No.12 | 平成18年2月10日 | ||||||||||||||||||||||||
広島への原爆投下は、軍事問題、政治問題、社会問題、経済問題であったと同時に重要な「思想上の対立問題」でもあった。 「日本に対する原爆の使用」を巡る思想上の問題は、それまでの思想上の諸対立、たとえばカトリックとプロテスタントの対立、唯物論と観念論の対立、弁証法と形而上学の対立、進化論と突然変異論の対立、民主主義と王権神授説の対立・・・等々とは全く様相を異にするものであった。 対立の一方はジェームズ・フランクやレオ・シラードなど自然科学者の、近代先端科学的知見に基礎を置いた人道主義である。この人道主義はそれまでの人道主義とは違って、全くあらたな科学思想を根底にしている。かつて自然科学者がこれほど鮮明に自らの思想的立場を明確にしたことはなかった。 対立のもう一方は、一つの経済体制のイデオロギーである。このイデオロギーとは云うもでもなく資本主義のイデオロギーである。しかもこの資本主義は絶対王政や封建主義を打ち倒したばかりのまだ若い、健康だった頃の資本主義ではなく、資本と生産手段を高度に集中・集積した段階の資本主義、レーニンの適切な表現を借りれば、国家独占資本主義ないしは資本主義的帝国主義のイデオロギーである。このイデオロギーでは、近代人道主義思想及び近代民主主義思想の一定の制約を受けながらも、資本の論理が貫徹している。人道主義や人間主義が資本の論理と矛盾対立する事態が発生したとしても、そのイデオロギーの中では究極的に資本の論理が打ち勝つ。 つまり「日本への原爆投下を巡る思想上の対立」とは、科学的知見に基づく人道主義思想と高度に発達した資本主義イデオロギーの対立であった。 高度に発達した資本主義のイデオロギーは、内心、「日本に対する原爆の使用」を善とする。なぜならば、その資本の論理は、そこにそれまで営々として集積・蓄積した「資本と技術」のさらなる発展・資本の自己増殖を求めており、「日本への無警告の原爆の使用」は、さらなる発展・資本の自己増殖にとって、最も劇的で効果的なスプリング・ボードだったからだ。そのスプリング・ボードとは、すなわち「核兵器競争」である。 対する、科学思想に基盤を持つ人道主義はこれを悪とする。それは 「原子力(nuclear power)を特殊なものとして扱わなければならぬ、たった一つの理由は、その平和に及ぼす政治的圧力の手段として、あるいは戦争において瞬時に破壊をもたらす手段として、それがとてつもない潜在可能性を持っている点である。」 とフランク・レポートが云う通り、「原子の破壊力」は、人類が営々としてこれまで築いてきたすべての価値を一瞬にして破壊してしまうからである。 高度に発達しようがどうしようが、歴史の一登場人物に過ぎない資本主義の利害やどんなに富を蓄積しようが歴史上の一コマに登場し、やがては消えてゆく運命の一支配階級の利害を超越した問題だ、それが「広島への原爆投下問題の本質」だ、というのである。そしてこの思想は、次のように自らの立場を明確にする。 「しかしながらわれわれは同時に、過去5年間この国の安全にとってまた世界の全ての国々の将来にとって、容易ならざる危険が存在することを知りうるひとつの小さな市民グループでもあった。しかもわれわれを除くその他の人類はこの危険を知らないのだ。それ故に、ことの重大さに鑑み、原子力に関して熟知している立場から想起せらるる政治的諸課題に注意を喚起し、なさるべき決定のための準備や研究へ向けてそのステップを示すことはむしろわれわれの義務であると感ずるに至った。」 すなわち、フランク・レポートは自らを「市民グループ」と規定している。いかに優れた科学者といえども、いや優れた科学者だからこそこの危険に気付き得たのだが、あくまで市民グループと自らを規定している。 だからこの対立は「市民グループ」と「帝国主義的資本主義の対立」と置き換えることもできる。 しかもこの「市民グループ」を自称する人道主義は、机の上でこねくり回したような、ひからびた思想ではなく、 「われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。」 というだけの具体的で生々しいイメージをしっかり抱いた思想である。 そして、次のように警告を発する。 「われわれは、これらの考察を通じて日本に対する無警告の、また初期の段階における原爆の使用は全く勧奨できないものと信ずる。もし合衆国が人類に対して無差別の破壊をもたらすこの新しい手段を最初に放つならば、合衆国は世界中の人々からの支持を失うことになり、核装備競争を促進し、将来に置いてそのような兵器の統御に関する国際的合意を形成する可能性にとって偏見を残す結果となるであろう。」 (実際、その後世界はこの警告の通りに展開していった) そして、帝国主義的資本主義のイデオロギーに対して、次のような思想を提示し、対立させている。 