2010.12.7
第10回 「核兵器廃絶だけで平和がくるわけじゃない」
  毎年夏、8月6日が近づくと、広島の繁華街本通りというところに、市内の小学生たちが作った作品が展示される。必ず「核兵器のない平和な世界」とか「みんな笑顔 世界に広がれ平和の輪」とかそんな無内容な言葉があふれる。小学生たちは「平和」とはどんな状態を指すのか、自分の頭で考えて作ったわけではない。しかし、小学生たちを責めることは出来ない。彼らは単に今の広島の鏡に過ぎないのだから。平岡にとって「平和」とはどんな概念なのか・・・。また「核兵器廃絶」と「平和」との関係をどんな風に考えているのか・・・。

被爆体験依存の落とし穴

哲野 今平岡さんが考えておられる「ヒロシマの思想」に直接関わる話題に入っていくんですが・・・。非常に難しくて、お恥ずかしい話、質問しあぐねているんですが・・・。
平岡
でも少なくとも、核廃絶ということを訴える根拠になってる考え方ですね、おそらく。それが「ヒロシマの思想」だと思うんですが・・・。

「ヒロシマの思想」が普遍性を持っているかどうかっていうのが問題ですね。

単なる「広島人の願望」じゃなくてね。

「ヒロシマの思想」を持たないで、「被爆体験」だけに依拠してたんでは、(核兵器廃絶に向けて)拡がりを持たない、という思いを、私は今、持っているんです。
 

そうすると、世界の人々の心を揺さぶるような、或いは世界の人々が共感できるような「ヒロシマの思想」っていうか、その考え方は何か、という事になる。

核兵器廃絶というのは、皆さん、理解してるとは思うんですが、そうは言いながら核兵器を作ろうとしている国、現に持っている国ってあるわけですからね。で、やっぱりその人達にこれは間違いであると、思わせるような「ヒロシマ」の訴えというか、考え方がどこまで迫っていけるのか。

こんな酷い目にあったから、だけではですね、なかなか、そう言う人たちの気持ちを動かすことは出来ないだろうと思うんですね。酷い目に遭った人は世界中にたくさんいるわけで、その人達にとっては、それぞれの経験は、当事者以外には考えられない酷い目なんですね。
哲野 人間的悲惨は、絶対的人間的悲惨っていうのはないわけで、一人一人にとっては・・・。
平岡 一人一人にとってはね、もう、自分の経験は、すごい悲惨なんですね。ですからそれと、通底と言うよりむしろ共通認識にたてるような広島の考え方ってなんだろうかなっていうんで・・・。

核兵器廃絶の向こうにどんな社会を描くのか

哲野 だからその「ヒロシマの思想」とは何かの中身に入っていく前に、こんな質問をしてみようと思ってたんですよ。もし、平岡さんが思っておられるような「ヒロシマの思想」が出来上がったとしたらですね、その思想はどんな働きをするだろうか、どういう風に貢献をしていくだろうか、つまり広島の「ヒロシマの思想」の働き、機能はどんなものになっていくだろうかというお話から。
平岡 ・・・(考え中)
哲野 それは核兵器廃絶の、一つの原動力にならなければ・・・。
平岡 まぁ、意味がないですね。
哲野 意味がないですよね。
平岡 ただね、核兵器廃絶だけで、平和が来るわけじゃないんでね。そこのところの認識をね、広島の人がどれだけ持ってるかっていうのがまず問題です。いままではどちらかというと、核兵器をなくそう、なくそうと言って来た。それは間違いじゃないんですよ。しかし、なくせば全てが解決するかのごときですね、考え方を皆、持ってたわけですよね。
哲野 スローガンとしては「核兵器廃絶」、「恒久平和」ですからね。全く無関係なことです。
平岡 いやいや(笑う)無関係とは言わないけれども、確かに核兵器廃絶は(平和への)一つの過程だと私は思ってるんですね。しかし、その先に、どんな社会、どんな国際社会を、或いは日本国内でもいいですよ、どんな社会を考えるか、「ヒロシマの理想」っていうのが出てこないといけないですね。
哲野 それが、よくわかりません。
平岡 それはやっぱり、搾取のない・・とか言ったらいかにも共産党的になりますけれども、みんながですね、安心して暮らせるような、そして差別のない、貧しさもない、そういう豊かな社会というものを前提として、それへ到達するために色んな問題がある。それは、貧乏だとか、病気だとか、人権侵害とか色々あるけれども、ヒロシマにとっては、自分の体験から見て、核兵器廃絶っていうのが一つの大きな問題だと思います。で、これをなくするっていうことは・・・。

要するに、核兵器というのは、結局、我々が考えてる理想の社会とは対極にあるものなんですね。結局それは庶民が持てるもんでもないし、国家権力がそれを独占する・・・。
哲野 しかも限られた国家権力。
平岡 で、それを持って・・いまやそれを持てあましてるんでしょうけど、とにかく持ちたいと。で、なくそうっていうのは誰も言わないですね。持った国は。だからアメリカは持ってるから、我々も持つよっていうのがインド、パキスタン、むしろ北朝鮮の論理ですから。で、その中で特にアメリカっていうのはダブルスタンダードの本当に、凄い得手勝手な国であって、
哲野 やりたい放題と言ってもいいでしょうね。(笑う)

米印原子力協定と二重基準

平岡 やりたい放題ですよねぇ。特にあの、インドにね、原子力技術を提供する・・これは去年でしたかね、一昨年か、一昨年ですね。ああいうことをやって、そして一方で、NPT会議に出てきて、(NPTのルールを守れなどと)偉そうなこと言ってるわけでしょ?自分が破ってるわけですよね。今やその矛盾がまた出てきて、中国が今度パキスタンへね、原子力発電の技術なんかを提供しようとしてるわけですね。

    米印原子力協定。インドとアメリカ合衆国の二国間での民生用原子力協力である。二国間での原子力協力協定は、2007年7月に妥結された。2008年8月、国際原子力機関IAEA理事会はインドとの間での保障措置協定を承認した。今後の協力実現のためには、原子力供給国グループでの承認、アメリカ合衆国議会での二国間協定承認が必要とされる。(以上日本語Wikipedia)しかし、50カ国近い原子力供給国グループが、今後原子力市場拡大につながる同協定に反対するわけはなく、議会も反対するわけはない。問題はインドが核兵器不拡散条約(NPT)外の核兵器保有国という点だ。NPT外の核兵器保有国に核技術協力を行うのは明らかにNPTの条約違反である。平岡はそのことを怒っている。

