No.22-7 平成20年7月30日

拝啓、河野衆議院議長殿 21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?
その7 世界に拡がる核兵器廃絶への地球市民の戦いーそのきっかけー

原爆投下から核兵器廃絶運動の開始

 前回までの手紙で申し上げたことに加えて、私が仮説としていること、すなわち原爆投下推進勢力は、その後「軍産学複合体制」に成長し、現在の世界の核兵器保有の危険な状況を作り出していること、またそれに対する世界の核兵器運動の状況を箇条書きにしてみると次のようなことになりましょうか?

1. 1945年トルーマン政権が日本に対して使用した原爆は、決して対日戦争のために使われたものではなく、意図的にソ連との冷戦、核兵器拡張競争を開始するためだったこと。
2. それは直接的には、新たに生まれた「原子力産業」に対して、ほぼノーチェックで連邦予算を使い続けるために、新たな準戦時体制(この準戦時体制はのちに冷戦、と呼ばれるようになりました)が必要だったためであること。またこれを積極的に推し進めた勢力を、「原爆投下推進勢力」と名付けたこと。
3. しかしトルーマン政権は、上記の真の目的を隠すために、原爆は対日戦争終結のために使った、それは多くの人々の命を救った、とする「原爆投下正当化」キャンペーンを開始し、これが予想外の成功を収めたこと。
4. 上記「原爆正当化」キャンペーンの結果、全世界に広範に、また深く「心情的原爆投下肯定論者」を作りだしたこと。原爆投下推進勢力は、こうした「心情的原爆投下肯定論者」の存在に助けられる形で、その後核兵器の製造・貯蔵・核実験を続け、地球を何回も破壊するレベルにまで、核兵器を積み上げました。
5. 原爆投下推進勢力はその後「軍産学複合体制」とも呼ぶべき、体制内権力に自己増殖し、産業界・軍部・政界・学界・労働界・教育界・マスコミ界など、アメリカのほぼ主要な「影響力」を制圧する形で、核兵器を武器に主としてアメリカ市民の税金を莫大に浪費する形で、肥大化しましました。
  (5.については論証が必要ですね。これは別なシリーズで取り組むつもりです。)
6. 「唯一の被爆国」日本(実は、日本は唯一のヒバク国ではなくなっているのですが、それは後で申し上げます。)は、本来その間こうした核兵器の自己増殖を止めるべき立場にいたのですが、残念ながら、日米安保条約によって、アメリカの世界戦略の中に組み込まれ、こうした核兵器の自己増殖を助ける役割を担わされました。
7. 日本政府は戦後、アメリカ(これはアメリカの軍産学複合体制に完全支配された政権のことを指します。)に従属する形で、この核兵器問題と向き合わなくてなりませんでした。(このことは、日本に独自の独占支配層が存在しないことを意味しません。日本独自の独占支配層は、アメリカの軍産学複合体制に従属しながら、戦後60年以上経過しました。しかしこれは、ここではもう扱えない別な大テーマです。)
8. 一方広島や長崎のヒバクシャたちはどうしていたのでしょうか?彼らの第一の目的は、被爆者援護救済運動にありました。核兵器廃絶運動にはありませんでした。

というのは、核兵器廃絶運動は、必然的に原爆を使用したトルーマン政権と政治的な対決姿勢を鮮明にし、批判の矛先を向けなければなりません。これは日本政府が握る予算を被爆者援護に向けにくくします。有力な保守党政治家の援助も受けられません。先に見たように、日本で核兵器廃絶運動を進めるためには、戦後の日本政府のアメリカ従属政策をやめなければなりません。つまり日米軍事同盟の廃棄を行わなければ、日本を真実の非核兵器地帯とすることはできません。これは鋭い政治的対立を覚悟しなければなりません。被爆者たちはまず自らの戦後補償を優先し、これら政治的対決には目を向けませんでした。その象徴となるのが、「被爆者援護法」の前文です。これは、広島と長崎の原爆投下をあたかも自然災害のように扱い、当時の原爆投下の背景、それを導くことになった日中戦争や太平洋戦争には全く触れていません。また、戦後の日本の対米従属政策の結果、日本に核兵器及びそれを運用・サポートする装置や人員が日本の地域内に存在すること、そもそも、核の傘に守られた「非核三原則」の矛盾にも全く触れていません。こうして被爆者たちとその支援者は、結果的に政府と取り引きを行い、日本が原爆投下推進勢力の従属下で「核兵器保有支援国」となっていくことを黙認しました。
9. こうした被爆者を、力強く支えたのが「原爆/歴史切離論」でした。この議論は、広島・長崎への原爆投下を、歴史・原因・理由、そしてその政治経済的背景から、全く切り離しひたすら「原爆の人間的悲惨」にのみ焦点を当て、「原爆の人間的悲惨」をのみを語ります。その代表的著作であり、いまやバイブルと化しているのが、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」でした。「原爆/歴史切離」のおかげで、広島・長崎は、何の矛盾もなく、「原爆の非人道性」を語りつつ、紆余曲折を経験しつつも、米国従属下の日本の政権から戦後補償を引き出すことができたのでした。その代表的スローガンが「ノーモア・ヒロシマ」であり、代表的キャッチフレーズが「繰り返しません、過ちは」でした。
10. しかし、このため日本が「唯一の核兵器被爆国」を標榜し、「核兵器廃絶」を叫びながら、その実態は、「核の傘に守られ」つつ、軍産学複合体制下のアメリカの軍事戦略の極東軍事基地最前線となっている、という矛盾と自己欺瞞を起こしているのです。
11. その間、世界の核兵器廃絶運動はどうだったのでしょうか?地球の市民は、広島と長崎の惨劇を参考にしながらも、それぞれ自分たちが体験した、「核兵器の恐怖」から、核兵器廃絶運動に立ち上がりました。それは自分たちの体験と実感に裏打ちされたものだけに、単に「広島・長崎」への同情とは違い、確信と決意に満ちた力強いものでした。いわば「広島・長崎」の痛みを自らの痛みとすることに成功したのでした。


核兵器廃絶に確信を持つ地球市民

 河野議長、今回の手紙では、ゆっくりとですが、力強い地球市民の核兵器廃絶運動が、自国政府の政策に変更を迫り、現実政治を変革しつつある状況を見てみたいのです。そして、「われわれ日本と言う地域に住む人間」が、こうした核兵器廃絶へ向けて、何ができるのかを考えてみたいのです。
 
