平岡 |
まぁ、これは私の個人的な考えですが、実験としてやったと、広島の原爆投下は、と思ってるんですよ。実験されたんだと。それはまさしく最初に言った、「人間の尊厳」を踏みにじるものだ。だからその後の歩みというのは、「人間の尊厳」を回復する、広島の再建というのはまさしくそうなんだと、いう位置づけをしているわけです。
だいたい、人体実験をすることが問題なんだ。しかし、実験ではなかったとしても「皆殺し」の事実がある以上、「人間の尊厳」が踏みにじられたことには変わりはないですね。 |
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哲野 |
ただ、どう考えてもですね、戦争終結のために使ったというのは、これはどう考えても怪しい。怪しいというのは、これは、私、無根拠に言っているのではなくて、1945年8月、せめて9月かな、までのアメリカの政府文書とそれ以後の政府文書がもう、まるっきり違う。 |
平岡 |
ほう。 |
哲野 |
これは全部公開された文書・・なんでみんなこれを丁寧に読み込んでいかないのかなと思うんだけど、少なくとも1945年の9月までですよ。広島の原爆は、戦争終結を早めるものだったという言説は、一回も正式文書に出てない。
一回も出てないんですよ。よく引用されるトルーマンの大統領声明。あれもよく読んでみると、原爆投下は戦争終結のためだったとは一言も言ってませんよ。
『原爆投下直後の大統領声明』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/touka_hapyo19450730.htm>) |
平岡 |
だから、やっぱり世界的な非難が起こってからでしょ? |
哲野 |
そうです。 |
平岡 |
ね? |
哲野 |
そう、まずアメリカの国内で非難が起こった。キリスト教者からなんてことをするんだっていう非難がバーって起こって。 |
平岡 |
それに対して、いや、正しいことだったと言うことを、盛んにアメリカは言い出したんです。 |
哲野 |
それは46年になってからです。 |
平岡 |
46年ですかね?トルーマンがなんか最初に言ってるんですよ。これによって20万か25万か、命が救われた。その後ずーっと人数が増えてきてね、最後にパパブッシュの時には数百万の命が救われたとなったわけです。人数がね、だんだんと。増えて。やっぱりそこは、僕は問題だと思ってね、最初から一貫してれば、これによって例えば100万なら100万の人間が救われたと言えるんですが、ところが最初20万くらいですよ。それからずーっと来て、数百万人になる。それからマッカーサーがフィリッピンから出した報告書・・・。 |
哲野 |
それは45年6月18日にホワイトハウスで対日戦争の戦略会議が開かれるんです。 |
平岡 |
うん。その時には米軍の犠牲者は4〜5万でしょ? |
哲野 |
マッカーサーは4〜5万とは言ってないんですが、マッカーサーは、日本のいわゆる対日戦争ではさほど大きな損害は受けない。いわゆる英語でいうとカジュアルティ(Casualties)という言葉を使ってますけれども、で、マーシャルが、3万1000人って言ってます。それはマッカーサーからの電報を受け取り、参謀と議論をして・・・。
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「1945年6月18日 ホワイトハウス会議(対日戦争の現状と見通し)議事録」を参照の事。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/whitehouse_19450618.htm>)。
中で陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルは、『太平洋戦争の経験から云えば、損害に関しては、かなりばらつきがあり、数字的推定を行うのは間違いである、と考えられる。』と前置きした上で、「九州における作戦では、最初の30日の間の犠牲は、ルソンにおける犠牲を上回るものではないと信ずべき理由がある。」と述べている。で、ルソン島侵攻に伴う損害は、この会議では3万1000人と報告された。 |
