた著者)も呼び入れた。 ここでの会議のテーマは、日本に対する降伏通告受け容れ文書の検討である。 この協議を通じて、「ジョン・マクロイが(日本について)私より幅広い考え方をもっていることが分かった。」とスティムソンは新鮮な驚きをもって書いている。 「マクロイは、天皇制問題を機会に日本に対して、言論の自由を含め、自由な政府が有する、そしてアメリカが持つ要素のすべてを日本に注ぎ込みたい、というのだ。 私はこの考え方に興味をそそられた。」 マクロイはすでに占領政策の問題に踏み込んでいたことになる。 結局、このマクロイの案は却下される。 「私はこれは今非現実的だと思う。今大事なことは、すでに満州を侵攻しているロシアが日本本土に到達する前に、われわれの手を日本本土に伸ばして、日本占領に関するロシアの要求を抑え、日本当時に関して支援をおこなう事が何にもまして重要な事だと思う。」とスティムソンは書いている。 ジョン・J・マクロイは、1941年から45年の間、スティムソンの補佐官だった。 日本に対する原爆投下そのものに反対した人物としても知られている。 1947年から49年まで世界銀行総裁を務め、その後1953年から60年までチェース・マンハッタン銀行の頭取を務めた。 またケネディ政権の時に大統領顧問となり、その後ジョンソン、ニクソン、カーター、レーガンの各政権で大統領顧問を務めた。 次のURLに詳しい。 (http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/EXTABOUTUS/EXTARCHIVES/ 0,,contentMDK:20504728~pagePK:36726~piPK:437378~theSitePK:29506,00.html ) 専門家はどのように見ているか聞いてみたい気がするが、バンディと並んでスティムソン学校の優等生という感じが、が私にはする。 協議が一段落したあと、スティムソンはバーンズに電話を入れて、回答文書について協議を踏まえた意見を述べた。 バーンズは回答文書ができたので、スティムソンに見て欲しい、と依頼する。スティムソンは陸軍省から国務省まで人を走らせて、その文書を手に入れる。(なにしろ当時はFAXも電子メールもない) 内容は、マクロイよりもスティムソンの内容に近い。 「マクロイに見せたら、これは最終的に、彼の見解からしても同意できるということだった。私は極めて賢明で注意深い声明だと思った。外向けに云っているよりはるかに(日本が)受け容れやすい内容だと思った。 天皇の行動は、ただ一人の連合国総司令官が統括する。ここでの「司令官」は単数形が使われており、今ポーランドで起こっているような複数の(司令官たち)の合意を排除している。」と書いている。 電話でスティムソンは、バーンズに原稿に賛同すると伝えた。 この時バーンズは、総司令官には誰がいいだろうかと聞いたので、スティムソンは、マッカーサーだろうと答えた。 この時点はやはり陸軍と海軍の確執が伝えており、マーシャルはこの両軍の調整に腐心していた頃だ。 「海軍と陸軍の間で問題が起こるかも知れないが、その時はマッカーサーとミニッツ(チェスター・ミニッツ。当時米海軍太平洋艦隊総司令官)の2人総司令官となる」と スティムソンは答えている。 この日、再びホワイトハウスに閣僚が集められた。 閣僚が集まっている部屋に、トルーマンとバーンズが入ってきて、閣僚の全員にアメリカは日本から第三国経由(この時はスエーデン)で送られて来た公式降伏通告を受け容れる、と発表した。 「中国、イギリス、そして恐らくはソ連にも連絡済みの日本への回答文書をバーンズは読み上げた。その文書はバーンズが(最終的に)電話で私に読み上げたそのままであり、私が承認した内容であった。」とスティムソンはこの日の、長い日記の最後に書き記している。 この後スティムソンは、予定していた辞任前の静養に入る、実際78歳の誕生日を目前にしたスティムソンの体力はもう限界に来ていたようだ。 |
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この静養は8月12日から9月3日までの事だった。 この間、スティムソンは自分の静養先にマクロイを呼んで、残った大仕事の結末をつけにかかる。 すなわちこの回の冒頭に紹介した、「原爆管理のための行動提言」と題する、トルーマン宛のメモランダムの完成だ。 スティムソンが静養を終わり、9月4日陸軍省に出て、昼食会形式の閣議の後、バーンズを呼び止めて、直ちにロシアと協議に入り、廃絶を最終目的として原爆を国際管理に移そうという案を打診した。 スティムソンはこう書いている。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson10.htm 訳文:1945年9月5日 スティムソン正式に辞意を表明 )
このソ連とスターリンに対する不信感は、スティムソンも同様だ。 ポツダムで実際のスターリンとソ連を目の当たりに見たスティムソンは、ソ連に対して同様な不安を抱いていた。 それでも、スティムソンはソ連と原爆の国際管理について協議を開始しようと云うのだ。それは、 「原爆は人類が、自然の力を制御するほんの一段階であり、古くさい概念をもってしては、原爆は革命的に過ぎ、また危険すぎます。」 (1945年9月11日付け「原爆管理のための行動提言」より。原文。訳文)からであり、 「世界の歴史の中で、極めて重要な一歩を達成する最も現実的な手段がこの方法だと、私は主張するものです。」(同)だからである。 この日静養先から、ワシントンへ戻る飛行機の中で、スティムソンは、正式に辞任する文書の原稿をタイプした。 陸軍省に出て、すぐ自分の執務室でこの原稿を手書きで 清書し、ポケットに忍ばせて、昼食閣議に出席した。 そして閣議が終了した後、トルーマンに手渡した。 バーンズと「ロシアとの原爆管理問題」を協議した後、その正式辞表をトルーマンに手渡したのか、協議の前だったのかは、日記には記していない。 1945年9月21日、78歳の誕生日にヘンリー・ルイス・スティムソンは約50年間に及ぶ公的生活にピリオドを打ち、陸軍省を去った。 そして5年後の1950年10月20日に83歳でこの世を去っている。 (以下次回) |