2010.8.26
第3回 被爆体験の絶対化がもたらす問題
ジャーナリストから広島市長を経て自由人となった平岡敬は、過去を振り返って、ジャーナリスト時代に追求しきれていなかった問題点をいくつか上げている。中でも「被爆体験の絶対化」、「平和運動を見る目の甘さ」の問題は、現在、ジャーナリズムだけの問題ではなく、われわれ市民社会の問題点として大きくクローズアップされてきている。

戦争体験の中で位置づけられていない被爆体験

 哲野 これはたまたまジャーナリズムに関してお書きになったものではあるんですけれども、追求しきれなかった問題点として、ここで6つ挙げられておるのかな?

2005年8月号の「新聞研究」の“核問題とメディア”と題する特集に平岡は「被爆60年とジャーナリズムの責務」と題する論文を寄せている。中で「追求しきれなかった問題点」として次の6点を挙げている。

@ 被爆体験の絶対化 ほかの戦争犠牲者との連帯がなおざりにされた。 
A アジアへの視点の欠落 被爆した韓国・朝鮮人問題を視野に入れなかった。原爆被害者をアジアの人たちの戦争被害とワンセットで考えなかった。 
B 平和運動を見る目の甘さ 組織や運動のありかたに対する批判に遠慮があった。平和運動が単なる美談として紹介された。 
C 固定観念に安住 「被爆者」という言葉を使うことによって上滑りな理解をしていないか。思想的営為を怠り「核兵器廃絶→世界平和確立」という公式論に安住してきた。 
D 政治目的における非人道性 原爆の非人道性は激しく非難するが、政治の非人道性は指弾しなかった。本質的には同じである「ベトナムやイラク」を「ヒロシマ・ナガサキ」につなげなかった。 
E 「核の傘」の問題 「核の傘」に守られながら、核兵器廃絶を訴える矛盾への追及の弱さ。 

平岡 自己批判も込めて。(笑う)
 哲野 これはマスメディアの問題として挙げられて居るんですが、これはむしろ一般的な私たち市民社会の問題にすぐになるんじゃないかと思う。今のお考えをお聞かせいただけたらと思います。その中にはアジアの問題も当然出てくるんですが、被爆体験の絶対化ということをここで言って居られます。被爆者の悲惨、苦しみを理解するということは、援護法成立への道を開いたが、被爆体験の絶対化は他との繋がりを断ち切っていくんだという風なことをここで言って居られます。これをもうちょっと今現在、普遍化してお話いただくというのを・・・。
 平岡
繰り返しになりますけども、沖縄の問題にしろ、東京大空襲の体験にしろ、あるいは引き揚げ者の、満州での塗炭の苦しみを味わったそういう人たち、要するに戦争体験として、きちっと(原爆体験が)位置づけられていないんじゃないか、原爆だけの話になってしまって、原爆以外を語る場所がない。

これはだから、マスコミの話なんですが、私が体験したのでは、8月6日に全部原爆の話になりますね、そのほかの戦争体験者は喋るところがない。

あるところで私が、戦争の色んな被害の話をして、僕自身の体験を交えてですね、引き揚げ体験とか話がいろんな所にいった・・。あの時にお婆さんが、こんな話は初めて聞いた、と。その人は引き揚げ者だったかな?満州の。

それを言う場がなかった、と言って涙流したのを覚えて居るんですよ。それを聞いたときに、「やっぱり広島では被爆体験しか語れない」と。

それ以外の戦争被害、被害でなくてもいいんですが、話が出来ない。それはやっぱりマスコミの責任ではないかな、という思いを込めて書いたんですがね。その他のっていうのは、おそらく・・・自分で書いておるんですが戦争体験ですね、広がっていかない。

それともう一つは被爆者の絶対化というのは、被爆体験以外の悲惨、この地球上に、アフガンにしろ、あちこちに凄い・・・広島の悲惨に匹敵する、或いはそれを乗り越えるかもわからない、特に東ヨーロッパなんかで行われた殺し合いみたいなものは、そういうものへの目をふさいでしまうんですね、絶対化をすると。