 「核兵器廃絶」の実現が悲観的に見えるのは、われわれが、自閉症気味に日本の国内にばかり目が行っているからです。ヒバクシャに対する国家賠償運動を「核兵器廃絶運動」と自己欺瞞的に勘違いしてきたからです。(私はこの点でもヒロシマ・ノート的な言説の罪は大きいと思います。)

 先日、中国新聞に面白い記事が載っていました。中国新聞が核兵器廃絶運動のWebサイト「平和メディアセンター」が実施したアンケート結果の発表に関するものでした。(中国新聞2008年7月21日付 8・9面)

 このアンケートは40問にも及ぶ長いもので、しかもところどころ選択問題ではなく、文章で答えざるを得ない内容になっており、つまり面白半分や悪戯などできない仕組みになっています。このアンケートに全問回答すること自体、かなり熱心な「平和論者」「核兵器廃絶論者」の証と言えます。

 そう言えば、河野議長、あなたもこのアンケートに全問答えていましたね。

 その設問の中に、「核兵器廃絶は可能だと思うか?」という質問があります。私自身はこの手紙のどこかで、「核兵器廃絶は実現しなければならないし、その可能性は大いにある、それは地球市民にとって、もっとも得な取り引きだからだ。」と言うことを申しあげたかと思います。

 この中国新聞の記事では、日本からの回答のうち「可能だ」と答えた人が53.9%、「不可能だ」と答えた人が40%もいました。

 繰り返しますが、あなた自身も体験されたからおわかりでしょうが、伊達や酔狂であのアンケートに全問答えられるものではありません。あのアンケートに全問答えること自体が、一つの「思想」を表現しています。

 「核廃絶が不可能だ。」と考える人が、日本からの回答で40%もいたと言うことは、日本の「平和運動」の深い無力感を表現しています。この質問を一般日本人にぶつけて見れば、恐らくは大多数が「不可能」と回答すると想像されます。日本の平和運動・核廃絶運動は全体として言えば、閉塞感に陥っていると思います。その根元は、「被爆者の国家補償運動」を「核兵器廃絶運動」と勘違いし、最初から方向性を失って、有効な方法論を欠いた「日本の核兵器廃絶運動」のあり方に問題があった、と言うのが私の見方です。

 これに対して、諸外国からの回答は、実に83%が「可能だ」と答え、「不可能だ」と答えたのはわずか9.5%でした。

 この違いは何でしょうか?

 諸外国における「平和運動」「核兵器廃絶運」は、確かな手応えを感じているのです。自分たちが一歩一歩「核兵器廃絶への道」歩んでいる、という実感があるのです。それを私は是非見てみたいと思います。


ビキニ環礁から始まった世界の核兵器廃絶運動

 さて、世界の核兵器廃絶運動は「南太平洋」から始まりました・・・。

 1954年、アメリカの原子力委員会(Atomic Energy Commission―現在の米エネルギー省)は、太平洋のほぼ中央に位置するマーシャル群島のビキニ環礁で、「キャッスル作戦」と名付けられた一連の水爆実験を実施しました。

 その第1回目の爆発実験が「ブラボー・ショット」と呼ばれる実験でした。

 有名な「第5福竜丸事件」が発生し、乗組員が死の灰を浴び、被曝した事件です。乗組員の一人、久保山愛吉がこのため死亡、また大量の「放射能汚染マグロ」が市民の不安と恐怖をかき立て、憤激を買った事件でした。

 この事件をきっかけに、核兵器にいい知れない恐怖をもった東京都杉並区の一主婦が、「核兵器反対」の署名運動を始め、後には3000万人以上の署名を集め、核兵器廃絶のための一大市民運動にまで発展したのは、よく知られた話です。

 日本での核兵器廃絶運動が、広島や長崎ではなしに、第5福竜丸事件に恐怖を覚えた東京都の市民や、第5福竜丸の母港であった焼津の市民から始まったことは記憶しておかなければならないことです。

 この「ブラボー・ショット」は、当初「通常の原爆実験」と米原子力委員会(AEC)から発表されていましたが、のちに水爆実験だったことをAECは認めました。

 実験場のビキニ環礁から東へ(つまりアメリカ大陸の方へ)約180Km離れた場所にロンゲラップ環礁があり、ここには82人の住民が退避勧告も受けずに暮らしていました。

 河野議長、私たちはここで想像力を働かせなくてはいけません。

 広島に落とされた原爆の破壊力はTNT火薬換算で約1万2000トンです。長崎に落とされた原爆は約2万トンです。これに対して「ブラボー・ショット」は水爆で、その破壊力は15メガトンです。つまりTNT火薬換算で1500万トンです。広島型原爆の約1250倍の破壊力を持っていました。原爆と水爆(熱融合爆弾)では放射線の影響は異なるでしょうが、「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎における影響」では、

 爆心地から半径3000フィート(約900m)以内でのガンマ線などの放射線は、致死的(lethal)だったことが証明された。」

と述べていますから、同じ倍数を当てはめて見ると、爆心地から110Km離れた地点では、同じく致死量の放射線が検出されてもおかしくありません。少なくともそう想定して、危険回避という意味でも、このロンゲラップ島の住民に、当然退避勧告が出されるべきでした。

今日から見れば、地球環境に対する深刻な影響という点からみても、こんな水爆実験を太平洋のど真ん中で実施するのは、気が狂っているとしか思えませんが・・・。)

 要は、ロンゲラップ環礁に暮らしていた82人の住民は、相当な放射線障害が発生したであろうと想像されるわけです。実際にその後ロンゲラップ島の住民は深刻な放射線障害に苦しみました。

 次に、第5福竜丸が何故被曝したのかと言う問題です。

 というのは、第5福竜丸は米原子力委員会(AEC)の指定した危険水域の外にいたのにもかかわらず、大量の死の灰を浴びたからです。私は当初、この水爆を設計したAECのロス・アラモス研究所が設計ミスをし、危険水域の範囲を算定し間違えたからだという、英文Wikipediaの記事に従って解釈していました。

 ところが、前田哲男、高橋博子、竹峯誠一郎、中原聖乃らの研究によると、これは完全な人為ミスではなく、意図的な「人体実験」だった、少なくとも計算違いに乗じた、「未必の故意」だった可能性が非常に高いことが分かってきました。

