(*原文はhttp://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_
book/ferrell_book_chap18.htm
 )

トルーマンと原爆、文書から見た歴史
                 編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第18章 1952年から53年にかけての選択的ホワイトハウス・メモランダム
       ーケイト教授への回答をめぐって


1.註nで番号付きの記述は、編者ロバート・ファレルの註である。
2.(*)で青字の註は、私が入れた。




 シカゴ大学の歴史学教授、ジェームズ・L・ケイトは、第二次世界大戦の後、しばらくの間、大戦中の米国空軍の何巻にものぼる歴史を執筆、編集する仕事を手伝った。1952年彼は大統領に手紙を書く。その手紙はケイトが研究上問題だと信じていた事柄についてだった。1945年の7月と8月にトルーマン政権内部では実際なにが起きていたのか?それは大統領が日本に対して核兵器を使用する決断を下した時であった。

 ケイトが手紙を書いた時は、ちょうどいいタイミングだった。というのは1952年におけるトルーマン大統領は、1945年とよく似ており、沈思黙考の雰囲気にあった。その年、トルーマンは大統領選挙に出馬しないことを決めていた。もし出馬して当選すれば、それは事実上トルーマン政権の第三期目にあたる。大統領三選禁止を内容とする憲法修正22条はすでに1951年に発効していたが、トルーマンだけは例外としてその条項から免れていた。しかしトルーマンは疲れていた。またこれも言っておかねばならないが、アメリカも彼にうんざりしていた。(またトルーマンもこのことはよく分かっていた。)朝鮮戦争も手詰まり状態で、このこともトルーマンの人気を下げる原因となっていた。

 ケイトがこの手紙を送ったのは1952年12月6日だった。その日は民主党候補、アドレイ・スティーブンソンを破って、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が大統領に当選した日でもある。トルーマンは1953年1月12日、ケイトに返事を出した。

 (*以下はケイトのトルーマンあて手紙である。)

シカゴ大学
シカゴ37、イリノイ州
歴史学部
1126東59番街

大統領
ワシントンDC

 拝啓、
 ここ数年、歴史「第二次世界大戦中の陸軍航空隊」の執筆者・編集者の一人としてこの仕事にあたったのは私にとってまことに僥倖でした。この歴史書は、シカゴ大学・米国空軍の共同予算のもとで発行する、非営利目的のものです。(1)
(* 第二次世界大戦中、米空軍は陸軍に属し、陸軍航空隊だった。陸軍から空軍が独立し、米空軍―U.S. Air Forceとなるのは1947年のことである。)

 現在発行されたばかりの第5巻における私の仕事の一つが、広島及び長崎に対する原爆攻撃に関して執筆することでした。「原爆の使用」の決断に関して、私がどうしても解決できなかった、事実関係での明らかな跛行的問題に直面しております。大統領のお時間を取ることについて恐縮に存じておりますが、あなたがベストのそして恐らくは単一の権威であると存じ、ご教示いただきたいと存じます。

 私は、多大な興味を持って、1945年8月6日に発表されたあなた自身の声明を読みました。
(* ケイトは「原爆投下直後の大統領声明」のことを言っている。これは、米広告代理店業界出身のアーサー・ページなどにスティムソンが書かせて、当時ポツダムにいたトルーマンのもとにクーリエ便で送って署名を取り、原爆投下直後直ちに発表したものである。アーサー・ページは一民間人の立場でありながら、時々暫定委員会に招聘者として参加していた。)

 また私は1947年2月号のアトランティック・マンスリー誌に掲載されたカール・T・コンプトンは博士の論文、また1946年12月16日付のあなたのコンプトン博士に宛てたお手紙も読みました。
(* アトランティック・マンスリーの47年2月号といっているが、これは46年12月号の間違い。ロバート・ファレルは読むものに取って自明のこととし、特に註を入れていない。)

 また私は1947年2月号のハーパーズ・マガジンに発表された故スティムソン氏のさらに詳細にわたる記事も読みました。7月26日の「ポツダム宣言」に含まれている警告に対しての鈴木(*貫太郎)首相の拒否に「直面し」、それが主たる要因となって、あなたがポツダムで勇気をもってなさるるべき、恐ろしい決断をなされた一連の完全な証言、それから11月に予定されていた九州侵攻に伴う大きな損害を避けるためが、(*原爆使用の)動機であることなどが、スティムソン氏の記事に読み取ることができます。

