No.13-1 | 平成18年3月19日 | ||||||||||||
1945年8月6日広島に原爆が投下され、8月8日から9日にかけてソ連が参戦した。 同じ9日には、長崎に原爆が投下された。その夜遅く、御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決定された。 8月8日、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンは、大統領トルーマンに打合せの終わった後、辞意を伝える。一応トルーマンは慰留を行うが、スティムソンの辞意は固かった。 一つにはもうすぐ78歳を迎える高齢のためでもある。持病の心臓病も限界に来ていた。 しかし、本当の所、スティムソンは、トルーマンという人物に嫌気がさして来たのではあるまいか・・・。 スティムソンは、9月4日静養先のロング・アイランドからワシントンに戻る飛行機の中で、辞任文書の原稿を書いた。 ペンタゴンの自分の執務室に入るとタイプで打っていた原稿を、手書きで清書してポケットにしまい、その日昼食形式の閣議の後、大統領トルーマンに手渡した。 スティムソンの最後の執務日は、9月21日、つまり、78回目の誕生日と決めた。 トルーマンは年老いた陸軍長官の最後の仕事としてこの日閣議を開催することにした。 スティムソンには、この閣議に出席し、トルーマンと内閣の全員に訴えたいことがあった。 そこでこの日の閣議、それはこの政権にしては珍しく昼食形式の閣議だったが、スティムソンの用意した議題から始めることになった。 ロバート・ファレルの「トルーマンと原爆」の第15章は、この最後の閣議で、陸軍長官ヘンリー・スティムソンが提起した問題がその内容となっている。 (第15章は、http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap15.htm が原文。訳文は第15章 スティムソン長官から大統領へ 9月11日及びその内容) この最後の閣議で、スティムソンが提起したテーマは、「原爆の秘密」をソビエトと共有しよう、驚くべき提案だった。 この日のために、スティムソンは入念な準備を行い、「原爆管理のための行動提言」(Proposed Action for Control of Atomic Bombs)題する大統領宛メモランダムも準備していたので、今日われわれもその考え方を、具に知ることができる。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb15a.htm 訳文:1945年9月11日付け陸軍長官ヘンリー・スティムソンの大統領トルーマン宛のメモランダム) ともかくその考え方を見てみよう。このメモランダムは 「原子爆弾の出現は、文明社会を貫いて、軍事力に大きな刺激を与え、そして恐らくその刺激は、(軍事的によりも)政治的にさらに大きなものとなっています。 ・・・この兵器の到来は、地球上のありとあらゆる部分における政治的考慮に対して、深刻な影響を与えつつあります」という書き出しで始まっている。 この提言については、スティムソン自身が、その日の日記で次のように要約している。 (原文:http://www.doug-long.com/stimson10.htm 訳文:スティムソン日記 1945年9月21日 スティムソン最後の日) (1)われわれは直ちに、原爆の適切な代償として、それを共有する機会を求めて、ロシア(ソ連)に 接近すべきである。 (2)その場合、ロシアと直接に行うべきで、第三国やその他の機構を通じない。 この要約を見て分かるように、スティムソンの提言は、「ロシアと原爆」を巡る問題、言い替えれば「戦後冷戦機構の中で核兵器をどう取り扱うか」に関する問題だった、と言っていい。 |