それが問題じゃないかな、つまり平和を構築していく場合に、被爆体験だけを絶対化すると、その他のものは見えなくなる。

欠けていた「アジアの視点」

 哲野 これはジャーナリズムに対する批判なんですか、それとも被爆者に対する批判なんですか。
 平岡 ここはね。でもまぁ、絶対化ってことは被爆者批判にもなりますよ。被爆体験絶対化。

これは私だけが言ってるんじゃなくて松元寛さんなんかもね、盛んにそれを言ってましたからね。私は松元寛さんの言う意味と同じかどうかわからんけれども、被爆体験を絶対化してしまうと他の悲惨が目に見えなくなると思う。この世の中に悲惨がたくさんあるんだと。この日本の現代に置いてもある、と。ところが「被爆体験を絶対化」すると、被爆体験に比べたら、「こんなもの問題じゃないよ」という話になるわけでしょう?

松元寛(まつもと ひろし)。広島大学名誉教授。英文学者。専門の英文学の著作以外に「広島長崎修学旅行案内 : 原爆の跡をたずねる」「ヒロシマという思想 :“死なないために”ではなく“生きるために”」「小説家大岡昇平 : 敗戦という十字架を背負って」などの著作がある。2003年6月、78歳で死去。

 哲野 それはいわゆるヒロシマ・ノートで大江が展開しておる理屈ですけども。(笑う)
 平岡 (笑う)
 哲野 この世界の中で、最大の悲惨、と彼は言ってますから。だけど悲惨ていうのは、受けた人間にとってはどんな悲惨も、絶対的悲惨なんですけどね。
平岡 皆、同じなんですよ、うん。この地球上で行われておる、不正だとか不正義だとかが生まれている人間の苦しみについて目がいかなくなるんですよ。だと思うんですよね、僕は。そういう視野を持たなきゃいけない。被爆者の運動自体が。
 哲野 その一番目の問題は、二番目で言われておる、アジアへの視点の欠落とも繋がりますね。
 平岡 今の人は反論するかもわからんけれども、これは、私自身がずっとマスコミの仕事をしてきて、確かにそう言うところがあったと。
哲野 自己批判の意味を込めて、という意味でさっき言われてましたね。
 平岡
ええ。自己批判を込めて。そういう意味ですよね。アジアの視点が、やっぱり欠けてたんじゃないかなという。で、ヒロシマ、ヒロシマと言ってですね、アジア・・・私はたまたま朝鮮人被爆者をやったんですけども、その朝鮮人被爆者だけじゃなくて、中国にしろ、シンガポールにしたってね、ああいう残虐なことをやった、そこにやっぱり広島が絡んでいるわけでしょ。

第5師団っていうのが、行って(侵略行為を)やっているわけですね。そう言うとこへの目配りっていうのがやっぱり無かったな・・。

そこをあまり言うと、さっきの話、繰り返しになりますけど我々の被害を言うエネルギーが無くなる、加害の話ばかりするから。でも、「アジアの視点」というのは加害の話なんですよ。

第5師団。大日本帝国陸軍第5師団は1873年(明治6年)に設置された広島鎮台を母体に1888年(明治21年)5月14日に編成された。島根・広島・山口出身の兵隊で編成され衛戍地を広島とする師団である。北清事変(義和団事件)では義和団鎮圧に出動し、8か国連合軍の中核となった。日露戦争では沙河会戦・奉天会戦に参加し、1911年(明治44年)から2年間、満州駐剳を命ぜられ、1919年(大正8年)にはシベリア出兵に参加する。1937年(昭和12年)日中戦争が勃発すると、7月27日には支那駐屯軍隷下となり華北に出動、8月31日に支那駐屯軍が廃止され北支那方面軍が新設されると北支那方面軍直轄師団となりチャハル作戦・太原攻略戦に参戦した。1938年(昭和13年)3月30日に第2軍に編入され徐州会戦を、同年9月19日には第21軍に編入され華南に転じ広東作戦を戦い、11月29日に第12軍隷下となり華北に戻る。さらに翌1939年(昭和14年)10月16日にはふたたび華南の第21軍隷下となり、1940年(昭和15年)2月9日第21軍廃止後新設された第22軍に編入され、北部仏印進駐を担当した。1941年(昭和16年)11月6日山下奉文中将率いる第25軍に編入南方作戦に投入された。そして、12月8日の開戦とともに英領マレーに向けタイ領のシンゴラとバタニから上陸し、翌1942年(昭和17年)1月11日にはクアラルンプールを占領、さらにシンガポール攻略の主力となった。平時兵力約25,000名。(以上日本語Wikipedia「第5師団」による。)

