(2011.9.14)
No.030

「放射能安全神話」を準備したABCCとヒロシマ
9・11 広島市民による放影研デモの歴史的意義



 広島放影研のある比治山

 2011年9月11日、世界中のメディアが9・11同時多発テロ10周年記念日としてこの話題を取り上げている当日、そして3月11日に発生した「福島原発事故」のちょうど6ヶ月後の9月11日、広島市内で100人にも満たないデモが行われた。呼びかけたのは、「原発・核兵器なしで暮らしたい人々」という名前の広島の市民グループだ。



 出発点は広島市内中心部にある原爆ドーム。行き先は広島市内南東部に位置する比治山にある日米共同研究機構・財団法人放射線影響研究所(放影研)だ。



 広島市内にある比治山(ひじやま)は、1946年6月19日米国戦略爆撃調査団が、「太平洋編」の中のいわば特別版として大統領トルーマンに提出した「米国戦略爆撃調査団報告-広島と長崎への原爆の効果」の中で次のように描写されている場所である。(なお、この6月19日版をトルーマンがチェックした後、最終完成版が6月30日に提出されている。)

 広島市は太田川の大きな扇状三角州の上にある。太田川の7つの川口は広島市を6つの島に分け、ちょうど指を広げたような形で瀬戸内海に面する広島湾に臨んでいる。
  
  太田川の7つの川は、広島市に最適な防火帯を装備させることになった。広島市全体は平坦で、海抜より若干高い位置にある。主要な橋は81もあり、高度に発達した橋梁システムが島々を連絡している。市の東側には腎臓の形に似た形の丘があり、長さは1/2マイル(約800m)で高さは221フィート(約66m)である。

  この丘は、原爆落下地点から東反対側の建造物に対してちょうど格好の防御帯となった。その他の地域は原爆の拡散するエネルギーのため一様に被爆した。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm>)

 『市の東側にある腎臓の形に似た丘』というのが比治山のことである。この記述にもあるとおり、比治山は原爆投下当時一種の防禦壁となって、その東側の地域を、比治山ができうる限り守った。



(財団法人日本地図センター(平成17年8月1日発行)「地図中心」号外 被爆60年増刊号より P5-6
を加工して比治山等の位置を落としたもの)


 放影研の前身のABCC

 放影研の前身は原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)だ。広島地元の人間は、英語名称の頭文字をとってABCCと呼ぶ。

 アメリカの公式な説明は、「広島・長崎原爆の人体に対する電離放射線の影響を調査・研究するために、1946年11月26日にハリー・トルーマン大統領指令が全米科学アカデミー(National Academy of Sciences-NAS)の全米研究評議会(National Resaerch Council-NRC)に出されてその任務の担当を命じた。それがABCCである。従ってABCCは純粋に学術研究機関である。」というものだ。それが日本においてもほぼ定説となっている。

 例えば広島市の平和記念資料館のバーチャル・ミュージアムはABCCについて次のように説明している。

原爆(げんばく)の人体への影響(えいきょう)を長期的に調べるため、1947年(昭和22年)にABCC(原爆(げんばく)傷害(しょうがい)調査(ちょうさ)委員会(いいんかい))が広島・長崎(ながさき)両市に設けられました。1951年(昭和26年)、市内比治山の高台に移り本格的な施設(しせつ)が整いましたが、市民からは「研究、調査するだけで治療行為(ちりょうこうい)をしない」と、その活動方針(かつどうほうしん)を批判(ひはん)する声もありました。』
(<http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A4/4103_2.htm>)

 上記の記述を読むとABCCは、広島・長崎に設けられたように読めるが、誰が設けたのかにはまったく触れられていない。また比治山に1951年に移転したことはわかるが、1947年に設立されたときには、広島・長崎のどこにあったのかは記述していない。


 ABCCはいつ誰が創設したのか?

 日本語ウィキペディア「原爆傷害調査委員会」(2011年9月11日閲覧)は、

原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)とは、原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下の直後にアメリカが設置した機関である。』

 日本語ウィキペディアは、ABCCの活動開始を広島原爆直後としている。それではABCCはどこが、または誰が設置したのかというと、

米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心臓・肺研究所(National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。』

 としている。つまり、ABCCを設立したのは全米科学アカデミーである、といっているのだが、1946年設立だとしている。ところが前述のように、トルーマンが全米科学アカデミーー全米研究評議会に大統領指令を出したのは1946年11月であり、この指令に基づいて、ABCCの活動が開始されたことになっているのだから時期的に矛盾がある。

 現実に日本語ウィキペディアの記述は、「沿革」の項で、次のように述べている、

1945年 8月   広島・長崎に原子爆弾投下

9月   アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院に収容された被爆者から陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、都築正男博士、Dr. Oughterson、Dr.Warrenによる日米合同調査団を編成、約1年間の被爆調査が行われた。ここでの収集資料の解析に日本の研究者の参加は認められず、全調査資料が米国に送られ、アメリカ陸軍病理学研究所に保管された。

1946年 11月   原爆放射線被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国科学アカデミー-全米研究評議会(NRC)が行うべきであるとするハリー・トルーマン米大統領令が出され、10日後に4人の専門家が広島入り。

1947年 3月   広島赤十字病院の一部を借り受けて原爆傷害調査委員会(ABCC)開設
1948年 1月   厚生省国立予防衛生研究所広島支所が正式にABCCの研究に参加、ABCCが広島市宇品町旧凱旋館に移転
3月   主要遺伝学調査開始
7月   長崎ABCCを長崎医科大学附属第一医院(新興善小学校)内に開設
10月   主要小児科研究プログラムを長崎で開始

1949年 3月   主要小児科研究プログラムを広島県呉市で開始

7月   比治山で地鎮祭を行い、研究施設の建設を開始

1949年 8月   ABCC被爆者人口調査開始

11月   長崎ABCC、長崎県教育会館へ移転

1950年 1月   白血病調査開始
8月   成人医学的調査を広島で開始、その後長崎でも開始
10月   国勢調査の附帯調査として全国原爆被爆生存者調査を実施、全国で約29万人を把握
11月   比治山研究施設工事が完了、移転開始』

