No.13-2 | 平成18年3月19日 | ||||||||||||||||
「原爆は対日戦争早期終結のために使用された」 こうした情勢認識は、プロバガンダである。その要素が全くなかったわけではない。あった。 特に善人トルーマンの中には、その気持ちは強かったであろう。しかし主要な要素ではない。 主要な要素は、政治的に原爆はソ連との冷戦を決定的に有利に運ぶために使用された事である。 そして経済的には、特に軍産複合体制の立場から云えば、是非ともソ連との冷戦が必要であった、このことが原爆を広島に投下した決定的要素だった。 主要な要素ではないことをあたかも主要な要素のように誇張するから、「原爆は対日戦争早期終結のために使用された」という命題がプロバガンダになりうるのである。 このプロバガンダは、現在でも日本においても有効だし、アメリカでも有効に働いている。 従って、今でも「戦争終結に原爆投下は必要だったかどうか」などという、おおよそ不毛の議論が行われている。この議論は、今になって見れば原爆投下の実相を覆い尽くす以上の効果を持たない。 原爆投下の実相を覆うことは、原爆投下が、現在の核兵器をめぐる世界の実相をよりわかりにくくする効果を持っている。 「戦争終結に原爆投下は必要だったかどうか」 この設問に答える事は簡単である。 「必要なかった」である。設問の立て方が間違っている。 「何を目的にして原爆が投下されたか?」が正しい問題設定である。 その答えは、先に示したとおりである。 しかし、今もっとも重要なことは、この分かり切った質問に答える事ではない。 そのことが、今どのように影響し、われわれがどんな危険の淵に立っているかをはっきり認識することである。 60年以上も前に、スティムソン、レオ・シラード、フランク・レポート、ニルス・ボーアが警告した事柄が、いかに差し迫って現実のものとなっているかを知ることである。 そのためには60年前にさかのぼらなければならない。 人類がどこでボタンの掛け違いをやったのかをはっきりさせなければならない。 原爆を巡る当時の情勢を理解するにはこうした姿勢がなければ意味がない。 1945年6月、対日戦争もほとんど終わりが見えかけ、ポツダム会談を目前とし、最初の原爆完成もほとんど秒読みの段階に入っていたこの時期、アメリカは対日戦争をいかに終結しようとしていたか。 このアメリカの対日戦略を知るのに格好の資料が、1945年6月18日ホワイトハウスで開かれた会議の議事録である。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=1 訳は、1945年6月18日 ホワイトハウス会議 対日戦争の現状と見通し ) この会議はポツダム会談を前にして、トルーマンが対日戦争の見通しについて理解を得るために関係者を招集したものである。 出席者はトルーマンの他、大統領の顧問のウィリアム・レーヒー海軍元帥、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル、E・J・キング海軍元帥、I・C・イーカー陸軍中将、陸軍長官スティムソン、海軍長官フォレスタル、それにスティムソンの補佐官マクロイである。 このうちイーカーは、空軍総司令官H・H・アーノルドの代理である。 アーノルドはこの日ワシントンに戻ってこられず、イーカーが代理出席した。 顔ぶれからしても、主として軍事的な関点から対日戦争の見通しをつけようとするものであった。 (なおこの時レーヒー、キングの肩書きはFleet Admiralであり海軍元帥と訳した。 アメリカ軍は階級として元帥は存在しない。 平時は大将までである。 ただし戦時は元帥を置くことができるので両者ともFleet Admiralに昇進していた。 なおマーシャルもこの時点ではGeneral of the Armyなので戦時元帥である。 空軍総司令官アーノルドもこの時点では、General of the Armyなので戦時元帥である。 またなおこの当時空軍は陸軍に属していた。 従って軍令上はマーシャルはアーノルドの上司になる。) この日に会議はレーヒーもマーシャルも自分の見解をまとめてメモにしていた。 つまり最高首脳がある程度対日作戦について見解のすりあわせをしており、ここでトルーマンが納得すればそれは最終的に対日戦略決定会議となる性格も帯びていた。 議題の第一は現状認識である。 口火を切ったマーシャルは、あらかじめ自分が用意していたメモランダムを読み上げる。そのメモランダムの要点は、