 平岡 だから加害のことも考えなきゃいけなかったのに、してなかった。70年代後半くらいから加害のこともずっと言うようになりましたけどね。それまでは全く被害だけで。それはしょうがないと思う、僕は。

時代的制約があって原爆の悲惨が知られていない時には、その悲惨さを訴えていくことがマスメディアのひとつの使命であったと。それによって医療法が出来・・・最後には被爆者援護法に行くんですけど、医療法が出来た、被爆者が少しでも救われるようになった。

だけど、一方でよく考えてみたら、アジアに対して自分達の被害を訴えるばっかりで「アジアの視点」が無かったな、という思いがするわけですね。 

基本的にある「アジアへの蔑視」

 哲野 これはジャーナリズムに対する批判の文章ではあるんだけれども。
平岡 それは同時に被爆者運動にもあてはまりますよ。
 哲野 これはさっき、孫さんだとか、郭貴勲さんに対する支援を、僕は形式論理だと思うけれども、形式論理で断ってきた日本の被爆者の姿勢とも関わってますよね。言い過ぎですかね。

(「第2回 韓国人(朝鮮人)被爆者問題と歴史に対する責任」参照の事。)
平岡 いや、言い過ぎじゃないですよ。

基本的にですね、僕は日本人の頭の中に、アジアへの蔑視というものがあると思うんです。特に韓国に対して、朝鮮人に対して、のね。差別観というか、凄くあると思うんですよ。今の若い人には僕は無くなってきたと思いますよ。サッカーの「日韓ワールドカップ共催」くらいからですかね、韓流、韓流と言ってね、若い人はそんなに差別感もないかもわからんけれども、少なくとも戦前の人間、戦後しばらくの教育を受けた日本人の間には、やっぱりあるんです、それは。   

根底にそうした朝鮮人に対する差別意識というのがあって、まだいまだにあると思いますよ。
 哲野 あるいは日本政府が被爆者に援護するに際して、自分の被爆以外の問題について発言するな、と言う指導をしているような形跡はありますでしょうか?
 平岡 誰に対して?
 哲野 被爆者団体に対して。
 平岡 被爆者団体。いや、それは・・・わかりませんね。
哲野 たまたま僕はこの土日に「平和学会」ってとこに勉強しにいって、長崎で被爆者の漫画を描いて居られる、漫画家の方から話を聞いたんですが・・・。その漫画家の方は長崎の被爆証言者の人たちに非常に詳しいんですが、やっぱり長崎市ですら、証言をする人にあまり政治的な話をしないように、あまりアメリカを非難すると受け取られるような話をしないようにと、一応ガイドラインはある、という話でした。
 平岡 今ですか。
哲野 今。
 平岡 ほぉ・・。うーん。
 哲野 長崎で、2年ほどやっぱり問題になりましたね。行政の側からそういうお達しが降りて、それを被爆者団体がクレームを付けたことがある。 
平岡 戦後すぐならわからんことないですね。占領中ならね。

