(2011.2.24) | |
No.020 |
私は今「オバマ政権と核兵器廃絶」というシリーズの続きを書いている。2009年の7月に第1回を“上網”したのだが、あまりにも勉強不足で続きが書けなかった。オバマ政権の核兵器に関する基本政策を知らなければならなかったし、政権を支える筈のアメリカ経済の危機も知らなくてはならなかった。また核兵器を巡る世界の情勢や各国の政策も知らなくてはならなかった。その点で2010年NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議における議論や各国の演説を広く読む機会に恵まれたことは幸いだった。平岡敬(元広島市長)や浅井基文(広島市立大学広島平和研究所所長。もうすぐ元所長になる。)などといったそれぞれ真剣に問題に向き合い、思索を深めている人たちから学ぶことが出来たのも有益だった。 その文章、例によって長文で、誰にも読んでもらえそうにもないが、の一節を抜き出して「雑観」とする。 ・・・私がこのうち多少なりとも著作や演説を読んだり話を聞いたりして、その人物の「核兵器廃絶」に関する識見を知っているのは、秋葉忠利、田上富久、大江健三郎、谷口稜曄の4人だけである。4人とも典型的な「スローガンとしての核兵器廃絶論者」である。 大江については以前に、「ヒロシマ・ノート批判」をしたことがあり、ここでは繰り返さない。日本を代表するノーベル賞作家に対して大変失礼な言い方にはなるが、「原爆」「核兵器問題」に関する限り彼の思索は浅く、考察は表面的である。政治的素養のないことが致命的な欠陥となっている。 (長い文章で恐縮だが「ヒロシマ・ノート批判」Ⅰ・Ⅱがそれである。 <http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-5/022-5.htm>および <http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-6/022-6.htm>) このうち秋葉、田上、谷口の3人までは、2010年再検討会議のNGOセッションで、それぞれ自分の見解を披瀝している。それを次に見てみよう。 まず広島市長の秋葉忠利。2010年5月7日、NPT再検討会議は一日NGOセッションだった。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_speaker_list_NGO.htm>を参照の事。)国連は主権国家の連合体である。従って提案も決定も主権国家が主体となる。しかしながら、NGOはその主権国家の判断や決定に大きな影響を与えることができる。まさに5月7日は、そのためにNGOに与えられた特別な日だった。NGOが自らの政策を訴えるのならば、この時が大きなチャンスである。 この日16人の予定者の、第15番目に秋葉忠利は演説を行った。NGOの資格は「広島市長」である。NPT再検討会議は、「広島市長」すなわち「広島の市民」全体に単独のNGOの資格と権威を認めているのだ。いかに国連社会が、核兵器廃絶問題に関して広島市民に特別な発言権を認めているかがわかろう。 この時秋葉は、和解とは報復を為さない精神であり、またそれは被爆者の精神だと述べた後、次のように続けた。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>を参照の事。)
本来彼は「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に触れるべきだった。しかしこの時点では誰もその問題を取り上げないことがわかっていたので秋葉は触れることが出来なかった。私は何故2020年を核兵器廃絶の期限としたのか、この演説を読んではじめて知った。つまりそれは生存被爆者の平均年齢が85才に達する年だからである。この年には多くの被爆者が日本人の平均寿命に達し死んでしまう、被爆者の生きている間に核兵器廃絶を行おう、これが「2020議定書」の趣旨だったのである。(私は2020議定書なる文書を読んだが、どこにもその趣旨は書いていなかったし、説明書きもなかった。) 核兵器廃絶は被爆者側の都合で決まるものではない。それは国際政治問題だからだ。「2020議定書」はそもそも政治文書ではなかったのである。それ自体一個のスローガンだったのである。 さらにここでは、「オバマ大統領」が個人的に疲れも知らず、核兵器廃絶というゴールに向けて働いており、国連事務総長もそれに関わっている、という趣旨になっている。何を言おうとしているのか理解に苦しむが、素直に読めば、オバマや国連事務総長に任せておけば、核兵器廃絶は実現できる、といっているように取れる。 しかしこれまで見てきたように、多くの市民たちの生活の要求の中で、核兵器と絶縁しようという固い意志が政治的に結集し、それが政策を形作り、世界中に非核兵器地帯が成立した。また個別的には、フィリピンやニュージーランドで「非核兵器法」が成立した。中には南アフリカ共和国のように、いったん核兵器を保有し実戦配備しながらこれを廃棄する政策を国民の政治意志で選択した国もある。核兵器大国に国のぐるりを取り囲まれたモンゴル共和国のように、1国で「非核兵器地帯」(用語としては「非核兵器地位」)を実現し、国連に認めさせた国もある。ブラジルやアルゼンチンのように隣国同士共同して「非核兵器宣言」を行い、核兵器の開発を永久放棄した国もある。 つまり核兵器廃絶はスローガンではなく政治政策であり、政治思想なのだ。政治とはとどのつまり「相対多数」にとっての利益を実現する過程とその意志決定のメカニズムを総称する言葉だ。これらの地域や諸国の市民たちは、要するに核兵器と絶縁することが自分たちの利益になる、と判断し、政治決定したわけだ。相対多数の利益が、相対少数の利益を尊重しつつ、政治的に実現される社会が民主主義社会である。だから「核兵器廃絶」を多くの圧倒的多数の地球市民が望んでいるとすれば、「核兵器廃絶」「核兵器絶縁」はその社会の、その地域の民主主義成熟度のバロメーターでもある。(皮肉なことだが、民主主義のチャンピオンと目されているアメリカ合衆国が、もっとも民主主義成熟度が低い、という結果にもなる。実際アメリカ合衆国は近年ますますその「擬制民主主義」の傾向を強めている。) 核兵器廃絶はオバマや国連事務総長が個人的に決定するのではない。市民の要求でそれが政策として結実し、冷静な政治的判断として実現する。秋葉はまるでわかっていない。 「秋葉はまるでわかっていない」などど偉そうなことを書いているが、私にしたところで最初からわかっていたわけではない。非核兵器地帯成立の過程や各国各地域の「核兵器に対する闘い」を勉強していく中で彼らに学んだに過ぎない。 「核兵器廃絶」「核兵器絶縁」は「願い」でもなければ、「スローガン」でもない。それは「政治要求」なのだ。 さて秋葉の演説を続いて検討していこう・・・。 |
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