 インドに対するアメリカの動きを見て他の核兵器保有国や日本も民生用原子力協力を行おうという動きがある中で、中国がやはり同じくNPT外の核兵器保有国パキスタンと原子力協定を締結した。(2010年2月。<http://sankei.jp.msn.com/world/asia/100527/asi1005272043002-n1.htm>)この協定に基づき中国はパキスタンにパンジャブ州で2基の原子炉を建設するという。アメリカは、表面この動きに沈黙を守っているが、ウォール・ストリート・ジャーナル紙などを使って、反対の意志を表している。(<http://www.idxcap.com/IDXNewsFeedMrktNews_ALL.asp>) WSJ紙の言い分は、米印の場合は原子力供給国グループの承認があるので合法だが、中パの場合は承認がないのでNPT違反だと言う点につきる。しかし原子力供給国グループ自体が、NPTの枠外の存在である以上、この言い分は通らない。要するに原子力ビジネスを巡ってのどっちもどっちのNPT違反行為である。アメリカの主張する「核兵器廃絶」は突き詰めていくと、原子力ビジネスをいかにアメリカの主要産業に育てるかという点に行き着く。この視点が極めて重要だろう。


哲野 アメリカは不快に思っておると言うとるけれども・・(笑う)
平岡 自分がやっとるんだからね(笑う)
哲野 そりゃ言えんですよねぇ(笑う)
平岡 中国にすりゃあね、お前やっといてなんだ、と。俺は今度パキスタンをやるぞと。それは全てその・・力関係と国際政治の問題でもあるけれども、同時にやっぱり、銭儲けの話なんですよ。ビジネスです。
 
で、その(原子力)ビジネスでアメリカが主導権を握ろうと今日までずっとやってきた、そこには色んな理屈がつくんだけれども、結局はアメリカが一国支配で世界を牛耳ろうとしている・・・そのシンボルがやっぱり、核兵器だったんですね。

その独占を打ち破ろうというのが、ソ連。核実験をやったし、アメリカだけが(核兵器を)持ったんじゃ、こりゃ世界の平和の為にならんからっていうんで、スパイまで使って核技術を取得し、核兵器保有国になった。あえてスパイの理屈をいえば、これは結局お金のためじゃなくて、世界平和を実現するにはアメリカの独占だけじゃ駄目だという話ですよね。それが正しかったかどうか解りませんよ。だけど本来、ソ連が開発しなきゃアメリカが世界を牛耳ったでしょうね。意のままになったでしょう。

   なにも平岡は荒唐無稽な話を語っているわけではない。一番有名な事例は「グーゼンコ事件」だろう。マンハッタン計画にソビエトのスパイが入り込んでいる、という兆候については、前々から指摘されていたが、1945年9月には、イゴール・グーゼンコ(Igor Sergeyevich Gouzenko)事件が起こっている。1945年9月5日、カナダの首都オタワのソビエト大使館で、暗号通信技師として働くイゴール・グーセンコが、ソビエトの原爆情報スパイを立証する109点の書類をもって、西側に亡命した事件である。この事件から、スパイ容疑に関わったとして39人が逮捕され、19人が有罪とされた。これは当然アメリカ国内のエスピオナージ事件に発展し、有名なクラウス・フックス、アラン・ナン・メイなどにも嫌疑がかかった。華々しくソ連によるスパイ事件として脚光を浴び、その後の「赤狩り」の地ならしとなっていく。(次のURLが若干詳しくかつ客観的である。<http://en.wikipedia.org/wiki/Igor_Gouzenko ><http://archives.cbc.ca/IDD-1-71-72/conflict_war/gouzenko/> ) 「グーセンコ事件」そのものの真相は分からない。しかしはっきりしていることは、この時期大量の原爆開発・製造技術がソ連に流れた、ということである。またそもそもいつまでも秘密にしておける性質のものではなかったということでもある。この時ソ連側がもっとも欲しかった情報は、なんと言ってもプルトニウムを使った「爆縮」の仕組みだったろう。現実に1949年ソ連が最初に行った核実験で使用した原爆は、アメリカが1945年7月アラモゴードで、また8月に長崎に投下した原子爆弾そっくりの、出力までそっくりの、コピーと言ってもいいプルトニウム爆弾だった。

 こうした、スパイ事件の詳細は現在に至るも明らかにされていない。私個人は、アメリカが積極的にとは言わないまでも、スターリン・ソ連がプルトニウム爆弾の製造の秘密を盗むことを黙認していた、その意図はソ連に原爆を保有させたかった、ものだと考えている。


「平和」の反対概念は?

哲野 結局アメリカはなぜ広島に原爆を、あるいは日本に対して使用したのかという問題にどうしても、どっから入っていってもそこに戻っていってしまうので、それを最後にご質問をしたい。おそらくその時にそのスパイ事件の話も出るだろうと思いますね。と言うことでその話は取っておこうかとおもうんですが。

まず、その「ヒロシマの思想」の働きについてなんですけれども、今のお話を聞くと「ヒロシマの思想」は、単に核兵器廃絶をもたらすだけではなくて、いわゆる恒久平和、つまり平和っていうのは単に戦争のない状況ではなくて、「平和」に対する反対概念はもしかしたら「貧困」かもしれない。だからそういうことまで含めたことまで、踏み込むのが「ヒロシマの思想」であるとお考えになっておられる?
平岡 そうですね、結局核兵器っていうのは人間を虫けらのように殺したわけですね。戦後の広島は人間回復、「人間の尊厳」の回復の歩みだったと、ま、私は思うわけですね。

とするならば、人間の尊厳を傷つけるもの、これはこの地球上にたくさん有るし、現に今、その中で我々は苦しんでいるわけです。「格差被害」があったりですね。経済の問題も全部そうなんですけれども、それを乗り越えていくのが「ヒロシマの思想」だろうと。