『隠されたヒバクシャ』前田哲男監修、凱風社 2006年5月20日第2刷や『封印されたヒロシマ・ナガサキ』高橋博子著 凱風社 2008年4月15日第2刷などによる)

 われわれは、この事件を「第5福竜丸事件」と呼び、日本人の受けた災害にばかり目が行きがちですが、マーシャル群島をはじめ、米原子力委員会の原水爆実験場となった地域にも人が住んでいたのです。歴とした被曝者です。

 この後は、高橋博子著「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(前述)の第四章から引用しましょう。
   
・・・「ブラボー・ショット」は大きな被害をもたらした。放射性降下によって、爆心から180キロ東のロンゲラップ環礁の住民や160キロ離れていた海域で操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被ばくしたのである。』

 ここで、高橋は『被ばく』という言葉を使っております。広島・長崎の犠牲者は、原爆に『被爆』したのですが、第五福竜丸乗組員やマーシャル諸島の市民たちは、水爆に『被曝』したのです。この両方の意味を合わせて高橋らはどうも「被ばく」という言葉を使っているようなのです。

 私もこの用語は適切だと思いますので、以降高橋らに従うことにします。ですから日本は「唯一の被爆国」ではあっても「唯一の被ばく国」ではないのです。「核兵器の使用」によって、「被ばく」した国々は、アメリカ自身(ネバダの実験やアラモゴードの実験)、旧ソ連(ノバヤゼムリヤやセミパラチンスク)、中国(ロプノールなど)、アルジェリア(フランスの核実験)、オーストラリア(イギリスの核実験)、それにアメリカ、イギリス、フランスの原水爆実験で破壊され、汚染された南太平洋の諸国、インド、パキスタン(それぞれ自国領土内)、北朝鮮(自国内)、イスラエル(どこで行ったか不明)など、「被ばく国」は世界中に拡がっています。


ウソとデマで固めた米原子力委員会

 さて高橋の前掲の報告によると、米議会の上下両院合同原子力委員会は「キャッスル作戦」の前に、実験の当事者である米原子力委員会に対して、「住民を避難させる計画があるかないか」を問い合わせていたといいます。

 これは、秘密文書指定解除の97年に、この合同委員会の議事録を米公文書館で高橋自身が確認し、事実関係を確定させています。またこの議事録では、米原子力委員会は、マーシャル諸島の市民236人(現在では訂正されて239人)及び28人のアメリカ人観測班兵士が、「非常に高レベルの放射能」に被ばくしたことを確認しています。

 この上下両院合同原子力委員会の議事録文書の日付は1954年3月11日
ブラボー・ショット」が実施されたのは54年3月1日ですから、わずかに10日後です。ところが同じ3月11日、実験実施当事者の米原子力委員会は「ブラボー・ショットによって、これらの人々は思いがけなく若干の放射能にさらされた。」
と発表しています。

 内部の秘密会では、「高レベルの放射能にさらされた」事実を確認しながら、外部には「思いがけなく若干の放射能にさらされた」と発表するデマ体質は、戦後「広島・長崎に投下された原爆は、対日戦争終結に導き、結果百万人以上のいのちを救った。」とする原爆投下プロバガンダと全く同じで、情報の独占を利用して、世論操作をしようとするのと同じ手口です。

 この秘密文書の公開後、米公文書館で内容を確認し発表した高橋は、はしなくも米軍産複合体制の「デマ体質」を暴露したことになります。
 
 ところで、この上下合同原子力委員会の委員長だった人物は、スターリング・コール共和党下院議員です。(実に思いがけない人物の名前をこの本で発見して感無量です。)

 米下院の履歴書(http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=C000617)によると、スターリング・コール(W.Sterling Cole)は、1904年生まれ。コルゲート大学を卒業した後、ユニオン大学オルバニー・ロースクールを出て1928年にはニューヨーク法律家協会に加入を許されていますから、ニューヨーク州の司法試験をパスしたのでしょう。一度落選した後、1935年にはニューヨーク州選出の共和党下院議員に当選しています。生年から考えると下院議員当選は、弱冠30歳ほどだったことになります。その後ニューヨーク州内で選挙区は変更したものの、1957年まで一貫して共和党下院議員として活躍します。コールは57年に辞任し、その年できたばかりのIAEA(国際原子力機関)の初代事務局長に就任します。61年に事務局長を辞任したあと、87年に死去するまでこれといった主な公職に就いていません。61年といえばまだ50歳代です。この人物の不幸な事務局長辞任を象徴しているとも思えます。

 話は変わるようですが、原爆投下時の米陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンの発案で、成立したトルーマン大統領への諮問提言機関、「暫定委員会」は、戦後の核兵器管理体制について再三再四議論しています。この暫定委員会は、「戦後、国内的にも国際的にもしっかりとした核エネルギーの軍事利用・平和利用の管理体制が必要だ。」と結論していました。

 この提言がアメリカ国内で実現した機関が「米原子力委員会」であり、国際的に実現した機関が「国際原子力機関」だ、ということができましょう。米原子力委員会は「マンハッタン計画」の成果と資産をそっくり受け継ぐ形でスタートし、アメリカの軍産複合体制の、もっとも鋭い尖兵になっていくのですが、もともと国際的にその役割を担ったはずの、国際原子力機関は、コールの辞任後、変質を遂げて行きます。つまり、国際原子力機関(IAEA)は、アメリカの軍産複合体制のいいなりにならずに、核兵器廃絶の方向にも向かっていくのです。コール以降、事務局長は3人しか出ていませんが、この3人の事務局長、特に現事務局長のモハメド・エルバラダイの功績が大きいといわねばなりません。

 コールは、アメリカの軍産複合体制の輿望を担って、「アメリカ軍産複合体制」による、「アメリカ軍産複合体制」のための初代IAEAの事務局長として送り込まれたのですが、惨めに失敗したといってもいいでしょう。

 この軍産複合体制の忠実な奉仕者、スターリング・コールが委員長を勤める54年当時の米国上下両院原子力委員会が一体どんな体質を持っていたかは、想像以上のものがあります。


広範な社会機構を巻き込んだ軍産複合体制

 河野議長、話がとびとびになって申し訳ありません。私は、これまで説明抜きに「軍産複合体制」(Military Industrial Complex)とか「軍産学複合体制」とかと言う言葉を使って来ましたが、ここで若干の説明をしておいた方が云いようです。