だけど、一般論だけど、ひょっとしたらあるかもわからんね。例えば反政府的な、反体制的な動きをするなと、いうようなことは、僕はあると思うんです。

つまりこれは、自民党という大きな政党、自民党体制の中で、医療法なり援護法が出来て、それの恩恵を受けてるんじゃないか。だからあまりその政府を刺激するようなことを言って、これからの陳情活動なり、なんなりに支障があってはいかんぞと、役人だったら考えるかもわからんね。
哲野 広島の場合は、むしろ自己規制が被爆者の間にあるというような気がするんですけれども。証拠はないんですが。
 平岡 (笑う)自己規制っていうのはわからんですよ(笑う) 
 哲野 わからない。一番タチが悪い(笑う) 
 平岡 僕はあるような気がするなぁ、状況として日本に。僕だってありますよ。自己規制っていうのはね。モノ書く前に、多かれ少なかれ。もっとこれは良い具合に書いておこうとか。 
 哲野 だから僕はある研究者の方に、「じゃ、もしそうだとしたら、被爆者援護法っていうのは口止め料じゃないか?」っていう風に言って、ひどく叱られたことがある。 
 平岡 口止め料って・・うーん。それは別として、なんとなしに・・・どういえばいいんかねえ、誤魔化し、誤魔化し来とるわけですよね。最初から国家の責任において、あなた方に申し訳ないことしたんだと言うのがあればいいですけどね。ないですよ、そりゃ。小出し小出しに言われて出すんでしょ。

だから言わなきゃ損だというのもあるし。そりゃ違うだろうと。本来ならアメリカに言うべき事なんですよ。原因者のね。

それをサンフランシスコ講和条約で全部(請求権)放棄しちゃったから、(日本国家が)自分たちがやらなきゃいけない。

被爆者側の論理というのは、あの当時はですね、とにかく賠償を取ると。そしたら、やっぱり、戦争をしたら大変な損なんだ、国家にとって。だからそれは戦争を防ぐ手の一つでもあるという理屈だったんですよ。

徹底的に賠償を取るという運動をやっていこうという。それは一つの理屈でもある。 

被爆者団体のわがまま

 哲野 次の論点です。「平和運動を見る眼の甘さ」、これはもちろんジャーナリズムに対する批判として言っておられるんですが、ここで書いておられることは、原水禁分裂、衰退化と共に、平和運動の形骸化が進んだが、被爆者が絡む運動であるだけに、組織の運動のあり方に遠慮があった。「原水禁運動」は「善なる運動」という前提があり、記者の眼に甘さがあった、と言う風に書いて居られるんです。確か2005年の「新聞研究」に書かれておられることで、今このお考えにそう大きくは・・・。
 平岡 変わりはないですね。
 哲野 ちょっとここをもう少し普遍化して、平和運動を見る眼の甘さ、という点で言われると・・・。
 平岡 あのね、これは私の体験から言いますと、私市長の時ですけど。小渕(小渕恵三)の前は誰だったかね?橋本龍太郎?
 哲野 橋龍ですよね。
 平岡 橋龍?
 哲野 うん。だと思う。小渕の前。
 平岡 それで小渕が死んでから森(森喜朗)になったんかな。
 哲野 そうです。それで沖縄のサミットを彼が肩代わりしたんだったと思います。
 平岡
毎年、内閣総理大臣が8月6日に(広島に)来ますね。その後陳情というか、要望する場を設けるんですよ。これは広島市が、総理官邸に行って、時間があれば、是非被爆者の声を聞いてあげてください、とセットするわけですね。毎年。

橋龍の時かな。橋龍の時に突然、被爆者団体が、「あんなものは形骸化してるから出ない」と言ってきたわけです。僕はちょっと怒ってね。こっちも一生懸命、総理官邸に行ってお願いをして、一応やる、と決まった。いいかどうかはわからんけれど、しかし、公の場で、しかも新聞記者が居るところで、自分たちの声を、要望を言うというのは、大事な事なんだから。 
 哲野 政治的意味はありますよね。 
 平岡 やるべきじゃないか、と。そしたらやらん、と言うわけですよね。で、結局「そうか」とパーにしたんですよ。その年は。

その翌年、こんどやるっていうんですよね。小渕になったら。「理由は?」って聞いたら、あのおっさんはよさそうだからって。僕は頭に来てね。何を言うとるんかと。 
 哲野 ハハハハハ。(大笑い) 
 平岡 自民党よ、歴代。顔で・・・(笑いながら)、人が良さそうだとか悪そうだとか、そんなこと・・何を言うとるんかって、僕は怒ったんです。それは。 
 哲野 うんうん。 
 平岡 そしてね、(その年は、被爆者代表と総理の対面を)やるわけです。