「今次戦争に置いて核兵器を使用することは、軍事的便宜主義からではなく長期的国家政策の問題として考えるべきだと主張するものである。そしてこの国家政策とは、その国家主権を一部放棄した形で、核戦争を取り除く効果的な国際統御を許す合意形成の方向に、第一義的に向かうべきだと主張するものでもある。」 「日本への原爆使用問題」「広島への原爆投下」の実相は、核エネルギー時代の新たなイデオロギーの対立問題、共産主義か自由主義か、などと言った歪曲された対立問題ではなく、「歴史上の一支配階級の利益か、これまでの歴史をすべて包含した全人類の利益か」を巡る思想問題の様相を呈したのであった。 そして戦後60年以上経った現在でも、この対立の構図は基本的に全く変わっていない。どころかますますその対立の構図を鮮明にしているのである。 |
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原爆投下の最終決断者、合衆国大統領ハリー・S・トルーマンには、原爆を巡る人類史的思想問題は全く考慮の外であった。彼は軍事問題、精々政治問題としか捉えることが出来なかったのである。 原爆が投下され、大統領声明や陸軍長官声明が発表されると、アメリカの世論はこぞって大統領と日本に対する原爆投下を支持した。 ロバート・ファレルの「トルーマンと原爆:文書からみた歴史」第12章は、こうした当時のアメリカの世論の雰囲気を、ラッセル上院議員に代表させて伝えている。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap12.htm 訳文:第12章 リチャード・B・ラッセル上院議員から大統領へ 8月7日付け 大統領の返事 8月9日付け) ジョージア州選出で、上院の有力メンバーの一人である上院議員リチャード・B・ラッセルは、原爆投下に関する大統領声明と陸軍長官声明を読み、広島に対する原爆投下の翌日、大統領に電報を送って、トルーマンに熱烈な支持を送り、こう云っている。 「パールハーバーにおける彼らのだまし討ち(the foul attack)でわれわれはこの戦争に引きずり込まれたのです。ドイツよりも日本に対してより思いやり深く寛大でなければならないどんな有効な理由も私には見出せません。・・・ 日本がわれわれの足元に這いつくばるまで日本を叩き続けると信じています。私たちは日本に対して和平の申し出をすることを即刻やめるべきです。次の和平の宣告は東京を焼け野が原にした後にすべきです。」 (電報原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb12.htm 訳はラッセル上院議員のトルーマン大統領宛の電報 及びトルーマン大統領の返事) これに対してトルーマンは、「アメリカは人道主義的でなければならない」とやんわりたしなめる内容の返事を送っている。 (トルーマンの返事原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb12a.htm 訳はラッセル上院議員のトルーマン大統領宛の電報 及びトルーマン大統領の返事) ただしトルーマンの人道主義は、先ほどフランク・レポートでご紹介した、「われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。」ほど生々しい想像に基づいたものではなく、ごく底の浅いものであった。 第13章はラッセルと全く正反対の反応と、それに対するトルーマンの返事である。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap13.htm 訳:第13章 サミュエル・マクレア・カバートから大統領へ 8月9日 大統領の返信 8月11日) サミュエル・マクレア・カバートは当時アメリカ宗教界の指導者の一人だったらしい。広島への原爆投下のニューズを聞くや、トルーマンのもとに抗議の電報を送る。キリスト教的人道主義の立場からの抗議だが、優れた宗教者の直観から本質をついている抗議でなかなか鋭い。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb13.htm 訳:サミュエル・マクレア・カバートからトルーマン大統領へ宛てた電報 1945年8月9日) この電報の中でカバートは激しく弾劾する。 「多くのキリスト教徒は日本の都市への原爆投下に深く心を悩ましております。それは不必要な無差別破壊行為であるからです。また人類の未来に対して、恒久的に極めて危険をもたらすからです。」 カバートはもちろん大統領声明、陸軍省長官声明以上に原爆に対する科学的知識はない。しかし彼の宗教者としての直観からこの抗議の電報を送ったのである。これに対するトルーマンの返事を見るとラッセル上院議員に対する余裕ある態度とはうってかわって、強固な自己正当化を図る。 