哲野 |
この「炎の系譜」の中で、何を表現しようとしていたのか、それを今平岡さんはどう評価してどういう風に記事を今振り返って考えられるか、というこの2点をちょっとお訊ねしておきたいなと思って。 |
平岡 |
原爆の焼け跡から20年経った間の市民の生き様、生き方、それを記録しておこうじゃないかという思いでやったんです。だから色んな角度から迫っているわけですが、ただ新聞連載ですから、学術本と違って非常に上滑りなところがあるんです。
どうしてもね。表現が一般読者向けですから。硬い表現ができないという、やや表現スタイル自体に不満なところもあるんですけど、とにかくまとめておこうという思いで・・・。
|
|
|
被爆20周年ですから、1965年(昭和40年)ですね。
それまで、広島の中国新聞が原爆についてきちっとやってきたかというと必ずしもそうではない。戦後、一つはアメリカの占領下という問題があった。
それでは、占領後、つまり1952年(昭和27年)独立して、自由に原爆問題について報道していったかというと、そうではなかった。我々の問題意識自体がですね、原爆に対してきちっとした、今のような問題意識をもってなかったという気がしますね。 |
哲野 |
それは原爆報道に自主規制があったか、なかった以前の問題? |
平岡 |
それ以前の問題。それまでわれわれ自体が原爆、あるいは核兵器に対しての認識がどうも充分ではなかった、と。これは新聞記者だけじゃなくて世間一般ですね。当時「原爆の子」という本がでましたね。
あれを編集した広島大学の長田新(おさだ あらた)さん、学長をやった人です。長田さんが原爆のことを書いているのに、当時広島市民は原爆を天災だと思っていた。そう受け止めていた、やむを得ないというかね、天から核兵器が落ちてきた。そういう受け止め方をしていたんだけど、長田さんはそうじゃないよ、という。これは戦争ということから起こってきたんだ、ということを長田さんは書いています。同時に核の平和利用ということについても大変明るい展望を持っているわけです、彼は。
|
長田新。広島高等師範学校、京都帝国大学文学部卒業。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。敗戦直後の1945年12月には学長に就任して広島文理大の再建にあたり、その後学制改革により新制広島大学が設置されると1953年の退官まで同大学の教授を務めた。1947年(昭和22年)には日本教育学会初代会長に就任した。また「日本子どもを守る会」を結成しその初代会長を務めるなど戦後の日本の教育再建の立役者の一人となった。自らの被爆経験から原爆反対などの平和運動にも積極的に参加し、原爆を体験した少年少女たちの手記を集め『原爆の子−広島の少年少女のうったえ』として岩波書店から刊行した。同書はその後世界十数ヶ国語に翻訳され、また1952年には新藤兼人監督=近代映画協会により乙羽信子主演で「原爆の子」として映画化されるなど大きな社会的反響を呼び、平和教育のバイブルと称された。以上は日本語Wikipedia「長田新」の丸写しである。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%96%B0>。 |
|
哲野 |
「原子力エネルギー」を肯定的に評価する、というのは、その当時の風潮でもあったわけですね。
|
またバニーバー・ブッシュが大統領トルーマンに提出した論文「科学、その限りなきフロンティア」などの例に見られるように、原子力エネルギーが人類の未来を切りひらいていく、という思想は、当時アメリカが創り出したプロパガンダでもあった。 |
|
平岡 |
戦争はいかんけれども、核の平和利用っていうのは人類の未来にとって、広島市にとっても大変いいことなんだという考え方が、後にあちこちで出てきます。特に知識人の書いたものの中に。そういう風潮の中で、日本が独立して、ようやく被爆者の被害がわっと出てくるわけです。それを最初にやってるのは、朝日新聞なんですよ。1952年の8月6日のアサヒグラフです。
私ももちろん今持ってますけどね。貴重なものですよ。特集で広島の悲劇を、つまり人体への被害を報道したんです。それまで原爆の人体の被害って言うのは、広島以外の人は目にすることなかったですね。ただ、私は知ってますよ、広島の人間はね、知ってるけれども、日本人の大多数は、原爆の被害を目にすることはなかった。
原爆の人体に対する被害を伝えた「アサヒグラフ」が全国で70万部売れたそうですけどね。凄い反響ですね。そういう反響に対して地元の中国新聞がどうやったかというと、必ずしも問題意識を持って、これは大変なことだと、キャンペーンをやった形跡がないんです。
毎年巡り来る8月6日には、あの日はどうだったという記録はない・・・これは新聞を見れば解りますけどね。
そこには「核兵器と現代」、あるいは「核兵器と世界」とか、そういう問題意識はまだ無かったと思います。時代的な制約があってやむを得なかったとは思いますけどね。
新聞記者の不勉強を責める前に、核に対する知識が充分に与えられていなかった。
その核の被害の人体に対する放射線の影響というのが顕著になってくるのが昭和30年ですよ。丁度10年くらい経ってから白血病だとかが出てくるわけですね。広島のお医者さんが見るに見かねて自分たちで治療していくんだけれども、これはやっぱり自分たちの手に負えない、国家的な救済が要るんだということで、一生懸命医療法の制定運動を始めるわけです。もちろんこれは行政や市義会議員も一緒になってやりましたけれど、中心はお医者さんです。
結局、昭和31年だったと思いますが、まがりなりにも原爆医療法が出来るわけです。その後はその医療法の充実、拡大というのが被爆者の中心課題になってくるわけですが、そういう動きがあったときに報道がきちっとそれに応えていたかどうかと言うと、そこには疑問を感じざるをえませんね。 |
|
|