そのことについて僕はマスコミにね、批判しろ、と。我が儘もいいところだ、と。(総理会見を)やめるのはやめてもいいんです、こんなものはね。でも又やるっていうんです。やる理由がね、今度の首相は人が良さそうだからとか、こういう事について、やはり批判をするべきだろう、と言うわけですよね。 
 哲野 まぁ、「バカ殿様」化したわけですね。 
 平岡 (笑う)で、(マスコミが批判)しないんですよ、これが。僕はちょっと、記者クラブに言ったんだけどね。どう思うかと、こういうのを。全然答えがない。私たちはあることを書くだけです、という。批判しない。
 哲野 自民党政権とは言いながら、一国の総理に対する敬意はやっぱり持たなきゃいけませんね。 
 平岡 (笑う)いや、ま、そりゃいい。だけどやっぱり、言うべき事はね、言わなきゃいけないよ、と。

僕はその時に、橋龍の、あの顔が気にいらんからと、言ってる事が気にいらん、と言ったかなぁ。「物申す会はやらない」、という。

それはあんた、少なくとも組織の代表だろうと。組織の代表は、どんなにイヤな奴とでも言うべき事は言わなきゃいけないんだよと。社長の顔が気に入らないからと組合の要求を言わないって、そんなバカなことはないじゃないか・・・。だから、それは会って言うべきだよと言ったら、いや、「もうやらんのだ」、と。

それで市の職員が、総理官邸に断りに行ってね、それはやっぱり・・・、誠に申し訳ない話ですからね。で、それでずっとやめればよかったんだけどね、次の年にまたやるって言う・・・。 
 哲野 今度は良さそうだから? 
 平岡
(笑いながら)理由がそれだからね。そういうレベルの話でしょ、運動が。ああ、こりゃ駄目だなと思った。ま、これは一つの例ですよ。どういうかなぁ・・・理念・・或いは組織を動かしていくというような目標がなんにもない。そういう、まさしくあるとすれば・・・僕はないと思ってるんだけどね。でも、一応7団体と言っておるんだから。  

被爆者7団体は、通常次の7団体を指す。
財団法人広島原爆被爆者協議会、広島県原爆被害者団体協議会、韓国原爆被害者対策特別委員会、広島県朝鮮人被爆者協議会、広島県原爆被害者団体協議会(前掲とは同名別組織)、広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、広島被爆者団体連絡会議。


子供に説明できない分裂状況


 哲野 或る意味目的を達してしまったんで、被爆者援護法でお金を手に入れたから。
 平岡
うーん、だけど、お金ならもっともっと取らなきゃいけないんで。

今、被爆者団体に、このままでは、存在理由が無いんでしょう。

つまりお金を取るということではなくて、彼等は核兵器廃絶を言っているけれど、じゃその為に何をやるかというか、被爆者がどういう役割を果たせるのかということについてね、あまり考えていない。

僕はずっと言っていたのは、子供に説明が出来ないんだと、あなた方が7つに別れているということについてね。韓国と北朝鮮が別の組織であると、僕は、これはわかるし、説明もつく。

だけど日本人の組織が、社会党だ、共産党だって言ったってね・・高校生が来て、どうして別れているのかと、質問受けるんですよ、しょっちゅう。「いや、色々事情があってね」というんだけど。

みんなに説明が出来ないことがあったら、平和は前進するわけはないじゃないかと言うんです。

これについて彼らは、説明出来ないんです。「あの時のことは、平岡さんならわかるでしょ、あの時のこと・・・」っていうんです。

それを乗り越えて、あんたら平和を言ってるんだから。一緒になったらどうですか、と。機会があると言うんだけどね。特に市長の時にはよくそう言っていた・・・。
 哲野 それは要するに、批判に晒されない組織は堕落してくということで、一般論で言っていいんではないでしょうか。私は事情を全く知らないんですけれど。
 平岡 まぁ一般の、そうでしょうね。批判されないでしょ。そのことについて誰も批判しない。マスコミだって。すぐ坪井なにがしの話を聞いたり、金子なにがしの話を聞いて、書いて居るだけだ。だけどもっと根源にあるものをね、やっぱりやんなきゃいけないんじゃないかなという気がするんですけどね。