 つい最近、私はカール・スパーツ将軍へあてた命令で、予定されていた4つの爆撃投下目標地のうちの一つに爆撃するようにとした内容の指示書を、写真複写で見ました。秘密解除文書で複製を同封しておきます。この手紙(*指示書のこと)は1945年7月25日の日付で発信地はワシントンとなっており、マーシャル将軍がポツダムに出向いて留守のため、トーマス・ハンディ陸軍参謀総長代行の署名が添えられています。アーノルド将軍の発言によれば<H・H・アーノルド、“グローバル・ミッション”、ニューヨーク:ハーパーズ社 1949年 589P>、この指示書は、7月22日アーノルド自身、マーシャル将軍、スティムソン長官の間の会議での後、クーリエでワシントンにもたらされたメモランダムが元になっている、との事です。(2)
 
 この指示書は、「1945年8月3日の後、有視界爆撃を許す天候の下、できる限り早く」爆撃を行うようにという不確定命令が含まれております。翌日(この指示書の翌日、7月26日)に発せられるポツダム宣言のことは全く触れられておりません。また8月3以前に日本が降伏した場合にはどうするかについても全く触れられていません。書面での命令が口頭での指示に基づく可能性もあります。あるいは日本がポツダム条項を受け入れた場合、無線電信で(*原爆投下の)命令を取り消す場合もあり得ます。またこの指示書が、スティムソン陸軍長官の真の意図を誤って表現したのかもしれません。

 いずれの場合にしろ、この指示書の意味するところは、ポツダム宣言発布の最低限1日、すなわち東京時間7月28日、鈴木(*貫太郎首相)の拒否の二日前に、原爆投下の命令がなされているという事であります。このような理解は、すでに発表された発言(*この場合は、スティムソン署名論文のことをさしていると思われる)に含意される説明と明白な矛盾を起こしております。

 この問題の極めて大きい重大性に鑑み、あなたがこの最終決定にいたる状況及び時間軸に関する、より完全な形での情報を出していただくこと、また私が手がけた第5巻であなたの回答に言及する許可をだしていただきたいと強くお願いするものです。

 歴史に関してあなたが強い興味をお持ちであることはよく知られております。そのことが私をして、直接の情報源に情報をもとめることを励ましてくれました。正確にこの問題を叙述したいという要求でこの長い手紙をしたため、あなたの極めて過密なスケジュールに闖入することに対してはお詫びを申し上げます、しかし歴史家としてはそうすべきであります。

敬具
ジェームズ・L・ケイト

註記:
(1) 「第二次世界大戦中の陸軍航空隊」全7巻はウエズリー・フランク・クラバン、ジャームズ・リー・ケイト共編で完成された。(シカゴ:シカゴ大学出版 1940−1958)
(2) ヘンリー・H・アーノルド陸軍元帥(General of the Army)は戦時中、陸軍航空隊総司令官。



 ケイト教授から大統領に示されたような、重要で、且つ難しい問い合わせは、大統領のスタッフの働きを必要とした。大統領の広報担当官補はケイトの問い合わせを、空軍の支援組織のロバート・B.ランドリー少将におくった。

(以下ホワイトハウスから、ランディ少将にあてたメモランダム)

ホワイトハウス
ワシントン
1952年12月21日

ランドリー将軍あてメモランダム

 添付されているのはシカゴ大学のケイト教授からの手紙であります。この手紙は、広島に投下された最初の原爆がいかなる状況の下であったかの詳細な説明を求めています。

 もしこの手紙に返事が必要なものとすれば、公文書ファイルの調査が必要でありまた大統領との討論が必要となるかもしれません。これは米空軍案件ですので、もし貴殿がこの案件をチェックされるのが適切ではないかと存じます。

 もし情報が手に入るものなら、また私たちがこの返事を出すことをお望みなら、喜んでそういたします。

アービン・パールメーター




 ランドリー将軍はすでに大統領のための「歴史的研究」を終えていた。アメリカの“魔女狩り”(*witch hunts=ここでは赤狩りを意味する)の事情を調査しており、特にトルーマン政権の期間における「赤狩りリーダーたち」に特別な興味を抱いていた。恐らくは新たな役割から抜け出そうという努力のなかで、ランドリー将軍は注意深く大統領に、国家の最高責任者として原爆の決断をどこまで理解していたかを、問い合わせた。

