No.22-10 平成20年8月21日
拝啓、河野衆議院議長殿  21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?

その10(最終)歴史的和解と清算の3つの原則
南太平洋から始まった核兵器廃絶運動

 広島への「原爆投下(日本への原爆使用)」は、当時の原爆投下推進勢力が、アメリカの市民の税金を合法的に消費しながら、第二次世界大戦が終了した後も、準戦時体制下で肥大していくスタートポイントでした。

 そしてこの原爆投下勢力は、1947年の米国家安全保障法を契機に、のちにアイゼンハワーが、「軍産複合体」と呼ぶ「体制内権力」に質的変化を遂げていきます。

(* 日本語で、Military-Industrial Complexを『軍産複合体』と呼ぶのに対して、私は小原敬士にならって時々『軍産複合体制』あるいは原爆誕生時のハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、シカゴ大学など学界の大きな役割に敬意を払って『軍産学複合体制』と呼ぶことがあります。この2つが厳密にどう違うのか、いまここでは詳しい説明を省きますが、軍産複合体は今や一つのシステム(体系)に成長しております。一つの完結した閉じられた系を連想させる「複合体」という言葉よりも、開かれた系として、アメーバが増殖するような一つの増殖システム、つまり「複合体制」と呼ぶのがふさわしいと考えております。ですからこの「体制」の中では、主観的には一人の良心的な学者や政治家、官僚が意図せず、軍産複合体制のために働いている、と言うこともあり得ます。決して、軍部と軍需産業の陰謀、のような政治小説めいた存在ではありません。)

 核兵器と軍産複合体制は、共に足並みを揃えながら成長し、今日の状況を現出しました。

 こうした状況が、一般に非常にわかりにくかったのは、彼らの権威と権力、それに由来する影響力、それにデマ体質、秘密主義体質にあります。

 こうしてたとえば、広島への原爆投下は「対日戦争終結のため」というデマが世界の常識として定着しました。確かに原爆投下は、1週間かそこら対日戦争終結を早めたことは事実だったため、一層本当らしく見せました。

 そしてこのことが、後で誕生する「核兵器廃絶運動」の側の団結を鈍らせ、足並みを乱すようになります。

 というのは原爆を投下された日本は、当時天皇制ファシズムという凶暴・凶悪な仕組みの中で、アジア・太平洋を中心に極めて残忍な戦争を戦っていました。天皇制ファシズムが残忍だったのは何も「敵」に対してばかりではありませんでした。「味方」に対しても残忍でした。彼らが最終的に守ろうとしたのは「日本」や「日本の市民とその財産」や「日本の国土」ではありませんでした。「天皇制ファシズム」そのものでした。

 こうして日本に対する原爆の使用は、日本を含めた世界の市民から意外と大きな心情的支持を集めました。その心情的支持は現在でも日本国内に根強くあります。それはたとえば「原爆投下で戦争が終わったのだから、それは仕方がない」といった感情に代表されます。

 日本で発生した、本来「核兵器廃絶運動」へと発展すべき「原水爆禁止運動」も途中でその目的がすり替えられ、核兵器廃絶ではなく被爆者救済・援護運動へと変質していきました。

それは謝罪と国家責任を認めた国家賠償ですらありませんでした。気の毒だから私には責任はないけれど、支援・援護してあげましょう、と言う性質のものでした。被爆者はいまでも屈辱的な援護を受けているのです。)

 世界の核兵器廃絶運動は、意外なところから始まりました。ビキニ環礁のブラボーショット以来明るみに出た核兵器の犯罪性に気づいた南太平洋の市民たちが、自分たちの住む地域に一切の核兵器を持ち込ませないという形で、核兵器廃絶運動を始めたのです。

 それはヨーロッパで始まった核廃絶運動、すなわち自分たちの住む場所が、核戦争の主戦場になることを恐れての軍縮という形態をとりましたが、よりもはるかに根源的・攻撃的な核兵器廃絶運動でした。

核弾頭の数を減らす核軍縮は本来核兵器廃絶とは別物です。それは核兵器を通常兵器の延長線上において見た見方です。核軍縮は、最後の1発が廃棄された瞬間に核兵器廃絶運動として効力を持ちます。その意味では核軍縮は「核兵器廃絶不可能論者」の消極的抵抗です。そもそも核兵器廃絶のための核軍縮―NPTにも謳ってありますがーなど誰が言い出したのでしょうか?)

 南太平洋地域で始まった、核兵器廃絶運動はゆっくりとですが、アジア太平洋地域に拡大していきました。それは太平洋が「核実験」という形での具体的な「核兵器使用の場所」として使われたためであり、ベトナム戦争、ラオス紛争など実際に核兵器が使われる危険が身に迫っていた結果でもありました。ヨーロッパよりも切迫度が格段に違っていたのです。


非核兵器地帯の2重の意味

 アメリカの軍産複合体制は当初こうした動き、すなわち非核兵器地帯形成の動きに対して、対決的姿勢をとってきましたが、途中でこの動きは「核兵器不拡散」「核兵器独占」にも利用できると考え、自らの「核兵器世界戦略」に支障のない限り、容認する姿勢に転じました。にも関わらず「非核兵器地帯形成」の意義は大きいものがありました。

 核兵器独占をはかる軍産複合体制に対して、「自分たちを守るのに核兵器はいらない。核兵器は存在自体が危険だ。」とする非核兵器保有国の意志表示には十分なっているからです。

 いわば核兵器保有国(その中には必ず軍産複合体制があります。中国、ロシアと言えども例外ではありません。)の力の誇示に対して、「非核兵器思想」で対抗し、これを包囲する形を取り始めているのです。

 こうした「非核兵器思想」は、世界で最初の「非核兵器」パラオ共和国憲法を産みだし、ニュージーランド市民の一切の核兵器拒絶政策に結実し、「核兵器はそれを扱う人間共々刑事犯罪である」とするフィリピン「非核兵器法」という金字塔を樹立しました。同時にアメリカ軍基地をフィリピンが完全追放するすることによって、東南アジア地域に最も進んだ形での東南アジア非核兵器地帯が成立します。

 この間、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮(本当に核実験に成功したのかどうか疑わしい点は多々あるのですが)が核兵器保有国になる一方で、南アフリカは核兵器の実戦配備までしながら、全面廃棄を行い、NPT体制(核兵器不拡散条約)に参加しました。核兵器保有を模索してきたリビアも正式に核兵器非保有を宣言しました。

 ラテン・アメリカでは、1990年にライバル同士のブラジルとアルゼンチンが共同で「非核保有宣言」を行い、メキシコが主導して形成されていた「ラテン・アメリカおよびカリブ海非核兵器地帯」に参加しました。これを見て、チリとキューバがこの非核兵器地帯に参加し、ラテン・アメリカは一部植民地を除いて、独立国家はすべて同非核地帯条約に参加したことになります。

 アフリカでも一応非核兵器地帯は成立しましたが、非核兵器地帯の実質成立の条件である、「自分たちのことは自分たちで決める」自主独立がまだ不備のため発効できないでいます。

 ヨーロッパでも、核兵器の開発研究の可能性を模索してきたスイスとスエーデンがそれぞれ1995年と2001年に、正式に開発放棄宣言をしました。

河野議長、地球もまんざら捨てたものではないですね。)
日本は支配階級の意向を受けた政治家が核兵器保有について色々きな臭い発言をし、アジア諸国に、「日本は核武装をするのでないか」と警戒感を抱かせています。)


ゆっくり着実に前進してきた核兵器廃絶運動

 21世紀に入った今日、核兵器廃絶にはまだまだ山あり谷ありといった状況ですが、こうしてみると、1954年アメリカ原子力委員会によるビキニ環礁水爆実験以来の世界の核兵器廃絶運動は、ゆっくりとですが着実に前進してきていると言うことが言えるかと思います。

 この間世界の核兵器廃絶運動は、ニュージーランドやオーストラリアに代表されるように、市民運動の形態で進められて来たことが大きな特徴です。それは時には、フィリピンに見られるように「民衆革命」の形をとることもありました。

 次の特徴は、核兵器保有国の「軍事力およびその脅し」に対して、「非核兵器の思想」をもって対抗していることです。「非核兵器の思想」は「核兵器廃絶の思想」の中でも、もっとも「根源的」(ラディカル)であり、「核兵器はそれを扱うもの共々、刑事犯罪の対象となる」という思想です。

 しかし、21世紀に入った今日、この「非核兵器の思想」を補強強化する必要があると私は強く感じています。


核兵器廃絶には地球市民の「感情共有」が必要

 それは、08年長崎の平和宣言で森重子が呼びかけた「感情共有」が大きな要素になるのではないかと思います。

 「原爆や核兵器」が単に人道的犯罪であることにとどまらず、「ヘロイン」や「覚醒剤」と同様に「刑事犯罪の対象」であり、それを扱うものは「人間のくず」であると言う思想を共同で樹立することは極めて大切です。しかしその思想を人類が共有するには、同じ「理不尽に大切な自分の将来と今の生活をうばわれたもの」としての、同じ痛みを分かち合う行為としての「感情共有」作業が必要です。

 私は森重子の言葉をこうした「感情共有」作業への呼びかけとして聞いていました。

 核兵器(原爆)を含め、「あの戦争」を含め、そして森重子のいう、貧困と格差や戦争に今なお苦しむ人たちを含め、地球上の市民たちの、「核兵器」や戦争に対する「感情共有」が今こそ必要なのではないでしょうか?