と比治山移転までの足取りを、比較的克明に教えてくれている。ただこの記述によっても、ABCCの活動開始は、1946年11月トルーマン大統領指令以前なのか、そうでないのかは明確ではない。言い換えれば、全米科学アカデミーー全米研究評議会(面倒なので以下NAS-NRCと略す)がABCCの実質担当機関なのか、それまでの陸海軍軍医団が実質担当機関なのかが明確でない。このことは些細な事のように見えるが、実はそうではない。ABCCの性格が軍事研究機関だったのか学術研究機関だったのかを決定づけるからだ。

 (もっとも訳知りの人にとっては、ABCCが軍事研究機関だったのか、学術研究機関だったのかを、担当機関が陸海軍合同軍医団だったのかNAS-NRCだったのかで判断するのはナンセンスと見えるかも知れない。というのはNAS-NRCは、第一次世界大戦以来、伝統的にアメリカ軍部と関係が深く、軍事目的の科学研究を手掛けてきた歴史をもつからだ。現在もその事情は変わらない。しかし外観上は大きな違いである。)


 アメリカ軍部が調査活動を開始

 英語Wikipediaの記述はもっと面白い。

原爆傷害調査委員会(ABCC)は、1946年にハリー・S・トルーマン大統領による大統領指令(a presidential directive)によって設立された委任組織(a commission)である。この指令はNAS-NRCに出され広島と長崎における原爆生存者の放射線の後期影響(the late effects)を調査するものだった。純粋に科学的研究と考究の目的で設立されたものであったため、医学的治療を提供するものではなかった。またアメリカによって強力に支えられていたため、ABCCはほとんどの原爆生存者や日本人から一様に信頼されていなかった。ほぼ30年間の活動の後、1975年に解体された。』

 英語Wikipediaの記述は、テキサス州ヒューストンにあるヒューストン医療アカデミー・テキサス医学センター・アカデミー(Houston Academy of Medicine-Texas Medical Center Library)に納められている「ABCCコレクション」(the ABCC Collection<http://mcgovern.library.tmc.edu/data/www/html/collect/abcc/index.html>)を含めほぼ全般的な資料を網羅してなされている。上記の記述は、M.スーザン・リンディの書いた「現実となった苦しみ:アメリカの科学と広島の生存者」(M. Susan Lindee 1994. Suffering Made Real: American Science and the Survivors at Hiroshima.)という本をもとにしたものらしい。(なお、このABCCコレクションではトルーマン大統領指令が出されたのは46年11月18日だ、としている。どの日付が正しいのか私には判断の材料がない。)

 英語Wikipediaの記述をもう少し続けよう。

ABCCは1945年8月6日・9日に行われた広島と長崎への原爆攻撃のあと結成された。ABCCはもともと合同委員会(the Joint Commission)であった。ABCCは直接情報入手を目的に設置され、原爆損傷(atomic bomb casualties)の長期間にわたる研究を人々に知らしめるため報告をおこなった。

1946年、全米研究評議会の責任者だったルイス・ウィード(Lewis Weed)は、「人類に対する生物学的かつ医学的影響に関する長期間にわたるかつ詳細な研究」は「アメリカにとってもまた人類一般にとっても最も重要」と言う点について賛同する学者に呼びかけて結集させた。ハリー・S・トルーマン大統領は、1946年11月26日にABCCを存立せしめるように命令した。ABCCの鍵を握るメンバーは、ルイス・ウィード、NRCの医学者であったオースティン・M・ブルーズ(Austin M. Brues)とポール・ヘンショー(Paul Henshaw)、軍部を代表する形でメルビン・M・ブロック(Melvin A. Block)、そして医学者であり遺伝学で博士号をもっていたジェームス・ニール(James V. Neel)であった。』

 これで、ルイス・ウィード、オースティン・ブルーズ、ポール・ヘンショー、メルビン・ブロック、ジェームス・ニールといったキーパーソンの名前が明らかになったが、この記述を読んでも、ABCCの具体的任務は明らかになっていない。単に「原爆(電離放射線の)人体に対する長期的影響研究はアメリカにとっても人類一般にとっても最重要だ」というだけだ。

 どう重要なのか、そのためにどんな調査研究が必要だというのか?


 「ABCC 全体報告 1947」

 全米科学アカデミーのサイトに、「ABCC 全体報告 1947年」(Atomic Bomb Casualty Commission General Report 1947)という当時の報告書が掲載されている。
(<http://www7.nationalacademies.org/archives/ABCC_GeneralReport1947.html>)


 この報告書の住所は、「2010 Constitution Ave., Washington DC」となっており、これは当時全米科学アカデミーのあったところだ。だからABCCの本部は広島や長崎にあったのではなく、アメリカの首都ワシントンにあった全米科学アカデミーの中に置かれた、ということがわかる。

 次に面白いのは、この報告書の日付である。1947年1月である。47年1月といえば、46年11月にトルーマンの大統領指令が出されて、ABCCが設立されたとされる月である。その時には、すでにこれだけの内容をもった全体報告ができていた、ということはABCCは、それ以前から実質的に活動を開始していたということを示している。

 次に興味深いのは、ABCCの主要メンバーの身分である。この文書の「はじめに」(Foreword)は、NRC(全米研究評議会)の医科学部門部門長(Chairman, Division of Medical Sciences)の身分でルイス・ウィードが書いている。従ってウィードがこのグループ(ABCC)のトップなのだということがわかる。実際ウィードは当代一流の医科学者で、ジョン・ホプキンス大学医科学大学院の学長の座をなげうって、ABCCのトップになった。
(「ABCCについて」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/ABCC.htm>を参照の事)


 次にABCCのメンバーは、別ページに記載されている。それによるとウィードを含め、前掲5人の名前とフレデリック・ウルリッチ(Frederick W. Ullrich)の名前も記載されいる。だから、ABCCは少なくともその初期、ウィードを筆頭に合計6名のメンバーで構成されていたことがわかる。