(以下はランドリーから大統領あてのメモランダム)

 ホワイトハウス
 ワシントン
 1952年12月30日

 大統領宛メモランダム

 大統領閣下、最初の原子爆弾が投下された時の事情について、彼(*ケイト教授)が叙述する歴史の情報を、彼に得さしめることは極めて望ましいと存じます。もし閣下がそうおできになるものとすれば。

 R・B・ランドリー

(* ここの部分は、ファレルもランドリーも何か奥歯に物のはまったような、遠回しな言い方である。ランドリーのトルーマン宛のメモはまるであなたに分かるものなら、教えてやりなさい、といわんばかりだ。ランドリーとは何者なのか?)




 大統領は、そこで、ケイト教授に送る手紙の草稿を書いた。

(以下手紙の草稿)

 ホワイトハウス
 ワシントン
 1952年12月31日

 親愛なるケイト教授

 1952年12月6日付けの貴殿の手紙はちょうど今私の手元に届いたところです。
 
 ニューメキシコ州で起こった原子爆弾爆発成功の知らせがポツダムに届いた時、ものすごく大きな興奮が起こり、さらにその時日本との間に進行していた戦争に対する効果についていろいろな話がでました。
(* 大きな興奮が起こったのは事実だが、原爆実験成功の知らせで、対日戦争に関する話がいろいろ出たという言い方には疑問が残る。ポツダム会談とは、結局、米・英・ソ連三国間の戦後処理会議だった。もう少し言えばソ連を含めた勝利国の間の帝国主義的な「分け前ぶんどり合戦」だった。原爆実験成功の知らせは、対ソ交渉において、結局トルーマンに自身を持たせ、強気にさせたということが第一義的である。ここの部分でトルーマンは小さなウソをついている。
  スティムソン日記、45年7月21日22日23日24日、トルーマン日記、7月25日の項、参照のこと。)

 翌日、私は英国の首相とスターリン書記長に爆発が成功したと告げました。英国の首相は理解しわれわれの成し遂げたことを評価してくれました。スターリン首相は微笑みをうかべ爆発の報告をしてくれたことに謝辞を述べましたが、私はスターリンが(原爆の)意味するところを理解しているかどうかについては確信が持てませんでした。(3)
(* ソ連が原爆実験に成功するのは1949年だ。1952年になってもこんなことを言っているトルーマンは、よほどのお人好しか大間抜けだ。ポツダムで原爆実験成功の知らせをトルーマンから聞いたスターリンは、直ちにその意味を理解し、ソ連の核開発担当責任者イゴール・クルチャトフ教授を怒鳴りつけ、その翌日から狂ったように原爆開発に突進していく。「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」 編集者 Robert H.Ferrell 「第5章 7月17日、18日そして25日の日記より」を参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-5.htm )

 私は、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、レーヒー大将(*トルーマンの大統領軍事顧問)、マーシャル将軍(*陸軍参謀総長)、海軍長官(*フォレスタルが当時長官。どうしたことか名前を記載していない)、キング大将(*海軍参謀総長)をはじめ他のスタッフを招集し、この恐るべき兵器をどう扱うかについて討議しました。(4)
(* 原爆をどう扱うかはすでに決定したわけで、ここでもトルーマンはウソをついている。それにポツダムではすべてトルーマン、バーンズの2人ですべてのことを進めていたわけで、こんな会議があったかな?スティムソン日記、7月24日の項参照のこと。)

 私は、マーシャル将軍に東京平野やその他の日本の場所に侵攻するのにどのくらいの人命が犠牲になるかを尋ねました。彼の意見では、25万人が最低限の損害(*casualty)だろう。ほぼ同数の損害が日本側にも発生するだろう、というものでした。他の陸軍関係者、海軍関係者もみな同意しました。
(* まずこれはポツダムでの会議なのか、ワシントンでの会議なのか。ワシントンでの会議ならマーシャルは九州侵攻に関わる損害をほぼルソン上陸時―約3万1000人と同じかそれ以下と報告していたはずだ。「1945年6月18日 ホワイトハウス会議<対日戦争の現状と見通し 議事録>」を参照のこと。ポツダムでこんな会議があったのならどこかに記録が残っているはずだ。どうもトルーマンはつまらないウソが多すぎる。どうせなら、最低25万人の損害は私が意見を徴して見通したものです、とでもいえばいいのに。)

 私は、どの場所が、戦争に関する生産にもっとも貢献しているかとスティムソン陸軍長官に尋ねました。すると彼は直ちに、広島と長崎だ、と答えました。
(* あきれてものがいえない。)

 われわれは日本に最後通牒を送りました。それは無視されました。
 私はポツダムからの帰りに名指された広島と長崎に原爆を投下するように命令しました。その時私は大西洋のまっただ中にいました。(5) 
(* ・・・・・・・・・!)