 残虐な日本の天皇制ファシズムに蹂躙された歴史をもつ市民たちが、原爆攻撃を受けたヒロシマとナガサキに対して、同じ痛みを受けたもの同士としての「痛みの感情共有」をすることが果たして可能でしょうか?

 ましてや、その原爆攻撃が、残虐な天皇制ファシズムが無条件降伏をする直接のきっかけとなり、自分たちを蹂躙から解き放った契機であると認識しているとすればなおさらです。

広島・長崎への原爆攻撃が、決して戦争を終わらせることを目的としたものではなく、むしろ逆に冷戦という準戦時体制を創り出し、今日の核兵器時代を創り出すことを目的とした歴史的事件だったことはこれまで見てきたとおりです。)


歴史的和解の手発点は「謝罪」

 もし地球市民の「感情共有」作業が必要であるとするならば、そしてその「感情共有」作業が、核兵器廃絶へ向けての地球市民の団結の礎になるものとすれば、その出発点は何でしょうか?

 私は「感情共有」作業の出発点は「謝罪」だと思います。かつて対立したもの同士が、お互いに実は何物かの犠牲者だった、被害者だったことを確認し、「核兵器」や「戦争」に対する「理不尽さ」「非合理である」という感情を共有し、これを現在「戦争」のもっとも鋭い形での軍事的表現形態である「核兵器」を廃絶するための「感情的基盤」となるのだと思います。その感情的基盤の上に理論構築がなされねばなりません。そこに「核兵器廃絶」へ向けての地球市民の固い団結が生まれるのだと思います。


 広島市議会の任東栗司を思い出してください。広島が、原爆を投下したアメリカに「激しい憤激」を直接公な形で示したのは(もっとも任東栗はトルーマン個人に示したのですが、しかし同じことでしょう。)、後にも先にもこれ1回切りです。

 任東栗が恐らく自分で書いただろうと思われる、趣旨の一貫しない「広島市議会決議」(二回目のです)を繰り返し繰り返し読むうちに涙がこぼれます。任東栗の憤激だけは本物だからです。任東栗はトルーマンに謝って欲しかったのだな、とつくづく思います。政治家の言葉でなく、人間の言葉で心から謝って欲しかったのだな、と思います。それだけで任東栗の心はどれだけ癒されたでしょうか。

 しかし、もし任東栗が謝って欲しかったのだとすれば、まえの戦争で、日本軍の兵士に腹を切り裂かれ、取り出された胎児を串刺しにされた母親は謝って欲しいと思わないでしょうか?「従軍慰安婦」(この言葉の欺瞞性にはほとほと手を焼きますが)という名前で呼ばれた「旧日本軍性奴隷制度」の犠牲になった女性たちは、今の日本政府に心から謝って欲しいと思わないでしょうか?731部隊で生体解剖された人たちは謝って欲しいと思わないでしょうか?朝鮮半島の人たちは日本に謝って欲しいと思わないでしょうか?

 どれだけ多くの世界の人たちが、今謝って欲しいと思っていることでしょうか?

 20世紀は対立と殺戮の世紀でした。21世紀を「和解と清算」の世紀としなければならない、と私も強く感じていますが、その第一段階は「心からの謝罪」です。「本当に私が悪かった、心から謝りたい。」と言うことです。


戦後ドイツの「過去の克服運動」

 20世紀を「克服」し、21世紀の西ヨーロッパを「和解」の地平とした例があります。戦後西ドイツの「過去の克服運動」です。

 20世紀に起こった悲劇を誠実に遡及し、虐殺を行ったものとその虐殺を受けたものがその立場を乗り越えて協働し、「悲劇」を克服した例です。

 私がここでおさらいしなくてもよく知られた話ですが、大江健三郎の「広島はアウシュビッツと同様に世界に知られなくてならない」という言葉を聞くと、もう一度おさらいしたくなります。

 この運動の要点は、戦後ドイツのナチス追及であり、ユダヤ人大量虐殺問題に対する徹底した糾明とユダヤ人などに対するきっぱりとした謝罪に代表されるように、戦後ドイツの歴史清算と和解にありました。

 このドイツの徹底したナチスドイツ追及の姿勢は、ドイツ連邦共和国初代大統領テオドーア・ホイスが使って一般に広まったとされる「過去の克服」(Vergangenheitsbewaeltigung)と言う言葉に象徴されます。ホイスの「過去の克服」は、「謝ればよい」というその場限りのものではなく、明確な概念を持っていました。

 それは、

1. ナチスの侵略によって被害を受けたヨーロッパ諸国の人々に対する補償と謝罪。
2. ナチス戦犯に対する追及。
3. ナチス時代への批判と反省を深めることを目的とした国民に対する教育。

ドイツ(旧西ドイツ)の「過去の克服」への努力は、その原動力から見ると2つの側面があったと言われています。一つは「ニュルンベルグ裁判」に代表される連合国側からの「非ナチ化」の圧力です。もう一つはドイツ内部からの「克服」への努力でありましょう。

 すでに、ポツダム会談時、連合国には「ドイツの戦犯断罪」の合意があり、それがいろいろな法的手続きを経て、「ニュルンベルグ裁判」が実現します。ニュルンベルグ裁判は「勝者による敗者への裁判」という側面を色濃く持った裁判でした。それはポツダム会談時、スターリンが「私の個人的意見など問題ではない。裁かなければ世論が納得しない。」といった言葉に象徴されましょう。

 これは東京裁判にも共通した感情がありましょう。

 しかしドイツ国内にも、「ナチス時代のドイツ」に対する深刻な反省がありました。これは、凶暴な天皇制ファシズムに対する深刻な断罪と反省を曖昧にした日本と大きく違うところです。


ドイツ内部からの力が本当の原動力

 ドイツ内部からの「ナチス時代のドイツ」に対する深刻な反省は「ナチス犯罪追及センター」の設立に象徴されます。

 21世紀を迎える今日から振り返って見れば、「過去の克服」の本当の力となったのは、前者ではなく後者、すなわち「ドイツ内部からの反省」が真の原動力だったということがいえるのではないかと思います。

 ドイツの「過去の克服」はしばしば、戦後補償の側面が大きくクローズアップされます。

 ホイスの云う「1.ナチスの侵略によって被害を受けたヨーロッパ諸国の人々に対する補償と謝罪。」の側面です。

 旧西ドイツにおける「ナチズム-戦後補償」には2つの要素がありました。一つは「国家補償」であり、もう一つは「個人補償」であります。ドイツ戦後補償の出発点は1952年の「イスラエル条約」でありますが、これはナチスドイツの犠牲者に西ドイツが補償をし、それをユダヤ民族の国家であるイスラエルが代表して受け取るという意味で国家補償ではなく、ユダヤ人犠牲者に対する個人補償でした。続いてドイツは連邦補償法を成立させ、段階的にその補償の枠を広げていき、現在も継続中であります。

 こうした、西ドイツの戦後補償には内外からいろんな批判にさらされてきました。その批判は一言で言えば、ナチスドイツが行った広範な迫害に対して金額的にも、補償範囲もあまりにも小さすぎ、狭すぎるというものでした。この批判はある意味妥当だといえましょう。ナチスによるホロコーストの犠牲者は、ユダヤ人約600万人非ユダヤ人500万人、合計1100万人というのが定説です。地域的には旧ソ連をふくめて、ヨーロッパ全体といっても過言ではありません。また多くのキリスト教徒、ロマ人、同性愛者、精神障害者などもホロコーストの対象とされました。これらの人たちが受けた生命・財産を算定することなどは不可能ですし、また仮に算定できたとしても、ドイツがこれを払いきることなどはおよそ不可能でしょう。

