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私たちが、現在文書で確認できる限り、核兵器廃絶を最初に提唱したのは、アメリカの陸軍長官ヘンリー・スティムソンでしょう。1945年9月11日付の「トルーマン大統領宛のメモランダム」の中で、彼は、
もっと具体的にいえば、軍事兵器としての核爆弾のこれ以上の改善、製造を中止することを意味し、同様な措置をロシア、イギリスにも求めて同意させる事を意味します。
また現在われわれが保有する原爆を進んで封印し、ロシアとイギリスがわれわれと共に、3国間の同意がなければ、戦争の手段として原爆を使用しないという合意をすることになります。 |
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と明確に述べています。ヒロシマ・ナガサキから1ヶ月後のことでした。
しかし、これがきっかけになって「核兵器廃絶運動」が始まり、これが現在まで連続している地球市民の運動になったわけではありません。
現在にまで続く「核兵器廃絶運動」は、南太平洋から始まった、と考えるべきでしょう。
【第2問】の<核兵器の原理>のところで水素爆弾に触れ、最初の水素爆弾の実験が中部太平洋のマーシャル諸島のエニウェトク環礁で行われたことを述べました。
水素爆弾を含む核実験はこれで終わったのではなく実は本格的に始まったのです。
1954年、アメリカの原子力委員会(Atomic Energy Commission―現在の米エネルギー省)は、太平洋のほぼ中央に位置するマーシャル群島のビキニ環礁で、「キャッスル作戦」と名付けられた一連の水爆実験を実施しました。
有名な「第5福竜丸事件」が発生し、乗組員が死の灰を浴び、被曝した事件です。
乗組員の一人、久保山愛吉がこのため死亡、また大量の「放射能汚染マグロ」が日本の市民の不安と恐怖をかき立て、憤激を買った事件でした。
実験場のビキニ環礁から東へ(つまりアメリカ大陸の方へ)約180Km離れた場所にロンゲラップ環礁があり、ここには82人の住民が退避勧告も受けずに暮らしていました。
この実験の水爆は15メガトンです。
このロンゲラップ島の住民に、当然退避勧告が出されるべきでした。
島にとどまった住民たちは猛烈な放射線障害に見舞われます。
その後も核実験は継続され南大平全体に汚染と被害が広がっていきました。
こうしてロンゲラップ島の市民を始め、多くの南太平洋の市民が、自分の生活の場から「核兵器を追い出す」という形で、「核兵器廃絶運動」を開始しました。
最初にこの運動が成果を見せたのは、1970年、南太平洋のフィジー島に太平洋神学大学、南太平洋大学、フィジーYWCAなどに所属する人々が集まり「ムルロア核実験反対委員会」を結成ではないでしょうか。
ムルロア核実験というのは、当時ドゴール政権下のフランスが、タヒチを中心とするフランス領ポリネシア内のムルロア環礁で行った一連の大気圏内核実験のことです。1970年は、フィジーが、イギリス連邦内ではありますが、独立を果たし、フィジー諸島共和国として発足した年でした。
「ムルロア核実験反対委員会」(略称=ATOM)は、地道な活動を積み重ね、5年後の1975年にフィジーで「太平洋非核化会議」を開催することになります。
そしてこの会議が、1985年「南太平洋非核地帯条約」となって結実します。
「核兵器廃絶運動」という時、何をもってその運動の価値と成果とすべきでしょうか?
私は核兵器廃絶運動は、イベントでもパーフォーマンスでもなく、現実政治に影響力を与え、現実の政治を変えなければあまり価値はないと考えています。
デモ行進をしたり、座り込みをしたり、署名を集めたり、といった行動はまったく価値がないわけではありませんが、現実政治をまったく変えることができなければ意味は薄い、と考えます。
こうした意味で、南太平洋地域、オーストラリア、ニュージーランドなどから核兵器を政治的に追放した、この運動の成果は大きいと思います。
ちなみに「隠されたヒバクシャ」という本では核兵器保有国が太平洋・オセアニア地域で行った原水爆実験が記載されています。
参考までに添付しておきます。
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【アメリカ】 |
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ビキニ環礁 |
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24回 |
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1946年から1958年 |
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エニウェトク環礁 |
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43回 |
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1948年から1958年 |
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ジョンストン島 |
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12回 |
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1958年から1962年 |
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アムチトカ(アラスカ沖) |
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2回 |
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1969年から71年 |
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クリスマス島(英実験場) |
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24回 |
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1962年 |
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クリスマス島沖 |
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1回 |
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1962年 |
【イギリス】 |
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モンテベロ島(オーストラリア国内) |
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3回 |
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1952〜56年 |
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エミュー(オーストラリア国内) |
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2回 |
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1953年 |
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マラリンガ(オーストラリア国内) |
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7回 |
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1956年・57年 |
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モールデン島(英領) |
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3回 |
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1957年 |
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クリスマス島(英領) |
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6回 |
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1957年・58年 |
【フランス】 |
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モルロア(ムルロア)環礁 |
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41回 |
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1966年から1974年 |
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モルロア(ムルロア)環礁 |
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143回 |
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1975年から1996年 |
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(143回はいずれも地下核実験。正確には海底地下内実験。) |
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ファンガタウファ環礁 |
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5回 |
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1966年から1970年 |
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ファンガタウファ環礁 |
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10回 |
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1975年から1996年 |
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(10回はいずれも地下核実験。正確には海底地下内実験。) |
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ソ連や中国も負けてはいません。
米・英・仏のようにオンサイト実験こそしませんでしたが、長距離ミサイルの実験場として太平洋を使いました。
アメリカも長距離ミサイルの実験場として太平洋の各地にミサイルを撃ち込んでいます。
日本もこの地域に「核廃棄物」を捨てに行こうとして、太平洋諸国にストップをかけられています。 |
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