九州侵攻が9月1日より遅れれば、気候的に見て軍事活動が困難になるので、本土侵攻全体を6ヶ月遅らせなければならない、とマーシャルのメモは云っている。 まとめて云えば、九州上陸作戦は、ちょうどヨーロッパ戦線における「ノルマンディー上陸作戦」と同じ位置づけになるとマーシャルは説明している。 |
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従って、日本侵攻作戦の中で、九州侵攻作戦は肝心要となり、犠牲も大きいものなろう。 そして東京平野を目指すことになるが、その際日本が降伏する条件は、以下のような絶望的状況に日本が立ち至った場合であろうという。 (1)海上封鎖と空爆によって壊滅が決定的であること。 (2)米軍の勝利は誰が見ても確定的であること。 (3)ロシアの参戦の恐れがあるかまたは実際参戦すること。 言い替えれば中国大陸で、そして必要なら朝鮮半島でも、日本とロシアを戦わせること。 つまり、この時点では日本を降伏させる因子としてはロシア参戦が極めて大きい、と軍事的には見られていたわけだ。 それではこの作戦でどのくらいの損害が発生するだろうか、という見通しの問題に移る。 マーシャルは、この損害について具体的な数字をあげて考えるのは間違いだ、とはっきり言っている。 ただ、つぎの事は云える。日本侵攻を考える時、九州上陸と南朝鮮上陸の両作戦が考えられるが、朝鮮半島上陸作戦の方が損害がはるかに大きいだろう。九州作戦の方が有利だ。 対日戦争において、それまでの作戦の損害を見てみると―――。 ノルマンディー作戦では、最初の30日間の間に4万2000人(死者)だった。また、マッカッサー将軍の1944年3月1日から1945年3月1日までの一年間の死者は1万3742人だった。これに対して日本軍の損害は31万165人で、比率は1:22だった。 また個別で見てみると、アメリカ軍の損害(死者・行方不明者・負傷者・捕虜の合計)に対して日本軍の損害(死者・行方不明者)は次のようになる。
ただしこの比較は、アメリカ軍が負傷者を含めているのに対して、日本軍が死者・行方不明者(ほとんど死亡と見られる)だけだから、正確な比較とは云えない。 ただ傾向を知る手がかりにはなる。 こうして見ても硫黄島の闘いが米軍にとってもいかに激戦だったか分かる。 九州作戦では最初の30日で、ルソン上陸作戦における犠牲を上回らないだろう、と考えている、とマーシャルは云っている。もっともマーシャルのあげる数字は時と場合によって幾分かずつ変化している。 しかしそれは、もともと日本侵攻でどれくらいの犠牲が出るかという質問自体に、具体的数字をあげて考えること自体馬鹿げている、という立場からすれば、当然のことといえよう。 誰にもそんな事は分からないのだ。 マーシャルはトルーマンの質問に答えて、九州侵攻作戦に投入する人員は76万6700人と答え、その時日本軍の勢力は8箇師団、または約35万人と推測している。 このうち実際どのくらいの損害が発生するかは、やってみなければ分からない、しかし最初の30日で3万1000人以上ではないだろうと、云うのが正直なところだ。 実際九州作戦は行われなかったので3万1000人が正しいのかどうかは分からない。しかし50万人―100万人レベルの数字ではあり得ない。 この会議の一週間前、スティムソンはトルーマンから一通の手紙を渡された。 それは元大統領フーバーからの手紙で対日戦争終結に関する意見書だった。 その手紙の中で、フーバーは、対日戦争で発生するアメリカ軍の人的犠牲は50万にから100万人と云われているが、そんな犠牲を払うよりも、ミカド(天皇制)を維持するという条件で、降伏を認めてはどうかといっていた。トルーマンはこの手紙をスティムソンにわたし、マーシャルと協議してくれと依頼している。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson6.htm 訳文:1945年6月11日 日本侵攻の人的犠牲) マーシャルはこの様な見方、つまり日本本土上陸作戦で50万人から100万人の損害が発生するという見方を再三再四否定している。日本侵攻に伴う人的犠牲(負傷者を含む)はマーシャルの作戦では、精々3万人から4万人だったということだ。この数字でもトルーマンに取っては十分考慮に値する大きな数字だった。 しかし「原爆投下は100万人の米軍将兵の命を救った」となると、これは明らかに戦後作られたプロバガンダだ。 |