 重要なことは、ドイツの戦後補償が「過去の克服」への「物理的な証拠」として行われてきたことです。


将来世代への教育がもっとも重要なポイント

 「過去の克服」の道筋も決して平坦なものではありませんでした。旧ナチス党員をすべて断罪し公職から追放するといっても、旧ナチス党員の力を借りなければ戦後ドイツの復興はあり得ませんでしたし、その意味では旧ナチス追及も不十分なものとなりました。また、戦後ドイツが何度も経験した経済的困難の中で、なおかつ補償を続けることの矛盾に対する一般国民の不満拡がり、一部右翼の台頭を許す結果になりました。

 しかしながら全体として言えば、ドイツの「過去の克服」に対する意志と決意は極めて固く、様々な矛盾や対立を乗り越えながら、補償を中心とする謝罪の念の明確な意思表示、旧ナチスドイツ時代に対する追及を成し遂げたのであります。それは21世紀に入っても続けられております。

 21世紀の観点に立ってみれば、こうしたドイツ市民及びその連邦国家の努力のうち、もっとも重要だったのは「3.ナチス時代への批判と反省を深めることを目的とした国民に対する教育」である、と言うことが出来るのではないでしょうか。

 よく知られているように、旧西ドイツでは、国民、特に青少年に対するナチス時代のユダヤ人迫害問題に関する教育が推進されました。

 しかし、それも自動的に行われたものではなく、ドイツ内部でも葛藤がありました。またユダヤ人虐殺の事実も戦後すぐに多くのドイツ人が知ったわけでもありませんでした。

 ドイツのゲオルク・エッカート国際教科書研究所(1951年設立)はドイツがフランス、ポーランド、イスラエルなど関連国との歴史教育における和解を志向する教科書協議を主導してきた公共の研究所、とのことですが、2002年、ウォルフガング・ヘープケン所長は、韓国の新聞、朝鮮日報に次のように語っています。


戦争責任を認めることが、集団的アイデンティティを破壊すると受け取るのは間違いだ。ドイツは戦争責任を認めることで、むしろ集団的アイデンティティを確かなものにできた。もちろんドイツもそこに至るには多くの時間を要した。1950年代と60年代、ドイツの教科書はユダヤ人虐殺や国家社会主義についてほとんど言及しなかった。70年代から積極的に自己批判を込めた歴史叙述を強化してきたが、それには歴史学者の貢献が大きかった。」
(2002年10月16日 朝鮮日報日本語電子版)

私は戦後ドイツの「過去の克服」運動については、まだほとんど研究をしておりませんが、ヘープケン所長の言葉によっても、戦後すぐにドイツ人が積極的な自己批判をするにはためらいがあったようです。「歴史学者の貢献が大きかった。」という言葉が印象的です。

扶桑社の「新しい歴史教科書」中学・社会の序章「歴史を学ぶとは」の中に次のような一節があります。

 歴史を学ぶとは、今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発することと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。

  
(過去に起こった事件は)事実として確かに証明できる。それは地球上のどこに置いても妥当する客観的な事実として確定できる。けれども、そう言う事実をいくら正確に知って並べても、それは年代記と云って、いまだ歴史ではない。・・・一体(それら事件は)なぜ起こったか、・・・どういう影響が生じたかを考えるようになって、はじめて歴史の心が動き出すのだと言っていい。

 しかしそうなると、人によって、民族によって、時代によって、考え方や感じ方がそれぞれまったく異なっているので、これが事実だと簡単に一つの事実をくっきりえがきだすことは難しいと言うことに気がつくだろう。

 
(事実は客観的に確定できるといいながら、事実をくっきりえがきだすことは難しい、と主張する論理構造はちょっとついて行けませんが・・・)

 歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。・・・・

 歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。
(なんとも不思議な文章です。善悪や道徳は完全に個人の自由に属する概念で歴史という社会科学では扱わないことがらですが・・・。)歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。』

 この文章で言いたいことは明白でしょう。歴史は民族の数だけ存在するというイデオロギーです。この文章を論理的に解釈すると、歴史は人の数だけ、時代時代の一瞬一瞬の数だけ、すなわち無限に存在すると云うことになり、なぜ民族の数だけ存在することになるのか説明不足ですが、主張していることはそういうことです。ならば社会科学としての歴史は必要ではありません。民族の信念と世界観、道徳観さえあればいい、すなわち民族神話があれば十分でしょう。この思想はとりもなおさず、戦後ドイツが克服した思想でしょう。この教科書は文部科学省の検定をパスしました。私は2001年6月10日市販本の第1刷を使いました。)


ドイツは平和と人道の主導者になる

 ナチスドイツが行った迫害の事実関係が詳細に教育現場で教えられ、また1965年に刊行された歴史教科書「時代の中の人間」では、はじめて被害者の視点が導入され、その痛みを共有しようという教育も開始されました。

 またこの教科書ではユダヤ人ばかりでもなくロマ人迫害も取り上げられ、問題全体を「ナチスドイツのユダヤ人迫害」という個別的歴史事件から、「人間の人間に対する差別・迫害」というテーマへの普遍化の片鱗を見せたのです。

 果たして1970年代にはいると、教科書はホロコーストに関する従来のヒトラー中心主義的な記述からさらに進化し、ホロコーストと伝統的にヨーロッパ社会に巣くう「ユダヤ人差別」との関係やユダヤ人側からの抵抗運動についても触れることになりました。

 実際問題として、いかにナチスドイツの強制力が強大であったとはいえ、ほとんどヨーロッパ全土にまたがるユダヤ人狩りは、ヨーロッパ市民の中に歴史的に根付く「反ユダヤ人的感情・差別意識」の伝統と無関係ではありませんでした。

 こうして、戦後ドイツにおける「ナチス時代への批判教育」は期せずしてヨーロッパ社会への批判教育として発展を遂げたのです。こうしてドイツはヨーロッパ社会における「人道と正義」の主導者になりつつあります。

 もちろんこうしたドイツの戦後の努力に様々な批判があったことも事実です。国外からは「不十分だ、まだ足りない。」というものであり、「国内からは、もう十分だ。いつまで続けるのか。」という批判です。しかしドイツはこうした批判にひとつひとつ丁寧に答える形で、「過去の克服」を推進しました。

 こうしたドイツの努力をヨーロッパの市民は全体として高く評価しました。

 決してドイツの「弁解」とは受け止めませんでした。それほどドイツの「過去の克服」運動は真摯だったのです。

 日本で特に有名な「アウシュビッツ」は、こうしたドイツの「過去の克服」運動の中で、ドイツ人の自己批判の象徴として、人々に知られるようになったのであって、決してその「人間的悲惨」で知られるようになったのではありません。

 大江健三郎は「ヒロシマ・ノート」の中で「広島の原爆は、歴史上もっとも大きい人間的悲惨である。従ってアウシュビッツと同様に世界の人に知られるべきだ。」と書いていますが、これは浅薄な見方だという他はありません。

 戦後ドイツはありとあらゆるものを失いました。国土、富、経済基盤などの物的資産と相俟って、「威信」「信頼」「誇り」「尊敬」「友情」「道義」といった無形資産も失いました。

 ウェルナー・マーザーは「ニュルンベルグ裁判」(TBSブリタニカ、1979年8月1日初版 西義之訳)の中で、ポツダム会談1945年7月17日(すでにドイツは降伏していました。7月17日といえばポツダム会談の初日ではなかったかと思います。)のソヴィエト側議事録を次のように引用しています。

チャーチル: 私は一つだけ質問したい。ここに“ドイツ”という言葉が使われているのに気づいているが、“ドイツ”とはいま何を意味するのか。戦前と同じ意味で理解していいのか。
トルーマン: ソヴィエト代表は、この質問をどのように解しますか。
スターリン: ドイツとは戦後できたものの謂である。他のドイツは今は存在しない。このように私は質問を理解する。
トルーマン: つまり1937年のドイツ、戦前のドイツのことではないのですな。
スターリン: 1945年のドイツです。
トルーマン: 1945年、ドイツは全てを失っている。今ドイツは事実上存在しない。
スターリン: われわれの側でいわれているごとく、ドイツは地理学的概念です。さし当たりそう解しましょう!戦争の結果を抽象化することは許されない。 』

 1945年、ドイツは国ごと失ったも同然でした。

 それでも、物的富の回復は比較的容易です。しかし「威信」「信頼」「誇り」「尊敬」「友情」「道義」などといった無形資産の回復は容易ではありません。しかし、「過去の克服」への努力の積み重ねは、結果として「無形資産」を見事に回復することになりました。


「過去の克服」が獲得した貴重な果実

 2005年4月10日、ドイツ東部の小さな村、ブーヘンヴァルトで当時のシュレーダー首相は、なお次のように述べています。この村にはユダヤ人強制収容所があって、1937年からユダヤ人、ロマ人、旧ソ連人、政治犯など24万人が収容され、ガス室はなかったものの、5万6000人が飢えや拷問、重労働で死んでいったそうです。


私たちが歴史を変えることはできません。しかし、私たちにとり最も恥辱的な事実から多くのことを学ぶことができます」
数百万の死、そして残された者の苦痛…、これがさらに明るい未来を建設すべき私たちの任務の土台となります」
私は犠牲者、そしてその家族の前に頭を下げて陳謝します」

2005年4月11日朝鮮日報日本語電子版。この記事はAP電からの転載。韓国の新聞からの引用が多くて申し訳ないのですが、日本の報道機関は言論統制に入っているらしくて、こうした記事が余り読めないのです。それと韓国の新聞は今日本を映し出す鏡になってくれていると言う事情もあります。そういえば『国境なき記者団』の『報道の自由ランキング』では2006年、韓国が31位でアジア諸国の中ではトップでした。日本はというと、50位のイスラエルに次いで51位です。なに心配はありません、53位のアメリカよりは上ですから。ついでに思い出しましが、この間朝日新聞が中国の言論統制を批判した記事をかなり大きく掲載していました。目くそ鼻くそを笑う、というと品がなさ過ぎますか?)