つまり人間回復というか、「人間の尊厳」を保てるような社会を創っていくという、それがさっき言った、核兵器廃絶の先に、我々が目標とするものなんです。一人一人の「人間の尊厳」が損なわれないような、それを確立するような社会を目指すんだと言うことがまずあって、で、それへ向かって行くときに、核兵器というものがまさしくその「人間の尊厳」を傷つけるものだし、相容れないものだと考えることが出来る。核兵器は「人間の尊厳」を根本から否定するもののシンボルだと考えている訳です。

ただ単に核兵器を否定だけじゃ、ダメなんです。これは(核兵器を)戦争の手段だと捉えるわけでしょ?要するに。

「ヒロシマ」の今までは、どっちかっていえば、ああいう残酷な兵器はいかんと、ま、我々も言ってきたんだけれども、残酷な兵器がいけない理由は何故か。

だって、鉄砲で撃って殺すのと、核兵器を落として殺されるのと、どう違うかっていうところへ行くわけですね。で、核兵器を単に戦争の手段と捉えれば、その問いに答えてないんです、実は。「ヒロシマ」はその問いに今まで答えて来ていない・・・。

基本的に「核兵器廃絶」と言ってきた。「ほいじゃあ、鉄砲ならいいんですか」と問われた時に、我々が答えるものを持っているかどうかですね。

最終的にはガンジーの思想にいくかもわからない・・・。暴力を否定するということになってくれば、暴力のシンボルである核兵器を否定する、っていうことは非暴力、非武装・非暴力っていうことになってくるかもわからん。そういうことまで、広島人が覚悟して言っているのかどうかっていうのが問題なんです。

個人はそれぞれありますよ。ある人は、俺は殺されてもいいから、「核兵器廃絶」を言うと、そういう人もいるかもしれない。だけど普通、「核兵器廃絶」を言ってるだけだ、深い覚悟もなしに、それを唱えているだけだ・・・。そんな気がするわけですよ。

特に、この悲惨さ(原爆の悲惨)を訴えていく、それは非常に大事な事なんだけれども、悲惨さを訴えて行く側の、どっちかっていうと「甘え」みたいなものがあったりして。「俺たちはこんな酷い目にあったんだからこれをわかってくれよ」という言い方になる。
哲野 個人的な体験を全くの他人がそのまま理解することは不可能・・・。
平岡 不可能。そりゃ不可能ですね。
哲野 それを理解せえと言ってもそりゃ無理ですね。
平岡 それを(他者が)理解しようとすれば、結局そこには、私はそこには「ヒロシマの思想」みたいなんがあって、それを媒介として理解していく・・・。そうすれば・・・。

「被爆証言者」はいずれにしたって、いなくなるわけです。で、いなくなった時に、一体ヒロシマは何に依拠して平和を訴えて行くのかっていうのが、このところ私が考えている事なんです。

私、思想家じゃあないもんだからそこが上手く出来ない・・・。

広島の願いはなぜ届かなかったのか?

哲野 平和、世界恒久平和の方に主眼があるんでしょうか、核兵器廃絶に主眼があるんでしょうか?「ヒロシマの思想」は。
平岡 ウーン・・・これは両方・・・(笑う)両方言っておるわけですね。
哲野 でも両方といっても、並列的な両方ではなくて、核兵器廃絶がまずなければ・・
平岡 恒久平和はないと。
哲野 前提条件ですよね。
平岡 ええ。
哲野 先決問題ですよね。核兵器廃絶。そう考えてもいいんですか?
平岡 そうですね。
哲野 だから並列じゃなくて順番、段階になってるってことは間違いないわけですね。それで、『希望のヒロシマ』の中に、割と冒頭の4Pにですね、「核兵器の廃絶と世界恒久平和の確立という広島の願いは、何故届かなかったのか、ということを、方法論を含めて真剣に検討しなればならない時が来た。」、というフレーズがある。
平岡 そうですか?
哲野 たぶん。
 平岡 ウーン、ごめん、わし、記憶にないですね。
哲野 いいえ、構わないです。それを記憶してるかどうかではなくて、今それを考えていらっしゃるのかどうかが私にとって重要なんですから。で、ここにお書きになっている「広島の願いは何故届かなかったのか」という質問に、これは96年に出されたご自分の質問ですけれども、それを今お答えになるとしたらどういう風にお答えになりますか?

 『希望のヒロシマ』の「1.アメリカの原爆展」の4pからの引用。

 『被爆50周年は、広島にさまざまな問題を突きつけていた。
もっとも大きな問題はこの50年間、世界の核状況は悪化の一途をたどったということである。被爆後、広島は原爆被害の悲惨な実相と核戦争は人類の破滅につながることを訴え続けてきた。しかしこの広島の警告をよそに米ソの冷戦体制下、核実験は繰り返され、高性能の核兵器の開発が進んだ。核保有国も米・ソの外に英・仏・中とふえつづけ、さらに核拡散の懸念が強まっている。核兵器の廃絶と世界恒久平和の確立という広島の願いはなぜ届かなかったのかということを、方法論を含めて真剣に検討しなければいけない時がきていた。』

平岡 うーん。だからそれは、やっぱり、被爆体験に寄りかかってね、その体験ばかり訴えていたことが第一の問題。その事が世界の状況の中で、ややずれてたんじゃないか思うわけ。

つまり世界・・あの時点での広島の悲劇に匹敵するような悲惨さっていうのが地球上にずーっと、朝鮮戦争以後ですけどね。世界にあったんですよ。

我々が知らないこといっぱいある。特に中南米でアメリカがどういうことをやってきたか。爆撃を無茶苦茶やっとるわけですよ。そういうこともあまり知られてないし、我々も知らなかった。ですから広島の悲劇が一番、これが悲劇なんだと、訴えてきたんですね。それはそれである時点では間違いではなかったと思っています。冷戦時代には何とかして核兵器の使用を食い止めようじゃないかという思いがあった・・・。
哲野 それはそうですね。核兵器をもう一回使おうという歯止めにおおいになったというのは事実ですね。
平岡 特にヨーロッパにおいて、「ヒロシマの体験」などが非常に大きな力になった、これは事実なんですよ。ですが、それは、ヨーロッパを中心として、冷戦における非常な緊張状態があったからなんですね。それが過ぎてしまうと、今度はただ体験だけ言ってたんじゃどうもならん。