前出の7団体のうち、同名の「広島県原爆被害者団体協議会」、いわゆる広島県被団協が2つ出てくるが、一方の理事長が坪井直で、もう一方の理事長が金子一士。

もう(原爆投下から)65年もやってきたら、やっぱり今の子供達なんて、全然、分裂のいきさつを知らないし、今の若い記者も知らない。「いかなる国問題」だって全然わからない。

その時の(分裂両者の)憎しみというか、それは凄かったから、ずっと引きずっている、というよりも結局はイデオロギーの対立でしょう、基本的には。

「平和の理論」というのが当時から一歩も前進してないというかね。

だから、後は惰性で原水爆禁止世界大会を開き、毎年やってはいるけれども、そこの中で果たすべき、ホント言えば被爆者の役割がある筈なんだ。

(分裂後も)片方は政治の、政党の論理で動いて世界大会を開く。その中で被爆体験を語るだけでね。ホントは被爆者団体として言うべきことがあるはずだという気がするんだけどなぁ。
  「いかなる国問題」。戦後初めての国民的平和運動としての「原水爆禁止運動」は、1961年ソ連が、アメリカ・アイゼンハワー政権との「核実験停止協定」を破る形で核実験に踏み切った時に、一つの危機を迎える。すなわち「いかなる国」の核実験にも反対すべきだ、と主張する社会党・総評系グループと、「ソ連のような平和国家の核実験と侵略国家アメリカの核実験を同列に論じることはできない」とする共産党系グループが対立する。この対立が大きな伏線となって1963年部分的核実験禁止条約に対する対応を巡って、第9回原水爆禁止世界大会は暗礁に乗り上げ、主催団体である原水爆禁止日本協議会は分裂する。ここで簡単な解説が出来ないほど複雑な事情があったらしい。私は何もわからないが、「原水爆禁止運動の分裂をめぐって−安部一成の平和運動論」(藤原修)<http://www.tku.ac.jp/~koho/kiyou/contents/law/19/Fujiwara.pdf>あたりに魅力を感じている。この問題をめぐって最初はジャーナリストとして、後には広島市長として関わり、ある意味消息通の平岡は「結局、イデオロギーの対立だ」とバッサリ切り捨てている。 


「被爆者」は言いたいことを言っていない

 哲野 さっきの話の続きになるんですが、平和学会で出会った長崎の漫画家の方のお話をしましたよね。私が、またたまたまNPT再検討会議のNGOセッションでの日本被団協代表の谷口稜曄(すみてる)さんの演説を批判したんです。「折角発言のチャンスを貰ったのに、被爆体験しか話をしない。もっと語るべき内容はないのか」と。

するとその方がキッとした表情になって、「それは失礼な言い方だと思います。NPTで被爆者が被爆体験を語るのは当然の事だと思います。」「被爆体験を語らなければ核兵器は廃絶できない」、という話になったものですから、ちょっと拙いなと思って。そしたら、彼女(傍らにいる網野沙羅を指さして)が口を出したわけですよ。で、僕が言わんとすることを彼女(網野)なりに表現したのが、「核兵器廃絶を訴えて来てると被爆者の人たちは言うけれども、折角谷口さんはNGOセッションで発言のチャンスを与えられながら、核兵器廃絶を訴えてないじゃないか。」、そしたら漫画家の方が「いや、そんなことはない、核兵器廃絶を言っている」と言う。実際にそうなんです。谷口さんは「核兵器廃絶」を言ってるんです、演説の中で。しかしあくまで一般論で、それだったらアメリカだって言っている。