これは、トルーマンの意識下に存在する「何か」をカバートが、鋭くついたからではないだろうか?トルーマンはカバートに激しく反発する。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb13a.htm 訳:トルーマンのカバートへの返事 1945年8月11日) 「日本による警告なしのパールハーバー攻撃と戦争捕虜に対する殺人に対しても心を痛めているものであります。彼らの理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。大変遺憾には存じますが、しかし云うまでもなく、真実であります。」 しかし、トルーマン自身も「獣」としてきたのは日本の軍国主義に対してであり、女性や子どもを含む一般日本市民ではなかった筈だ。カバートの一撃は、大統領としての威厳と余裕を失わせるほど痛烈なものだったと見える。 しかし、これはフランス大統領シラク同様、トルーマンもまた、支配階級の神託を民衆に伝える政治的神官以上ではなかったという事なのかも知れない。 ロバート・ファレルによれば、カバートの様な反応は、むしろ例外であり、アメリカの多くの世論はトルーマンと日本に対する原爆投下を熱狂的に支持した。 しかし、当時もしアメリカの大衆が、原子爆弾の恐ろしさを本当に知らされていたとしたら、そこまで熱狂的にトルーマンを支持したであろうか?これは何も私のあてずっぽうの仮説ではない。 1945年6月時点のフランク・レポートの仮説である。 フランク・レポートはこう述べている。 「この国には相当量の毒ガス兵器の蓄積がある。しかしそれは使用しない。世論調査によればそれがどんなに極東における戦争でわれわれの勝利を早めようとも、この国の世論は毒ガス兵器の使用を容認しないからだ。・・・同様にもしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。」 「日本に対する毒ガス兵器使用の問題に見られるアメリカの世論の姿勢は、絶対に緊急の時にしか使ってはならない兵器が存在するという意見に与するものである。核兵器の力に関する全容がアメリカ国民の前に明らかになれば、そのような兵器の使用を不可能とする全ての企てを支持するだろうことは火を見るより明らかだ。」 歴史に「もし」は禁物とは云うが、この仮定には大いに意味がある。 もし核兵器の全容が、アメリカ国民の前に明らかになっていたとしたら、アメリカ国民は決してトルーマンを支持しなかったであろうという仮説には私も賛成したい。 ましてや人類史上そのような兵器を使う最初の国家がアメリカであるなどと言うことは絶対容認しなかったであろう。アメリカの世論がトルーマンを支持したのは、軍部の言論統制と検閲がいかに成功し、アメリカの主要ジャーナリズムがいかにそれに協力したかの証でもある。 そして、今なおアメリカの国民が全体として核廃絶に賛成しないと云うことは、その検閲と言論統制、主要ジャーナリズムの協力が今なお続いていると云うことでもある。 |
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レオ・シラードら、マンハッタン計画に参加した多くの科学者にとっては、事態はカバートなどより、さらに深刻だった。 多くのノーベル賞級科学者を含むマンハッタン計画の科学者は、自ら作り出したモンスターが、自らの手を離れて、軍部とそれを支持する産業界(軍産複合体制)の手中に落ち、実際使われるかも知れない事態に直面し、慌て、そして苦悩した。 ロバート・ファレルのトルーマンと原爆:文書から見る歴史 第14章はそうした科学者の苦悩を伝える章である。 1945年3月25日、高名な物理学者アルバート・アインシュタインは、時の米国大統領、フランクリン・D・ルーズベルトに手紙を送って、一人の科学者を紹介し、この人物に会って是非話を聞いてやって欲しいと頼む。この物理学者の名前はレオ・シラードという。 レオ・シラードは、ルーズベルトに面会して、もし原爆が完成してもそれを使用してはならないという要請を大統領にするつもりだった。 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap14.htm 訳:アルバート・アインシュタインからルーズベルト大統領へ 1945年3月25日 それに伴う通信) しかし、これは考えてみれば非常に奇妙な組み合わせと非常に奇妙な用件だった。 というのは、このアインシュタインの手紙にもあるように、1939年アメリカが原爆開発を行う必要性を熱心に説き、自ら手紙の下書きを書いて、アインシュタインの署名をもらって、ルーズベルトに手紙を出したのは、他ならぬこのレオ・シラードだったのである。 