というのが、世界中に広島の悲劇に匹敵する、あるいは広島の悲劇を乗り越えるような、例えば東欧におけるああいう残虐な事だとか、まぁ・・アフリカが凄かったですね。そういう「人間の尊厳」を傷つけるようなことがいっぱい起こった。特に戦争を中心としてね。
中東戦争もそうだし、ベトナム戦争がそうですね。で、そういうことを実は広島がきちっと肥やしとして取り入れてなかったんじゃないか、自分たちの体験だけにしがみついてきた。それはある時期までは有効に働いたけども、冷戦が終わったら完璧に駄目だったですね。


つまり、(核兵器を使った)大規模な戦争は起こりえない、起こらないという状況が出てきたんですね。それは間違って起こるかもわからんけれども。少なくとも(米ソ)両方の指導者は、キューバで核戦争を止めたわけですからね。それぐらい両方の指導者は知ってたんです。(核戦争の絶望的結末を)知ってたんでしょう。
哲野 知ってたに違いない。
平岡 違いないねえ、もう。こうやったら破滅になるというね。そこで踏み止まったんだけれども、しかしどこでどうなるかっていうのはわからんですからね、戦争ってのは。

ですから、「ヒロシマの思想」がやっぱりそうした国際状況、或いはそこに起こっている地球上の色んな問題と取り組んで、肥やしにする、それをきちっとした視野の中に入れてね、訴えていかなきゃいけなかったけれど、今まで入ってなかったと思うんです。

その当時、少なくとも80年代、第一、(戦前日本の軍国主義が引き起こした)加害の問題だって入ってなかったんですから。広島は被害一点張りでやってきた。ようやく70年代の後半ぐらいになって、いや、日本の加害も問題だよと。それは何故かというと、広島が被害を訴えた時に、南京事件はどうだと、植民地支配はどうなんだということが、アジアの人たちから返ってくるわけですね。それ答えるすべがなかった。
いやいや、あれはこうなんだ、と言ってもやっぱり向こう(アジアの人々は)は、原爆が落ちたことに対しては喜んだんですよ。。自分たちの独立なり軍国主義の打倒に役に立ったと考えた。その点アメリカと全く同じなんです。彼らの(原爆)史観はですね。

それ(アジアの人たちが共有する原爆史観)をどうやって打ち破っていくかっていうのは大変な問題で、そこまで広島の人はあんまり考えてなかったようなんですね。

というのは、残念ながら広島に、そういう理論家・思想家がいなかったと思う。

僕は、それは広島大学を中心とした学者の怠慢だと思うんですね。(平和)運動については原水禁運動については今堀さんぐらいまでは一生懸命やってきた。追跡して歴史的な意義を、彼なりにまとめて推進していた。

今堀誠二。このインタビュー・シリーズ「第9回 アジア大会とアジアとの和解」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/hiraoka/9/9.html>)の「今、ヒロシマに平和運動はあるか?」の項目の註を参照のこと。

広島平和研究所

平岡 原水禁運動は、その後変わっていったけれども、いわゆるヒロシマの役割・・。広島がなぜそういうことを言っているのかっていうことを、思想的にきちっと裏付けて、それをですね、政策にまで仕上げていくというか・・。そういう事が必要だったわけです。そういう仕事は、一般市民には無理なんですね、なかなか。それで、まぁ、私が市長の時には「広島平和研究所」っていうのを作ったわけです。

広島平和研究所。広島市立大学の平和研究組織。1998年開所。同研究所のサイト(<http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/>)の「基本構想」にやや詳しく設立へのいきさつが説明されている。現在所長は国際政治学者の浅井基文。

哲野 そうそう。それも今日の質問に入ってますね。
平岡 それはですね、広島市民の願望を、その思いをいかにして理論化して、それを現実の国際政治に反映させるかということです。それは日本政府を通してもいいし、直に国際社会に対してやってもいいし。というのが私の考え方の基本でした。

で、明石さんにお願いして初代所長になっていただいた。だいぶ反対があったんですがね。明石さんていうのは現実主義者で漸進的核廃絶論者ですよ。だから一挙に廃絶は駄目だ、無理だ、というのが彼の理論なんですが、ただ彼は国連のロビイストを知ってるわけですね。

明石康。特定非営利活動法人日本紛争予防センター会長、名城大学アジア研究所名誉所長、元国連事務次長。タフツ大学フレッチャー・スクール博士課程在学中の1957年に、日本人として初めての国連職員に採用された。1992年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。1994年には当時進行中であったユーゴスラヴィア紛争収拾のため旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に就任。以上は日本語Wikipediaの記述。なおこの記述では、『1999年、広島市立大学付属広島平和研究所所長に就任するも即時退任。』と書かれている。(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%BA%B7>)。明石が所長に就任するのは1998年4月1日、辞職するのは99年2月19日である。

 平岡
国連ってのはロビー活動・・・アメリカもそうですけど、そのロビイストを使わなきゃダメなんだというのを僕らもようやく知りましてね、じゃ明石さんにお願いして、例えば広島の願いを国連の場に出していく場合にどういう筋を使えばいいのか。そういうところで働いてもらおうというのがもともとの考えでした。日本政府は結局やってくれないわけですから。(日本政府は)アメリカの許容する枠の中でしか動かない。とすると我々はストレートに国連の場に、そういうものを持ち込んでいく。その場合にどうしてもロビイストを動かさないといけないだろう、その辺の関係を知っているのは明石さんだろうと思ったんですよね。(国連事務)次長だったですからね。

だから僕は呼んだんですよ。無理して。そのことに対しては物凄く反対があったんです、実は。
哲野 何故反対があったんですか?
平岡 彼はね、例えばその前に、広島で何度かシンポジウムをやったんですよ。その時に彼は「北鮮」と言ったんですよ。
哲野 ほほう。「北鮮」ね。
平岡 「北鮮」。そしたらね、その(シンポジウムの)フロアから、それはおかしい、「朝鮮民主主義人民共和国」だ、というわけですよ。それで、いやいや国連じゃ「ノースコリア」だと言っている。それで、何がおかしいか、と言い合いがあったんです。そして広島にいる進歩的というか革新系の連中は「明石は駄目だ」、あいつはけしからん、ということになった。そういう「明石否定」は酷かったですね。