 次に面白いのは、メンバーの身分だ。オースティン・ブルーズは単に医学博士、ポール・ヘンショーは博士(遺伝学)と記載されているが、メルビン・ブロックはアメリカ陸軍(Army of the U.S.- A.U.S)の医科学団(Medical Corp.- MC)の大尉の身分、同じくジェームス・ニールも陸軍大尉の身分で記載されている。一方ウルリッチの身分は海軍予備役(Navy Reserve-U.S.N.R)の医科学団の中尉(Lt. junior grade=j.g.)だとわかる。


 事実上アメリカ軍部の調査機関

 ブルーズは当代一流の放射線生物学者であった。1991年3月6日付けのニューヨーク・タイムズ掲載の訃報によれば、『ブルーズは広島と長崎の原爆攻撃による損害研究の分野で陸軍長官の専門家を務めた。また国内外における放射線の長期的影響を研究する機関のコンサルタントであった。』としている。

 ポール・ヘンショーはガンや遺伝学の権威で、マンハッタン計画の主席生物学研究員の一人だった。

 こうして眺めてみるとABCCはウィードをトップにアメリカ陸海軍の医科学団に属する当時一流の若手医科学者がその中枢を固めていたことがわかる。

 またウィードの書いた「はじめに」の中では、この報告ができあがったいきさつが述べられている。

この報告は、オースティン・M・ブルーズ博士とポール・S・ヘンショー博士の執筆になるものだが、日本に投下された原爆の生物学的医学的影響に関してこれまで続けてこられた一連の研究の一環である。当初におけるアメリカ側の調査はアメリカ陸海軍合同調査団(a joint Army and Navy commission)の手で行われ、その結果は原爆損傷の最初のアメリカ側の分析から成り立っている。

  様々な日本側による原爆影響による調査は、アメリカ側の合同調査団が日本に入る前に行われていた。

 従って多くのデータは、これらの医学的生物学的影響に関する研究を継続する必要性から生じた様々な文書や現在の報告などを含んでいる。』

 つまりABCCの調査研究は、原爆投下直後から始まった原爆影響研究の一環だが、アメリカ側の陸海軍合同調査団が日本現地で実際調査する前に日本の調査が行われていたので、その日本側調査も含まれている、と述べている。

そして、『全米研究評議会のこの問題の関わりは、1946年5月にアメリカ陸軍軍医総監から医科学部門長(すなわちルイス・ウィード)へ当てられた手紙から始まる。』として、アメリカ軍部からの要請でNRCがこの問題に手をつけることになったいきさつについて述べている。

 ところが、ABCCの中心人物は、先にも見たように多くがマンハッタン計画の関係者や軍籍にある医科学者だった。なのに何故このようなややこしいことを行わなければならなかったのかという疑問が生ずる。


 軍事医学研究に学術研究の外観を被せる

 それは、「原爆損傷の調査研究」という軍事医学研究に、学術研究の外観を与えるためだった、という推測がなりたつ。これが推測以上のものであることは、この「1947年全体報告」自体がアメリカ軍部に当てられた報告書だったことでもわかる。

 こうして定説では説明のつかないABCCの生い立ちとその役割について、以上のように見ていけば、納得のいく説明がついていく。

 ABCCについて現在のところもっとも合理的な説明を与えているのは、中川保雄だろう。(中川はすでに「ABCC 全体報告 1947年」を明らかに読んでいる。)

 中川保雄は、『放射線被曝の歴史』(株式会社技術と人間 1991年)の中で次のように書いている。

・・・核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者が何よりも恐れ、対処すべき難題の第一のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広がることであった。』(同書44P)

 核兵器や核産業(代表的には原発だが)を推進する勢力、今ここで仮に「核推進勢力」と呼んでおくが、核推進勢力はまったく同じ産業界に属していた。その産業は同心円的に巨大化しつつあった。(今は世界的に巨大な同心円となって、人類の生存を脅かすほどのモンスターに化けている。)


 核産業がもっとも恐れたこと

 中川は、彼らがもっとも恐れていたことは、ソ連からの原爆攻撃でもなければ、テロ攻撃でもなければ、「放射線被曝」に対する一般大衆の恐怖だった、といっている。放射線被曝に対する一般大衆の恐怖、それは直感的に正しい恐怖なのだが、が広がっていくことは、すなわち、すべての核装置・核設備の存在を許さないという考えが広まることであるからだ。核分裂物質の採掘から精錬から始まって、核装置・核設備まで、核は別に事故を起こさなくても放射能を放出し続けるのだから。

・・・このためアメリカの原子力委員会やNCRPは、1940年代の終わりから1950年代のはじめにかけて、放射線による遺伝的影響の問題において、いかにすれば主導権を握って国際的議論をリードし、リスク受忍論を主柱とする許容線量体系を全面的に導入することができるか、というテーマに必死になって取り組むことになった。

 その目的から当時アメリカが力を注いだ研究分野が二つあった。もちろん第一に、広島・長崎の調査があった。あと一つは、マンハッタン計画下の放射線研究依頼、引き続き中心的研究機関としての役割を担っていたオークリッジ国立研究所での動物実験であった。』

 アメリカの核推進勢力は、核を世界中に普及するためアメリカ原子力委員会を作った。1946年8月のことである。アメリカ原子力委員会は核の軍事利用と産業利用(医療用途の利用を含めて)をまずアメリカから推進するために創設された連邦政府機関である。それは陸軍マンハッタン計画の資産・技術・人材をそっくり引き継いで発足した。

 しかし、それだけでは不十分である。前述のように、放射線被曝に対する一般大衆の恐怖を取り除き、また核従事者や一般大衆に被曝の基準を与えるための「科学的装い」を凝らした権威機関も必要であった。それがNCRP(National Committee on Radiation Protection- NCRP)だった。
(ついでにいえば、アメリカ放射線防護委員会(NCRP)の国際版が1950年にロンドンで活動を開始した。ICRPである。)

 中川はその目的の一つが、「もちろん第一に、広島・長崎の調査があった。」と書いているが、広島・長崎の調査が、「放射線被曝に対する一般大衆の恐怖を取り除」くことになるのかが理解できない。しかしそれは中川のいうところに耳を傾ければおいおい明らかになっていく。