 軍産複合体制と言う言葉は、単に軍部と軍需産業の結びつき、と言う風に極めて限定的に受け止められることもあるようです。この言葉を使って「軍産複合体制」を一躍有名にしたのは、第34代合衆国大統領、ドワイト・アイゼンハワーでした。彼が1961年に2期8年勤めた大統領職を任期満了に伴って退任するときに行った「退任(離任)演説」(Farewell Address to the Nation)の中で使って、一躍この言葉が世の中に知られるようになりました。

 アイゼンハワーは「軍産複合体制」を単に、「軍需産業と米軍部」の結びつきという意味で使ったのではありません。

 この演説の中で、アイゼンハワーは、

莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつきと言う事態はアメリカの歴史において新しい経験です。その全体的な影響は--経済的、政治的、そして精神的な面においてさえ--すべての都市、すべての州議会議事堂、そして連邦政府のすべてのオフィスで感じ取られます。」
 (なお、この演説の全文は、つぎで読むことができます。)

 と述べているように、単にペンタゴンと軍需産業の癒着、と言う意味で使ったのではく、連邦政府や連邦議会、州政府や州議会、小さな都市のすみずみにまで張り巡らされた巨大な権力機構という意味で使っています。

 「巨大な権力機構」であるがゆえに、

この軍産複合体の影響力が、我々の自由や民主主義的プロセスを決して危険にさらすことのないようにせねばなりません。」と警告したわけでした。

 私がここで、軍産複合体制と言うとき、このアイゼンハワーが使った意味での「軍産複合体制」を意味します。当初、この演説草稿を作成するとき、スピーチライターは「軍産議会複合体制」という言葉を用意していたといわれます。大統領が議会を批判するのはいかがか、と言う配慮があって、結局「軍産複合体(制)」と言う言葉に落ち着いたという話です。もともとこの言葉は広範な概念を持つ言葉です。

 従って、この時のアイゼンハワーの口調は、まだそれでも米国議会に対して遠慮がちでした。

 カナダ生まれの高名な経済学者(というより文明批評家)で、ケネディ政権の時にインド大使を務めたこともあるケネス・ガルブレイスは「軍産体制論」(日本語訳名、小原敬士訳、1970年6月1日  小川出版 第1刷)という余り知られていない小冊子の中で、

われわれが、大規模で特殊な軍需契約者、すなわち自分たちの取り引きの全部もしくは大部分をペンタゴンと取り交わし、その取り引きの多くを唯一の供給源としているような業者を、真の民間業者―私企業のれっきとした発現―であると言わねばならないとは、私にとってはたぐいまれなるナンセンスのように思われる。それらのものは、ペンタゴンの公然たる延長であると言う現実を認識する方がずっと有益であろう。」
(はしがき 3P―4P)
と述べています。

 つまり、ガルブレイスは、戦後アメリカに発生した純粋の軍需産業は、「私企業」「民間企業」と言うべきではなく、ペンタゴンが作った会社、と考えた方がより実態に近い、と言っていることになります。そしてその上で次のように言います。

 軍部の力は、軍とその契約業者―軍産複合体と呼ばれるようになったもの―だけに限らない。・・・情報機関もその仲間に資格を持っている。これらの機関は、はっきりした不正直のためではなく、むしろしばしば自己の選択や官僚的信念のために、軍がほしがっているものや、軍の契約業者が納入したがっているものを支持するような論拠を見つける。

 外交官もそれに仲間入りをする。・・・かれらは、軍部の必要に役立つような外交政策の立場に、文官もしくは外交官としての潤色を与えるからである。

・・・大学の科学者や、ランド(*ランド・コーポレーション。有名なシンク・タンク)、国防分析研究所、ハドソン研究所などのような国防目的の組織体に属する科学者で・・・軍部の力の一部である。
 ・・・議会、ことに上下両院の軍事委員会に組織されている軍部の声がある。」
(同P27−P28)

 と軍産複合体制が、アメリカのパワーエリートたちが中枢部を握る体制であることを叙述しています。

 またシカゴの労働運動家・社会運動家、シドニー・レンズは「軍産複合体制」(小原敬士訳 1971年7月1日 岩波新書 第1刷)という本の中で、遠慮がちなアイゼンハワーや俯瞰的なガルブレイスとは異なり、極めて具体的に軍産複合体制を描き出しています。

 軍国主義の中に利益をもつ国内のエリート分子―軍隊、一団の議員、産業資本家、政府高官、労働界の幹部及び学界の重要な層―が相まってアイゼンハワーのいわゆる軍産複合体を形成したことである。軍産複合体の運命は、もしそれが今後も続くものであるとするならばだが、果たしてそれは、その目的についての国民の支持を動かすことができるか、また果たして戦時中、政府が説得や強制によって国民に課すのと同じような規律と服従の国民精神を作り出せるかどうかにかかっている。

 それゆえに、その結果はとくに軍国主義的な症状である。軍産複合体は国民の間に強固な反共主義の態度を『作り出す』ことにつとめている。

 (冷戦後の今日は、反共主義の態度、をテロ撲滅の態度と読み替えてもさして大きな違いはありません。)

 それは危機に際しては国民に情報を伝えなかったり、事実に反する情報を伝えるから、国民は重要な政策について正しい判断を下すことが困難―時には不可能―となる。

 それは、忠誠審査や保安政策によって異議の申し立ても禁じる。また軍産複合体は自己の特権を国内活動、暴力取り締まり、『平和工作』といったような、通常はシビリアンに留保されている領域に拡張させる。」(P141―P142)

 として、労働界や学界に対する「腐食作用」の実例にも触れています。

 話が逸れるようで申し訳なかったのですが、高橋博子が「封印されたヒロシマ・ナガサキ」という本の中で描き出す、ビキニ環礁の水爆実験におけるアメリカ政府の態度を理解するには、もう少し大きく「軍産複合体制」という体制内の巨大権力を念頭に置いておく必要があるということで回り道をしてしまいました。


原子力委員会委員長ルイス・ストロース

 さて、1954年、ビキニ環礁の「ブラボー・ショット」に戻りましょう。
(1954年と云えば、アイゼンハワー政権の2年目になります。)