でもう一つ。しかも、彼は「核兵器即廃絶」と言わなかったんです。広島では、被爆者含めて「即核廃絶」ですからね。彼は、それは無理だ、段階的に核廃絶に向かっていくには順序を踏まなきゃいけないよというのが彼の主張。ここが現実主義者たるゆえんなんですけどね。それに対して広島の市民は「そんなの生ぬるい」と。即・・・これはスローガンとしては即廃絶というんだけども、実際には無理だっていうのは彼らも知ってたと思うんですけどね。やっぱりそういうことで「明石反対」だった。非常に反対があったけど、私が呼んだんです。とにかく来てくれと。

平岡は1999年に市長として二期目の任期満了を迎える。だからこの時のやりとりは3期目に出馬することを約しながら、出馬を取り止めたことを意味する。

明石康が所長を辞めたわけ

哲野 今、平和研はその後の発展の中で、平岡さんが考えられたような平和研の方向へ向かって行っておりますでしょうか?
平岡 いいや、行ってないですが・・・。まぁ浅井さんが来てね、割にまともになったですが、それまで全然ね・・・。
いや、全くねえ、明石さん、1年足らずで辞めたんですよ。これはまぁ色々理由があったんですが、秋葉と合わなかったのかも。
哲野 ああ、そうですか。・・・なんで?秋葉さんと合うようなタイプだと思うけども。そうじゃない?
平岡 いやぁ・・・秋葉にとっては、あれは平岡が呼んだ人間だ、そんなレベルの話ですよ、たぶん。
哲野 思想的な問題じゃない・・・。
平岡 思想的な問題じゃないですね。
哲野 「俺の息のかかった人間を少なくとも入れたい」と。
平岡 うん。入れたいと。でしょうね、おそらく。そういうレベルの話なんよね。だからくだらん事なんですが、明石さんも腹が立って辞めちゃったんですよ。それは私の口説き方もちょっと、私も騙したことになってて、明石さんを。
哲野 騙した?
平岡 明石さんが(平和研究所の所長を)承諾するときに、「あともう1期やるでしょ?」って聞くから、「おお、やりますよ。だから是非来てください。」ていったんです。

来てから1年経ってから、僕、(98年の)9月に辞めるって言ったもんですからね、彼、怒っちゃってね。(笑う)
 哲野 ハハハハハ。 
平岡 「あんた、嘘言ったじゃないか」、「いや、あの時はやろう思うた」って。「その後の心境の変化だ」と。(笑う)ま、これは冗談ですけどね。まぁ要するに・・・。
哲野 三期目やるからっつって。
平岡 そう。
哲野 おっしゃったわけですね?
平岡 そうそう。いや、そうしないと彼だって不安なんですよ。自分を保障してくれる者が誰がおるかってね。
哲野 それで、はしご外されたわけ。
平岡 そうそう(笑う)。ま、そういうことがありましてね。
哲野 なるほど、それで1年でお辞めになった。
 平岡 今でもいい関係なんですよ。私と、明石さんと。やりとりしてますし。
哲野 それはお互いにわかりますよね。政治家同士ですからね。
平岡 それでその後福井さんていうのが来たんですよ。
哲野 福井さん・・?
平岡 僕とは全然会ってないんですよね。一度も会ってない・・もう全然話にならなかった、この人は。つまり市民と全然接触がないんですね。研究所の設立の意義も解ってもらえないし。

 この後の広島平和研究所の所長人事はやや複雑。1999年2月に明石がやめた後、所長は2001年3月31日まで不在で、広島市立大学学長が「事務取扱」となった。2001年4月1日から福井治弘が所長に就任。福井については情報が不足している。いろいろな資料から研究者出身の学者というよりも、翻訳家出身の学者らしい。広島市メールマガジン第48号掲載(2005年3月25日発行)の中で広島市は次のように説明している。

      『2001年の4月以来、広島市立大学 広島平和研究所の所長を務められた福井治弘先生が3月31日を最後に退任されることになりました。この研究所の基礎固めに大変な御尽力を頂いた功績は特筆されるべきだと考えていますが、(中略)国の内外に良く知られるようになった平和研究所の存在と、市長の立場との関係について一言説明をしておく必要があるように感じています。それは、この研究所が広島市に所属しているため、市長が人事権まで持っていると誤解している方がかなりいらっしゃるという点です。

平和研究所の人事について、市長は人事権を持っていません。研究や教育の方針等についても発言権はないのです。それは、国の法律である「教特法」によって禁止されているからです。その上、福井所長の作った選考委員会で選考をする訳ですから、専門家でも何でもない市長が、突然、自分の意見を言える可能性など全くない仕組みになっているのです。

大物政治家などから、「この人を是非、研究所で雇って欲しい」という要請を受ける度に以上のような説明を繰り返しています。外からの雑音が入らないことも、研究所の質を高める上で、大切な要素です。(中略)福井夫妻は広島を離れ、カリフォルニア州で新たな生活を始められますが、これからも広島の代弁者として益々積極的な活動をして下さるであろうことを確信できる特別講演でした。』

「願い」は「願い」のままではいけない

哲野 どういうご出身の方?
平岡 いや、僕はよく知らないんですよ。
哲野 学者の先生?
平岡 学者ですね。学者というかアメリカから引っ張ってきたんかな?秋葉さんが引っ張ってきたんですよ。
哲野 ほお。
平岡 なんにもしなかった。その後、浅井さんが来たんですね。浅井さんは少なくとも、広島の人に全部会ってね、意見を聞いてますよ、あの人は。

それから、平和のあり方みたいな事を彼なりに考えて、特に日本政府に対しての注文ですね、広島側からの。これはやっぱり、しっかりしてますね。

いままでどっちかというと、原水禁運動にしても被爆者運動にしても政府に対して何も注文してないんですよ、ほとんど何にも。

私は、平和宣言あたりでちょこちょこやりましたけどね。こうあるべきだ、こうあるべきだと。だけど広島の学者は、大体言ってないんです、なんにも。被爆者援護に力を入れてくれ、だけは言ってるんですよ。しかし、これは陳情ですよね。

