(原文:ttp://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book
_chap17.htm)


1.註nで番号付きの記述は、編者ロバート・ファレルの註である。
2.(*)で青字の註は、私が入れた。



トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第17章 カール・T・コンプトンの記事と大統領からコンプトンへ 12月16日 


 物理学者であり、アーサー・H・コンプトンの兄であり、また1930年以来、マサーチューセッツ工科大学の学長でもあったカール・T・コンプトンは戦争中(*第二次世界大戦)を通じて、科学的プロジェクトに従事していた。また戦後は、対日戦争勝利の日(*V−J Day)以来、ダグラス・マッカーサー将軍の幕僚の身近な観察者だった。(*コンプトン自身は、自分は駐刹していた、と述べている。)

 1946年12月、コンプトンはアトランテッィク・マンスリー誌に「もし原爆が使用されなかったら?」(*If the Atomic Bomb Had Not Been Used?)を掲載し、その掲載雑誌をトルーマン大統領に送る。トルーマンは熱烈な承認をもってその記事を読んだ。

 トルーマンのコンプトン博士への返事

(*原文は以下。http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/
index.php?documentdate=1946-12-16&documentid=18&studycollectionid=abomb&pagenumber=1 

 訳文は以下。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman_to_Karl_compton_19461216.htm

註記:
(1)
コンプトンは陸軍省の推定数字(*6月18日ホワイトハウス会議で発表された九州上陸に関する米軍損害推定数字。陸軍参謀本部のスタッフが予測した、とマーシャルは述べている。)を知りうる立場にはなかった。のちにその数字は入手可能になる。さらにその上、ペンタゴンの上層部は、かつてないほどの規模での陸海空共同作戦の総司令官と目されていたマッカーサーが、この推測数字を下げるだろうと信じていた。なお、アイゼンハワー将軍が総司令官だった1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦(* the D-Day)は9個師団を動員したのに対して、45年11月に予定されていた九州上陸作戦は11個師団の動員が予定されていた。
(2)
厳密に言って、ポツダム宣言は「最後通牒」とはいえない。タイムリミットが銘記されていないからだ。
(3)
続いてのスティムソンの論文「原爆使用の決断」(*The Decision to Use the Atomic Bomb)は、彼の署名入りで、ハーパーズ・マガジン第194号(1947年2月号)で発表された。「戦争と平和の行動サービス」(ニューヨーク、1948年 ハーパーズ・マガジン)にいたマクジョージ・バンディが執筆を助けた。
(* この記事はスティムソンは単に署名しただけで、ジョージ・ハリソン、バニーバー・ブッシュ、ハーベイ・バンディ、ゴードン・アーネッソンなど旧暫定委員会に関係した人間による共同執筆とも言われている。)