1.註nで番号付きの記述は、「トルーマンと原爆」の編者ロバート・ファレルの註である。
2.(*)で青字は私の註である。


「歴史学者ケイトに対するトルーマンの回答草稿」
 トルーマンはつまらないウソが多すぎる


(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_
book/ferrell_book_chap18.htm
 )

 シカゴ大学の歴史学教授、ジェームズ・L・ケイトに対する回答は1952年12月31日にトルーマン自身が書こうとした。以下はその回答文草稿である。内容は一読しておわかりのように支離滅裂で、つまらないウソを随所でついている。結局この回答は草稿のまま、中断という形をとり、ケイトには送られなかった。

(以下手紙本文)

 ホワイトハウス
 ワシントン
 1952年12月31日

 親愛なるケイト教授

 1952年12月6日付けの貴殿の手紙はちょうど今私の手元に届いたところです。
 
 ニューメキシコ州で起こった原子爆弾爆発成功の知らせがポツダムに届いた時、ものすごく大きな興奮が起こり、さらにその時日本との間に進行していた戦争に対する効果についていろいろな話がでました。
 
(* 大きな興奮が起こったのは事実だが、原爆実験成功の知らせで、対日戦争に関する話がいろいろ出たという言い方には疑問が残る。ポツダム会談とは、結局、米・英・ソ連三国間の戦後処理会議だった。もう少し言えばソ連を含めた勝利国の間の帝国主義的な「分け前ぶんどり合戦」だった。原爆実験成功の知らせは、対ソ交渉において、結局トルーマンに自身を持たせ、強気にさせたということが第一義的である。ここの部分でトルーマンは小さなウソをついている。
  スティムソン日記、45年7月21日22日23日24日、トルーマン日記、7月25日の項、参照のこと。)

 翌日、私は英国の首相とスターリン書記長に爆発が成功したと告げました。英国の首相は理解しわれわれの成し遂げたことを評価してくれました。スターリン首相は微笑みをうかべ爆発の報告をしてくれたことに謝辞を述べましたが、私はスターリンが(原爆の)意味するところを理解しているかどうかについては確信が持てませんでした。(3)

(* ソ連が原爆実験に成功するのは1949年だ。1952年になってもこんなことを言っているトルーマンは、よほどのお人好しか大間抜けだ。ポツダムで原爆実験成功の知らせをトルーマンから聞いたスターリンは、直ちにその意味を理解し、ソ連の核開発担当責任者イゴール・クルチャトフ教授を怒鳴りつけ、その翌日から狂ったように原爆開発に突進していく。「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」 編集者 Robert H.Ferrell 「第5章 7月17日、18日そして25日の日記より」を参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-5.htm )

 私は、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、レーヒー大将(*トルーマンの大統領軍事顧問)、マーシャル将軍(*陸軍参謀総長)、アイゼンハワー将軍、海軍長官(*フォレスタルが当時長官。どうしたことか名前を記載していない)、キング大将(*海軍参謀総長)をはじめ他のスタッフを招集し、この恐るべき兵器をどう扱うかについて討議しました。(4)

(* 原爆をどう扱うかはすでに決定したわけで、ここでもトルーマンはウソをついている。それにポツダムではすべてトルーマン、バーンズの2人ですべてのことを進めていたわけで、こんな会議があったかな?スティムソン日記、7月24日の項参照のこと。)

 私は、マーシャル将軍に東京平野やその他の日本の場所に侵攻するのにどのくらいの人命が犠牲になるかを尋ねました。彼の意見では、25万人が最低限の損害(*casualty)だろう。ほぼ同数の損害が日本側にも発生するだろう、というものでした。他の陸軍関係者、海軍関係者もみな同意しました。

(* まずこれはポツダムでの会議なのか、ワシントンでの会議なのか。ワシントンでの会議ならマーシャルは九州侵攻に関わる損害をほぼルソン上陸時―約3万1000人と同じかそれ以下と報告していたはずだ。「1945年6月18日 ホワイトハウス会議<対日戦争の現状と見通し 議事録>」を参照のこと。ポツダムでこんな会議があったのならどこかに記録が残っているはずだ。どうもトルーマンはつまらないウソが多すぎる。どうせなら、最低25万人の損害は私が意見を徴して見通したものです、とでもいえばいいのに。)

 私は、どの場所が、戦争に関する生産にもっとも貢献しているかとスティムソン陸軍長官に尋ねました。すると彼は直ちに、広島と長崎だ、と答えました。

(* あきれてものがいえない。)

 われわれは日本に最後通牒を送りました。それは無視されました。
 私はポツダムからの帰りに名指された広島と長崎に原爆を投下するように命令しました。その時私は大西洋のまっただ中にいました。(5)
 
(*  ・・・・・・・・・!)

 原爆の投下は戦争の終結をもたらしました。多くの命を救い、自由諸国家群に事実に直面するチャンスを与えたのです。

 今振り返れば、ソ連が殺到し、降伏までの9日間戦ったことが、日本降伏の要因となった、と見えるかもしれません。(6)日本の降伏に関して、ソ連の軍事的貢献は全くありませんでした。囚人は降伏し、ソ連は38度線以北の朝鮮同様、満州を占領したのです。

 以来、ソ連はアジアにおける病根となり続けているのです。

(*  なんだ、この文章は。第一、ケイトの質問に全く答えていない。)

註記:
(3) 実際のところ、トルーマンは45年7月24日、公式の会議が終わってから、立ち話でスターリンに「とてつもない破壊力をもった爆弾」を開発した、と告げたのであり、「核兵器」とは言わなかった。
(* しかしそれだけでスターリンはアメリカが原爆の開発に成功したことを悟った。)
(4) このような正式な会議は開かれていないかもしれない。幾人かのこの会議の参加者、スティムソン、レーヒー、海軍のジェームズ・V・フォレスタルは日記をつけているが、その誰もがこの会議に言及していない。その上さらにフォレスタルはポツダムにいなかったし、アイゼンハワーはごく短い時間、ポツダムに立ち寄ったきりで、この会議に参加できる可能性はなかった。
(* 優しいなぁ、ファレルは。しかしこの時期のトルーマンは痛々しい限りだ。ものを考える力を失っている。)
(5) ここでトルーマンが言おうとしていることは、彼がポツダムにいる間に、原爆の使用をのぞまなかった、ということだ。
(6) ここで大統領の記述は誤りを犯している。ソ連の参戦は45年8月8日であり、戦争の終結は8月14日(*いずれもワシントン時間)である。(*9日間ではなくて7日間になる。)