 今日ユーロッパは「EU」として統合の過程を歩みつつあります。共通通貨「ユーロ」を創出するところまでこぎ着けております。ドイツもヨーロッパの大国の一つとして、EU形成に大きな役割を演じております。

 しかし、もしドイツの「過去の克服」がなかったとするなら、ドイツは決してEU形成に大きな役割を演ずることはなかったでありましょう。あるいはEU形成そのものが成立していなかったかも知れません。

 ドイツの「過去の克服」は、ヨーロッパ社会とユダヤ人などヨーロッパの被差別民族・グループとの間の歴史的和解を実現したということができるのではないでしょうか。その歴史的和解の地平線上に「ヨーロッパ統合国家」が出現しつつあるという見方もまた可能ではないでしょうか。


オーストラリアの謝罪

 21世紀の世界の気分(ムード)が「歴史的和解と清算」の方向に向かっている、と言う兆候はないではありません。

 本当にわれわれ地球の市民は、対立と殺戮に心から嫌気がさしているのでしょう。

 その気分を代表しているのが、2008年2月13日、オーストラリア首相、ケビン・ラッドが、オーストラリア連邦議会で表明し、議会が満場一致で支持を表明した、先住人「アボリジニー」に対する「謝罪」です。「盗まれた世代への謝罪」と題された、この声明ではオーストラリア市民の先住人「アボリジニー」に対するきっぱりとした、心からの謝罪が表明されています。

 原文はもちろん英語ですが、オーストラリア大使館が翻訳した日本語もなかなか美しく、首相声明というより一篇の詩に近い格調高いものです。

 短い声明ですので全文引用しておきます。

『 我々は本日、この国土の先住緒民族、その人類の歴史上最古にしていまなお続く文化に敬意を表する。

我々は、過去の彼らへの仕打ちを反省する。

我々は特に、わが国の歴史における汚点の章である盗まれた世代の人々への仕打ちを反省する。

過去の誤りを正し未来に自信を持って歩むことで、オーストラリアの歴史の新しい一頁をめくる時が来た。

歴代の議会や政府が法律や政策を通じて、我らの同胞に対して深い悲しみや苦悩及び喪失を与えてきた点に謝罪する。

我々は特に、アボリジニやトレス海峡諸島民である子供達を、その家族やコミュニティー、そして故郷から引き離した点を謝罪する。

こうした盗まれた世代の人々と彼らの子孫の痛みや苦悩、苦しみに対し、また取り残された家族に対しお詫びする。

家族及びコミュニティーの崩壊に関して、母親や父親、兄弟、姉妹に対しお詫びする。

そして、誇りある人々、誇りある文化が斯くして侮辱され、貶められたことをお詫びする。

我々オーストラリア議会は、国家としての回復の一端として提示されるこの謝罪が、同様の精神で受け入れられるよう敬意を込めて要請する。

我々は、我らが大いなる大陸の歴史に、この新しい頁が今まさに書かれんことを決意し、未来への勇気を得る。

我々は本日、過去を認め全国民の未来への権利を謳うことで、この最初の一歩を踏み出す。

我々議会は、この未来において過去の不当な行いは決して再現されてはならないと決意する。

この未来において、平均寿命や教育、経済的機会における先住民と非先住民間の格差を埋めたいという全オーストラリア国民の決意を活かしていく。

この未来において、過去の手法で失敗してきた以前からの問題への新たな解決策の可能性を生かしていく。

この未来は、互いへの尊敬や相互間の決意及び責任に基づく。

この未来において、全国民は出自に関わらず真に平等なパートナーとなり、均等な機会を得ると共に、この偉大な国オーストラリアの歴史に新たな章を作るのに平等に参加できる。 』
(なおこの文章の原文は次で読むことができます。http://www.dfat.gov.au/indigenous_background/ )

 なおこの文章では触れていませんが、アボリジニーは、オーストラリアの砂漠でイギリスが行った核実験の被害者であり、また「被ばく者」でもあります。

 これは前にも引用したスチュアート・ファースが「核の海」の中で、わざわざ「アボリジニーなんかどうでもいい」という一章を起こして詳しく報告しています。

 またついでにいえば、イギリス政府はこの問題を「オーストラリアの国内問題」として、全く無視し続けています。

 日本でも2008年6月参議院で、「アイヌが日本の先住民族であることを認めその権利と文化を尊重する」決議案が全会一致で採択されました。嬉しくはありましたが、オーストラリアに見られるほど、きっぱりした謝罪の言葉が、美しい日本語で語られなかったのは極めて残念に思います。


根本的な問題提起となった米議会「旧日本軍性奴隷制度非難決議」

 21世紀の「歴史的和解と清算」の課題に関して、日本社会に対して、根本的な問題提起を行ったのは、米下院の「旧日本軍性奴隷制度非難決議案」(いわゆる「従軍慰安婦制度」非難決議案)ではなかったでしょうか?

 これは、今度広島にもやってくる、ナンシー・ペロシ米下院議長の主導のもとで開催された第110米議会下院での出来事でした。「旧日本軍性奴隷制度非難決議案」が下院国際関係小委員会から本会議に提案されたのです。7月30日この決議案は本会議で採択されました。

 日本では、これを「対日非難決議案」だという捉え方が一般的であり、朝日新聞などを含めて大手マスコミ(ジャーナリズム一般、という意味ではありません)も紙面や報道を見る限り、この問題の本質を把握しそこねています。

 この問題の本質は、日本の市民と、旧日本軍による「性奴隷制度」の犠牲者との「歴史的和解と清算」の出発点、と言うところにあります。

 この「決議」の内容に入る前に、この2008年7月30日この決議が採択されるまでのいきさつをざっとみておきましょう。

 「天皇制ファシズム」の象徴ともいうべき旧日本帝国軍が太平洋戦争・日中戦争の間に行った犯罪行為の中でも「性奴隷制度」(従軍慰安婦制度)はもっとも遅くに明らかになりつつある犯罪行為でした。

話は変わりますが、日中戦争を十五年戦争という言い方をするときもあります。これも正確には十五年侵略戦争というべきでしょうが。なかなかわかりやすい呼称です。というのは敗戦が1945年ですからそこから15年間を引いて、1931年がこの戦争の勃発と見なされる満州事変が引き起こされた年、と時系列的に頭に入りやすいからです。西暦から25を引くと昭和になりますから1931年は昭和6年となります。しかし「皇帝は時をも支配する」という考え方に立脚する元号制度も何とかなりませんかね。世界史の時系列から日本史への時系列に換算しなくてはなりません。元号制度も「大化」以来1500年も続けば文化遺産ですか。「一世一元」は文化遺産ではありませんが。辛抱しましょう。イスラム歴、ユダヤ歴もあります。そういえば西暦もキリスト歴ですか。暦もイデオロギーですね。)

 「旧日本軍性奴隷制度」の問題が、徐々に明らかになってきたのは1980年代以降ではないかと思います。中国や韓国で研究が進んだことがあげられますが、旧日本軍の犯罪行為のうちその実態解明の開始がもっとも遅くなったのは、多くの性奴隷制度被害者が殺されていたこと、生き残っていたとしても、自分の屈辱の体験になかなか被害者が口を開かなかったことが大きい要因でしょう。


正しい視点を失っていた日本

 日本では、この問題の解明が極めて遅くなりました。「慰安婦」の存在が知られていなかったわけでありません。大体それを経験した兵士たちが夫として或いは父としてあるいは恋人、息子として日本の女性たちの元に戻ってきたのですから、一部に知られないはずはありません。つまり情報がなかったのではなく、それを「戦争犯罪」として問題提起する視点に欠けていたということがあげられるでしょう。次の要因はやはり日本政府がこの問題をできるだけ伏せておきたかったことも要因としてあげられます。