広島・長崎での遺伝的影響調査は、有名な「原爆障害調査委員会(ABCC)」によって行われた・・・ABCCは、彼ら自身の説明に従うなら日米合同調査団による調査結果の解析が進むに従い、原爆の影響についての調査をさらに継続して進める必要が認められて、1946年11月26日にトルーマン大統領が、全米科学アカデミー・学術会議(これは全米研究評議会のこと。NAS-NRC。以下同じ)に対してその設置を指令し、1947年1月に発足したということにされている。この説は、「広島・長崎の原爆災害」にも採用されているように、日本でも「定説」とされてきた。

しかしこのような説明は、ABCCが純粋に学術的な組織であると主張するために、都合のよい事実を述べただけで、あえて言えば、歴史の改竄である。真実の歴史はこうである。』


 原爆放射線被害調査をなぜ一手に握りたかったのか


ABCCの設立は原爆投下直後の広島・長崎で原爆の破壊力のうち、とくに人体への殺傷力に重点を置く調査にあたったいわゆる「日米合同調査団」を指揮したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監がマンハッタン計画の推進時から密接な協力関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に対し、長期的な、したがって当初から軍事的計画日程に入れられていた原爆障害研究に関する包括的契約研究の一環として、広島・長崎の後障害、放射線による晩発的影響研究の組織化を要請して開始されたのである。両軍医総監はそのため全米科学アカデミー・学術会議に、「原子障害調査委員会(ACC)」と呼ばれる組織を結成させた。もちろん同委員会のメンバーは、軍やアメリカの原子力委員会と密接な関係を持つ人たちで組織された。

それらの手続きを進めながら陸・海軍の当事者たちが、ACCの広島・長崎での現地調査機関としての組織を形成させたが、この委員会はACCの支配下にあることを具現するものとしてABCCの名称を与えられた。ABCCがアメリカ本国で結成されたのは当のACCの正式発足よりも早く、またそのための大統領指令の発表よりも早い1946年11月14日であった。またABCCの先遣隊として日本に派遣されたのはACCの委員の一人であるブルーズとヘンショウのマンハッタン計画従事者に加えて、陸軍軍医団のニールなど軍医関係の5人であった。彼らが来日したのは、1946年11月25日で、「ABCC設立の大統領指令は発せられた」とされる11月26日以前のことであった早く言えば、ABCCの主張する公式の歴史が始まる前に、実際にはABCCが誕生して、活動を開始していたのである。要は、それほどまでして軍は広島・長崎での調査を自らの支配下で進めようとしたのであった。』

 なぜアメリカ軍部は、広島・長崎の調査を自らの支配下で進めようとしたのか?それは、放射線被曝の深刻な実態を一般大衆の目から覆い隠すためであった、そのためには広島と長崎の放射線の人体に与える影響に関する情報を一手に握る必要があったのである。

原爆投下直後、広島・長崎の調査を行ったアメリカの調査団は、陸軍のマンハッタン管区調査団、海軍の放射線研究陣、そして太平洋陸軍司令部軍医団の混成部隊であった。彼らが占領後に広島・長崎に調査に入った1945年の9月上旬にはすでに最重症の被爆者はほとんど全員が急性死を免れず、重症の患者もおよそ半数が死亡していた。彼らの調査の最重点が、核戦争を勝ち抜く条件を探ること、すなわち放射線被曝下での生存可能条件を探ることにあったとはいえ、投下直後から一ヶ月あまりの調査結果は欠かすことの出来ないデータであった。』

 日本側も積極的に協力

一方、原爆投下直後に、その新型爆弾が原爆であることを確証することに重点を置いた大日本帝国政府・陸海軍の調査が行われていた。仁科芳雄、荒勝文策、浅田常三郎、田島英三等の物理学者、都築正男、中泉正徳、御園生圭輔、熊取敏之等の医学者による日本調査グループの協力を得ることは、そのデータとともにアメリカ側の調査団がそれ以降の調査をスムーズに進めるためには何よりも必要なものであった。』

 従って、「ABCC 全体報告 1947年」にもこうした日本側の先行研究は一括して吸い上げられ報告書に収められた。
(例えば、同報告3部「付属文書」のその3「1947年1月2日時点で入手可能な日本側原稿」、その9「原爆の影響の医学的考察報告」などを参照の事。特に9は長文の報告書で東京帝国大学教授都築正男の名前で報告されている。
http://www7.nationalacademies.org/archives/ABCCrpt_Pt3App3.pdf> あるいは
http://www7.nationalacademies.org/archives/ABCCrpt_Pt3App9Ch1.pdf>を参照の事)


以上のような事情からアメリカ側は、原爆投下直後の日本の医学的調査の最高指揮者であった陸軍軍医中将・都築正男を大日本帝国政府を代表する科学者に据えて日本人研究者を統括させるとともに、調査団の名称を日米合同調査団と称した。

  しかしその名称は日本の協力を引き出すための方便で、アメリカ本国においては「日本において原爆の効果を調査するための軍合同委員会」と言うのが正式の名称であった。合同とはあくまでも陸軍・海軍・進駐軍の合同を意味した。従って、原爆投下直後の広島・長崎の調査団は、「アメリカ軍合同調査委員会」と呼ぶのが正しいのである。

  この例にならって、アメリカは広島・長崎でABCC活動を開始するにあたって、日本人の協力を得やすい組織形態を追求した。まず連合軍最高司令官総司令部が厚生省に働きかけてABCC調査への協力を約束させ、「国立予防衛生研究所(予研)」を1947年初めに設立させた上で、「ABCC―予研共同研究」体制を作り上げた。しかしこの場合も共同研究とは名ばかりで、最初のブルーズとヘンショウの研究以降、ABCCの実態は名実ともにアメリカ軍関係者とアメリカ原子力委員会の支配下にあった。財政的にもABCCはアメリカ原子力委員会に依拠していた。』

 ニールの調査と遺伝影

ニールらによる調査は、1948年から1953年にかけて行われたが、放射線の遺伝的影響として追究されたのは5項目であった。

(1) 致死 突然変異による流産
(2) 新生児死亡
(3) 低体重児の増加
(4) 異常や奇形の増加
(5) 性比の増加(もし影響があるなら母親が被爆した場合には男子数が減少し、父親が被爆した場合には男子数が増加する) 