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大統領に対する行動提言で、スティムソンは次のように云う。 アメリカとイギリス、それにカナダを加えた三国は、原爆の製造技術を共有した同盟国関係にある、いわば信頼と協調関係に基礎をおいたパートナーシップの関係を持っている、これをスティムソンは「アングロ・サクソン・ブロック」と呼んでいる。 ソ連に対抗した形で、このアングロ・サクソン・ブロックを維持しようとすれば、それは必ずソ連に恐怖心を呼び起こす、そして一刻も早く原爆を自分のものとしようと、必死で開発する、ソ連に追い越されまいとアメリカも必死で開発をする、つまり世界が核開発競争に入っていくことは、間違いない。 これは必然的に、核戦争の危険を大きくすることになる。 これまでの兵器と違って、核兵器はその取り扱いを誤れば、直接文明社会の破滅に繋がる、それを未然に防ぐために、そしてアメリカが優位にある間にソ連に呼びかけて、核兵器の秘密をソ連と共有し、愚かな核開発競争に入っていくのを未然に防止しよう、というのがこの提言の骨子だ。 まるで原爆投下から60年以上経過した今日の世界の状況を予言していたかのような主張である。 フランク・レポートやレオ・シラード、ニルス・ボーアなど良心的な科学者が云うのと違って、トルーマン政権の重要人物スティムソンがこの考え方に到達していることは、別な重みと説得力がある。 若くしてニューヨーク州の地方検事を振り出しに、78歳になるまで、フィリピン総督、国務長官、そして陸軍長官を2回務め、国際政治の裏表と戦争の惨禍を知り尽くし、そしてフランクリン・ルーズベルトから命ぜられて原爆開発計画をはじめから終わりまで担当し、そしてそれに成功した78歳のスティムソンがこの結論に達したのだ。 スティムソンはこのメモランダムで、ソ連にアプローチして原爆の情報を公開し、共同管理体制をとろうとすることは、一種のギャンブルとなる、という。しかし、そうだとしても、
ここでスティムソンが云っていることは、ソ連を核開発の方向に追いやってはならない、という云うことだ。
そして、スティムソンは、世界のリーダーたるアメリカの大統領トルーマンに次のように訴える。
だから、この革命的で危険すぎる新兵器を管理する事ができれば、これは文明に大きく貢献する事になる、とスティムソンは考え、 「もしそうだとすれば、われわれのロシアに対するアプローチ方法は、人類の発展段階における進化の問題として非常に重要性を帯びることになります。」と結論している。 具体的には、ロシアとの協議のポイントは、 (1)軍事兵器としての核爆弾のこれ以上の開発と製造の中止。 (2)商業的・人道的目的のための原子力エネルギーの開発。 の2点である。 この時点でスティムソンはすでに核廃絶にまで、踏み込んでいるのは大いに注意を引く。
そして、各国を交えないで、近く独自の核兵器を開発する見込みのあるロシアとだけ直接協議し、合意を取り付けたあと、他の諸国にも波及させるという構想だ。 ただし、ソ連との合意はしっかり固めておかなければならない、とスティムソンはいう。そのためにも、
真剣に、時には脅しを使ってでもソ連をこの計画に同意させなければならない、とスティムソンはいう。このプランが現実味を帯びているのは、当時原爆を実際に保有している国はアメリカだけだった、と言う点である。 イギリスは、原爆に関する技術情報をアメリカと共有することはできたが、現実にはこの時点では製造能力はない。 アメリカのみが製造能力を持ち、その当のアメリカが自分の優位性を捨てて、ソ連に原爆に関する対等な協定を結ぼうというのだから説得力があり、現実味を帯びるのだ。
このスティムソンの行動提言は、フランク・レポートで展開していた議論、あるいはレオ・シラードやニルス・ボーアの主張と基本的には同一である。 しかし、それを国際政治のプロ、ヘンリー・スティムソンが、当時の国際情勢、国際政治の枠組みの中で、実現可能な一つの政策として体系化した点が違っている。 スティムソンは、この提言をトルーマンには、9月12日までにメモランダムの形で提出し、説明をしている。しかし、トルーマンは全くこの案には動かされなかった。 当時トルーマンの頭にあったことは、原爆というカードを使って、いかに有利に戦後ソ連との交渉を進めるか、という点にあった。 トルーマンもスティムソンも共に老練な政治家ではあったが、人類史というスケールをもってすれば、見ている着地点が全く異なっていた。 |
