哲野 |
だから今のお話から言うとですね、被爆者を聖域化してしまったことが、一つ大きな問題として挙げられるって言ってかまいませんか? |
平岡 |
問題ありますね、ええ、いいです、そういっても。被爆者も私たちも同じ人間なんですよ。いろんな意味で戦争の被害を受けていると。たまたま原子爆弾の被害。これは深刻ですよ。確かに、原爆の被害は。ですが、他に深刻な被害を受けた人はたくさんいるわけで、沖縄もそうですけどね。そういう人たちと本当の感情の共有が出来なきゃ、私は駄目だという気がしてるんですよね。感情の共有が出来ないのに、何で世界の色んな人たち、例えばイラクの人だって、アフガンの人達ね、一緒に戦争が語れるか。「俺たちしかわからない体験だ」って頑張るからね、しかし、「あなたの体験も同じように遭った人がたくさんいるんだから手をとっていきましょうよ」、というようなね、そういう連帯の気持ちが出てこないですね。 |
哲野 |
こういう風に言っていいですか?被爆者は自分たちの体験を相対化・普遍化できなかったと言ってもいいんですか? |
平岡 |
いいでしょうね。出来なかった。 |
哲野 |
その相対化・普遍化できなかったことが・・・。 |
平岡 |
いや、そりゃ個人的体験は(相対化・普遍化)できないんですよ。 |
哲野 |
出来ない。出来ないけども、ひとつの体験を通じて、そっから自らの世界観であるとか自らの普遍的な思想を語ることは出来るじゃないですか。 |
平岡 |
うん。だからそれを「体験の思想化」ということでね、昔から言ってきたんですが、その思想化に成功してないような気がするんですね。 |
哲野 |
あえてしなかったと言っていいんですか? |
平岡 |
いや、そりゃわかりません。(笑う)いや、そこは。(笑う)しようとしたんだけど、出来なかったというかね。 |
哲野 |
しようとしたんでしょうか?「ヒロシマ」はしようとした? |
平岡 |
「ヒロシマ」がっていうか、誰がやったかは別として、例えば松元寛さんあたりは一生懸命ね、そういう「体験の思想化」というのを言ってましたよね。我々もそれを言ってきた。(その言葉を)使ってきたんです。体験の思想化をしなきゃダメなんだと。体験だけではいずれ体験を語る人がいなくなったらどうにもならんじゃないかと。だから体験の思想化がまだできてないと言ってもいいんじゃないですかね。出来てれば心配ないんですよ。出来ないからこそ、折鶴になり、オバマジョリティになるんだと思うんですね。 |
哲野 |
ただ、折鶴の場合は佐々木禎子のストーリーは、かなり普遍性を持ってみんなの共感を・・・。
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平岡 |
あ、そこまではいいんですよ。そりゃいいんです。うん、それはそれでいいんだけど、私が言っているのは、折鶴を折る運動。ね?折って終いでしょ?僕はやっぱり、あれは気に入らんと。折ることは大事なんです、その気持ちがね、平和を祈る。しかし折ったあと自分が何をするかっていうかね、もう一つやっぱり教えなきゃいけないですね。折って、持って行ってお終いなんです。これが平和運動だと思ってるから。そうじゃないよと。もっと身近なね、環境問題にしろ、或いは友達の関係にしろ、やっぱり平和を阻害するものがたくさんあるわけですから、目を開いてほしいなという気がする。それが平和運動だろうと思うんだけど、どうも折ることが目的化してしまうという・・。それに対して、それを批判する、僕はあちこちでやったんだけど、どうもあんまり反響がないんだけどね。(そういう批判は)「子供の心を踏みにじるものだ」と言われたことありますよ。 |
哲野 |
なるほど、確かに。今は折って終わりだな・・・。そうした例えば平岡さんの見方や考え方に、反響がないんではなくて・・・。インターネット時代になって私つくづく感じるんですが、マスメディアが取り上げたことが世間の言っていることという風に今まで思ってきたけども、マスメディアは必ずしも世間の言っていることを普遍的に取り上げているわけではない。むしろ誰かが言い出して、実は、俺もそう考えてたんだということが結構多いということが最近インターネット時代になってわかるようになってきて、結構、平岡さんのように考えている人は、私は多いんじゃないかと思いますけれども。 |