 ABCCが追跡し得た妊娠例は対象となった約7万例のうちおよそその3分の1に過ぎなかった。このため遺伝的影響が仮にあるという場合には、例えば流産・死産や新生児死亡は正常の80%以上増加していることが確認されること、また先天異常や奇形の増加の場合は正常の100%以上増加していることが確認される必要があった。

そのような少ない人口であったので調査の結果は(5)の性比を除いては放射線による遺伝的影響は統計的に有意であると確認されなかった。その性比も1954年から58年に出生児を捕捉して再検討された結果、統計的有意性が立証されないことがわかった。調査結果は、端的に要約すれば原爆被爆者の間に生まれた子供たちに放射線による遺伝的影響があるともないとも言えない、という、案の定と言えるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会や原子障害調査委員会、そしてABCCは事前の予想には一言も触れないで、遺伝的影響はなかったと大々的に宣伝した。』


 放射能安全神話の形成

 こうしてABCCが広島・長崎で収集した原爆生存者の厖大な「被曝データ」は、大きく云えば、2つの目的に利用された。

 一つは、当時真剣に検討されていたソ連を仮想敵国とした「核戦争」における、アメリカ兵士、国民の放射線防護計画策定のための基礎資料である。

 もう一つは、彼らがすでに計画していた「核の産業利用」に伴う核産業従事者や一般公衆への被曝基準作りの基礎資料である。

 アイゼンハワーが国連で「平和のための原子力」演説をおこなって、世界的な「原発キックオフ」宣言を行うのは1953年12月である。事故を起こさなくても核施設や核設備は前述のように、普段に放射能を排出している。世界中に原発を作るということは、一部の核産業従事者ばかりでなく、一般公衆にも被曝を強いることになる。その際、一般公衆が受忍する放射線被曝は、「健康に害のないもの」でなくてはならなかった。

 彼らには『放射線は大量に外部から浴びない限り、健康に大きな害がない』という「放射能安全神話」が是非とも必要であった。しかもそれには「科学的外観」が是非とも必要であった。
 
 ABCCは、核推進勢力の「放射能安全神話」に科学的外観を与えるための基礎データを提供したのである。どうやってその事が可能になったのか?
 
 その手口(もう手口と云う言葉を使っても差し支えないだろう)はおよそ次のようである。
 
 広島と長崎の原爆で人体に有意な放射線の影響は、爆発時に生じた一次放射線(そのほとんどはガンマ線と中性子線である)による影響のみであって、残留放射能や放射性降下物(フォールアウト)などによる放射線の健康損傷はなかった、という仮説を作って、その仮説に合致するような調査をおこなったのである。また被爆者調査方針も一次放射線を浴びた被爆者の健康損傷の状況に限定していった。
 
 この仮説はいまでも、厚生労働省の「原爆被爆者認定基準」の基礎として使われている。
 
 またこの仮説は、広島・長崎の被爆者から、内部被曝による健康損傷の現実から目をふさぐことにもなる。なぜなら残留放射能や放射性降下物による大きな外部被曝損傷はまず考えられず、そこで発生する健康損傷は、低線量の放射性物質を呼吸や飲み物や食べ物を摂取することによって、体内に取り込んで発生する内部被曝によるものだからだ。この仮説に従えば、低線量での内部被曝は起こりようがない、ことになる。

 こうしてABCCが長期間にわたって収集された広島・長崎の被爆者の健康損傷のデータは、一様に「外部被曝による影響」としてバイアス(予断に基ずく偏り)がかけられ、報告されたのである。

 その他、様々な疑似科学的手法で、広島・長崎における放射線の人体に対する損傷影響は過小評価されていった。

 こうして、ABCCが長期間にわたって作成された広島・長崎の原爆生存者寿命調査(A-Bomb Life Span Studies-LSS)は、今日「放射線は外部から大量に浴びない限り、健康に大きな害はない」とする放射能安全神話の基礎資料として使われているのである。

 そればかりではない。この放射能安全神話に基づく学説を構築する国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に忠実な日本政府および日本の主要な学界は、低線量内部被曝の危険に曝されている「フクシマ」の人々、特に放射線に対する感受性の強い妊産婦(胎児)、乳児、幼児、学齢前の子ども、12才以下の子ども、20才未満の少年・少女、30才以下の若い女性などを「健康に害があるとは考えにくい」という理由のもとに、見放し、切り捨てようとしている。


 放射能安全神話形成に果たしたヒロシマの役割

 「放射能安全神話」形成そのものと共に問題なのは、「放射能安全神話」形成に果たしたヒロシマの役割である。

 ABCCは広島と長崎で、単独でその調査をすすめることはできなかった。被爆者の調査をしようにも、どこに被爆者が住んでいるのかは広島市に教えてもらわなくてはならなかった。前出の英語Wikipediaの記述にもあるように、悪い噂を聞いてABCCに協力を拒む被爆者がいれば、日本人医師が説得して協力させなければならなかった。それでもいうことを聞かなければ、強制力をもって協力させた。広島地元ばかりではない。様々な手段を用いて日本政府、厚生省もこの調査に全面協力した。

 ABCCの調査は日本側、特に広島、長崎地元の行政機関、有力者、権力機関、学者・医師などの権威機関の協力なしには成立し得なかったのである。

 原爆の被害者であったはずのヒロシマは、一転「放射能安全神話」形成に一役も二役もかったのである。

 占領時代が終わり、日本が「独立」した後も、ヒロシマが「放射能安全神話」形成に大きな役割を果たすという構図は基本的に変わらなかった。


 放射線について語らぬヒロシマ

 原爆による人体損傷の源泉は大きく3つある。すなわち熱線、爆風、放射線である。

 ヒロシマは熱線、爆風による原爆の被害については強調し、訴えてはきたが、放射線による損傷はさほど熱心に訴えてこなかった。

 「佐々木禎子」のストーリーについては熱心に語るが、「サダコ」が爆心地から1.7km離れた自宅で黒い雨(放射性降下物)に打たれための、主として内部被曝によって白血病を発症したこと、サダコが取り込んだ放射線量は、低線量といわれる部類であり、放射線は低線量でも十分危険なのだ、とは訴えてこなかった。