 1954年の上下両院合同原子力委員会の委員長がスターリング・コール下院議員であり、この人物が「軍産複合体制」内の人間であることは恐らく想像以上のものがあります。

 マンハッタン計画をそっくり受け継いだ形の、米原子力委員会は、この水爆実験の直接の実施者でありますが、この時の委員長はルイス・ストロース(Lewis L. Strauss)でありました。

 この人物については、別途に「ルイス・ストロースについて」「熱核爆弾(水素爆弾)開発に関する手紙」などを参照していただきたいのですが、この人物こそ当時アメリカ国内で、「原爆投下推進勢力」が「軍産複合体制」に変貌を遂げつつある中で、その申し子のような人物でありました。もともとは投資銀行家として成功した人物でありましたが、トルーマン政権の時に、「マンハッタン計画」をそっくり引き継ぐ形で成立した米原子力委員会の委員の一人となって影響力を行使しはじめました。

 一躍有名になったのは、「水爆開発推進論者」としてでした。

 1949年8月のソ連の原爆実験成功の後、核兵器を巡る政策は、大きく二つに分かれました。
 
 一つは米原子力委員会委員長(=1949年当時)のデビット・リリエンタールに代表される「原爆製造増強論」「ソ連との核兵器独占を企図する国際管理体制構築論」でした。もう一つの議論がこのストロースに代表される「水爆開発による圧倒的核装備論」でした。ストロースは徹底した水爆開発論者で、1953年アイゼンハワー政権の時、米原子力委員会の委員長就任の条件として、当時原子力委員会・総合諮問員会の委員の一人であり、水爆開発反対論者のロバート・オッペンハイマーの委員排除を条件としたほどでした。オッペンハイマーはストロースの委員長就任後、屈辱的やりかたで原子力委員会を永久追放されます。

 この論争の当時の大統領だったトルーマンは、ストロースの側に立ち、結局アメリカは水爆開発に踏み切るわけですが、トルーマンがペンタゴン(国防総省)の言いなりだったことを考えれば、「水爆開発」はペンタゴン、すなわち軍産複合体制の強い希望であり、ストロースはその使い走りだった、と言う見方もできます。

 ストロースが軍産複合体制の申し子のような人物だったという理由の一つが、その詭弁論法、嘘つき体質、デマ体質にあります。先ほどの「熱核爆弾(水素爆弾)開発に関する手紙」を読んでいただければ一目瞭然ですが、まず論の立て方が、「水爆開発を行う」という結論を先に決めておいて、それに合致する屁理屈を並べ立てるという典型的な詭弁論法の羅列です。次に水爆は地球環境が危険になるほど放射能による環境汚染をもたらすには、水爆を数百発爆発させねばならない、とか、水爆は戦術核兵器としても有効だ、とか誤った見解というよりはっきりデマと分かるような理由を並べ立てます。結局ストロースは後に商務長官に就任する際の議会公聴会で、「宣誓下の偽証」に問われ、その後一切公職から去ることになるのですが、これは後のことです。

 ですから1953年、ストロースが原子力委員会の委員長に就任した翌年1954年に行われた、マーシャル諸島における「水爆実験」は、このストロースと背後の軍産複合体制念願の一大イベントだった、と言うことができます。

 ストロースの嘘つき体質は、この一連の実験「キャッスル作戦」の第1発目、「ブラボー・ショット」の時から遺憾なく発揮されます。

 ストロースが臆面もなくついたウソを、高橋の前掲の著作から拾ってみましょう。

 まず当初「原爆実験」だと発表しておいて、第五福竜丸事件が発生すると、「水爆実験」だと認めたこと。これは日本に帰港した第五福竜丸を調べて見ればすぐ分かることでしたから、その調査前に「訂正」しておいたものでした。

 またストロースは「第五福竜丸は指定していた危険水域の中で操業していた。」と第五福竜丸に過失があったかのように発言しています。
 
「日本のトロール漁船・福竜丸は捜索では見逃されていたようである。しかし核爆発の閃光を見た六分後に振動を聞いたという船長の発言にも基づけば、船は危険区域内にいたに違いない」として米国は「危険区域」を設けていたにもかかわらず、第五福竜丸がその地域に侵入したため被ばくしたことを主張した。』(同書・155P)

 いかにももっともらしい言い分ではありませんか。これも後に日本政府が、第五福竜丸の航海日誌などを詳細にしらべて、危険水域外で被ばくしたことを米国側に報告するとあっさり引っ込めてしまいます。

 また第五福竜丸の無線士久保山愛吉が、「原子病」で死亡すると、「これは放射線のために死亡したのではなく、実施した輸血の中にウイルスが混入しており、このため久保山は肝臓病で死亡した。」と見てきたようなウソをつきます。
(このウソがその後訂正されたとは聞いていません。)

 もちろんこうしたストロースに代表される軍産複合体制のウソ体質、デマ体質はなにも第五福竜丸にのみ向けられたわけではありません。


『置き去りにされたネズミ』

 前述のように、ブラボー・ショットでの被ばく者は、マーシャル諸島の市民236人、水爆実験で作戦に従事していた米兵28人もまた被ばくしています。

 しかしストロースは彼らについても、

 「28人の米兵は『誰一人として火傷を負っておらず』、『236人の島民は私には元気で幸福に見えた』としている。彼らの中には例外として2人の病人のケースがあるが、この2人はいすれも実験と関係がないとしていた。」(同書155P)

 ストロースはその他にも数々のウソをつきます。

 しかしここではこれ以上詮索するのはやめにしましょう。話が前に行かなくなります。ここでは高橋の前掲書で、高橋が公文書を使って丁寧に、ストロースと議会関係者を含む軍産複合体制のウソを指摘していることの重要さを確認しておきましょう。

 結局、アメリカ政府は日本政府に200万ドルの見舞金を支払って、この第五福竜丸事件に決着をつけようとし、日本政府もこれに協力して、この事件は日本サイドとしてはうやむやになります。

 それではマーシャル諸島の市民たちはどうなったのでしょうか?