 情報だけは早い機会にありました。たとえば1965年(昭和40年)に成立した日韓基本条約に関連して当時の自民党国会議員荒船清十郎(なつかしい名前ですね)は、埼玉県の自分の選挙区で次のような話をしています。この時の聴衆は軍人恩給関係者だったそうですから、荒船にとってはいわば身内への自慢話程度だったのでしょう。日本語版Wikipediaによると次のような内容だったと言います。
(項目名:「マクドゥーガル報告書」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF
%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%A
C%E3%83%AB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8
 の脚注)

 戦争中朝鮮の人たちもお前たちは日本人になったのだからといって貯金をさせて1100億になったがこれが終戦でフイになってしまった。それを返してくれといってきていた。それから36年間統治している間に日本の役人が持ってきた朝鮮の宝物を返してくれといってきている。徴用工に戦争中連れてきて成績がよいので兵隊にして使ったがこの人の中で57万6000人死んでいる。それから朝鮮の「慰安婦」が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが何とか恩給でも出してくれといってきた。最初これらの賠償として50億ドルといってきたが、だんだんまけさせて今では3億ドルにまけて手を打とうといってきた。」

 このWikipediaの記事では、この時の荒船が引用した数字はまったくでたらめで放言であった、これを国連のマクドゥーガル報告書が引用したのは極めて残念である、と註を入れていますが、私はそうは思いません。大体頭の雑な荒船清十郎のような男はもっともらしい数字の粉飾はできません。荒船は恐らく政府所有する文書を直接見たかあるいはそれを間接的に聞いていたのだと思います。

それから朝鮮の「慰安婦」が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。 』

 というくだりは、14万2000人が正確ではないとしても、仮に1000人だとしても、仮に1人だとしても、これが、当時政権与党の有力政治家の認識だったことは疑えません。問題は「数字」にあるのではなく「その存在」にあるのですから。

河野議長、あなたも発表されたこと以上に多くを知っているのではありませんか?)


「河野談話」の意義

 世界的には、「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の存在は、「戦時における女性が受ける性暴力被害」というさらに大きな枠組みで捉えられてきました。

 日本でも、この観点から問題を正しく捉えてきた学者やジャーナリスト(大手マスコミではありません)市民グループも数多くあります。

 しかし日本で、この問題に政治的なもっとも影響を与えたのは1994年8月、宮澤内閣で表明された官房長官声明、いわゆる「河野談話」ではなかったでしょうか?河野談話は、中国と韓国との間に歴史的和解と対話を構築していこうという当時の日本の政治の流れが背景にあったと考えられます。その意味では、戦前の凶暴な天皇制ファシズムを復活させようというグループと中国・韓国と歴史的和解を進めようとするグループとのギリギリの妥協の結果と見ることもできます。

 しかし、前年の加藤紘一官房長官談話と違って「河野談話」が、決定的に影響を持ったのは、恐らく官房長官河野洋平自らが調査に出向き、多くの「性奴隷被害者(従軍慰安婦生存者)に聞き取り調査を行い、その事実関係、すなわち旧日本軍のシステム的な国家犯罪、を確信し、それに対する率直な反省と謝罪が語られていたからではないでしょうか?

 この河野談話が、国家としての日本がこの戦争犯罪を引き起こした張本人であることを認めた初の日本政府の発言として国際的に認知されることになりました。

 その後、日本は小泉内閣、安倍内閣を経て急速に国粋的主義的論調が幅を利かすようになります。

インターネットの国粋主義的、右翼的、戦前の凶暴な天皇制ファシズム賛美主義のサイトを見てください。「国賊河野」の大合唱です。いかにこの問題で「河野談話」が決定的な役割を担ったかが分かります。)

 一方国際社会は、前述のように「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の存在は、「戦時における女性が受ける性暴力被害」という枠組みで捉えており、国連の人権問題に関する委員会でもたびたび取り上げられてきました。


国際的な問題の枠組みと視点

 そうした流れの中で、1998年に「国連・人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」(Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities)にマクドゥーガル報告書が提出されます。

 この報告書は正式名は「武力紛争下の組織的強姦・性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書」(Systematic rape, sexual slavery and slavery-like practices during armed conflict Final report submitted by Ms. Gay J. McDougall, Special Rapporteur )というものであり、調査報告者のゲイ・J・マクドゥーガル(女性)の名前をとって、一般にマクドゥーガル報告書と呼ばれています。

この報告書の原文は、国連のサイト、
http://www.unhchr.ch/huridocda/huridoca.nsf/fb00da48
6703f751c12565a90059a227/3d25270b5fa3ea998025665f0032
f220?OpenDocument
 で全文を読むことができます。
なお、この文書の日本語訳は、単行本―凱風社―でしか読むことができません。本来、日本の市民が無料で自由に読めるようにすべきなのですがそうなっていません。日本語にしてもビジネスになるような性質の仕事ではありませんから、本来は外務省あたりが実施すべき仕事ですが、外務省は「米議会旧日本軍性奴隷制度決議案」を潰すためにロビイストを雇う金はあっても、こうした仕事に回す金はないものと見えます。)

 マクドゥーガル報告書の本文は、「犯罪の定義」「戦時における強姦を含む性暴力」「性奴隷制度を含む奴隷制度」「国際法の下における強姦を含む性暴力、性奴隷制度を考える法の枠組み」「人道に対する犯罪」「性奴隷制度」「ジェノサイド」「拷問」「戦争犯罪」など広範問題を取り扱い、個人責任、こうした事件が二度と起こらないようにするための諸措置など幅広い問題を、調査の上論じております。こうした事例の多くはユーゴスラビア内戦、ルワンダ虐殺事件などからとられております。この報告書の付属文書として「旧日本軍性奴隷制度」の問題が特別に取り上げており詳しい報告の上、人権問題としても日本政府に正式な謝罪を求めています。

 旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)に対する国際的な認識は、このマクドゥーガル報告書が基本になっていると考えて差し支えないと思います。

 米議会やカナダなど多くの国で、「旧日本軍性奴隷制度」非難決議があげられていますが、それはこの報告書で指摘されているような事実関係と認識がベースになっています。

 日本がこの問題(旧日本軍性奴隷制度)を清算し、性奴隷制度の犠牲者(日本国内でいう従軍慰安婦)と歴史的和解を行った上で、こうした戦時性奴隷制度や性暴力のない世界実現に向けての主導者たれ、と言う指摘も共通しており、それはまさにこのマクドゥーガル報告書の趣旨と一致しています。


国内における3つの視点

 こうして見ると、旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)をめぐる日本国内の議論と国際社会(これは国連社会という意味ですが)における議論とがいかにその視点を違えているかということが分かります。

 日本国内では、この問題は、主として3つの論点から語られています。

 一つは前首相安倍晋三に代表される、「凶暴な天皇制ファシズム」賛美運動の視点です。この視点からは、自らが賛美する体制に、こんな残酷なことが行われたということは認めがたいので、当然この制度はなかった、あるいはあっても天皇の軍隊がこのようなことをする筈はないとする、「否定」ないしは「希薄化」の議論です。
(これは南京大虐殺はなかった、とする議論と酷似しています。)
 
 一つは「河野談話」に代表されるように、アジア諸国、特に中国と韓国との間の政治経済的関係を改善していこうという立場です。それには、日中戦争・太平洋戦争の時の、「感情的わだかまり」(これもよく意味内容のはっきりしない言葉ですが)を除き、謝罪すべきは謝罪しようという立場です。これに良心的な人道主義の立場が加わっている点が大きな特徴です。

 ひとつはVAWW-NETジャパンhttp://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/の西野瑠美子に代表されるように「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)を、いまなお未解決の「戦時性暴力」として捉え、これを明らかにしていこうという立場です。
(なお千田夏光の「従軍慰安婦」は主として日本人犠牲者の問題を取り扱っていますが、これは旧日本軍が引き起こした未解決の「戦時性暴力」の中に包含できると思います。)


 西野らの立場は、基本的に国際社会の論点と同じですが、これを「ジェンダー」と日本人の立場から掘り下げようとしているのが大きな特徴です。

 またアメリカ社会での立場は、この問題の提起者が、韓国人社会や中国人社会、女性人権団体、アムネスティ・インターナショナルやコンフォート・ウーマン(慰安婦の英語直訳です)支援・援護団体だったように、もともと国連の問題提起「戦時性暴力廃絶」の視点に日本の戦争犯罪追及の視点が加味されたものであった様に思われます。