 原爆の投下は戦争の終結をもたらしました。多くの命を救い、自由諸国家群に事実に直面するチャンスを与えたのです。

 今振り返れば、ソ連が殺到し、降伏までの9日間戦ったことが、日本降伏の要因となった、と見えるかもしれません。(6)日本の降伏に関して、ソ連の軍事的貢献は全くありませんでした。囚人は降伏し、ソ連は38度線以北の朝鮮同様、満州を占領したのです。
 以来、ソ連はアジアにおける病根となり続けているのです。
(* なんだ、この文章は。第一、ケイトの質問に全く答えていない。)


註記:
(3) 実際のところ、トルーマンは45年7月24日、公式の会議が終わってから、立ち話でスターリンに「とてつもない破壊力をもった爆弾」を開発した、と告げたのであり、「核兵器」とは言わなかった。
(* しかしそれだけでスターリンはアメリカが原爆の開発に成功したことを悟った。)
(4) このような正式な会議は開かれていないかもしれない。幾人かのこの会議の参加者、スティムソン、レーヒー、海軍のジェームズ・V・フォレスタルは日記をつけているが、その誰もがこの会議に言及していない。その上さらにフォレスタルはポツダムにいなかったし、アイゼンハワーはごく短い時間、ポツダムに立ち寄ったきりで、この会議に参加できる可能性はなかった。
(* 優しいなぁ、ファレルは。しかしこの時期のトルーマンは痛々しい限りだ。ものを考える力を失っている。)
(5) ここでトルーマンが言おうとしていることは、彼がポツダムにいる間に、原爆の使用をのぞまなかった、ということだ。
(6) ここで大統領の記述は誤りを犯している。ソ連の参戦は45年8月8日であり、戦争の終結は8月14日(*いずれもワシントン時間)である。(*9日間ではなくて7日間になる。)




 理由はどうあれ、ケイトに回答の原稿を書く作業は、大統領の民間人補佐官、ケネス・W・ヘチラーの手元に渡された。ヘチラーはコロンビア大学で政治科学の博士号を取得している。新年もあけた早々、ヘチラーは別な大統領補佐官、デビッド・D・ロイドに説明を送った。

(以下ヘチラーからロイドに宛てたメモランダム)

ホワイトハウス
ワシントン
1953年1月2日
ロイド氏へのメモランダム

 大統領の草稿では変更すべき点が2点あります。2ページ目、「 私は、マーシャル将軍に東京平野やその他の日本の場所に侵攻するのにどのくらいの人命が犠牲になるかを尋ねました。彼の意見では、25万人が最低限の損害(*casualty)だろう。ほぼ同数の損害が日本側にも発生するだろう、というものでした。」と述べられています。スティムソンは彼の著書「実際の任務に就いて」(On Active Service)の619ページで、「もし実際にこの計画(*日本上陸制圧作戦のこと)の実行を余儀なくされていたとすると、主要な戦闘は早くても1946年後半までには終了しなかったろう、と推定されていた。私はそのような作戦は、アメリカ軍だけで100万人を越える損害が発生するだろうと知らされていた。」と書いています。

 私は、大統領の損害数字を、スティムソン長官の数字と合わせておくことが極めて重要と考えています。というのは、スティムソン長官はおそらくこの数字をマーシャル将軍から得ていたはずです。数字の規模は極めて重要です。(7)
 
 4ページ目に、「今振り返れば、ソ連が殺到し、降伏までの9日間戦ったことが、日本降伏の要因となった、と見えるかもしれません。」と述べられています。実際にソ連が対日戦線布告を行うのは8月8日(*ワシントン時間)であります。それは9日に発効します。日本の降伏は8月14日(*ワシントン時間)のことでありますから、この記述は、「降伏までの5日間」とか「降伏までの1週間以内に」とか読めるように変更されるべきであります。