 前出の「隠されたヒバクシャ」の中で、現地調査も行った前田哲男は次のように書いています。

爆発地点に一番接したロンゲラップ環礁には82人の住民が住んでいた。」
(同第一章 ビキニ水爆被災の今日的意義 46P)

 第五福竜丸はそれでも現場を立ち去ることができたが、

これに反し、数隻の小型カヌーしかないロンゲラップ環礁の人々は『置き去りにされたネズミ』(当時の村長、ジョン・アンジャインの言葉)でいるより他はなかった。灰が小止みなった夕方までに、ほとんどが頭痛、下痢、かゆみ、目の痛みを訴えた。島には病院はなく、救助の手もさしのべられなかった。救助船がやってきたのは、爆発から50時間以上経ってからである。」

丸二日経ってから、住民は米軍の船で同じマーシャル諸島のクワンジェリン基地に搬送され、そこで最初の検査と数ヶ月の観察を受け、以後、マジェロ環礁の離島に隔離生活を強いられたあと、故郷の島に戻されたのは3年後のことである」
(いずれも同47P)

 しかも同書第五章「挑戦するロンゲラップの人々」(中原聖乃執筆)によると、この人たちは、残留放射能への恐怖から、爆発から25年以上経た1985年再びロンゲラップ環礁を離れなければならなかったと言います。

 前田は次のように報告しています。
 
 米原子力委員会声明と相反し、
クワジェリン基地の海軍病院に移された被ばく者住民に対する取り扱いは非人道的で残酷だった。・・・『できるだけ自然の状態で観察する』がAEC(米原子力委員会)の方針だった。なぜなら、住民は濡れた肌と半裸の姿で、(爆発直後のロンゲラップ島に)丸二日間戸いにいたので『ベータ線障害を起こしうる最適の条件が存在した』からであり、『人間の放射線障害に関する科学的観察を大量に集める』またとない機会だったからである。(いずれもAECの事故報告書=通称『コナード報告』による)。採血、採尿と体を洗うこと以外さしたる措置はとられなかった。」
(同書48P−49P)

被ばく三年後、住民をロンゲラップ環礁に帰した後の報告書(AEC3年目報告)には、『ロンゲラップ島の放射能汚染は、地球上の人の住むいかなる地域よりも高いこの地域に人びとが住むことは、人体の放射能に関する貴重な生態学上のデータを提供するであろう』とあり、(さらに8年後の)11年目報告には、『われわれの一人は、いくつかの現地の食物―タコの実、椰子の果肉、ミルクーブルックヘイブン(米国立研究所)に持ち帰り、一定の条件の下でこれを消費した。尿を集め、全身測定が180日間にわたって行われた。7日間のストロンチウム90の摂取は、通常の20倍であり、セシウム137の摂取は、通常の60倍であった』と実験結果が報告されている。『治療』ではなく『観察』が目的だったことは明瞭である。」
(同49P)

 ここでも広島・長崎原爆投下後の原爆障害調査委員会(ABCC)と同様の非人間的行為が見られます。しかし、河野議長、これを「アメリカは」とか「アメリカ人は」とか読み替えてはなりません。「非人間的性格」は、アメリカに限らず、すべての国に巣くう「軍産学複合体制内者」の特徴なのですから。

 前田はこうしたことから、「このような米医師団の対応から“人体実験”の疑いを措定することは不自然ではない。疑念は、被ばく後の対応のみにとどまらず、実験計画そのものにさかのぼって指摘できる。」としています。

 私も、ここまで前田らに事実を突きつけられると、米原子力委員会は、第五福竜丸は計算違いとしても、マーシャル群島の市民たちは、水爆実験に伴う「人体実験」、「置き去りにされたネズミ」と計画していたのではないかと思うようになりました。

 河野議長はどうお考えになりますか?

 米上下両院軍事委員会のお歴々もペンタゴンも、そしてストロースを長とする米原子力委員会も、「マーシャル諸島の市民たち」を完全に見下し、馬鹿にしていました。

 ところが、彼ら軍産複合体制は、自分たちが完全に見下していた「マーシャル諸島の市民たち」が、反撃に転じ、彼らを追い詰める(まだ完全に追い詰めてはいませんが)世界の包囲網づくりのきっかけとなっていくことに、その後気がつきはじめるのです・・・。


原子力委員会のデマを暴いた俊鶻丸

 もし、「第五福竜丸事件」が起こらず、「原子マグロ事件」が起こらず、そして日本が派遣した水産庁の調査船「俊鶻丸」(しゅんこつまる)が派遣されず、従って、豊富な、ことごとく米原子力委員会の発表を裏切る資料をもってかえらなかったら、依然として「ロンゲラップの市民たち」は「置き去りにされたネズミ」のままだったかも知れません。

 第五福竜丸事件が起こり、放射能汚染マグロが次々に廃棄され、東京杉並のある主婦が(この主婦の名前が伝えられていないのは誠に残念です。)、この事件をきっかけとして「原水爆禁止署名活動」をはじめると、この運動は瞬く間に日本全国に拡がりました。昭和29年(1954年)のことでした。

 汚染されたマグロ、汚染された漁場の補償を求める漁業関係者の声も大きくなりました。

 この事件が起こったとき、内閣は末期症状の第5次吉田内閣、所轄官庁の農林大臣は保利茂、その年の12月吉田内閣は倒れ、追放解除になった鳩山一郎の第一次鳩山内閣が成立します。この時農林大臣に就任したのが、お父上の河野一郎でした。何かの因縁でしょうか。

 こうした世論、水産業界の声に押され、吉田内閣としても自ら実態調査をしないわけには行きませんでした。

 「ブラボー・ショット」が1954年、3月1日、第五福竜丸が焼津に戻ったのが3月14日、水産庁の調査船「俊鶻丸」がマーシャル群島のビキニ環礁へ向けて出発したのが5月15日でした。そのころ日本中で「汚染マグロ問題」沸騰していました。

 「俊鶻丸」がビキニ環礁に出発したときの日米の、この問題を巡る認識の違いを前田は前掲書の中で次のようにまとめています。

憤激する日本の世論に対し、アメリカの科学者たちは、『巻き上げられた死の灰、放射性降下物は、ただちに気流に乗って薄められ、ゼロになるだろう。大きなものは重力によって海に落ち、溶け、希釈され、これもゼロになるだろう』と、楽観的な調子で核実験とマグロ汚染の因果関係を否定していた。」(同書52P)

 ここで前田は「楽観的な調子」と書いていますが、これは今良く読んでみると「科学的な推測」と言うより「希望的観測」言うべきで、どの「推測」をとってみても根拠がありません。実際は、軍産複合体制で働く科学者たちは、実に正確に何が起こるかを知っていたのであり、ここは「希望的観測」を通り越して「デマ」と言うべきでしょう。

