(2011.1.26)
No.018

長崎から学ぶもの


 2011年1月の初旬、私はある用事があって長崎に行った。用事に関連したある人が「すみません、明日は(長崎)平和公園で座り込みがありますので、1時間ほどそちらへ参ります。」というので、その日1月9日(日曜日)、私と網野は仕方なくその人にくっついて長崎平和公園・平和祈念像前の座り込みの現場に行った。

 photo by sarah amino

 もともと私は「座り込み」とか「抗議電報」とかといった自己完結的・自己満足的(時と場合によれば自己陶酔的)な運動の形態が嫌いである。性に合わない。

 座り込みが始まるともなく始まると、私と人相・風体がさして変わらない一般市民が出てきて主催者(というか呼びかけ人というか)あいさつをはじめた。それを聞きながら私はオヤっと思った。メモをとっていたわけではないので、その人のあいさつを正確にここに再現できないが、外れていないことだけを記すと、昨年来の朝鮮半島の情勢に触れ、朝鮮半島で緊張を高め、戦争に向かおうとする動きが強まっていること、その一方で世界的にみれば、「平和を求める動き」が強まっていることなどを話した。

 実際そうなのである。この人は朝鮮半島を中心とする日本を含む東アジアの情勢に触れたのだが、中近東でも、アフリカでも同じ動き(地域的緊張を高めながら戦争に向かおうとする動き)は、オバマ政権の下で一層強まっている。またそれは自立と民主主義を求める世界各地の一般市民の動きが強まっていることへの反作用であることも事実だ。大きく云えば、「戦争準備」と「危機の煽り」はグローバル覇権主義を維持できなくなりつつあるアメリカ支配層の巻き返しの一環、という言い方もできなくはない。私たち一般市民がこの動きに断固闘わなくてはならないのは理の当然だろう。

 てっきり、「核兵器廃絶」をスローガンとして連呼するのだろう、と思いこんでいた私は面食らうと同時に、みるみるこの「座り込み」に対する認識を改めた。「座り込み」には違いないが立派な市民政治集会だ。またそれだけに「長崎平和公園の平和祈念像」の前でこの集会を行う意味もある。

 私もゼッケンを一つもらって座り込みに参加することにした。(このゼッケンは本来返却しなければならないのだが、集会後私は「広島からきた」という特権をフルに利用してねだってみた。そしたら、主催者側らしき男性は、しばし考え、「まあ、いいでしょう!」と言ってくれた。この人が、後で越権行為として仲間からつるし上げを食らったとしてもそれは私の関知せぬところである。それが広島に持って帰った写真のゼッケンである。)


 次から次へとスピーカーが出てみな自分の言葉で「平和」を堅持することを述べた。(“平和”とはいったいどんな状態を指すのか問題は残るが、いま、それは構わない。100人いれば、それぞれ100通りの平和があるのだから。それぞれの平和を守る意志と決意が大切なのだから。)

 しまいには共産党の地方議会議員立候補予定者とおぼしき人も出てきて、ちゃっかり宣伝もしていた。しかしそれは当然だろう。これだけの集会に参加して自分の政治理念の披瀝と決意表明しなければ、地方議会議員立候補の資格はない。この人が抜け目ないのではなく、この集会で「しゃべらせろ」とごねない立候補予定者が怠慢なのだ。なにしろ政治権力を私たち一般市民の手に取り戻すことは「21世紀の革命」運動だ。いつまでも政治権力を伝統的な支配階層とそれを支える日本型官僚が握り続けていいわけはあるまい。そして「21世紀の革命」は、選挙という形態を通じて達成する他はない。ある若手の憲法学者が「あなたの1票、革命権」という通りである。この立候補予定者が登場するのは当然すぎるほど当然だ。

 そんなことを考えながら、話を聞いていると、「みなさん、11時2分になりました。黙祷!」というアナウンスがあった。と、ほぼ同じ頃、耳慣れた、妙になつかしいメロディが平和公園中にチャイムで流れた。題名は憶えていない。しかし曲の出だしは忘れようもなく、憶えている。