この手紙もきっかけとなって、アメリカはナチス・ドイツに対抗する形で原爆開発計画に着手し、これが後にマンハッタン計画へと発展する。そのアインシュタインとシラードの組み合わせが、いよいよ原爆が完成すると言う段階になって、同じルーズベルトに、今度は原爆を使用するなと説得に行くというのだ。 結局シラードはルーズベルトに面会出来なかった。 というのは、この手紙の日付のわずか2週間後、4月12日の昼前、自分の肖像画を描かせている最中にルーズベルトは脳卒中で亡くなってしまうからである。4月12日の午後、大統領宣誓式が行われ、副大統領トルーマンが大統領に就任する。 シラードはそれでもあきらめずに、今度はトルーマン説得の方法をあれこれ考えるのだが、これ以降は、1960年8月号U.S.ニューズ&ワールド・レポートの「シラード・インタビュー記事」が詳しいので、その記事に依ってみよう。 (原文:http://www.peak.org/~danneng/decision/usnews.html 訳 レオ・シラード・インタビュー Truman Did Not Understand) まず、レオ・シラードという人物について見ておこう。 この人は、マンハッタン計画の科学者の中では毀誉褒貶の激しい人間の一人だろう。 ただ、アインシュタインは、1945年3月25日、ルーズベルトに宛てた手紙の中でシラードのことを 「私は彼を20年以上、その人柄についてもその科学上の研究についても知っております。私は彼の判断力には自信を持っておりますし、この問題に精通していることにも確信があります。彼の判断力の確かさと私自身の判断とで、この問題に関し、閣下に彼を近づける事に決めました。」と云っている。 少なくともアインシュタインの信頼は深かったと見なければならない。 レオ・シラードは1898年ハンガリーのブダペストに生まれた。 1964年カリフォルニア州ラホーヤで亡くなっているから、66歳で死んだことになる。 このインタビューは従って最晩年のことだ。ユダヤ系ハンガリー人である。 シカゴ大学時代シラードは学者仲間から「エキセントリックなヒラメキ屋で人を驚かすのが大好き」な人物として有名だった。ヘンテコでちぐはぐなことをいうけれど、極めて鋭いことを云ったり、鋭い質問をした、というから「陽気な天才型」の人物像が浮かんでくる。 子どもの時、第一次世界大戦の勃発を言い当てたり、最初にナチス党が出現した時に、「1日でヨーロッパを席巻する」と予言したという。第二次世界大戦が始まると、ホテルに引っ越し、常にスーツケース1個を手元に置いておいたという。 流浪の民の血が、シラードの第六感を異常にとぎすましたのかも知れない。 ナチスの追及を逃れてロンドンに居を移したのが1933年。ここでアーネスト・ラザフォードが書いた原子力エネルギーの概念を否定する論文を読んでいる。 当時核分裂はまだ発見されていなかったが、シラードは町で交通信号を待っている間に、連鎖反応を思いついたと云われる。 1936年シラードは秘密をより確かなものにするため、持っていた核の連鎖反応に関する特許をイギリス海軍本部に譲渡している。またシラードは、エンリコ・フェルミと共に原子炉に関する特許を共同で所有している。 1938年招聘されてコロンビア大学に移り、ニューヨークに住むことになった。すぐにイタリアの亡命者フェルミもやってきた。二人はヒトラーとムッソリーニから逃れて来た仲間同士だ。 1939年核分裂が発見されて、2人はウランが核分裂に伴う持続的連鎖反応にもっとも適した物質であると結論するに至った。 マンハッタン計画においてシラードは大きな存在(instrumental)だった。 戦争が続く中、シラードは自分の科学的開発が次第に自分の手を離れ軍部の手に握られつつあることに内心うろたえるようになった。 そしてこの計画の責任者であるレスリー・グローヴズと衝突を繰り返すようになった、という。 (以上は主としてhttp://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Szilardの記事に依った) (またシラードについては日本人学者の中にも次のような意見もあることを附記しておく。http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/resp.sci.html#anchor614227 ただこの京都大学の内井という学者はフランク・レポートを本当によく読んでいないのではないかと思う。評価が的外れだ。) |
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さて、シラードのインタビューに移ろう。 ルーズベルトが死去した時の事を次のようにシラードは回想している。
だから、これは1945年4月12日のことに違いない。 シラードは、いつ頃「原爆の使用に対する不安」を感じるようになったのだろうか?