だから、これやれっていうのはあんまり言ってないですね。原水協系の人たちが非核三原則を法制化しろとかですね、いわゆる共産党の線に沿っての政治要求をしてますけど、それは、広島というよりもある団体の要求みたいになって、広島のトータルの要求としてはなかなか出てこない。
哲野 なるほど。それで浅井さんが来られて、平和研究所がまともになったというコメント、非常に重要なコメントだろうと思うんです。というのは、私たち広島市民も浅井さんのお話から学ぶところが多かった、と思うんですよ。私の問題意識も鋭くなってきたと思います。たとえば、さっきの「広島の願いは何故届かなかったのか」という設問に対して、自分で回答のメモを書いておるんですが。

「広島の願いが何故届かなかったのか。逆説的ではあるが、それが願いであり明確で筋の通った政治的意思ではなかったからだ。願い、は論理的政治的意思として政策に昇華しなければならない。核兵器問題は極めて鋭い政治問題なのだ。」というコメントを自分でここに書いておるんですが、このコメントについてはどういう風にお考えになりますか。
平岡 ま、その通りでしょうね。
哲野 そういわれちゃうと・・・。
平岡 やっぱり政策。政策にね、していかなきゃいけないんですよ。政治を動かすわけでしょ?国際政治を。少なくとも国内政治を含めて。
哲野 もし国連が世界の意思を決定する機関で、仮にあるとするならば、国連は国家主権の集まりだから日本の主権の意思をしっかりしなきゃいけないですよね。
平岡 国家主権の集まりですから。日本政府を通じてね、しっかり出さなきゃいけない。
哲野 それが順序ですよね。
平岡 そのことを批判すれば、それは日本政府が、アメリカの政策の枠内でしか、アメリカの許す範囲内でしか、核兵器廃絶は言ってないんですよ。鋭いことは全然言ってない。知ってても言わない。それは外務省官僚もそうなんですね。アメリカのご機嫌を損ねることは絶対言わないと。そういう限界を我々も・・まぁ私は知ってたんですが、市長をやったら私も色んなことを言いますよね。外務省に。特にあそこのICJ(国際司法裁判所)の問題・・・。

 平岡の国際司法裁判所での広島市長証言問題。詳細はこのシリーズの「第7回 国際司法裁判所勧告的意見の意味」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/hiraoka/7/7.html>)を参照の事。

平岡 あそこの前後でね。ずいぶんやり合いをしたもんですから。
哲野 あの時は外務大臣が柿沢浩治で、首相が羽田って書いてありました。
 平岡 いや・・・、首相が羽田孜ですか?・・いやいや、あの時はもう村山になっていた。
哲野 あ、あの、だから交渉段階では羽田で、すぐ変わっちゃった。
平岡 ええ、そうですね。村山と河野。河野外務大臣ですね。これはこないだちょっと話したでしょ。
哲野 電話が直接あったのは、河野さんですね?
平岡 河野。ええ。
哲野 ICJの日本政府の見解が、明確ないわゆる核兵器使用は人道主義に違反すると明確に書かないので、(平岡さんが)書けと注文をつけに行った時の外務大臣が柿沢浩治。
平岡 ああ、そうでしょうね。
哲野 だったと『希望のヒロシマ』の中に書いてありましたですね。

「人道法違反」が言えない日本政府

平岡 核兵器使用は国際人道法に違反すると明確に日本政府が、何故言えないか、と言ったら、それはアメリカの逆鱗に触れるからですね。それは極めて人道に反する残虐な兵器だとすれば、広島の原爆投下は人道法に違反しないのかと云う問題に行くわけですね、絶対。
哲野 当然ですね。
平岡 そこへね、やっぱり我々広島は、避けてたんだと思うんです。言わなかった。で、言わないことが平和だと思ったんです。平和を唱える人が責任追及をして、事を荒立てることはよろしくないんだという観念が広島の人には、僕はあったんじゃないかと思いますね。占領中の惰性も含めて。
哲野 今の問題、非常に重要な問題だと思うんですが、お読みになったかどうかわかりませんが、今回のNPT会議のNGOセッションで、広島の秋葉市長がいわゆる広島市長として特別な資格でNGOセッションで演説をされてる。その中にですね、英語の表現はreconciliation。日本語でいうと和解。
平岡 あー、和解ね。
哲野 広島は和解の思想を持っている。その和解の思想とは、要するに、許す思想である。過去を水に流す思想であると、いう風に言って・・・。
平岡 いや、そりゃあ僕はやっぱりね、論理を曲げてると、捻じ曲げていると思うね。

 秋葉忠利の2010年NPT再検討会議・NGOセッションでの演説は次を参照。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/
shiryo/NPT/2010_akiba.htm
>)この中で秋葉は、広島は和解の思想をもっている、それは相手に報復を加えない思想だ、といっている。従って秋葉にあっては、アメリカの原爆投下を批判するとそれはすなわち「報復行為」だと言うことになる。

哲野 この考え方は実は、戦後広島に一貫して流れてる。
平岡 流れてたような感じはしますね。だけどそうではない声があったんですよ。実際に。
哲野 もちろんそのアメリカを、広島の中でも原爆投下を激しく厳しく糾弾した人もいる。

 例を挙げれば、栗原貞子、峠三吉、丸屋博(御庄博美)などであろうか。

平岡 多いんです。それをね、僕は、抑えてたと思うんです。平和運動が。
哲野 ふーん、やっぱりね。
平岡 平和の美名の下にですね、そういうことを言うな、あるいは言わせないように、したんじゃないかと。広島の平和運動は。で、(原爆投下を行った)アメリカを許さなきゃいけないような雰囲気を作っちゃったんですよね。それはアメリカの差し金かもわからない・・・。
哲野 と、お考えになりますか?
平岡 今にして思えばね。
哲野 いや、私は強くそれを思います。
 平岡 それを隠微な形でね、いろんな形でやってきたんだろうと思う。