いや、色んな話があって。だから私は原典に当たらないと信用しないんですけども。6月18日のホワイトハウス会議には、マッカーサーの電報を引用しながら、せいぜい最初の一か月間で、3万1000人、と言ってる。 |
網野 |
ルソン島と同等程度って言ってましたよね? |
哲野 |
ルソンと同等程度っていうのがね、実はルソン島侵攻の同等程度っていうことをマーシャルは言っています。マッカーサーの報告を基にしてマーシャルが、トルーマンに見解を述べるわけだよね。その時に、その会議の頭から終わりまで、原爆の話、一回も出ないんです。今、その議事録が残って、読めるわけだから。 |
平岡 |
それはやっぱり、原爆が秘密にされてたんじゃない? |
哲野 |
それはありえない。というのは、その会議に出てた人たちは、すべて原爆のことを知ってる人ばっかりだった。 |
平岡 |
知ってる? |
哲野 |
ええ。最高会議ですから。で、原爆の投下と、対日侵攻の関係っていうのは一回も議論されてない。少なくとも我々が現在、読める記録を読む限りは。もちろん、裏の話は、僕たちにはわかりません。そんなとこまでは調べてないけども。でも、残ってる公式の記録を見通して行くだけでもおかしいなということはわかる・・・。少なくとも残っている公式の記録では9月になるまで一回もアメリカの政府は内部の、いわゆるクラシファイド(機密分類書類)と呼ばれる報告ですね、読む限りは原爆の投下で対日戦争の終結を早めるなんて話は一回もどこからも出ていない。で、46年になってトルーマンに報告された「戦略爆撃報告―広島と長崎の原爆の効果」を読んでも、原爆の効果はどうだったか、対日戦争に与えた士気は、要するに一般市民に対しては、広島市民、長崎市民に対しては大きな打撃を与えたけども、日本の国民の士気にはほとんど関係がなかった、だいたい、知らなかったんだから。というのが一つと、政府の意思決定に与えた影響は、せいぜい、原爆の効果というのは、日本の軍部のメンツを救ったに過ぎないというのが結論でした。
46年の12月号のアトランティック・マンスリー・マガジンに、カール・コンプトンが、「もしも原爆が使用されなかったら」という論文を発表するんですが、これが、私が読む限り、最初に「原爆の投下で対日戦争終結は早められた」という公式の議論はこれが最初です。僕が、読む限り。 |
平岡 |
あ、そうですか・・・。 |
哲野 |
もうちょっと補足しますと、カール・コンプトンはそのアトランティック・マンスリー・マガジンをトルーマンに送るんです。で、トルーマンはそれを読んで、どうもありがとう、ここまで言ってくれてありがとう、今私はスティムソンに、もっと大々的な反論を書くようにお願いをしている、もうすぐできるはずだ、ということを・・・。この手紙も残っているんですが、書いて、カール・コンプトンに送っています。それが例のスティムソンの47年の2月号に出た有名な論文、「原爆使用の決断」ですね。このスティムソンの論文の後から、原爆投下は戦争終結のためだったという議論が、いわゆる、アメリカの公式見解化していくんです。 |
平岡 |
あ、そうですか・・! |
哲野 |
その時でもですね、せいぜい30万人か50万人。それが100万になっていくのは、トルーマンの回想録ですね。トルーマンの回想録では、はっきり100万人と書いてあるんだけども、トルーマンの回想録がどうやって作られたかという裏話を、ロバート・ファレルという歴史学者が書いてるんだけども、いわゆる会話記録が残っているんですが、歴史学者を3人雇って書かせるわけです、回想録を。口頭でテープを取りながら。で、どれくらい死んだことにしますか?っていうのが、残ってる。 |
平岡 |
(笑う) |
哲野 |
50かな?いやあの時は50といったけれども、ま、100万にしといてもいいんじゃないかという、これはテープ記録で、テキストで残っています・・・。 |
平岡 |
(絶句) |
哲野 |
今私が引用した文書は、ほとんどトルーマン博物館に残っている文書を丁寧に拾っていったものなんですけども、それを読むとほとんどですね、対日戦争終結のためっていうのは46年以降に起こってきた議論で・・・。 |