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原爆投下の第一義的目的は、戦争早期終結にあったわけでもなく、従って米軍の将兵の犠牲を小さくするためでもなかった。 見返りを最小限に、ソ連の対日参戦を引き出すためであり、その意味においてすでに始まっていたソ連との冷戦を有利に進めるためであった。 さらに云えば核兵器開発をさらにアメリカの国家的事業として発展させるためには、冷戦が必要だったためである。 当時トルーマン政権が、日本との戦争を終結にもっていくためには、何が決定的要因と見ていたかという点である。 それは先ほどのマーシャルの分析でも分かるように、ロシアの参戦である。マーシャルはこの会議で、次のようにも言う。 九州侵攻の後、九州を空軍基地化したあと、東京平野を空襲で徹底的に叩き、日本を「望みなし」にした後、ロシアの参戦があれば、「日本にとっては大きな衝撃になる、ロシアの日本に対する侵攻のすぐ後かあるいは侵攻と同時に、それは日本降伏の引き金になるだろう」 実際日本で降伏を前提とした最高戦争指導会議は8月9日、ソ連軍満州侵攻のニュースを受けて開かれている。 その長々した会議の最中に長崎原爆投下の知らせを受けているが、最終的にその夜、最高戦争指導会議が御前会議に切り替えられて、昭和天皇が発言し、ポツダム宣言受諾の意志決定を行っている。それも、国体護持(天皇制維持)を条件とした、ポツダム宣言受諾となっていたため、8月15日の無条件降伏までまだ紆余曲折があった。要するに、「ロシア参戦こそが戦争早期終結のポイント」という、ホワイトハウス会議でも分析は結果的にも正しかったことになる。 太平洋方面軍総司令官だった、ダグラス・マッカーサーもこの見方を支持し、この会議に出席する陸軍参謀総長マーシャルに次ぎのような電信を送っている。(マーシャルは会議の席上この電信を読み上げた。)
会議に出席していた海軍のキング、空軍のイーカーも九州作戦に同意し、最終決定を見た。 トルーマンはこの決定を受けて次のような質問をしている。「日本を降伏させるにあたってロシアの力を借りなければならないが、その後の決定についてはロシアの同意を得なければならないかどうか」 トルーマンはこの会議の後、ポツダムに出かけ、スターリンと交渉しなければならない。 結果はどうあれ「ロシアに何を譲り、何を譲らないか」という帝国主義的分け前分取り合戦になることは目に見えている。ロシアに参戦させることが必至とすれば、その値段をいかにやすく買いたたくか、これがこの会議におけるトルーマンの問題意識である。 ところがこの質問には、議事録を読む限り誰も答えていない。というよりこの質問に答えるには、情勢はまだ熟していなかった、という方が正確だろう。 ただし、海軍のキング元帥は会議の最後の方で、面白いことを云っている。 「ロシアの参戦が望ましいかどうかにかかわらず、対日戦争終結にあたって、ロシアの参戦が必要不可欠なものかどうかというと必要不可欠とは云えない。頭を下げてまで参戦してもらう必要はない、この場合日本を叩くには余分のコスト(人的犠牲)がかかるが、アメリカ単独でやってやれないことはない」と述べ、さらに「この現実をしっかり把握しておくことは、ポツダムにおいて大統領の手札を強化することになる」と結んでいる。 トルーマンの頭の中は、対日戦争終結にあたって、いかに、アメリカの人的犠牲を少なくするかが問題の中心だった。ロシアの参戦が有効なら参戦させようと思っていた。 しかし、スターリンの火事場泥棒的要求を飲みたくもない。 スターリンに進んで対日参戦させる切り札が欲しかった。それはとりもなおさず、原爆の完成だった。 ところで、当時のスケジュールでは、ポツダム会談と原爆の完成(最初の実験の成功)は、ポツダム会談が先だった。ポツダム会談は7月1日に予定されていたのである。そこでトルーマンは、実験が予定されている日付に合わせて、ポツダム会談も2週間以上遅らせた。 少なくとも最低限原爆カードをもって、ポツダム会談に臨みたかったのである。 不思議なことに、あるいは当然な事に、この対日軍事戦略最高会議で、原爆の話はまったく出てこない。少なくとも議事録を読む限りではそうである。 このとき原爆の問題はあるいは話されたのかも知れず、議事録からは削除されたのかも知れない。 しかし、できるだけ早く、そしてできるだけ人的犠牲を少なく、対日戦争終結にもっていくという軍事戦略からすると、原爆投下は大きな因子ではなかった、ということだけは事実だろう。 |