アメリカを許してきたヒロシマ

哲野 直接証拠が・・・。
平岡
ない、ない。出てこない。だけどアメリカは非常に気を使ったわけですよ。広島にいけばやられるんじゃないかと。だから英豪軍を広島の占領下にしたわけですね。米軍が直に占領せずに。英連邦軍がね、ここ(中国地方あるいは広島地方)に入ったわけでしょ?それはやっぱりうまいこと逃げたんだと思うんですよ。ところが英連邦軍もアメリカの言い方を、1948年かなんかに言ってますよ。平和祭でね。懲罰だ、懲罰だってね。そういう考え方に逆らうことは、日本人はしない・・・。まぁ従順なんですよ。戦前から。お上の言われたことに逆らわないと。特に広島は、私は、そういう風潮があったと思うんです。軍都でしょ。陸軍が主人公ですね。あらゆる経済人は陸軍にいろんな形でぶら下がってね、利益を得ているという状況があるわけですね。だから逆らわないと。それがずーっと続いているんじゃないかと思う・・・。
その上の日本帝国陸軍あるいは軍閥が、米軍に変わっただけで。同じように権威に追随するということを、何とも思わない、そういう体質があるんじゃないかな。ですから反逆するっていう精神があまりないんだね。異論を唱えるとか。みんなそうだそうだって。長いものにまかれるかもわかりませんし、どっちかというと、あまり事を荒立てたくないと。で、これはまぁ色んなありますよ。瀬戸内海の風土が生んだね、穏やかな気候が生んだ県民性だとか。

どちらにしたって(権力に)逆らわなかったってことは事実なんですね。そして一つは雑賀さんの碑文が出た時に色々あったけれども、要するに妙に納得しちゃったんですね。

 広島平和公園内の「原爆死没者慰霊碑」に刻まれている碑文のこと。「安らかに眠って下さい。過ちは、繰り返しませぬかた」の文字が刻まれている。日本語Wikipediaは「当時の浜井信三広島市長は、米国アーリントン公園の無名戦士の墓の慰霊碑に感動し、広島の慰霊碑にもぜひ碑文を刻みたいと思った浜井がこの碑に盛り込もうとしたのは、「誓い」と「祈り」であった。 石室の碑文は雑賀忠義・広島大学教授が当時の浜井信三・広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。」としている。(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%AD
%BB%E6%B2%A1%E8%80%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91>
) 

哲野 「繰り返しません、過ちは」の。
平岡 ええ、そうそう。主語がないというね。これは核兵器がなくなった後だったらいいと思うんですよ。核兵器が存在して、まだあの行為が正しかったという国がある以上、碑文はその国の過ちを、人類の過ちに拡散しちゃったでしょう?誰が悪いのかわからなくなった。人類みんなが悪い、という感じになったですね。
 哲野 拡散というか、すり替え・・・。
 平岡 すり替えですね。それがずーっと広島に残ったと思いますね。慰霊碑が出来た時は、ちょうど占領中ですから、ある程度、(アメリカという)主語を明確にするということは、占領政策に違反するんですね、明らかに。
 哲野 プレスコードでいう誹謗中傷でしたっけね。
 平岡 そうそう。誹謗中傷。(笑う)ああいう、なんかね、(アメリカ批判を)やったらいかんという、そこの空気がずーっと残ってるような気がするんですよ。従ってぼやかしたという。それで納得・・・ま、自らしたわけですよね。
 哲野 その空気っていうのはずーっと今に流れていると思われますか?
 平岡 いやあ・・そうじゃないですか。これはもう、日本全体が流れた。それはアメリカの占領政策の成功だろうと思うんですよね。日本人の・・まぁ変な言葉を言えば金玉抜いたというね。(笑う)これは言っちゃ悪いけど。抜かれちゃったですよ。
哲野 私、あの時で一番注目している事件は、ファレルが、トーマス・ファレルが飛んできますね。で、トーマス・ファレルっていうのはマンハッタン計画でいうと、丁度グローブスの右腕の人です。
平岡 そうですね。ええ、ええ。
哲野 それがすぐ広島に飛んできたっていう。あのケースは今お考えになって、どういう風に評価されますか?
平岡 いやぁ・・その辺は僕はよくわかりませんが、要するに秘密にしたいのは一つありますね。秘密にしたいっていうのは自分たちが全部調べたいっていうんで。それとなんで秘密にしたかったのかようわからんのですが、要するにソ連に原爆の秘密が漏れることを、非常に恐れて・・・。
哲野 私の分析はですね、あの当時の資料をずーっと調べて、私の分析は、結局トルーマン政権が一番恐れたのは広島の人間的悲惨、広島・長崎のこと、アメリカの国民に知られるのが一番怖かった。
平岡 ああ・・怖かったでしょうね。あ、だからそこは繁沢くんがちょっと本にしましたけれども、修士論文で書いたんですよ。アメリカというか外人記者の自己規制というか検閲、それがあったというのをね、今度中公新書で書いてました。
哲野 ああそうですか。
平岡 出たんですよ。それで私も送ってもらって。
哲野 ローレンスのことも出てました?
平岡 え?いや、そこまでよく読んでないんだけれども、原爆と検閲だったかな。といタイトル・・新書版ですよ。彼女の、市立大学の修士論文だった。

『原爆と検閲』。繁沢敦子著:中公新書) 

哲野 繁沢さん?
平岡 繁沢敦子ってね、オカザキの「ヒロシマ・ナガサキ」っていう映画、作りましたね。あの時の広島でのプロデューサーをやった女性なんです。元読売新聞の記者だった。私が市長をやってる頃。で、読売を辞めちゃって、独立して一人でヒロシマに取り組んでいます・・今ハワイ大学に行ってます。

核兵器廃絶は政治問題化しなかった?