 被爆者の証言を聞いてみよう。いかに熱線を浴び、皮膚が溶け、爆風に吹き飛ばされ、この世の地獄だったかを説明はするが、放射線の恐ろしさを語る被曝証言は驚くほど少ない。語らないのは放射線の恐ろしさを知らないからだ。語らないのではなくて語れないのだ。

 というのは熱線や爆風の被害については目の前に具体的情景が生々しく出現するから、さほど勉強や研究を行わなくても「体験」を語れる。しかし、放射線障害については勉強や研究をしなくては、自分の体験が何であったかについて理解することはできないし、語ることはできない。それでも大量に被曝して急性症状が目の前に現出すれば、目の前の体験として話すことはできる。しかしそれは放射線の恐ろしさのごく一部を語ったに過ぎない。電離放射線の本当の恐ろしさは、長期にわたる低線量内部被曝にあるのだから。

 ためしに広島の原爆資料館にいってみよう。そこに展示されているのは、原爆の恐怖の3つの要素、すなわち熱線、爆風、放射線のうち、熱線と爆風のみが強調されている。放射線障害による展示があったとしても、その子どもがどれくらいの放射線を浴び、その線種はなんで、いかなるメカニズムでその子どもの細胞のDNAが電離放射線に攻撃され、破壊され、あるいは変質させられ、その細胞で形成された臓器や組織が機能不全におちいり、死に至ったか、などという展示はまったくない。原爆の恐ろしさはまるで熱線と爆風のみであるかのようである。

 核兵器の真の恐ろしさは、それが発する放射線にある。放射線は核攻撃する側も確実に攻撃する。放射線を中心に考えれば、核兵器には敵も味方もないのだ。このことが理解されて、広島・長崎以降、核兵器が実戦でつかわれていない、という事実はもう周知のことだ。

 だから、広島にきても、原爆の恐ろしさはまったく理解できないのである。

 低線量内部被曝の恐ろしさは、勉強や研究によって初めて理解できることなのだ。ヒロシマはまさにそのことを原爆投下以来怠ってきた。またそれを怠らせる環境作りも着々と、行政機関やマスコミを通じて行われてきた。


 フクシマはヒロシマが防ぎ得たかもしれない

    いまさら悔いてもしようがないことだが、もし私たちが、ヒロシマが、広島原爆で発生した低線量内部被曝の実態を勉強・研究してきていたとしたら、あるいは中国電力の鹿島原発建設にも断固反対の態度をとったかもしれない。あるいは核設備・核施設から普段に放出される放射能が、低線量内部被曝として人体に非常な危険をもたらすものとして、日本全体の知的共有財産となり、福島原発事故が防げたかもしれない。

 それより何より、ABCCに協力して、「放射能安全神話」作りに一役も二役もかったヒロシマは、完全に一掃されたのかという疑問が私の中に強くある。そうした疑問の中で、09年「アメリカ国立アレルギー・感染症研究所事件」が発生した。

 もしかしていまでもヒロシマは、「放射能安全神話」形成と定着に大きな役割を果たしているのではないか・・・。
 
(網野沙羅作成のデモ応援チラシ。
クリックでPDF版が開く)
 そんな思いを抱きながら、私は原爆ドーム前から比治山の放射線影響研究所(放影研:1975年にABCCが解体となって、新たに日米共同出資の放射線影響研究所として再発足した。)までを小さなデモ行進の一員として、1時間半ほど、とぼとぼ歩いた。

 比治山(といっても戦略爆撃調査団報告がいっているように小さな丘にすぎないが)にある放影研の前にデモ隊が到着して、「原発・核兵器なしで暮らしたい人々」のリーダー格の一人と覚しき若い男性が、一通の要望書を力強く読み上げた。それが以下である。(比較的長い文章なので私が原文にはない中見出しを入れた。中見出しは青字にしてある。) 


(要望書を読み上げる、グループの若いリーダーの一人)

 放影研への要望書

 要望書原文PDFはこちら

 
議 事 録 開 示 の 要 望
2011年9月11日 
財団法人 放射線影響研究所
日米共同研究機構(RERF) 
代表理事 大久保 利晃 殿
業務執行理事 Roy E. Shore 殿

ますますご清祥のことと存じお喜び申し上げます。

 さて貴研究所におかれましては、去る2009年4月28日に地元連絡協議会を開催されました。その時の詳細議事録を公開されるよう切に要望します。

 アメリカの軍事研究に被爆者のデータを使う

 その時の審議議題は『急性放射線被ばくによる免疫老化とその他の後遺症に関する研究』は適切な研究課題であるかないか、でありました。その研究が適切であるかないかの判断基準の重要な一つが、米国立衛生研究所(National Institutes of Health-NIH)の一研究機関である国立アレルギー感染症研究所(National Institute of Allergy and Infectious Diseases以下「NIAID」と略)からの委託研究を受け入れるべきかどうか、という点でした。

 常識的に考えれば、日米出資による日米共同研究機構である貴研究所(以下放影研と略)が、NIAIDから助成金をもらって、上記テーマの研究をなすことは、また業務執行理事のShore氏(以下ショア氏と表記)が、長くNIHでご活躍になったその人的つながりを考えれば、放影研がこの研究を受け入れるには何の問題もないと見えます。

 ところが、この研究は「核テロ対策」という名目の、すなわち「放射線・核攻撃に対する医学的対策開発計画」という、一種の軍事研究の一環であったこと、また研究のテーマ上使用されるデータは、放影研が大量に保存する1945年の広島・長崎原爆生存者のデータ(以下ヒロシマベースと略)を使用せざるを得ないこと、要約して言えば、アメリカの軍事研究のためにヒロシマベースを使用することの正統性・道徳性・倫理性が大きな論点にならざるを得ませんでした。

 地元連絡協議会のメンバー

 一方で、ABCCの後身である放影研には、成立当初からその秘密体質に関し、芳しくない評判がありました。これら芳しくない評判を一掃する目的で放影研は、その研究や運営・活動の透明性を確保する努力をされてきました。広島・長崎両研究所における運営や活動を、それぞれの地元に公開する傍ら、地元に相談・諮問するという体制もとってこられました。