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結局、歴史の事実が示すとおり、このスティムソンの行動提言はトルーマン政権の政策として取り上げられなかった。 もし、スティムソンの行動提言が取り上げられていたとすれば、という仮定の問題を考えてみるのもあながち無駄とは言い切れまい。 この日9月21日の閣議について歴史学者でトルーマン研究家ロバート・ファレルはこういう。 この日スティムソンの提議した問題は、 「国務次官のアチソンの言葉を借りれば、『全く無価値な議題だった』。多くの閣僚は、この複雑な問題を扱うにはいかにも準備不足だった。 原爆の秘密と、常識的な科学的知識に区別すらついていなかった。」 スティムソン研究家、ダグラス・ロングは、彼の編集したヘンリー・スティムソン日記の註にこう書いている。
訳文 1945年9月21日、スティムソン最後の日 ) 要するにスティムソンの提案は「老いぼれのたわごと」以上の反応は受けなかった。 スティムソンにしても、トルーマンからの反応を見て、自分の提案がすんなり通るとは思っていなかったのに違いない。 今考えて見ても、核エネルギーの国際管理、核兵器開発・製造の廃止を内容とするスティムソンの思想は、時代を飛び越えている。 核兵器廃絶どころか、核兵器不拡散問題に汲々としている現在の世界の状況に較べて見ても、その先見性は明らかだ。 そのスティムソンにしても、一挙に上記のような思想に達したわけでない。 スティムソン自身が、9月17日の日記(原文:http://www.doug-long.com/stimson10.htm 訳文:1945年9月17日 ボブ・パターソンとの会談)で次のように説明している。 ロバート・ポーター・パターソンはスティムソン長官時の陸軍次官である。 それまで、パターソンは重要な局面ではほとんど名前が出てきていない。スティムソンが重要な政策決定にあたって、パターソンを重用して来なかったことは明らかである。 しかし、スティムソンはこの日、ペンタゴンに到着するとパターソンを自分の執務室に呼んだ。 それは、9月21日以降、パターソンが陸軍長官に昇格することが決定していたからである。 そしてスティムソンはパターソンも、「ソ連にアプローチして原爆に関する情報を共有し、戦後国際核兵器管理機構を作っていこう」とするスティムソンの政策を、非現実的と批判していたことを知っていた。 その日の日記に、スティムソンはこう記している。
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原爆の秘密を永久に保持し得ない事は、当時核理論に通じた科学者ならば常識だった。 原爆を製造する理論はいわば大ぴらな科学的知識だったのである。 アメリカが押さえている秘密は、主としてその製造技術とその工程にある。 これは、国家的事業として、その研究開発に力を注ぐことさえできれば、後は時間の問題であった。 ソ連はそれができる国家として見なされていた。 この時点でスティムソンは、ソ連が原爆を独自に保有するのにかかる年数を4年から20年と予測していた。それは、たとえば原爆製造に必要な膨大な技術者をどう養成するか、中堅科学者をどう育てていくかなど、いろいろ複雑な因子が絡んだ予測ではある。 歴史の現実は、アメリカが原爆保有をしている事に髪の毛が逆立つような恐怖を憶えたスターリンは、考えられる最短のコースで、原爆開発を進めたのである。 すなわち、膨大な人的資源は手っ取り早く、旧ナチス・ドイツの科学者、技術者を連れてくる事によって、また、原爆製造に関わる製造技術・製造工程の秘密は、諜報活動で盗んで来ることによって、達成した。だから、1949年、ソビエト最初の原爆は、長崎に投下したプルトニウム型のファットマンそっくりの原爆だった。スティムソンが達観したとおり、いつまでも秘密にできる性質のものではなかった。 マンハッタン計画にソビエトのスパイが入り込んでいる、という兆候については、前々から指摘されていたが、スティムソンが辞任する直前、1945年9月には、イゴール・グーゼンコ事件が起こっている。 これは9月5日、カナダの首都オタワのソビエト大使館で、暗号通信技師として働くイゴール・グーセンコが、ソビエトの原爆情報スパイを立証する109点の書類をもって、西側に亡命した事件である。 