決議案潰しにかかった日本の外務省

 一方米議会におけるこの問題の主唱者は、イリノイ州出身の民主党下院議員レーン・エバンズでした。エバンズは永年この問題を議会に提起したのですが、皮肉なことに、エバンズ議員が引退を決意していた06年になって、同じくニュージャージー選出民主党議員クリス・スミス議員と共同提案で、関係委員会である下院国際関係委員会(the International Relations Committee)に共同決議案を付託したのです。賛成議員が多数にのぼると言う見込みがあったのだと思います。

 このころから日本の外務省の猛烈な巻き返しが始まります。外務省は、共和党のイリノイ州選出下院議員を38年間もつとめ、その頃引退していた大物ロビイスト、ボブ・ミッチェルを雇って(料金は年間約1億円だったとハーパーズ・マガジンのケン・シルバースタインは伝えています。)、この決議案が国際関係委員会を通過しないように工作しました。

 この時、国際関係委員会の委員長は、同じくイリノイ州のヘンリー・ハイドでした。ミッチェルは06年5月ハイドに面会し、この「旧日本軍性奴隷制度」を国際関係委員会で取り上げないように、ハイドに要請します。この時ミッチェルは、

この決議案を通過せせることは、日米同盟関係を害する一撃になる。日本による、数十万人の女性の性奴隷制度は60年も前に起こったことであり、過去のことは水に流すべきだ。(bygones should be bygones)」
 と説得したと伝えられます。
ハーパーズ・マガジン、ケン・シルバースタインの「冷ややかな慰安」による。)

 当時小泉首相の訪米も発表されており、ブッシュ政権の決議案つぶしの動きもあって、この決議案は一時は凍結されるかに見えました。

 しかし事情が一変したのは、8月の夏休み休会後の議会でした。この夏休み期間の間、国際関係委員会の委員長ヘンリー・ハイドが、韓国、中国を訪問し、旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)の犠牲者やその関係者からの事情聴取をしたのです。また小泉の靖国神社参拝がアジア社会に与えた憤激もハイドに影響を与えたことと思われます。

 この時、米議会関係者の頭にあったことは、恐らくは日本の「天皇制ファシズム復活勢力」の台頭への懸念だったと私は想像しています。日本の支配勢力がアメリカの影響力の下で再軍備をした上で軍国主義化していくのは、米軍産複合体制にとって歓迎しこそすれ反対する理由はありません。アメリカの国民の税金のかわりに日本の国民の税金で、「アメリカの世界核兵器戦略」を補完してくれる上に、莫大な軍需市場を拡大してくれるのですから、大歓迎でしょう。


ハイドの方針転換の意味

 しかし「靖国問題」となると話は違います。靖国神社は明治政府が急ごしらえで作った、天皇制イデオロギーの象徴的存在です。「靖国神社」はナチス・ドイツでいえば「アドルフ・ヒトラーの聖なる遺骸」です。「ヒトラーの遺骸」は徹底的に破壊されましたが、「靖国神社」は、戦後不徹底な形で残されました。そしてその後、政府あげての支援で徐々に日本の国民のイデオロギーの中心に据えようとしてきました。

 時の首相が、靖国神社に「8月15日」に参拝するイデオロギー上の意味は誰が考えても明らかです。日本の「凶暴な天皇制イデオロギー」の復活であり、その賛美であります。

 アメリカの軍産複合体制にとっても、そこまでは行き過ぎでしょう。これはポツダム宣言以前に戻ることを意味します。「西側の価値観の共有」という点では、大きな逸脱であり、危険な兆候でしょう。
河野さん、あなた自身も支配者グループの政治家としてその危険は恐らく感じ取っているのだと思います。)

 ハイドは急遽この問題を委員会で取り上げることを決意します。そして決議案は06年9月13日、なんと全会一致で「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)非難決議案」を採択しました。

 永年エバンズの念願だったこの非難決議案は、こうしてはじめて米議会下院に上程される見通しとなりました。決議案の通過した時期、全会一致の状況から見て、この決議案は、サスペンション・カレンダー入りをすることは確実でした。

私も本当によく分かっている訳ではないのですが、アメリカの議会でサスペンション・カレンダー入りをすると、本会議に上程されても、いちいち議決をとらずに、議員の発声だけで通過するらしいのです。日本の議会で、「御異議ございませんか?」―異議なしの声ありー「御異議なしと認めます。よって本案件は採択と決まりました。」というあれです。)

 ここからまた日本の外務省の巻き返しが始まります。今度はロビイストだけでなく、ブッシュ政権も含んだ、議会共和党全体を巻き込んだものとなります。ポイントはまだ共和党が多数を握っている下院議長のデニス・ハスタートにありました。ハスタートはイリノイ州選出で、外務省のロビイストであるボブ・ミッチェルとは昵懇の間柄にありました。またこのときブッシュ政権は、引退を決めているハスタートに対し、「旧日本軍性奴隷制度非難決議案」を握りつぶすかわりに、しかるべき国の大使の椅子を約束したといい、ハスタートは日本の大使を希望したと伝えられます。(前掲、「冷ややかな慰安」)

 (ハスタートは07年の引退後、まだどこの国の大使にもなっていません。)

 06年は中間選挙の年にあたります。11月にはじまる中間選挙休会までにこの決議案が「投票カレンダー」入りをしなければ、この決議案が、中間選挙後のわずかな会期に上程される見通しはほぼゼロになります。はたしてこの決議案は、カレンダー入りをせず、いったん潰されたかに見えます。

ホンダの登場で変質した決議案の意義

 2007年、中間選挙後の米議会は事情が一変します。まず、この決議案を積極的に推進してきた民主党が議会の多数派を握ったこと、そして民主党から議長にナンシー・ペロシが選出されたことがあげられます。

 次にレーン・エバンズ引退後、この法案の推進者に、2002年にカリフォルニア州から選出された民主党下院議員、マイケル・マコト・ホンダが指名され、ホンダが提案者になったことがあげられます。

 マイケル・ホンダは、2002年に下院議員に当選したばかりの新参議員ですが、予算委員会の委員に指名されるなど、急速に民主党の有力議員の仲間に入りつつあるように見えます。

 私はマイク・ホンダがこの「非難決議案」の主唱者になったことで、決議案の性質が若干変質したのではないかと考えています。

 というのはこの決議案はこれまで見たように、主として「戦時における女性に対する性暴力廃絶を目的とした」人権問題決議案という性格に、日本市民とアジア市民の「歴史的和解と清算」を目的とする性格が色濃く加わったのではないかと考えるからです。


歴史的和解を準備するものとしてのホンダ

 マイク・ホンダは、民主党下院議員に選出される直前は、カリフォルニア州議会の民主党議員でした。この時、1999年、ホンダが執筆した「南京大虐殺・性奴隷制度・奴隷労働に従事させられた戦時捕虜に対する謝罪要求決議案」を提出し、決議をあげています。

 あとでも見る議会証言でホンダも述べているように、これら一連の決議案でホンダが目指したものは、「日本社会とアジア社会」の歴史的和解と清算でした。

 河野議長は、そんな不見識なことはいわないでしょうが、この問題が日本で騒がれた時期に良くあった議論が、「従軍慰安婦の問題がなぜ何の関係もないアメリカの議会で問題になるのだ。」と言う論調がありました。これは「この非難決議案はジャパンバッシング」とする大手マスコミの浅薄な論調によく見られました。

 こんど広島に集合されるG8下院議長の方々は、いずれも各国国民議会の長でありその代表者です。近代国民会議はその先駆が名誉革命後のイギリス議会とされます。その後アメリカ独立戦争でアメリカに国民会議が成立し、これがフランス革命の引き金になって、フランスに国民議会が誕生します。ロシアに国民議会が成立するのは、1917年のロシア革命の時で、この時ロシアはブルジュア民主主義革命と社会主義革命を同時にやってしまいました。日本の明治維新の後成立した帝国議会は近代国民議会かどうかと言うとこれは議論の分かれるところだと思います。

 ともかく近代国民会議は、専制的王権や絶対君主を打倒したところに成立した議会だと云うことができます。そこで樹立した政治思想が「近代民主主義」でした。つまり近代国民議会は近代民主主義の申し子です。

 (これはまるきり釈迦に説法ですね。)

 近代民主主義(これはイギリスの歴史学界の用語法にならってブルジュア民主主義という言い方できるかと思います。)は様々重要な思想的価値を提出しました。国民主権、自由、平等、国家の独立、人権、人道主義等々です。つまり近代国民議会は、これら近代民主主義的価値を擁護発展させる義務があるのです。