 大統領への手紙の中で、ケイト教授は、ハンディ将軍からスパーツ将軍への指示書の日付が7月25日になっており、しかも原爆の実際の投下については不確定命令だったことに注意を喚起しています。ケイト教授は、この指示書が、最終的な原爆投下の決定が最後通牒(*ポツダム宣言のこと)に対する日本側の拒否があった後下されたという説明と矛盾してはいないかと質問しています。

 国防総省・長官室の歴史家、ルドルフ・ウィンナッカー博士によれば、もし日本がポツダム宣言に対して回答をした場合、すべての一般的な軍事命令がそうであるように、ハンディ将軍の命令は取り消すことができた、ことは明らかであります。ハンディの命令に続いて生起する「原爆の使用」に関する基本的な決定及びその使用の「引き金を引く」決定は大統領がそのメモランダムで指摘しているごとく、大統領が決定したのであります。私はこのことに関して特に記述の調整が必要とは感じません。(8)

 ケネス・W・ヘチラー




 何日か後にヘチラーは、記述の調整をした。

(以下ヘチラーのロイドへのメモランダム)

 ウィンナッカー博士は、原爆の投下に関して、彼の保有するすべて記録は次のように事実関係を報告している、といっています。グルーヴズ将軍がニューメキシコ州での原爆実験の効力について報告したのが7月21日でした。大統領のいうポツダムでの会談があったのは、スティムソン長官やその他の日記を付け合わせてみると、7月22日、23日、24日。(*のいずれか。)フォレスタレル海軍長官はおそらくこの会議には出席していなかったものと思われます。彼は、7月28日の午後5時以前にはポツダムに到着していませんでした。ウィンナッカー博士からのその他の情報は、もともと8月3日に予定されていたその作戦は、2回延期されたことだけでした。(恐らくは天候の影響だと思われます。)(9)

  ウィンナッカー博士は、デニソン将軍(*海軍)がすべてのポツダム文書を所有している、大統領の記述が提起している問題に結論的な回答を得るには、この文書を読み返してみることが必要、といっています。(10)

 ロベルタ・バローズは、大統領は7月6日午前11時にワシントンからポツダムに向けて出発し、7月15日に現地到着、8月2日午後8時にポツダムからワシントンに向けて出発、8月8日午後10時50分にワシントンへ帰還、ポツダム会談は事実上、1945年7月17日から8月2日まで続いたといっています。(11)

ケネス・W・ヘチラー




デビッド・ロイドは大統領へのメモの中で証拠を数え上げた。

(以下ロイドの大統領へのメモ)

ホワイトハウス
ワシントン
1953年1月6日

大統領宛のメモランダム

 ケイト教授に対する閣下の手紙草稿を見直す作業に関する閣下の要請に鑑み、私は事実関係をチェックした結果、いくつかの小さな書き直しを致しました。

 閣下の草稿の中で、閣下は、マーシャル将軍が日本への上陸はアメリカに25万人の損害をもたらすだろう、敵兵力の損害も同等だろうと言った、としてあります。マクジョージ・バンディによる(あるいは共著)スティムソン氏の本では、「マーシャルは100万人を優に超える損害を推定していた。」といっています。閣下の記憶の方がスティムソンの記憶より合理性に富んでおりますが、しかしこれ以上の混乱を避けるために、私はこの部分の言葉使いを「マーシャル将軍は25万人以上の、恐らくは100万人にも達する損害といった」と読める様に変更いたしました。

 フォレスタレル海軍長官7月28日までは、ポツダムに現れません。大統領の言われる原爆の取り扱いに関する会議は、7月22日、23日、24日のいずれかという早い時期に行われているはずですので、私は海軍長官の名前を、言われる会議の参加者リストから削除しておきました。

 私は、またスパーツ将軍への命令が何故、ポツダム宣言の後ではなく、それ以前7月25日に出ているのか、に関する説明の段落を挿入しておきました。

 ソ連の参戦は、降伏の1週間以内前です。

 私は最後の文章を削除いたしました。私が思うにこの文章は、政敵が不公平にもプロバガンダ的に使用するかもしれないからです。この文章は基本的には真実を述べています。しかし、極めて厳密に言えば、問題解決にあたって助けになるよりも、問題を引き起こす要素の方が大きいと思います。