 前田の記述を続けましょう。
 
アイゼンハワー大統領も『事件は少し大げさに伝えられている』と不満をあらわにし、ストローズ(ストロース)AEC委員長にいたっては『海の広い範囲でマグロその他の魚が放射線で汚染されたと言うお話(ストーリー)については、事実がそのことを認めていないのだ。日本のトロール<漁>船のおおいのない船倉にあった魚だけが放射能魚だということだ。食品薬剤局長の報告によっても、アメリカ側の検査では、放射能魚が太平洋から水あげされたことは一度もない』(三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書、1972年)と国民感情を逆なでする発言さえ行っていた。」

 アイゼンハワーはこの時、米原子力委員会からの報告を信じていた節があります。のちには全く信用しなくなり、政権終期の1959年、60年の2年間は、核兵器の実験を一切しませんでした。(1958年8月22日、アイゼンハワーの核実験凍結宣言。アメリカが核実験を再開するのは、61年ケネディ政権になってからのことです。61年の実験爆発回数は9回でした。このことは記憶しておいていいことでしょう。)

 ストロースのたわごとに至っては何をかいわんやです。この人物の言うことはまず99%、ためにするデマと考えた方が無難です。

 ついでに前田がここで引用している三宅泰雄という人物は、「俊鶻丸」出発当時の気象研究所所長で、調査団の顧問団の一人だった人です。この当時はまだまだ「軍産学複合体制」に直接・間接に汚染されていない科学者やジャーナリストが日本にも多く健在だったようです。(汚染されないと、科学者やジャーナリストとして食って行けない、と言う問題はありますが・・・)

 前田の記述を続けましょう。

さらに米上下両院合同原子力委員会のコール委員長(*この人物も前に見たように札付きの軍産複合体制です)の『報道は誇張されているし、これら日本人が漁業以外の目的(スパイ行為を意味する)で実験区域へ来たことも考えられないこともない』(54年3月24日付け『産経新聞』)という声さえ伝わってきた。俊鶻丸顧問団の中にも『大きな池の中に赤インキを一滴落としたようなもの。海水には放射能は検出されないだろう』(三宅・前掲書)と考えている人がむしろ多い、そんな雰囲気に包まれた調査団の出発だった。」(同書・53P)

 しかし俊鶻丸の持ち帰ったデータは驚くべきものでした。

俊鶻丸調査団顧問の三宅博士は『海水の放射能はロサンゼルスの水道水』としたストローズ(ストロース)見解に反駁し、それどころか(AEC)が放射能排水をためてあるホワイト・オーク湖の水くらいの放射能を示した」(前掲『死の灰と闘う科学者』)と海洋汚染の規模の大きさを指摘している。」(同書54P)

 これはストロースをはじめとする米原子力委員会のデマを暴露したものと考えることができます。原爆投下推進勢力は、自分たちの情報の優位を武器に一貫して「世論操作情報」「ウソ情報」「デマ情報」を流し続けていました。

 「専門家」から、「広島・長崎には残留放射能はない。死ぬものはすでにすべて死に絶えた。」といわれれば、目の前にそれと違う事態が発生しても、「残留放射能」はないと信じ、ビキニの水爆実験で「放射能の影響は微々たるもの」と言われれば、そう信じてきました。目の前で、全く異なる事態が起こっていても、軍産複合体制の作り出す「デマ」を信じてきたのです。

 「俊鶻丸」の歴史的意義は、はじめて独自に「軍産複合体制」の流し続ける「デマ」を、事実をもって暴露し、彼らの情報独占を打ち破り、正しい「核兵器」に関する知見を明らかにしていったことにあります。

 この日本での騒ぎは、従って「俊鶻丸」の持ち帰った知見は、当然マスコミを通じてマーシャル群島に、ロンゲラップ島の「置き去りにされたネズミ」たちにも伝わりました。いままで米軍から聞かされていたことと余りにも違う、この「知見」を知ったロンゲラップ島「置き去りにされたネズミ」たちは、もうその日から「置き去りにされたネズミ」ではなくなりました。大げさに言えば、その日から「核兵器廃絶運動の闘士」になりました。


生活の危機感から出発した核兵器廃絶運動

 河野議長、私は、「軍産複合体制」に痛撃を与えるという意味での、「国際核兵器廃絶運動」は、広島・長崎から始まったのではなく、このマーシャル諸島の、軍産複合体制が全く見下し、馬鹿にしていた、ロンゲラップ島の市民たちから始まった、と考えています。その触媒の役割を果たしたのが、第五福竜丸事件であり、「軍産複合体制」を恐れなかった「俊鶻丸」であった、と考えています。

 広島・長崎は、核兵器の恐ろしさを世界に伝える役割は果たしたとしても、それを「国際核兵器廃絶運動」として「地球市民民主化運動」にまで発展させることはできませんでした。それには色々な要因があり、一言では説明できません。ただはっきりしていることは、日本の核兵器廃絶運動は、一皮むけば「被爆者国家補償運動」だったこと、従って「国際核兵器廃絶運動」として地球市民との連帯・連携の展望をもたなかったことは要因としてあげられると思います。広島・長崎が、国家補償を手に入れる代償として、「原爆/歴史切離」論者になり、地球市民との連帯を自ら断ち切っていったことを考えれば、これも必然と言うことになるでしょう。

 しかし、「国際核兵器廃絶運動」が、地球市民の生活実感の中から生まれ、「核兵器」の恐ろしさを実感する他の地域の人々と連帯・連携を深め、それがやがて、「軍産複合体制」を包囲し、地球世論の力で、核兵器廃絶を実現する、という道筋しかあり得ないとすれば、「ノーモア・ヒロシマ」と呟きながら、自らは核兵器が自由に出入りする領土に暮らし、しかも「核兵器の傘」にどっぷりつかったまま、「国際核兵器廃絶運動」のリーダーたることは当然できないでしょう。

 ロンゲラップから始まった国際核兵器廃絶運動は、生活の実感からスタートしていますので、広島・長崎のようなスローガン的運動にはなりませんでした。

 自ら生活する地域に、「核兵器の存在を許さない」という極めて地道な運動、すなわち「非核兵器地帯」を作り出していくという形をとったのです。


太平洋を核実験場とした国連安保理常任理事国

 話は一挙に1970年に飛びます。

 この年、南太平洋のフィジー島に太平洋神学大学、南太平洋大学、フィジーYWCAなどに所属する人々が集まり「ムルロア核実験反対委員会」を結成します。ムルロア核実験というのは、当時ドゴール政権下のフランスが、タヒチを中心とするフランス領ポリネシア内のムルロア環礁で行った一連の大気圏内核実験のことです。

