哲野 |
もう一つ。本島等。「広島よ おごるなかれ」。これについては、今日のお話の中と関係があるんですが、あの・・・。 |
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平岡 |
本島さんとはあんまり、いい仲じゃなかったもんだからね。あれは市長を辞めてから書かれたんかなぁ。 |
哲野 |
辞めてお書きになってます。
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平岡 |
僕はちょっと、反論したような気がするんですよ、これにはね。まだ市長だったかな。というのは、彼はアジアに対して謝れって言ってるんでしょ?そうじゃなかったかしら。 |
哲野 |
いや、えーと・・謝れと言ってますね。うん、言ってます。
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『アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国の間には共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省とがあれば、(原爆ドームの)「世界遺産登録はなかったと思う。』(同)
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平岡 |
確か、原爆ドームが世界遺産化されたことについて、一種の“ねたみ”みたいなものがあってね。 |
哲野 |
そういうのあるんですか。 |
平岡 |
あります。彼は凄かったですよ。いつも僕と一緒に行動してましたから。彼は政治家では、先輩ですよね。まぁ、私は後から市長になったから。
そうは言いながらも、広島が「先」なんですよ。「ヒロシマ・ナガサキ」、8月6日と9日だと、僕は言って。そうするとね、彼はやっぱりもの凄くそういうことになると抵抗して。
アジアに謝れって彼はいう。いや、僕だって、平和宣言で謝っているよ、と言ったんだ。 |
哲野 |
なるほど。いや、なかなか、僕は・・・うーん、なるほど。 |
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平岡 |
いや、違う評価があるかもわからん。 |
哲野 |
僕は、彼の立論の中で、一番採ったのは、アジアと和解をしないと駄目だ、だけど和解をする為には、日本は詫びないといけない、ここだけは・・・。 |
平岡 |
アジアに詫びないといけない。それは僕も当然そう思うね。アメリカもそうだと、ね。 |
哲野 |
アメリカもそうですね。 |
平岡 |
悪いことしたときは謝れ。そしたら和解が始まるという。
で、ヒロシマはそれを言わずに、和解と寛容と言っちゃったでしょ、10年前。平和宣言でね。あれから僕はちょっとおかしいなと思って。
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『朝鮮半島における南北首脳会談で両国の首脳が劇的に示してくれたのは、人間的な「和解」の姿です。私たちは、20世紀の初め日米友好の象徴として交換されたサクラとハナミズキの故事に倣(なら)い、日米市民の協力の下、広島にすべての「和解」の象徴としてハナミズキの並木を作りたいと考えています。国際的な場面においても広島は、対立や敵対関係を超える「和解」を創り出す、調停役としての役割が果せる都市に成長したいと思います。』(秋葉忠利、2000年「8・6平和宣言」より))
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哲野 |
さっき2010年NPT再検討会議・NGOセッションでの秋葉さんの演説を引用しましたね。あの中でも云っているんです。
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一つの厳粛なる事実は、私たちすべて、市長や市民すべてが「二度と再び起こってはならない」という結論に、一致して達していると云うことであります。
被爆者の言葉に、“私たちが経験した苦しみは他の誰も味わってはならない”。
どうか、“誰も”という表現は文字通り、私たちが敵だと見なしている人々も含んで“すべての人が”という意味なんだ、ということを特筆しておいてください。
それが和解の精神(the spirit of reconciliation)であり、報復を為さない精神であります。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>) |
僕なんか、これを読んでおかしいと思うわけですよ。「二度と起こってはならない」といいながら、われわれは二度と起こらない保証はまだ手に入れていない。現実に核兵器は実戦配備されて、「核兵器の威嚇」と言う形で使用されている。最後の核兵器がこの世からなくなるまで、「二度と起こらない保証」はないわけでしょ。
アメリカの政治責任を問い、その謝罪を求め、原因をただして、二度と起こらない政治的保証を追求することが、今とても重要だと思うんですよ。ところが秋葉においては、その行為は、「報復」という極めて低次元な言葉に置きかえられている・・・。
この人、なにかおかしいな、と思うわけですよ、僕なんか。 |
平岡 |
やっぱり「ヒロシマの思い」というのは、「あれは間違っていた」「悪かった」の一言が欲しいという思いだと思う。また、そのことによって、僕は死者が浮かばれると思うんです。 |
哲野 |
アメリカの政治責任を追及しないことが、「和解」だとは思わない・・・。 |
平岡 |
そういう論調に、被爆者団体が乗っちゃってるからね、今。
ホントは違うよと、私はこんなに思いがあるんだ、謝って欲しいんだ、ということをね、ホントは言うべきだと思う。
で、原爆の死者に代わってというのはね、ウーン、僕はやっぱり・・・言ったことがあるんですよ、実は。「原爆でなくなった方々に代わって」と言ったことがある。
これはもの凄い、千載の痛恨事ですよ、僕にとって。 |
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死者に代わることができる筈ないじゃないか。死者は、何思って死んでいったか。もう恨みつらみかもわからないし、悔しい、とかですね。それは死んだ人じゃないとわからない・・・。
それを、つい言葉の弾みで死者に代わって、なんか言っちゃたんだ。
死者に代わっていうとすれば、あれは(原爆投下は)やっぱり間違いだった、悪かった、心から謝る、という、それしかないなと、今、思う。 |