 もし「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」が、これら近代民主主義的価値を著しく犯し、また未解決であるとするなら、人類の普遍的価値を擁護しこれを継承発展させる立場にある国民議会が、これを問題としない方がおかしいのです。それは単にアメリカに限らず、どこの国の国民議会でも人類普遍的価値を守るものとして発言し、問題提起するのが当たり前なのです。

 この問題(「旧日本軍性奴隷制度」)に関する米議会のスタンスは以上のものです。同様にこの問題に対してカナダ、オランダ議会などが非難決議をあげましたが、これはスタンスとして至極当然なことです。

安倍政権はこの問題の所在を完全に見誤りました。彼とスタッフは近代民主主義的価値の問題に、天皇制ファシズムの価値体系を持って対抗しました。これが危険視されたのです。ワシントン・ポスト紙が「安倍の二枚舌」と題する無署名社説を掲げてこの危険性をやんわり指摘しましたが、時すでに遅しで、安倍晋三は近代民主主義的価値の上に天皇制ファシズムの価値を置く政治家としての烙印を押されたのです。アメリカの軍産複合体制は安倍を落第としました。私は、07年の安倍晋三の不可解な首相辞任劇の真相はこれだと考えています。つまり「天皇制ファシズム」も小泉までは合格だが安倍からは落第だということです。)

 なお、07年1月、決議案が下院に提案されるころから、それまで一切沈黙を守っていた大手マスコミが一斉にこの決議案に関して「対日非難決議」という観点から報道を開始します。「従軍慰安婦問題はねつ造」とする首相安倍の強硬姿勢も目立つようになります。それに伴い、提案者のマイク・ホンダに対する個人攻撃・中傷・誹謗キャンペーンも開始されます。

 私はこれはあからさまな世論操作だったと考えていますが、こうした動きは、07年3月24日付けワシントン・ポストの「安倍の二枚舌」と題する記事が発表される頃まで激しく続けられます。この記事がでた前後から、首相の安倍は「謝罪する」「河野談話を踏襲する」としか云わなくなりました。大手マスコミの「ねつ造キャンペーン」も表面沈静化していきます。そしてその後の安倍の訪米で「従軍慰安婦に謝罪する」という発言を繰り返し、大統領のブッシュがこれをおおように受け入れる、という形で幕引きを図ることになったのはまだ記憶に新しいとことです。)


ホイスの「過去の克服」に酷似する論理構造

 この決議案は、07年の会期あけ早々1月31日に国際関係委員会に提出されました。直接審議するのは、「アジア・太平洋・地球環境小委員会(Foreign Affairs Subcommittee on Asia,the Pacific and Global Environmental)」です。

 この決議案の全文は次で読んでいただきたいのですが、ほぼ「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の実態認識は、先の国連マクドゥーガル報告書の内容に沿ったものでした。

 日本政府による強制された軍隊売春である「コンフォート・ウーマン」制度に鑑み、
一、 それは、集団強姦、強制堕胎、陵辱そして性暴力などその残虐性と規模の大きさに置いて比類のないものと見なされ、不具或いは死亡、或いは事実上の自殺を将来した20世紀における最大の人身売買の一つと見なされる。
一、 日本の学校で使用される新しい教科書では「コンフォート・ウーマン」の悲劇や第二次世界大戦中のその他の戦争犯罪を軽視しようとしている。
一、 日本政府高官や民間の主要人物は、最近、・・・『河野談話』を希薄化あるいは撤回したいとの希望を表明している。」

 としつつも、日本が1921年の国際婦人児童売買禁止条約に署名していること、2000年の「女性、平和そして安全に関する国連安保理事会決議」にも賛意を表明していること、1995年のアジア女性基金の創設などにも一定の評価を与え、日本そのものを非難することが、目的ではなく、「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の国家的関与をいったん認めながら、その後、そんな犯罪事実はなかった、あるいはあっても国家的関与はなかったという最近の風潮を激しく非難する内容になっています。

 従って、決議の内容も
1. 「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の存在をきっぱり認め、その犠牲者に謝罪をし、また責任をとるべきである。
2. 日本の最高責任者である首相が公式に謝罪を表明すべきである。
3. この問題が二度と起こらないような手段を講ずるべきである。
4. 「コンフォート・ウーマン」に関して、現在や将来の世代に対しその犯罪性について教育し、また国際社会に対してもそのことを積極的に推奨すべきである。

 となっています。

 ここまで読んできて、私はこの決議案の論理構造が、この手紙の冒頭で紹介した、西ドイツの初代大統領テオドーア・ホイスの「過去の克服」に極めて類似した内容になっていることに驚かされます。

 すなわち「過去」の過ちを、「現在」がはっきりと明確な形で認めること。

 そして心からの「謝罪」を行うこと、そして責任をとること。

 そしてこれら過ちが二度と起こらないように、「現在」「将来に」に向かって「その過ちの原因を追求しつつ、教育の中で学んでいくよう社会のシステムを整備すること。

 もし日本がこの問題に対して、ドイツのように真剣に取り組んでいたなら、たとえば、ユーゴ内戦の時の組織的集団強姦、フセイン・イラクのクエート侵攻の時の性暴力、ダルフールの悲劇などなど、現在も続く「女性に対する戦時性暴力」起こらなかったのではないかと思うようになりました。
 同時に、この手紙で何度か触れた、広島市議会の任東栗司のトルーマンに対する激しい憤激も、あるいはこのような「和解と清算」の論理にまで昇華できたのかもしれません。


和解と清算の論理

 この「和解と清算の論理」は実は「ノーモア・ヒロシマ」と一見相似しているように見えながら、内容は天と地ほども違っていることに気がつかれると思います。

 「和解と清算の論理」には必ず「原因追及」と「謝罪」、それに伴い責任をとること、が必ず第一条件として発生しますが、「ノーモア・ヒロシマ」にはそれがありません。次にその原因を追求しながら、それが二度と起こらないように「未来」に向かって教育していくことが「和解と清算の論理」には必須事項として求められますが、「ノーモア・ヒロシマ」は謝罪と責任の追及という手続きを欠いているため、次世代への教育ができません。できて精々「原爆における人間的悲惨」を次世代に語り継いで行くことだけです。第一条件を欠いている「ノーモア・ヒロシマ」は、憤激を「和解と清算」の論理に昇華することに失敗した「ひるこ」なのです。


自分と性奴隷犠牲者を重ね合わせるホンダ

 マイク・ホンダは、いかにして「和解と清算」の論理に達したか、を次に見てみましょう。

 2007年2月15日、マイク・ホンダは先の小委員会でこの決議案の提案者として証言に立ちます。この時の証言が、決議案の背景と思想を語っていると言っていいでしょう。

 この証言で、ホンダはコンフォート・ウーマンの問題に注意を払いはじめたのは、今から20年前の学校教師時代だった説明した上で、
 
歴史的和解に関心をもつ一人の教師として・・・(歴史的事実関係に)ひるむことなく、正義と悲劇に関し語り、また教えていくことの重要性を私は知っておりました。」

 ここで私が歴史的和解と訳したもとの言葉は、「reconciliation」(リコンシリエーション)であります。英語では単に和解、調停といった意味です。もとはカトリックの宗教用語だったそうですが、ホンダの証言の中では常にキーワードとして使われております。

 ホンダは、この歴史的和解の重要性を、自身の日系人収容所の体験を通して学んだと言います。

 1941年12月日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」の3ヶ月後、1942年2月19日フランクリン・ルーズベルト大統領は、裁判や公聴会なしに特定地域から住民を排除する権限を陸軍に与えました。大統領行政命令9066号です。事実上この命令が「日系人強制収容」の道を可能にしました。42年3月18日大統領行政命令9102号によって、戦時転住局が設立されると、早くも21日マンザナーの「集合センター」に「日系人自主的退去者」のグループが最初に到着しました。その後ユタ州、アリゾナ州などに10カ所の強制収容所が作られ、有刺鉄線と銃を携えた警備兵に囲まれた収容所生活が始まりました。最後の収容所の閉鎖は、アリゾナ州のコロラド・リバーで1945年11月28日でした。

 問題は12万人以上の日系人のうち、70%はアメリカ生まれのアメリカ市民だったと言うことです。残りの30%も滞米生活20−30年以上の永住権保持者でした。1922年連邦最高裁がオザワ訴訟に対し人種を理由に、日本人の帰化を禁止する判決を下して以来、日本人移民に対しては市民権が与えられなかったことを考えると、こうした永住権保持者も実質的には、その多くがアメリカ市民だったということが出来るでしょう。