 フィジー島は、イギリスの植民地でした。1880年代後半から、砂糖のプランテーション農業のために当時イギリスの植民地だったインドから、多数のインド人を移住させ、砂糖きび農場の労働者として働かせたと言ういきさつがあります。このことが、のちにイギリス伝統の分断政策と相まって、インド系市民と土着のフィジー系市民の間に軋轢を生じさせるという事態を招きます。

 1970年は、このフィジーが、イギリス連邦内ではありますが、独立を果たし、フィジー諸島共和国として発足した年でした。

 「ムルロア核実験反対委員会」(略称=ATOM)は、地道な活動を積み重ね、5年後の1975年にフィジーで「太平洋非核化会議」を開催することになります。そしてこの会議が、1985年「南太平洋非核地帯条約」となって結実します。

 この間、「核兵器保有国」のやったことは、まさに傍若無人という以外にはありません。

 前掲の「隠されたヒバクシャ」には、核兵器保有国が太平洋・オセアニア地域で行った原水爆実験が記載されています。

以下同書41P〜42Pを引用します。

【アメリカ】
ビキニ環礁 24回 1946年から1958年
エニウェトク環礁 43回 1948年から1958年
ジョンストン島 12回 1958年から1962年
アムチトカ(アラスカ沖) 2回 1969年から71年
クリスマス島(英実験場) 24回 1962年
クリスマス島沖 1回 1962年

【イギリス】
モンテベロ島(オーストラリア国内) 3回 1952〜56年
エミュー(オーストラリア国内) 2回 1953年
マラリンガ(オーストラリア国内) 7回 1956年・57年
モールデン島(英領)3回 1957年
クリスマス島(英領)6回 1957年・58年

【フランス】
モルロア(ムルロア)環礁 41回 1966年から1974年
モルロア(ムルロア)環礁 143回 1975年から1996年
(143回はいずれも地下核実験。正確には海底地下内実験。)
ファンガタウファ環礁 5回 1966年から1970年
ファンガタウファ環礁 10回 1975年から1996年 
(10回はいずれも地下核実験。正確には海底地下内実験。) 

 ソ連や中国も負けてはいません。米・英・仏のようにオンサイト実験こそしませんでしたが、長距離ミサイルの実験場として太平洋を使いました。アメリカも長距離ミサイルの実験場として太平洋の各地にミサイルを撃ち込んでいます。日本もこの地域に「核廃棄物」を捨てに行こうとして、太平洋諸国にストップをかけられています。

 まさにやりたい放題です。

 ここに登場する、アメリカ・フランス・ソ連(ロシア)・イギリス・日本はG8の主要メンバーです。今度広島で開かれる下院議長会議では、「反省会」でもやって貰わなければいけませんね。

 またここ登場するアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国は、国連の安全保障理事会の常任理事国です。「安全保障理事会」ではなくて「地球危険保証理事会」の間違いではないか、と思えるほどです。


最も凶暴な、遅れてきたフランス

 特に上記のリストのうちフランスをよく見てください。地下核実験とは言いながら、1996年まで太平洋の環礁で核実験を繰り返しています。特にムルロア環礁での地下核実験は147回を数えます。地下核実験と言えば聞こえはいいですが、環礁に縦穴を掘って、その縦穴にエレベータで核爆弾をおろして、その底で爆発をさせると言うものです。海底の地下には大穴があき、そこには放射性核廃棄物が蓄積されています。ある時などは、このエレベータが故障して爆弾が途中でストップし、かといって引き上げもならず、中途で爆発をさせるという大失態を演じています。当然放射性核廃棄物はムルロア環礁の海中へと流れ出しました。フランスは一貫して、こうした放射性核廃棄物が海中に漏れ出すことはないと言明していますが、そんなことは神様だってお釈迦様だって分かりません。言っている本人だって、自分が言っていることを信じてはいないでしょう。

 このように、核兵器保有大国、米露英中仏の5カ国は太平洋をまるで自分の庭のように、好き勝手にし放題です。フランスのいうように、ムルロア環礁での地下核実験が、『安全』であるなら、マルセーユの沖ででも、海中深く縦穴を掘って実験を行えば良かったのに、決してそうはしませんでした。実験が危険極まりないことをよく知っていたからです。

 フランスは、もっとも遅れてやってきた「核兵器保有大国」です。もっとも遅れてやってきたものは、目立ちたがり屋で、もっとも凶暴なことをする、というのはかつてのドイツ、日本、イタリアもそうであるように、フランスもその例に漏れません。

 一般的に、フランスが1990年代になっても、地球世論に逆らって太平洋で地下核実験を続けた理由は、「フランスの誤った大国意識」である、と説明されていますが、私はそれは表面の分析で、本質的な分析は、第二次世界大戦後にフランスに発生した「軍産複合体制」の焦りである、と私は考えていますが、これはまだ裏付けがありません。

 ともあれ、ジャン・ポール・サルトルやカミユには全く気の毒なことではありますが、このムルロア環礁での核実験強行によって、フランスは20世紀も終わろうとする地球にあって、醜悪極まりない、もっとも低劣で野蛮な「思想的低開発国」であることを満天下に晒すことになったのです。「フランス革命」も「国民議会」も「ルーブル博物館」もすべて帳消しです。

 フランスが、世界の思想的リーダーの地位を取り戻すには、今後100年かかることでしょう。

 1970年、イギリスから独立したばかりの、そしてムルロア環礁にもっとも近い、フィジー群島共和国に南太平洋の「核兵器廃絶運動のリーダーたち」が集まり、「ムルロア核実験反対委員会」を結成したのは、こうした背景があってのことでした。こうした核兵器廃絶運動にリーダーたちの念頭にあった事態は、直接的にはフランスの核実験ですが、背景にはアメリカによるビキニ環礁の水爆実験以来の、核兵器に関する知見と、自らの生活環境を勝手に破壊されていく理不尽さに対する怒りがあったことは言うまでもありません。

 その「理不尽」さは、広島の原爆で、命と将来を奪われた「サダコ」の「理不尽」さと全く同質の「理不尽」さでした・・・。


 (以下次回)