で、網野が・・・。キミ、なんていったんだっけ?
 網野 あの時に印象に残っているのは・・・、「谷口さんは、自分の言いたいことを言ってないじゃないか、と。日本政府に、わしらがいくら言っても三原則を法律に作ろうといっても、何にもしてくれやせんじゃないかっていう風に、自分の言いたいことを、被爆者として言えることを言った方が、どれだけ核兵器廃絶に向かって、頑張っている人たちの力になったか」みたいなことを言ったら、その時に彼女が、「あ、そうか、そう言うことも言えたんだ」という形で、うんうんとうなずいて呉れたことは良く覚えている。 
 哲野 NPT会議のNGOセッションで発言の機会を与えられているっていうのはそう言うことだからね。
網野 「この人はなんだ、被爆者の、死にそうな身体を引きずってニューヨークまで行ってるのに、批判するのは失礼じゃないか」って、そこから話が入っていっちゃったもんですから・・・。
 平岡 ふーん。(面白そうに話を聞いている。インタビューだかなんだかわからなくなってきた・・・。)
 網野 まず、被爆者をちょっとでも否定するような事になったら、カッとなっちゃう。広島でもそうですけど・・・。 
平岡 そりゃ被爆者絶対化というかなぁ・・。
 哲野 その方は、相対化というか、ちょっとゆとりがあって、僕らの話をいろんな方向から受け止めてくれて、視野が広いというか、最終的には喧嘩別れにはならなかった。
 平岡 あ、そう。漫画家?
 哲野 漫画家。
 平岡 作品は、なんか・・・。 
 網野 長崎の被爆体験を、現在の子供達がどう受け継いでいったらいいかという視点から漫画を描かれてそれを出版されたんです。 
 哲野 被爆者から話を聞いて、僕らだったら文章にするところを、彼女は漫画家だから漫画で表現したという言い方の方がいいんだと思いますけれども。 
 平岡 体験の継承って、僕にはよくわからんのだけどね。 
 哲野 彼女が目指しているのは体験の継承ではなくて、被爆者の話から自分が受けた感情だとか思いを漫画にしているということだと思います。むしろこちらの方が良く伝わるかもしれない。継承という、一種の形式化よりも。 
 平岡
結局ね、被爆者絶対化をやるとね、伝わらないんですよ。

もういっぺん自分が被爆しない限り、駄目なんよね、と云う話になる。

僕も被爆者の体験を人に伝えようとして一生懸命話を聞いて、一生懸命書いた。だけど被爆者からすると、「あんたがたにはなんぼ言ってもわらかん」、と。「もう一回、原爆が落ちたらようわかる」と。そう言ってしまうような、状況っていうのが生まれてくるわけ、突き詰めていくとね。

だから僕はもう駄目だなぁと、自分の筆力の拙さを含めてよ。とても伝わらんと。これは。

イーザリーとティベッツ

 哲野 広島に原爆を落とした例のミッション13でしたかね。エノラゲイのチーム。そのなかで、2時間くらい前に気象偵察をやったイーザリーが、原爆を落としたことに非常に良心のとがめを感じて・・・。なんだっけ?本の名前は。ドイツの哲学者と一緒につくった本の名前は。
 平岡 「わが罪と罰」
 哲野 ああ。
 平岡 「ヒロシマ わが罪と罰」か。
 哲野 ああ、クロード・ロバート・イーザリーのね。
 平岡 そのイーザリーを、ポール・ティベッツ・ジュニアは批判してるんですよね。で、その批判は、何を良心の呵責を感じるんだと、お前は。原爆が落ちたときにお前はそこに居なかったじゃないか、キノコ雲をみてないじゃないか、というのが批判のポイントで。そりゃそうなんですよ。イーザリーは偵察隊で、原爆を落としたときは、テニアンに帰る途中だったわけですから。

イーザリーは、確かにキノコ雲はみなかった。ティベッツはキノコ雲は見たかもしらんが、キノコ雲の下は見ることが出来なかった。キノコ雲の下を見なければ、良心の呵責は感じないのか。

要はここまで来たらですね、自分が関わった歴史や事件に対する、自分の想像力の問題ではないでしょうかね。

だからキノコ雲を見なかったイーザリーは、キノコ雲の下を理解したが、キノコ雲を見たティベッツ・ジュニアはキノコ雲の下を想像しなかった、ということになる・・・。

直接体験しなければとわからないという理屈は、これは、僕はちょっと違うんじゃないかなと思うんですけど。すいません。何の話でしたっけ?