 この問題に関してはケネス・ヘチラーが調査を致しましたが、そのヘチラーが私に宛てたいろいろなメモを添付いたします。

デビット・D・ロイド




 次の大統領の手紙は、12月31日付けヘチラーとロイドの助言での変更を反映したのものである。

(以下手紙本文)

ホワイトハウス
ワシントン
1953年1月12日
親愛なるケイト教授

 1952年12月6日付けの貴殿の手紙はちょうど今私に回ってきました。

 ニューメキシコ州で起こった原子爆弾爆発成功の知らせがポツダムに届いた時、ものすごく大きな興奮が起こり、さらにその時日本との間に進行していた戦争に対する効果についていろいろな話がでました。

 翌日、私は英国の首相とスターリン書記長に爆発が成功したと告げました。英国の首相は理解しわれわれの成し遂げたことを評価してくれました。スターリン首相は微笑みをうかべ爆発の報告をしてくれたことに謝辞を述べましたが、私はスターリンが(原爆の)意味するところを理解していないことは確実です。
 
 私は、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、レーヒー海軍大将(*トルーマンの大統領軍事顧問)、マーシャル将軍(*陸軍参謀総長)、キング大将(*海軍参謀総長)をはじめ他のスタッフを招集し、この恐るべき兵器をどう扱うかについて討議しました。

 私は、マーシャル将軍に東京平野やその他の日本の場所に侵攻するのにどのくらいの人命が犠牲になるかを尋ねました。彼の意見では、アメリカ軍だけで、損害は25万人以上、あるいは100万人に達するかもしれない、というものでした。他の陸軍関係者、海軍関係者もみな同意しました。
 

 私は、どの場所が、戦争に関する生産にもっとも貢献しているかとスティムソン陸軍長官に尋ねました。すると彼は直ちに、広島と長崎だ、と答えました。

 われわれは日本に最後通牒を送りました。それは無視されました。

 私はポツダムからの帰りに名指された広島と長崎に原爆を投下するように命令しました。その時私は大西洋のまっただ中にいました。

 あなたの手紙の中で、スパーツ将軍への原爆投下の指示が7月25日付けとなっている事実を指摘されていました。これはもちろん軍事的な行動に必要な措置であり、こうした命令がなされるものであります。しかし最後の決断は私の手中にあるのであり、この決断はポツダムの回答があるまではなされませんでした。

 原爆の投下は戦争の終結をもたらしました。多くの命を救い、自由諸国家群に事実に直面するチャンスを与えたのです。

 今振り返れば、ソ連が殺到し、降伏までの9日間戦ったことが、日本降伏の要因となった、と見えるかもしれません。(6)日本の降伏に関して、ソ連の軍事的貢献は全くありませんでした。囚人は降伏し、ソ連は38度線以北の朝鮮同様、満州を占領したのです。

敬具、
ハリー・S・トルーマン


註記:
(6) ここで大統領の記述は誤りを犯している。ソ連の参戦は45年8月8日であり、戦争の終結は8月14日(*いずれもワシントン時間)である。(*9日間ではなくて7日間になる。)
(7) マーシャルがスティムソンに示した推定損害数字は明確ではない。しかし、記憶しておかねばならぬ事は、6月半ばから8月半ばまで、2ヶ月にもわたって損害数字が議論されたことである。その間九州上陸に対抗する日本側の兵員規模予測も何度も変更された。その上さらに、損害数字に関する議論が長引けば長引くほど、関係者から出される損害推定数字はどんどん多くなっていった。
(8) 理想的に言えば、この文章は書き換えられねばならない。その歴史家(*ケイトのこと)が知りたかったことは、核兵器の使用に関しての大統領の決断がいつだったか、ということであった。大統領の特別補佐官が指摘している通り、その決断はマーシャル将軍やハンデイ将軍の決断より早いものではなかった。おそらくは大統領は、軍事関係者やシビリアン関係者との一連の議論の中で、決断していったものと考えられる。
(* ここでもファレルは奥歯に物の挟まったような言い方をしている。)
(9) スパーツ将軍への命令は、「8月3日以降、天候の許す限りできだけ早い時期に」となっている。
(10) 海軍少将、ロバート・L・デニソンは1953年1月、大統領に対する海軍からの補佐官となっている。
(11) ロベルタ・バローズは大統領の秘書官の一人である。