(*原文はhttp://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell
_book/ferrell_book_chap20.htm
 )

トルーマンと原爆、文書から見た歴史
                 編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第20章 1958年3月1日 任都栗 司から前大統領へ、
                      そして3月12日、大統領の返事


1.註nで番号付きの記述は、編者ロバート・ファレルの註である。
2.(*)で青字の註は、私が入れた。


 1950年代、トルーマンはインディペンデント市に引きこもった。家であるアクシデントがあって、鬱と気分がすぐれないせいもあり、トルーマンはあまり行動的でなくなっていた。この引退した大統領は、自分の回顧録の制作、トルーマン・ライブラリー建設のための資金集めなどに唯一前向きに取り組んだ。そして国中へむけて政治的言説を出していた。手紙が、この小さな町の郵便局に降り注いだ。トルーマンは多くの手紙に返事を書いた。1958年3月、封書入りの一通の手紙が、特に彼の注意を引いた。それは広島市議会の議会決議だった。彼自身が裁決した、広島市への原爆攻撃とそれに続く長崎市へのそれに対する抗議だった。希望としては、これら一連の行為が戦争を終わらせたのだが・・・。

 トルーマン自身が、この非難決議の導火線を作ったのである。その1年前にあるテレビ番組の収録をしたのだが、その番組は、エドワード・R・マローをレポーターとした“See it Now”で、1952年2月2日に放映された。その番組は、トルーメン政権時代の多くの政治的話題をとりあげていた。中でもアイゼンハワー大統領との論争、1948年に、その時将軍だったアイゼンハワーに、もしその年の大統領選挙にアイゼンハワーが出馬するなら、トルーマンがアイゼンハワーに大統領職を提示しようと言った、という話題も含まれていた。(トルーマンはそんな事実はない、と否定している。)

 核爆弾使用のポイントは、そのテレビ番組全体からいえば小さな部分だった。いうまでもなく、そのポイントは完全に明白である。トルーマンはマローに、もし原爆の代わりに、日本への侵攻を実施すれば、多分50万人の損失が生じたろう、と語った。

そしてこの強力な武器を所有したとき、それを使用するにあたって、私は一切良心のとがめを持たなかった。戦争における兵器は常に破壊兵器だからだ。それが誰しも戦争を望まない理由でもあるのだが。またそのためにわれわれ全員が戦争に反対しているわけである。しかし戦争に勝つための武器があって、もしそれを使わないとしたら、それは随分愚かなことだ・・・。』

 こうしたやりとりの中で、1952年のその年、アメリカが実験に成功した、また3年後にソ連も実験に成功する「新しくまた恐ろしい水爆」を使用しない希望を、トルーマンは表明した。が、
もし世界が大混乱に陥るなら、それは使われる。それは確かなことだ。』
 と彼は言った。

 広島市議会からの決議を、トルーマンが返事を出すまで、どのくらい長く手元に置いておいたか、それは何ともいえない。トルーマンのカバーレターの住所は間違っていたし、疑いようもなく、相手の手元に届くには、やりとりに余分な時間がかかったろう。前大統領が、テレビ番組の中で自分自身がしゃべったことに対する日本の(*抗議への)情熱に対して、もっとましな対応の仕方はあったろう。この決議に対して返事を出さなければ・・・。しかし、そんな処理の仕方は、トルーマンの性格ではない。彼はほとんど回答をしていなかったが、相手を鋭く傷つけるやり方で返事をだした。
 

 広島市議会議長 任都栗 司(*にとぐり つかさ)のトルーマン前大統領への手紙 1958年3月1日 (英語原文日本語訳

 1958年3月12日付け、任都栗司閣下へのトルーマンからの手紙に関する新聞発表
 (英語原文日本語訳

 トルーマンとのやりとりを伝える広島市議会議事録