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原爆投下の本質は軍事問題ではなく。100%政治問題だったのである。 その政治的枠組みは、すでに始まっていた冷戦体制の中で、いかにソ連に対して優位に立つか、そのために核兵器をいかに有効に使うかという問題が一つ。 そしてこちらの方がさらに重要なのだが、いかに戦後もアメリカの国家予算を使って、この有望な新しい核エネルギー市場を継続的に発展させ続けるかという問題が一つ。 従って、何故日本に原爆が投下されたかを理解するには、政治問題として原爆投下問題を追っかけて行かなければならない。 このシリーズではY暫定委員会とその決定 後編の稿で、1945年6月1日の暫定委員会議事録をすでに検討した。 この暫定委員会の議事録で分かったことは、マンハッタン計画を推進するにあたって、膨大な企業群が、この計画を支え、そこから大きな利益を得ていたことであった。 そうした企業群の要求は、もともと戦争遂行のためにスタートした「原爆開発計画」であるが、戦争が終わっても核エネルギーの基礎開発及び製造は継続したい、という事であった。 またこうした企業群の要求は、戦後も核エネルギー政策を、国家政策の柱の一つと据えて、戦後の冷戦体制をリードして行こうとするアメリカの国家政策ともよく合致していた。 こうした大きな流れの中では、日本に対する原爆使用の問題は、すでに対日戦争を終結にもっていくという軍事目的を大きく離れて、戦後冷戦体制をどう構築するかという政治問題となっていたことはすでに見たとおりである。 もう一度この日の議事録をよく見て欲しいが、(原文・訳文)、この委員会での流れは、 T委員長の挨拶に続いて、U競争力(ソ連との)の懸隔、V戦後の機構―産業人の見解、W戦後の機構―委員会討論、X直近の予算、Y日本への使用、Z広報活動、[法制化と流れており、明らかにトルーマン政権の興味は、核エネルギー産業を戦後いかに発展させるか、ソ連との核競争にどれくらいの差をつけているか、に的が絞られている。 そうした流れの中で、原爆を使用するかどうかという問題が論じられているのであり、「戦争終結のために原爆が投下された」という戦後プロバガンダに曇らされた視点から離れて、まっすぐ問題を見つめれば、原爆投下は明らかに軍事問題として語られているのではなく、戦後冷戦構造を睨んだ政治問題として論じられていることが分かる。 実は、この1945年6月1日の暫定委員会の前の日も暫定委員会が開かれており、ほとんどの原爆を巡る重要課題が議論されている。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents /fulltext.php?fulltextid=7 訳文:1945年5月31日 木曜日 暫定委員会議事録) 出席者は例によって8人の委員(暫定委委員会についてを参照のこと)に、この日は4人の科学顧問団と軍部からは参謀総長ジョージ・C・マーシャル、マンハッタン計画の総責任者レスリー・グロヴーズ、それにスティムソンの補佐官ハーベイ・バンディが招聘参加者として参加していた。 翌6月1日の会議と較べると、産業界の招聘者を除けばほぼ同じ顔ぶれである。 当日の議事を並べてみよう。 T 委員長挨拶 U 開発の段階 V 国内計画 W 基礎的研究 X 管理と査察の問題 Y ロシア Z 国際的計画 [ 日本とその戦意に関する原爆投下の効果 \ 望ましくない科学者の取り扱い ] シカゴ・グループ XI 科学顧問団の位置づけ という流れになっている。 一見してすぐ分かるとおり、原爆の問題は、対日戦争の推進・早期終結が軸ではない。 軸は原爆の開発過程と戦後(ドイツが降伏している当時では、戦後とは対日戦争後、というのと同義である)、管理機構が軸になっている。そして常にソ連の動向が睨まれている。 繰り返しとなるが、広島・長崎への原爆投下問題を、対日戦争の視点から眺めていたのでは、問題の本質がついに分からない。戦後における核競争、核拡散、核兵器の管理の立場から眺めないと理解ができない。 そして、原爆が投下されたことの本質的意味、言い替えれば何故核兵器の無政府状態とも呼ぶべき現在の状況となったのかが理解できない。 |