再び被爆体験絶対化問題

 平岡 だから、ジャーナリズムの、被爆者を見る目の甘さの話ですよ。これは僕の反省の上に立って言っているんだけどね。

平和運動の中に被爆者運動も入ってるんだけども、要するに被爆者っていうものに対して、遠慮があるわけでしょ。非被爆者は。だから彼等の言ったことに対して批判もしないし、特に若い記者の場合はもう絶対視してるというような気がするんだけどね。だからそれを甘いという表現にしたんだけども。
哲野 なるほどなるほど。
 平岡 ホント言えば、全て取材対象に対しては、きちっと批判の眼をもたなきゃいけないんだけども、被爆者ってだけで批判の眼が曇りがちであると。遠慮があるんですね。
哲野 その遠慮ってどこからでてきてるんでしょう。いつ頃からの話でしょうか。
 平岡 大江以来ですよ。(笑う)「ヒロシマ・ノート」以来じゃない?(笑う)
哲野 やっぱりそうですか(笑う)
 平岡 僕はそうだと思うね。
哲野 やっぱり大江健三郎が神棚にあげちゃった?
 平岡 うーんと、だいたい、若い人がアレを読んで、広島に入るわけですよ。最近は知りませんよ。昔は。私が現役の頃は、遠くから来る連中はみんな「ヒロシマ・ノート」を持ってたんです。
哲野 インターネットを読む限り、そうです。いまでもそう。あがめ奉ってますね。
 平岡 そう?みんなあれを読んで広島に入って、まぁあれは広島入門書ですよね。そうすると被爆者の言うことを畏れる。みな。それを批判的に・・あまり見てないね。例えば色んな証言があるじゃない。嘘がいっぱいある。これはやむを得ないんですよ。記憶の変形もあるし、まぁ後から聞いた話が付け加わったりね。本人は一生懸命、喋ってるけど。僕はもう、だいぶ見つけたですよ、それをね。公刊されたもんで。おかしいな、これは・・・。
哲野 辻褄が合わない?
 平岡 合わない。違うじゃないか、被爆場所が違うっていうのは、これはおかしい。(笑う)そういうのがあるわけよね。
 哲野 それは嘘というとちょっと気の毒だけども・・・
 平岡 まぁ、被爆したのは事実だろうから、少々の事はいいと。だけど僕は、新聞記者しとって、ああいうのは気になる訳よ。 
哲野 うん、そりゃそうです。
 平岡 特別正確にね被爆者の話を検証すると、そんな大事なことが、なんであんな基本的なことが、その本の中で変わってるか、それはおかしいじゃないか、というのが一つある。

もう一つは完全にインチキな証言というのがある。僕は騙されたから、一回。韓国で。

韓国の権威ある新聞社が出している総合雑誌があったんですが、日本で言えば「中央公論」か、「世界」とは言わないけども、「中公」くらいのもんですね。その雑誌に被爆者が手記を書いている。これが創作だったんですよ。僕はそれを知らないもんだから、一生懸命丸写ししてね。それが嘘だった。書いた本人が死んでから、平岡さんあれはね、実は創作なんですよ、とある人が教えてくれた。(笑う)
 哲野 それはもう、意図的なもの?いわゆる記憶違いとか思い違いとかではなく? 
 平岡 いえ、もう朝鮮独立運動の話をやってるわけ。その人は広島の三菱重工に動員されていて、小銃をね、油紙に包んで、あの河原に埋めたとかね。

僕は、それはおかしいなと思ったの。その当時小銃がどうやって手にはいるかと。それと油紙に包んだんなら、必ず水に当たって、サビが出て来るんだけど。この人は朝鮮独立運動をやっていて、広島で被爆したと、こういう話にしているんですよね。そういうのがまぁ、出てくる。

もう一件ある。これも韓国。これもインチキだったとかね。これはやっぱりもう、ジャーナリズムに要求されて、それに迎合して書いていくっていうのあるわね。日本だってあり得るわけで。

だからって、そういうことにけちを付けて、被爆の事実を軽んじる、あるいは否定をしてしまうというのは、これは間違いだからね。

色々あるけれども、基本的にはやっぱり人間が原爆を受けたっていうのはきちっと抑えた上での話ですからね。誤解されると困るが。しかしほっておくと、ちょっと誤解を受ける可能性がありますね。

でも誰にでも記憶の変形っていうのはありますよ。  

 (以下次回)