哲野 で、むしろ広島の願いが願いのままで留まるような誘導があったという風に今のお話・・・いや証拠がないんです、何とも断定できない。
平岡 ない。だから、その検閲と一緒なんですよ。検閲があったっていうんですよね。しかし、そのね、(検閲自体)あんまりたいしたことなかったよ、という風に先輩から聞いてるんです。ということは、引っかかるような記事を書いてなかったんじゃないかと。逆に見れば。そういうこともあるわけですよね。検閲があれば自主規制をするという。ですから案外、なにもひっかかってないんですよ。発禁になったりしてないですね。日本の新聞は、だいたいそうでしょ。発行停止になってないんです。なんかそういう気がするんですよ。つまりそれは自分たちの先輩のことですから言いにくいんですが、それはほんとに引っかかるような記事を書いてないんじゃないかという気がしますね。
哲野 うーん。
平岡 つまりそういう忖度するというか、今流行りですな、小沢の胸中を忖度するという。そういうことを戦争中から日本のマスコミはやってたわけでしょ。これ書いたらちょっと、大本営のアレに不味いなとかね。言うたらもう書かない、自己規制する。と同じようにこれを書いたら占領軍のアレに引っかかるなと。だから書かない。そういうことをずっとやってたんじゃないかと思うんです。だから本当は書くべきことだという使命感があったかどうかの問題だ。その人間的悲惨さを見てね。これはどうしても知らせなきゃいけない、命にかけてもやるぞという問題意識は、私はなかったと思うんです。あの当時。僕自身も、みんな戦争被害者なんですよ。被爆者を特別視してなかったですね。
哲野 今のお話をちょっと今まとめてみますと、広島の願いが願いのままで、つまりスローガンのままで留まるような、これ、具体的にどっからどういう力がというのは言えないんだけども、そういう、まぁ少なくとも雰囲気ということだけは言えますか?雰囲気があった。
平岡 ・・・うーん・・・そうねえ・・・。
哲野 鋭い政治問題にしてこうという・・・。
平岡 いや、その政治問題にしようとしたときに、それを全部排除していったでしょ?政治的要求を入れると運動が分裂すると。いうことから、そういう政治的な要求を切り捨てていったんです。そして核兵器廃絶というみんなが一致できる点で団結しましょうよ、というのが日本の平和運動の主流だったんですね。
哲野 ただ、核兵器廃絶の問題を政治的に突き詰めていったら・・・。
平岡 反基地問題になってくるし、日米安保の問題になってくるんです。
哲野 なってくる。だけどそこに触れない限り、核兵器廃絶の問題を日本の国家主権の枠内で、いわゆる政治問題化することは出来ない。
平岡 出来ない、出来ない。それをやらなかった。あえて。日本の平和運動は。原水禁運動は。
哲野 あえてやらなかった?
平岡 あえてやらなかった。
 哲野 それは分裂をもたらすから?
平岡 分裂をもたらすから。で、平和運動はご承知の通り、色んな労働組合の寄り集まりであるし、弁護士の会とか、医者の会とかあるいは自民党・・・全部入ってやってたんですね。で、その時に何回目かな、ぼつぼつ、勤評闘争だとか警職法反対だとか、そういう政治的な要求を持ち込んで来たわけですよ。それに対して時の政権は嫌うわけですよね。そういうものが。そこには全部、自民党も入ってたわけでしょ。そうすると県が補助金を打ち切るわけです。今まで原水禁運動に出してた補助金を。県は出してたんですよ、最初。それを打ち切る。打ち切るのは何故かというと、自民党の政策というか考え方に反するような色んな要求が持ち込まれてくるという。そこに反基地闘争まで持ち込まれたわけです。それを全部排除して、仲良し・・・て言うのはおかしいけれども、原水爆反対っていうことだったらみんな一致できるじゃないかということで。そこで切っちゃった。

スローガン化した核兵器廃絶

 哲野 なるほど。
 平岡 原水爆禁止は・・・だからスローガンにならざるを得ないわけですよ。
 哲野 スローガン化すること以外には・・・。
 平岡 ない。具体的な政治問題としたら、それは基地の問題にもぶつかるし、あるいはその当時の逆コースというかね、改憲志向だとか、或いは軍国主義、思想まで全部否定していくようになるわけでしょ。ぶつかるわけです。それを避けるためには「核兵器廃絶」というスローガンで一致させる。で、「核兵器廃絶」なら誰にも、右も左も皆、そうだと言うわけですよ。そしたら幅広になったけれども先鋭化しなかったというか、迫力がなくなったという。つまりスローガン化してしまった。政治問題化できなかった。それで今までずーっと来てるわけです。核兵器廃絶といえば、誰も反対しない。

 しかし、日本における「核兵器廃絶問題」を政策化できなかった。政策化していったら必ず自民党の政策とぶつかるわけですね。そうするとそれは「マズイな」っていうバネがね、働くわけですね。
 哲野 それは左からもあったんですか?
 平岡 いや左からじゃなくてむしろ右がそういう形で・・・つまりどう言やいいんかなぁ・・・。

これ、マスコミも含めてですが、国民的支持が得られない、一党一派に偏した運動になるじゃないかという言い方がよくされるけれども。ま、原水禁運動は、左翼の運動だという見方がある。ところが、運動やってる側はそうじゃないよ、全国民的な願いなんだ、というわけですよね。ところが片っ方の側から言えば、あれはもう左翼の運動となる。共産党、社会党がやってることだ、自民党とまったく違うよ、というような日本の政治状況の中で運動が鈍くならざるを得ないんですね。うん。で、本当言えば、全国民が結集できるといえば核兵器反対でいいんだけども、じゃ核兵器反対を実現するにはどうすればいいか、それには今の政府の政策を変えさせなければいけないことは明白じゃないですか。政策を変えさせるって、要するに自民党政権ですからね。
哲野 そういうことですね。
平岡 自民党政権を倒さなきゃいかんじゃないかとなっていく。
哲野 そういうことです。
平岡 ところが、そういうとこまでいかないんですよ。それが極めて政治的な運動であるから、これじゃいかんと。いうのがおそらく運動の内部でもあったような気がしますね。これは幅広主義か、一点突破主義か、論争になるわけですよね。
哲野 広島の願いは、ずーっと「願い」のまま置かれてきたということになりますね。
平岡
そうですね。願いは間違いじゃないんですよ。願いを実現するための方策というのがなかなか見つからなかったというか、それを理論化し、そして政策化していく力量が、広島側になかった。本当言えばそれをやっていくのが、理論家であり思想家であり、或いは政治家かもわかりませんね。そういうのがいて、中心にいて、その広島市民の願いを具体化していく作業をしなきゃいけないんです。それをしなかった。だからスローガンに終わったということになる。




 (以下次回)