 「ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし、やけつちに・・・」

 本当に久しぶりに聞くメロディだった。思わずぐっときた。こんなメロディにぐっとくる自分にもいまいましいが、なにしろ昭和23年生まれの私が、小学生以来脳みそに、いや、脳幹に刷り込まれたメロディなので仕方がない。(これを書いている横で、疲れ果てて、事務所の仮眠ベッドで寝ていた網野沙羅は、このメロディが私のパソコンから流れると、ガバッと起き上がり「ふるさとのまち、やかれ・・・」と歌い出した。いや、これは本当の話だ。私が話を誇張しているわけではない。私もびっくりした。もうこうなるとパブロフの条件反射である。)

 「二木紘三のうた物語」というサイトがある。
(<http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_6629.html>)


 そのサイトに説明によると、このメロディ「原爆を許すまじ」は、

 第五福龍丸被爆のニュースとともに、反原水爆運動が一気に盛り上がり、5か月後、原水爆禁止署名運動全国協議会が生まれました。

 この歌が作られたのは、このころです。東京・大井の町工場の工員・浅田石二が作った詞に、都立日比谷高校の社会科教師・木下航二が曲をつけました。発表は昭和29年7月28日。亡くなった(第五福龍丸)の久保山(愛吉)無線長は、静岡県漁民葬において、静岡大生らが歌うこの歌で送られました。』

 知らなかった。(お恥ずかしい話だが。)この歌が「第5福竜丸」事件をきっかけに日本で始まった原水爆禁止運動の中で生まれた歌だとは。てっきり広島で生まれたものだと思いこんでいた。

 長崎の平和公園では毎日「原爆ゆるすまじ」が毎日11時02分頃流れるのだそうである。「11時02分」はいうまでもなく、1945年(昭和20年)8月9日長崎に原爆が投下された時刻とされている。

 だから2011年1月9日、11時02分、長崎の平和公園に「原爆を許すまじ」が響きわたったのは、別にその日が特別だったわけではない。「11時02分」が特別だったのである。長崎では「11時02分」が毎日特別なのである。

 知らなかったといえば、私も参加した「座り込み」が一体なんだったのか、これも私は後になるまで知らなかった。

 長崎新聞のサイトに掲載されている「反核9の日座り込みが通算350回目」という記事によると(<http://www.nagasaki-np.co.jp/news/peace/2010/11/10094245.shtml>)

 同座り込みは1978年10月16日に原子力船むつが佐世保入港したことをきっかけに、79年3月16日から毎月16日の「反『むつ』座り込み」として始まった。82年8月にむつは出航したが、引き続き同年9月以降、長崎原爆が投下された9日に反核を掲げ、座り込みを続けている。

 同センターの坂本浩事務局長は「5人だけで座り込んだこともあった。継続によって定着した」とあいさつ。川野浩一原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長は「30年以上座り込んできた力が国を動かす。微動だにせず核廃絶に向かわねばならない」と述べた。』

 1978年10月、放射能漏れ事故を起こした日本初の原子力船「むつ」が日本中寄港を断られ、母港である青森県大湊港にも戻れなくなった時、むりやり佐世保に入港した。この事件をきっかけに「長崎反核9の日」座り込みが始まった。

 私が参加したのは、その352回目、2011年1月9日の「反核9の日」座り込みだったのである。

 長崎新聞の別な記事(「今年最初の反核9の日座り込み 近隣国や政府動向に危機感」<http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20110110/03.shtml>)によると当日の参加者は約200人だったという。私の感じでも200人は下らなかったと思う。

 広島で「原爆許すまじ」のメロディや歌声は絶えて聞かれなくなった。(いつごろからのことだろうか?)

 私は長崎から学ばなければならないことが沢山あるような気がしているのだが、いまだにそれがなんであるのか整理しきれていない。