2010.8.18
平岡 敬 (ひらおか たかし) 略歴 


  1927年(昭和2年)大阪生まれ。敗戦まで韓国・ソウルで育ち少年期・青年前期を過ごす。旧制広島高等学校を経て早稲田大学第一文学部を卒業。広島地元の中国新聞に入社。比較的早い時期に「朝鮮人被爆者」をテーマに取材執筆活動を開始。このことは平岡敬のその後の思想形成に大きな影響を与えたと見られる。1977月8月には、『韓国の原爆被爆者は1万5000人とも2万人ともいわれているが、それはあくまで推定の数字でしかない。これまで正確な調査が行われたことは一度もないからだ。広島・長崎で被爆した朝鮮人が韓国に多数いるということが一般に知られるようになったのは戦後20年も経ってからである。「唯一の被爆国」の名のもとに、日本人は朝鮮人が被爆した事実に目をつむり、その意味を考えようともしなかった。』(平岡敬著「無援の海峡」p11) と書いている。
 
photo by sarah amino

 中国新聞では常務取締役編集局長を経て、その後関連会社の中国放送(RCC)に転出、代表取締役社長を務めている。1991年(平成3年)2月の広島市長選挙に立候補、当選。第31代広島市長に就任。その後1995年に再選を果たし第32代広島市長となった。広島市長時代、1994年にはアジア大会が広島で開かれているが、そのアジア大会を前にした同年8月6日の平和祈念式典では、『10月の第12回アジア競技大会に参加するある国は、原子爆弾の惨禍を乗り越えて大会開催を実現した今日の広島を、平和への大いなる希望の象徴である、と表現した。私たちは、この言葉を誇りと自信を持って受け止めたい。無論、アジア諸国との戦争や植民地支配の歴史を常に心に刻むべきであることは言うまでもない。』(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/1994_0806_hiraoka.htm>)とその平和宣言の中で述べた。また市長在任中は、原爆ドームの世界遺産化に力を注いだ。被爆地としての平和行政としては海外での原爆展開催に尽力し、国際平和会議などにも積極的に参加した。1997年(平成9年)の8月6日平和祈念式典では、『現在、広島で開催中の第4回世界平和連帯都市市長会議では、「核兵器なき世界」を目指して、核兵器使用禁止条約の締結、非核地帯の拡大を各国政府、国際機関に求める討議を進めている。広島は日本政府に対して「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する。』と述べ、広島を代表して、「核の傘」(アメリカによる核拡大抑止力)からの離脱を求めた。また広島市立大学広島平和研究所を設立した。

 1999年、2期8年の広島市長退任後は、「中国・地域づくり交流会」の会長を務める傍ら、「平和問題」「核兵器廃絶問題」などに関する講演を行うと共に積極的に市民との討論・対話に力を注いでいる。私はインタビューを通じて平岡敬が根っからの「たくましき民主主義者」であることを発見した。

著書:「偏見と差別」 未来社 1972年8月6日 第1刷
   「無援の海峡」 影書房 1983年12月8日 第1刷
   「希望のヒロシマ」 岩波新書 1996年7月22日 第1刷