 こうしたアメリカ合衆国建国の精神に反した措置に対して、当初から批判はありました。たとえば、1943年12月30日フランシス・ビドル司法長官は「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現状は危険である。」と発言していますし、1944年12月エンドウ裁判において、連邦裁判所は「戦時転住局は忠誠心を示すアメリカ市民を抑留することはできない。」と評決、これが強制収容所を終わらせるきっかけともなりました。

 1948年、日系アメリカ人立ち退き補償請求法が成立し、3800万ドルの補償がなされましたが、これは根本的な解決とはなりませんでした。

 それからほぼ40年後の1982年、米国議会に任命された調査委員会は、日系アメリカ人の強制収容が「適切な国防上の理由から行われたものではなく、その真の理由は人種差別であり、戦時ヒステリーであった。」と、当時の連邦政府の誤りを全面的に認めました。

 この調査委員会の結論を受ける形で、1988年ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名、一人2万ドルの損害賠償を行うと共に、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法に保障された諸権利を侵害した」ことに対して正式できっぱりしたとして謝罪を行いました。そしてアメリカの日系人社会は、この大統領の謝罪を全体としては快く受け入れたのです。

 ホンダはこの公聴会で次のように証言しています。

強制収容所によって米国市民としての権利、憲法で認めた権利を侵害された多くの日系アメリカ市民とって、歴史の暗黒の一章は1988年の市民自由法によってやっと閉じられました。強制収容所から40年以上の年月がかかりました。補償の追求は長い苦難の道のりでした。しかし、謝罪は明確で曖昧さのない形でもたらされました。和解は、われわれの世代(註:ホンダが収容所に入れられたのは1歳の時だった。)では、正しく平和な世界的社会の繁栄をもたらすものとして受け止められ、過去における問題は最終的には取るに足りぬものとして脇へ押しやられたのであります。」

子供の時にその収容所に入れられたものの一人として、私は過去を無視してはならないということを肌で感じて知っております。また誤りを認めるという政府の行動を通じて行われる和解にこそ、永久に続く和解であると肌身にしみて理解しております。」

 この発言のホンダは、明らかに、強制収容所に入れられた自身の立場と、旧日本軍によって性的虐待をうけ性奴隷とされて、健康と青春を奪われ、人間としての尊厳と誇りを踏みにじられた被害女性の立場を重ね合わせています。


心からの謝罪こそ和解への第一ステップ

 そしてこの証言を次のような言葉で事実上締めくくっています。

私は米国下院の議員諸君に次のことをお願いしたい。謝罪に歴史的意義があるのであり、対立を和解するにせよ、過去の行為に対して贖罪を行うにせよ、まず謝罪がどうしても必要な、第一のステップであるということを理解していただきたいのです。

 ・・・この決議案は、(日本と性奴隷犠牲者との)歴史的和解を用意するものです。その方向に一歩進めようとするものです。われわれと日本との強い関係を傷つけようとするものでもなければ、またそうさせてはなりません。」

 確かに、日本政府は元首相村山富市を理事長とするアジア女性基金を設立し、「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の被害者に、ひとり200万円と歴代首相が個人の資格で副書した「お詫びの手紙」とともに贈りました。

 しかし、多くの被害者はこれを受け取りませんでした。ホンダの言葉を借りて云えば、「第一のステップの謝罪」は受け入れられなかったのであります。

 それは何故だったのでしょうか?

 それは心からの謝罪ではなかったからです。確かに「河野談話」で日本政府は関与の責任を認めました。しかし、いざ謝罪に伴う「補償」の段階になると、100%政府資金による民間団体「アジア女性基金」を作り、そこに責任をとらせることにしました。決して日本政府が国家としてきっぱりした形で、責任を認め心からの謝罪をしたわけではなかったのです。

心からの謝罪は、オーストラリア首相のアボリジニーに対する謝罪のように常に「詩」の形をとります。詩の形以外に心からの謝罪は表現できません。)

 一方、日本政府の側からすると、日本政府が旧日本軍の犯罪を全面的に認め、これに心からの謝罪をするわけには行きません。旧日本軍は天皇の軍隊であり、天皇の軍隊がそのような犯罪を犯すことがあってはならないからです。これは「天皇制イデオロギー」と真っ向から衝突します。つまり日本政府とそれを支える官僚は、ここでも1945年8月の御前会議の時と同様、「国体護持」に動き、それを最優先したのです。

 「補償金」を送りつけられた「旧日本軍性奴隷制度(旧日本軍従軍慰安婦制度)」の犠牲者たちは、敏感にこれら意図を察しました。そして「歴史的和解」の道を開く「心からの謝罪」ではないことを見抜き、受け取りを拒否したのです。


歴的和解と清算の3つの原則

 私はこの手紙のはじめの方で、08年ナガサキの平和式典、被爆者代表・森重子の言葉に激しく感情を揺さぶられたことを申し上げました。それは森の視点から、世界の人々と同じ「犠牲者」として感情共有をし、この感情共有を土台に連帯して核兵器廃絶を闘いとっていこうという思想を汲み取ったからでした。

 しかしそれには前提がある、日本の市民が、「理不尽に人の将来と生活を奪うもの」の被害者として、地球の市民と団結し連帯を深めるためには、その前にやらなければならないことがある、それは「歴史的和解と20世紀の清算」だと思うのです。

 それは日本が過去に置いて「理不尽に人の将来と生活を奪うもの」だった歴史があるからです。われわれがこの歴史を清算し、地球の市民たち、特にアジアの市民たちと歴史的和解をしなければ、感情共有は望めないと思うからです。

 ホイスの「過去の克服」やホンダの「歴史的和解」の思想から私が学ぶのは、「歴史的和解と20世紀の清算」事業のためには、単に「謝罪」するだけでは不十分だということです。

 少なくとも3つの原則が必要です。

1. 過去の事実を明らかにし明確にその責任を認め、きっぱりと心からの謝罪すること。補償をすること。
2. その原因を追求し、普遍的レベルにまで遡及して、理由を明らかにし、その原因を取り除くこと。
3. 将来二度とこのような悲劇が起こらないように、この問題を語り、次世代に対して教育を行い、語り継ぎ、そこから得られた教訓を人類の普遍的価値にまで高めること。

 これが「歴史的和解と20世紀の清算」の3つの原則です。


対立と殺戮の20世紀の象徴としての「広島・長崎原爆攻撃」

 21世紀に入った時、わけもなく明るい未来が来るような期待感を持ちました。恐らく私一人がそう感じたのではないと思います。しかし、「9・11同時多発テロ」(私はいまでも疑問に思っていますが)、それに続くアフガニスタン侵攻、イラク侵攻で、簡単に期待感は打ち破られました。

 考えてみれば、当然です。私たちは全体としてみれば、「対立と殺戮の世紀」20世紀の「歴史的和解と清算」をしなかったのですから、20世紀がそのまま21世紀に突入するのもまた当然の成り行きと言うべきでしょう。

 「対立と殺戮の世紀」20世紀の中心に侵略戦争があります。その侵略戦争のそのまた中心に「広島と長崎への原爆攻撃」があります。その後20世紀の対立と殺戮は「核兵器」を中心に展開していったような気がします。

 河野議長がG8の下院議長会議を広島で開くと決めたと聞いた時に、私はすぐに「対立と殺戮の世紀」20世紀のことを「歴史的和解と清算」の立場から話し合ってくれればいいな、と思いました。

 前にも触れたように、近代国民議会は絶対王政や専制体制を打倒する中で生まれた近代民主主義の申し子です。その近代国民会議の長が集まる会議で、「歴史的和解と清算」の問題を話し合うとしたら、これほどふさわしいテーマはないでしょう。下院議長会議は正式に共同声明を発表する義務もなければ、議論の中身を公開する慣例もありません。ある意味自由闊達に話ができるでしょう。

 20世紀の対立と殺戮について話をすれば、当然「広島と長崎への原爆攻撃」の話になるでしょう。この話の時に先ほどの「歴史的和解と清算」の3つの原則を当てはめて議論してみれば相当実りのある議論ができるのではないですか?

 場合によってはペロシさんが、米下院で「広島・長崎原爆攻撃非難決議案」を提案しようと言い出さないとも限りません。(そんなことは、ま、ないか。)

 いえ、何ほんのちょっと考えてくれればそれでいいのです。それぞれすねに傷を持たない国はありません。あんまりつっこんだ話もできないでしょう。とっくみあいの喧嘩にでもなったらそれこそ大事です。それに時間もあまりないと聞いています。ただ、21世紀を歴史的和解と清算の世紀にするきっかけでも作ってくれればそれで十分です。本事業の方はわれわれ広島と長崎の市民が中心となってやります。

 でも河野さん、本当に21世紀を「歴史的和解と清算」の世紀としませんか?


(本シリーズ了)