この事件から、スパイ容疑に関わったとして39人が逮捕され、19人が有罪とされた。 これは当然アメリカ国内のエスピオナージ事件に発展し、有名なクラウス・フックス、アラン・ナン・メイなどにも嫌疑がかかった。 華々しくソ連によるスパイ事件として脚光を浴び、その後の「赤狩り」の地ならしとなっていく。 (次のURLが若干詳しくかつ客観的である。http://en.wikipedia.org/wiki/Igor_Gouzenko http://archives.cbc.ca/IDD-1-71-72/conflict_war/gouzenko/ ) グーセンコ事件そのものの真相は、分からない。 しかしはっきりしていることは、この時期大量の原爆開発・製造技術がソ連に流れた、ということである。 またそもそもいつまでも秘密にしておける性質のものではなかったということである。 さて私は、ヘンリー・スティムソンが如何なる過程をたどって上記の思想に行き着いたのかというテーマにおおいに興味をそそられる。 1945年4月25日、といえば前大統領フランクリン・ルーズベルトの急死(4月12日)を受けて、副大統領、ハリー・S・トルーマンが大統領になったばかりの頃だ。 もしトルーマン回顧録を信用するとすれば、4月12日大統領宣誓式の直後に行われた短い閣議の後、陸軍長官ヘンリー・スティムソンから、打ち明けられて初めてマンハッタン計画の存在を知る事になる。 だから、4月25日といえば、トルーマンは、原爆のもつ科学的意味、政治的意味、軍事的意味をさほど理解ができていなかったものと考えられる。 (ついにトルーマンは、原爆の持つ人類史的意味を最後まで理解し得なかった。しかしその理解は、現在の第43代アメリカ大統領、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ以下だったとは思わない。) |
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この時、ということは、まだアラモゴードの実験が成功する前、ましてや広島、長崎で劇的にその威力を世界に示す前になるが、やはりスティムソンは、トルーマンにメモランダムを書いている。 (http://www.doug-long.com/stim425.htm 訳文は、トルーマン大統領へのヘンリー・スティムソンのメモランダム 1945年4月25日 ) 「恐らく間違いなく4ヶ月以内にわれわれは一個の爆弾で都市全体を破壊できるような、人類史上もっとも恐ろしい兵器を完成することになります」で始まるこのメモランダムは、当時のスティムソンの原爆に対する認識を示している。考えて見れば、わずか5ヶ月前の事だ。 スティムソンはこのメモランダムで次のように云っている。
事実、2006年現在、濃縮度90%程度のウランが数十キロあれば、大学の研究室や工場の片隅でも、広島型の原爆が製造できる時代になっている。 スティムソンはこの時点ですでに、原爆の危険性を指摘して次のように云っている。
スティムソンは、今次戦争(第二次世界大戦。このメモが書かれた時点を考慮するならば、対日戦争)で原爆を製造できる国はアメリカだけなのだから、当然アメリカには、ある種の、人道主義的立場から見た正義を守る責任が発生する、と指摘し、それは文明にもたらすかも知れない災禍を考えてみると、アメリカの責任は重大だと、指摘している。そして、 「その一方で、この兵器を適切に使用する問題が解決されれば、世界平和とわれわれの文明を救う、一種のパターンを世界にもたらす事になります」と結んでいる。 わずか5ヶ月の間の比較だが、スティムソンの核兵器への警告は、この時まだ抽象的であり、一般的である。だから、この時点では、人類がこの兵器を適切に扱うことができる、と考えていた。 それに較べると9月21日のメモランダムは、もっと具体的、切実な響きをもっている。 だから、核兵器は廃絶、少なくともこれ以上の開発と製造の中止をしなければならないと踏み込んで、訴えている。 何がスティムソンの内部で進化し、発展したのか。 これを理解するには、まず原爆を巡る当時の情勢を理解しなければならない。 (以下その2へ) |