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ヘンリー・スティムソンの委員長挨拶はこの日、力のこもった、いきなり問題の本質を提出した内容となっている。 スティムソンは、自分の見解は参謀総長マーシャルも共有していると断った後、次のようにいう。
このスティムソンの見解は、4月25日にトルーマンに提出した観点よりもさらに進んでいる。 5月31日、トルーマンは公式なスピーチを行うことになっていた。 このスピーチの内容を検討するにあたって、スティムソンはマーシャルと議論をしている。 これがメモランダムとして残っている。スティムソンの考え方を知る一つの手がかりである。 このメモの日付は5月29日である。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson4.htm 訳文:1945年5月29日 マーシャル将軍との議論のメモ) このメモで見ると、スティムソンはマーシャルに、東京大空襲について不満を漏らしている。 東京大空襲は、3月9日から3月10日及び3月23日から26日にB−29の大編隊で行われた。 焼夷弾爆撃で、10万人が死亡し100万人の人々が家を失った。 人道主義的観点から見てスティムソンはこれに大いに不満だったのだ。 また、この東京大空襲は、マンハッタン計画に参加している科学者の多く、特にシカゴ大学の冶金工学研究所で研究に従事する科学者に対して「人道主義国家アメリカ合衆国」のイメージを大きく損ない、大きな動揺をもたらした。 兵器が、純軍事目的で使われるのはやむを得ないとしても、一般市民を対象とした無差別爆撃は許せないとする感情である。 この感情はスティムソンにも存在した。だからマーシャルとの議論の中で、スティムソンは 1.原爆の使用にあたって最初はたとえば、大規模な海軍基地などの軍事目標にのみに投下する。 2.その効果が十分でないときに、避難警告をした上で大規模な産業地帯に向けて投下する。 などと云った配慮をするということで、マーシャルと意見が一致している。 そしてスティムソンは、「われわれが警告を発して、一般市民への被害を最小限に止めようと全力をあげた事は記録に止めるべきだ」と云っている。 実際には、警告なしに、一般市民が集まる広島の市街地へ投下されたことは、云うまでもない。 しかし、この時点ではマーシャルとの合意事項として上記のことが定められた。 さらに、マーシャルとの議論の中で、スティムソンは1944年9月30日バニーバー・ブッシュとジェームズ・コナントの2人がスティムソンに宛てた手紙のことを話題にして、マーシャルの意見を求めている。 マーシャルはこれに対して、「自分の意見をメモの形でまとめよう」とスティムソンに約束している。 しかし、概ねマーシャルはこの2人の見解に賛成だった。 この手紙にはつぎのような文言があった。
これは、9月11日付けスティムソンの「行動提言」に見られる思想の原型である。 また5月31日の暫定委員会の前日、スティムソンは自分の日記に次のように記している。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson4.htm 訳文:1945年5月30日 暫定委員会を前に揺れるスティムソン) この日、陸軍長官特別補佐官、ジョージ・ハリソン(暫定委員会のメンバーでもあり、スティムソン不在時の委員長代行でもある)と長い話をした。
スティムソン研究家のダグラス・ロングは、この時ハリソンがスティムソンに渡した手紙は、マンハッタン計画に従事するエンジニア、O・C・ブルースターが書いたものだと注釈を入れている。 ブルースターはこの手紙の中で、次のように云っている。
この手紙に大いに動かされたスティムソンはこの手紙をトルーマンにも送っている。 トルーマンの反応は知られていない。 これも、9月11日付「行動提言」の原型となるべき見方である。 |