 「地元連絡協議会」の設置・運用もそうした努力の一環として評価されてきました。従って地元連絡協議会も「原則公開」、マスコミ取材、一般市民の傍聴も自由という体制もとってこられました。

 ところがまさにその研究の正統性・道徳性・倫理性が問題となる、NIAIDからの委託研究『急性放射線被ばくによる免疫老化とその他の後遺症に関する研究』審議の際には、この「公開の原則」・「透明性の確保」は、かなぐり捨てられたのであります。

 「2009年4月28日地元連絡協議会」自体も、当初開催の意志も予定もありませんでした。

期間は不明ですが、大久保利晃代表理事(通称理事長)が、地元連絡協議会のメンバーを個別に回って、この研究への賛同を取り付けられようとしました。ところがあるメンバーの強い指摘と要望によって、4月28日協議会開催を行わざるを得なかった、といういきさつがあります。

なお4・28地元連絡協議会の出席者は以下の通りです。(肩書きは当時)

浅原利正(協議会会長。広島大学学長)
碓井静照(広島県医師会会長)
神谷研二(広島大学原爆放射線医科学研究所所長)
川本一之(中国新聞社社長)
佐々木英夫(広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センター所長)
坪井直(広島県原爆被害者団体協議会理事長)
スティーブン・リーパー(広島平和文化センター理事長)
石田照佳(広島市医師会副会長)
三宅吉彦(広島市副市長)
浅井基文(広島市立大学広島平和研究所所長)

 このうちこの案件の取り扱いについて強い疑義を提出し、協議会(もちまわり協議会でなく)開催を強く要望した人物は浅井基文氏のみでありました。

 反対者は僅か1名

 この時、「4・28地元連絡協議会」では、この委託研究に関して、受け入れ反対は1名(浅井基文氏)、棄権1名、あとは全員賛成でした。そして協議会全体は、受け入れを決定されたのであります。

 私たちはこの決定にただちに反対し、その不当性を主張するものではありません。私たちはこの決定に疑問を持ちつつも、議事録の詳細が明らかでないため、どのような経緯で決定されたのかわからない状態です。判断は、その詳細議事録を読んでからにしたいと思います。そのためにも、この協議会で誰がどんなことを主張したのかを是非とも知る必要があります。ことは市民の「知る権利」にも関わっています。

 広島市民である私たちが、このことを極めて重要、とくに「フクシマ原発事故」という痛恨の事件を経験した私たちにとって身もだえするほど重要、と考える理由があります。 

 ABCCの正体

 放影研の前身であるABCC(原爆傷害調査委員会)は、原爆投下直後からすでにその活動を開始していました。その目的は広島・長崎の原爆被爆者から詳細な被曝データ、特に電離放射線の人体に与える影響に関するデータを収集することにありました。それは日本占領直後から実施されていたアメリカ陸海軍合同調査の形をとっていました。1946年、陸軍マンハッタン工区の資産・資源・技術・人材をそっくり引き継ぐ形でアメリカ原子力委員会(以下AEC)が成立すると、この仕事はAECに移管されました。しかしこれでは余り軍事色が強すぎるというので、1946年11月26日にトルーマン大統領指令( presidential directive)が出され、この仕事は全米科学アカデミー・全米研究評議会にその遂行を指示するという体裁を取りました。つまりもともと軍事医学研究を目的としたこのプロジェクトに「学術的外観」を取り繕った、それがトルーマン大統領指令だった、といういきさつがありました。

(全米科学アカデミー・全米研究評議会=United States National Academy of Sciences-United States National Research Council。以下NAS-NRCと略。なお全米科学アカデミーは米国学士院と訳されることもあります。たとえばショア氏は「米国学士院終身会員」と紹介されています。また全米研究評議会は「学術会議」と訳されることもあります。たとえば、ショア氏はNAS-NRCに長く関わってきましたが、その際は「学術会議」と訳され紹介されています。しかしNAS-NRCの英語名称およびその米陸軍との歴史的な深い関わりを考慮するなら、学術会議の訳語は不適切といわなければなりません)

 放射線防護基準の基礎データに使われる

 ABCCのデータ収集・研究は、あくまで軍事目的ではありましたが、そのデータは大きく2つのことに利用されました。

 (1)来るべき核戦争における放射線防護計画策定
 (2)来るべき「核(原子力)エネルギー時代」に備えた放射線防護基準の作成

 いま私たちが問題としているのは「来るべき核エネルギー時代に備えた放射線防護基準の作成」であります。この目的のためABCCは、広島・長崎原爆における一次電離放射線の直接的影響(外部被曝)調査をその研究方針としました。言い換えれば、残留放射能や放射性降下物(フォールアウト)による放射線影響はない、という仮定のもとにこの調査を行い、集めたデータもこの方針に沿ってバイアスがかけられました。(バイアスという言い方が不適切なら、修正といういいかたは許されるでしょう。)こうして厖大な広島・長崎の被爆生存者の「生涯調査」(Life Span Study-LSS)ができあがりました。

 といってAECが低線量内部被曝の深刻な人体に与える影響について全くなにも知らなかったわけではありませんでした。それどころか、兵器級プルトニウムを製造していたワシントン州ハンフォード工場や兵器級ウランを製造していたテネシー州クリントン工場で多くの労働者や技術者が低線量内部被曝に苦しめられた実態を、AECはよく知っていました。また、マンハッタン計画以来引き継いでいる人体実験や核実験による人体への影響についてのデータを収集することを通じて、詳細な情報を持っておりました。さらには、1952年から53年にかけて広島・長崎の入市被爆者の調査を実施しておりました。

 当時アメリカAECこそ電離放射線による低線量内部被曝の恐ろしさをもっともよく知るものだったと言わざるを得ません。

 このため1946年アメリカに成立したアメリカ放射線防護委員会(以下NCRP)は、その放射線防護基準作成にあたって、外部被曝を担当する第1作業小委員会と並んで、内部被曝を担当する第2作業小委員会を設け、その小委員会委員長に兵器級ウラン製造に伴う内部被曝をもっともよく知っていた科学者、カール・モーガンを指名したほどでした。