いわゆる東京大空襲は3月9日から10日、大阪大空襲は3月13日から3月14日だった。 |
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原爆の使用に関して科学者たちの意見はどうだったのだろうか?
ルーズベルトが死去したあと、シラードは大統領トルーマンに何とか近づこうとする。しかし、シラードにとってはトルーマンは全く異なる人脈にいた。 「ホワイトハウスへ行ってトルーマンの面会調整担当官マット・コナリーに会えと言われた時、シカゴ計画の副部長のウォルター・バートキーに、私をコナリーの所へ連れて行って、注意を引くように私のメモランダムを読み上げてくれ、と頼みました。バートキーは『こりゃ、えらい大仕事だぞ』と云いました。『率直に言って、この面会取り付けがカンサス・シティ経由になっていること自体が若干疑わしい。大統領はわれわれの用件を薄々感づいていて、スパルタンバーグへ行ってジェームス・バーンズに会え、と言ってくるかも知れない。』とバートキーは云いました。」 ジェームズ・バーンズは、1945年のこの時点では、トルーマンのための特別全権代表であったが、米政権内部では、何らの地位も占めていなかった。すでに「原爆の使用と管理のための」暫定委員会の委員に任命されていたとは思うが、暫定委員会そのものが秘密委員会であり、バーンズがそのメンバーであったことは一般には知られていない。 つまり、シラードにとっては何故バーンズに会うことが必要なのか、全くわけが分からなかった筈だ。 「何故バーンズに会いにいかなきゃならんのか、さっぱり訳が分かりませんでした。というのは、その時点ではバーンズは政権内にどんな立場も占めていなかったからです。でも会えと言うなら、もちろん誰にでも会いに行きます。原子力科学者のH・C・ウレイを同行する許可をもらって、5月27日に一緒に夜行列車に乗り込んでスパルタンバーグに向かったのです。」 スパルタンバーグはサウス・カロライナ州で当時バーンズが本拠としていた町である。 こうして、シラードはバーンズに会うのだが、会談は全くすれ違いに終わる。 バーンズの問題意識は、すでにソ連との冷戦問題に移っており、ソ連との冷戦で原爆をいかに有利なカードとして使うかが、バーンズの最大興味だった。 バーンズはシラードに云う。
このシラードの心配は、アラモゴードの実験の成功、広島への原爆投下を経て、現実のものとなる。アメリカの原爆保有に恐怖を抱いたソ連は、核兵器開発を急いで1949年にセミパラチンスクで最初の原爆実験に成功し、核保有国となる。 興味深いことは、バーンズはシラードに一種の核抑止論を展開していることだ。もちろん当時「核抑止」(deterrence)という言葉はまだ術語として定着していなかったが、バーンズの語った内容は同工異曲だ。これに対して、シラードは核抑止論はむしろ危険だ、と言っている。 シラードは結局、 「シカゴへ戻ってバーンズが国務長官に任命されていることを知りました。私は、私が重要だと思っている論点は考慮だにされなかったのだという結論に至りました。」 事を悟る。 ところで、バーンズはこの時、核抑止論めいたものを展開したわけだが、これまで見てきたように核抑止論者の本音は、核抑止論にあるわけではない。 核兵器保有・核拡大装備が本音だ。核抑止論は核保有論者の「厚化粧」である。 バーンズにしても、本音は「核兵器を含めた原子力エネルギー市場の維持・発展」にある。 (参考:トルーマンは何故原爆投下を決断したか?Y 暫定委員会とその決定 後編) 戦後もこの市場の維持発展のために、政府支出を維持拡大したい、というのが本音の本音だ。 原爆投下の説明の一つとして、よく「ソ連との冷戦を有利に運ぶために、アメリカは原爆投下を急いだ」という議論がある。わかったようでわからない説明である。原爆投下をすることで冷戦がいかに有利に展開するのか?原爆の保有で、ソ連に脅しが効く、からか?しかし、それもソ連が原爆を保有するまでの話である。だから「ソ連との冷戦を有利に運ぶために、アメリカは原爆投下を急いだ」と言う説明は、もっともらしいが、実はなにも説明していない。 この説明は間違っている。 正しい説明は「ソ連との核競争を激化させるために、原爆を無警告で投下した」である。 日本との戦争が終了したあとでも、政府に膨大な原子エネルギー関連予算を支出させるためには、核兵器をめぐるソ連との冷戦が必要だったのである。 その構図は、軍事支出を続けるためには、「テロリストとの闘い」が必要である現在のアメリカ政府やフランス政府の事情と基本的には全く同じである。 人道主義の立場と戦後核競争・核拡散反対の立場から、「日本に対する原爆の使用」に反対するシラードとバーンズがもともと噛み合うわけがない。 しかしシラードがこうした努力をしておいてくれたおかげで、今われわれは、現在われわれを取り巻く核をめぐる環境が、一体どんなものであり、その原因がどこにあったかを知ることができるのである。 シラードは「ヘンデルとグレーテルのパン屑」をいっぱい残してくれたわけだ。 |