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こうしてスティムソンが臨んだのが5月31日の暫定委員会だった。 当日、スティムソンは陸軍省に8時40分に到着した。 暫定委員会は10時から開始予定になっている。 それまでの間、マーシャルとハリソンを呼んで、入念な打合せを行った。 スティムソンの力のこもった挨拶は先に見たとおりだ。 この日はこうしたスティムソンの問題意識に対する科学顧問団の見解を吸収することが大きな目的の一つになっている。 原爆の開発では、科学顧問団はおおよそ次のように説明している。 核兵器開発の段階は3段階に分かれる。 第一段階が、分離したウラン235を燃料とする原爆の段階である。 この段階では、すでに濃縮ウランは数ポンドから数百ポンドの規模の原爆が製造できるだろう。 この過程はトン規模まで拡張ができる。これはいわば広島型原爆の段階である。 第二段階がプルトニウム爆弾である。 ごく初期のプルトニウム爆弾という意味では、マンハッタン計画は、この第一段階と第二段階をほぼ同時に達成したことになる。 第三段階は、第二段階から発展するもので、重水を主要燃料として使用する。いわば水素爆弾の段階だ。 この時、ジェームズ・コナントはロバート・オッペンハイマーに、「この段階に達するには、どのくらい時間がかかるだろうか」と尋ねている。 この質問に答えてオッペンハイマーは、「それは前段階よりはるかに難しい開発段階で、製造にかかるまでには最低でも3年かかるであろう」と答えた。 実際に、アメリカが水爆の実験に成功するのは、1952年である。 オッペンハイマーの予測より4−5年も遅くなった。 予測より遅くなったのにはいろいろ要素があろうが、間違いなく一つの要素は、広島・長崎への原爆投下とそれを強行したアメリカ政府への人道的観点からの不信感で、優秀な科学者がこの計画から離脱していったという事実があろう。 1960年8月号のU.Sニューズ&ワールド・リポート誌のインタビューでレオ・シラードは次のように云っている。(原文。訳文)
この時点(1960年)の時点で、暫定委員会の議事録はまだ秘密文書だったから、シラードがこのオッペンハイマーの見解を知っていたとは思えない。 シラードの推定は実に正確だった、ということになる。 しかし、1952年アメリカが成功した水爆は、重水素の冷却液化装置の重量を含めると総重量65トンとなり、とても実用にならなかった。 翌年1953年、ソ連は重水素をリチウムと化合させて固体化し、大幅な軽量化を図り、水素爆弾を実用化した。もともとアメリカの原爆保有に恐怖をいだいたソ連は、なりふり構わず核兵器開発に突進したわけだが、戦後わずか7−8年でアメリカに追いつき追い越したという事ができるだろう。 これに恐怖を感じたアメリカは、水爆開発を急いで、同様な方式で水爆を完成し、1954年実験に成功する。 この実験時、南太平洋で操業する多くの漁船が死の灰を浴び、第5福竜丸事件などを引き起こしたことはよく知られている。 55年から56年にかけて米ソ両国は、水爆の小型化に成功、爆撃機に搭載できる重量となり、完全に実用化が完成した。 水爆は原爆に較べて、その破壊力に置いて問題にならない。 NTNに換算して、広島型原爆は1万3000トン相当、長崎型のプルトニウム爆弾は2万トン相当だった。 これに対して1952年アメリカが開発した最初の水爆は1040万トン、ソ連が開発したRDS-220は5800万トン、設計上は1億トンの破壊力を持っていた。 こうして米ソ両国はお互いが恐怖に駆られた果てしのない、核競争に入って行くことになるのである。 (水爆については、次のURLがまとまっている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E7%88%86%E5%BC%BE ) さて、1945年5月31日の暫定委員会では、開発段階の項をオッペンハイマーが次のようにまとめて締めくくっている。 「破壊力という点では、第一段階ではTNT2000トンから2万トン、第二段階では5万トンから10万トン、第三段階では1000万トンから1億トンの爆弾を製造できるようになる。」 オッペンハイマーの予測は実に正確だったことになる。 (以下その3) |