 放射能安全神話の誕生

 しかし、核エネルギーの軍事利用とともに産業利用を推進する立場にあったAECにとって電離放射線は、「一時に大量に外部から浴びなければ、人体にさして害のないもの」でなければなりませんでした。もし低線量内部被曝が人体にとって極めて深刻な害を与えるという事実が一般大衆に知られれば、常に有害な放射線を出し続ける核設備や核施設は世界に作ることができなくなります。仮に作ったとしてもそれはとてつもなく高いものにつきます。

 「電離放射線は大量に外部から浴びない限り人体に大きな害はない―。」

 こうして世界中に「放射能安全神話」が作られ、ばらまかれていきました。それは「原発安全神話」とセットにして、同一歩調をとるものでした。

 ABCCの収集・研究した「LSS」は、この「放射能安全神話」に科学的外観を与えるために十二分に利用されました。その10万人以上のデータをもとにした「科学的研究」は十分な説得力をもったからであります。

 この意味では、「放射能安全神話」はABCCが準備したものだといっても過言ではありません。

 ヒロシマも加担者だった

 今の私たちの問題は、ABCCが単独でこのデータを集めることはできなかった、という事です。早い話が、どこに原爆生存者がいるのか、それは住民台帳を見ないとわかりません。広島市役所も協力しました。もし調べられることを拒否する被爆者がいれば、それは強制力をもって協力させなければなりません。警察もABCCに協力しました。日本人の医科学者や研究者・医療関係者も協力しました。すべてアメリカからスタッフを連れてくることはできなかったからです。今手元に1951年のABCCのスタッフ人数がありますが、うち143人が連合国側で実に920人までが日本人です。

 ABCCのデータ収集はこうして日本政府・厚生省を初めとする日本側、特に広島・長崎地元の全面的協力があって初めて可能となるものでした。

 「放射能安全神話」はABCCが準備したものだとするなら、われわれヒロシマはその加担者だった、と言わざるを得ません。

 「放射能安全神話」が「原発安全神話」とともに、「福島原発事故」を用意したものとするなら、私たちヒロシマは「福島原発事故」の一つの原因を作った、という言い方も許されるでしょう。

 事故前ならいざ知らず、事故後の今となっては、「ヒロシマは何も知らなかったのだ」ということは弁解にもなりません。それはわれわれには許されません。なぜなら、それは第二、第三の「福島原発事故」に道を開くからです。

 知らないこと自体が罪悪

 2009年4月28日、放影研が開催した「地元連絡協議会」の顔ぶれを見て下さい。その顔ぶれは、かつてABCCに協力したヒロシマ地元の権力機関・権威機関・行政機関の顔ぶれと重なり合って見えます。

 そこで話された内容は、もしかすると無自覚・無反省にかつてABCCに協力し、放射能安全神話形成に一役も二役も買ったヒロシマが再現されているかもしれません。そうでないかも知れません。

 それは広島市民に判断させて下さい。繰り返しになりますが「知らなかった」はもう弁解にすらなりません。私たちは知る必要があるのです。

 「福島原発事故」のため日本中が放射能で汚染された今となっては、「知らないこと」自体が罪悪です。私たちは地元連絡協議会で何が話されたか知る必要性と権利があります。

 2009年4月28日、放影研が広島でおこなった「地元連絡協議会」詳細議事録の公開を切に要望します。

 なお、回答は、書面にて、この要望書の提出日(2011年9月11日)からおよそ10日後、9月22日までになされることを要望します。


 小さなデモだが大きな意義がある

 その日は日曜日で、放影研は休み、要望書を受け取るべき人がいなかった。でも守衛さんが中からわざわざ出てきてくれて、要望書をかわりに受け取ってくれていた。


 デモも集会もそろそろ終わりという間際になって、一人の男性が発言を求め、ハンド・トーキーのマイクを握った。その人は次のように発言した。 

(RCC記者時代の取材体験を語る、山本喜介氏)
 もう50年近くも前になります。RCCの駆け出し記者だった私が取材中に聞いたある被爆者の証言が、いまでも耳に残っています。その人は私にこう言ったのです。

父が死にました。どこから聞いたのかすぐに、ABCCの車がやってきました。原爆との関係を研究したいので、遺体を解剖させてもらいたい、というのです。生きている間はなにもしてくれなかったくせして、いまさら何を、とは思いましたが、“葬式の費用は出してやる”といわれれば、貧乏しとりましたから、泣く泣く遺体を預けました。帰ってきた遺体を見て、はらわたが煮えくりかえりました。解剖で遺体は切り刻んだようになっていただけでなく、すべての内臓は抜き取られて、そのかわりにノコクソ(おがくずみたいなもの)が詰められていた・・・。当時私らは、あいつらは、人間のキモを喰う“赤鬼・青鬼じゃ”と言うたもんです。」 

 今日、久しぶりにABCCを訪れ、ここで強奪される形で集められた数知れない、モルモットとされた被爆者の臓器や血液のことを思いました。

 そしてそれは、今なお各地で大量虐殺を推し進めるアメリカのためのものであることへの怒りが再燃しました。』

 しかし、実際はそのデータは多くのアメリカ人のためにも使われていない。世界中でもっともヒバクシャの多い国は、核の生誕地アメリカであろうが、ヒロシマで集めたデータは、兵器級ブルトニウムを製造していたワシントン州ハンフォードでも、ネバダ砂漠の核実験場でも、核実験で被曝した多くのアメリカ軍兵士の裁判でも、アメリカ各地で起こっている原発放射能裁判でも、「放射線は大量に外部から浴びなければ、健康に大きな損傷はない」とする「放射能安全神話」を似非科学的に裏付ける材料として使われている。

 「フクシマの子供たちを放射線から守る」ためには、放射能安全神話を打ち破らなければならない。その放射能安全神話のふるさとは、ここヒロシマであり、ABCCなのだ。

 100人足らずの小さなデモだったが、大きな歴史的意義のあるデモだった。


(比治山・放影研に向かって歩くデモ隊)
  (「福島の子どもを守れ」と呼びかけながらデモ行進するリーダー格の女性)