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シラードは、バーンズとの面会が無駄だったことが分かると、シカゴの研究者仲間と語らってフランク・レポートの作成に入る。そしてほぼ同時期に、「大統領請願書」の執筆をはじめる。
フランク・レポートは結局陸軍省で握りつぶされる。この請願書についても、
ここでシラードの請願書の内容を見ておこう。 (原文は:http://www.dannen.com/decision/45-07-03.html 訳文は:シラードの請願書 第1稿 1945年 7月3日) シラードは請願書を2度書いている。1回目がここで内容を見る7月3日付けのものだ。 この請願書はシカゴ大学の冶金工学研究所でシラード以外に59名の共同署名者を集めた。 この請願書は語調が強かったことと、シラードがもっと広範な署名を集めようとしたために、結局大統領に送付しなかった。2回目の請願書は7月17日に今度は69名の共同署名を集めて、つまりシラード自身を含め70名の署名を集めて、大統領の元に送られた。 この請願書でシラードはいう。
私ごときが、これに付け加えることは、なにもない。 広島への原爆投下問題の実相は、人類の運命をめぐる思想問題だった、という感を深くするのみである。 |
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さて、U.S.ニューズ&ワールド・レポート1960年8月15日号「シラード・インタビュー」に戻ろう。
アシュケナジと呼ばれる、東欧のユダヤ人は、長い間差別と虐待に堪え忍んできた。そしてシラードは、ナチス・ドイツに追われたハンガリー系ユダヤ人である。 そのシラードがアメリカに人類最初の人道主義国家の幻影を見出したとしても何ら不思議はない。 そして、シラードは「広島への原爆投下」によって、決定的にその幻想を打ち破られる。 そしてその深い絶望感から、「すべて政府というものは、究極の局面では、利益(expediency)に導かれてその政策決定をするものだ」という結論を導き出している。 ここでシラードにあえて反論するならば、当時のアメリカ政府は現在もそうであるように、高度に発達した国家独占資本主義の政府だったということだ。 リンカーンが夢見たように、もし「人民による、人民のための、人民の政府」だったなら、決して原爆投下を決定しなかっただろう。なぜなら、「人民による、人民のための、人民の政府」にとっての最大の利益は、「普遍的な人道主義」を守る事だから。 まだ、われわれは歴史上、リンカーンが夢見たような、「人民による、人民のための、人民の政府」の出現を見ていない。ジョン・リードは偉大な錯覚を起こしたのである。 しかし、今後そのような政府が出てこないとは誰にも云えない。だから、「すべて政府というものは、究極の局面では、利益(expediency)に導かれてその政策決定をするものだ」ということはシラードにも云えないはずである。 |
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もし、日本に原爆を落とさなかったら、という仮定の質問は、一見無意味な質問のようにも見える。しかし、シラードは次のように答えている。
広島に対する原爆投下問題は、人類の運命をめぐる思想問題が実相であった。 大統領トルーマンにはこの実相が全く見えていなかった。まさしく、このU.S.ニューズ&ワールド・レポートの記事のタイトルにあるように、 「Truman Did Not Understand」だったのである。 |
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(以下次回) |